最悪の朝だ。
 馬小屋の隅に横たわり、傷めた肩をかばって丸くなっていると、ちょうど視線の先に入口の庇が見えた。まだ朝日は昇っていない。薄紫の空をスラムの建物が黒く塗りつぶし、地面には朝もやが漂っている。日中は騒々しいスラムも、今は森閑として音もない。その静けさが、左肩の痛みを骨に染みさせる。


 昨日、狩りの最中に怪我をして収穫のないまま帰途についた。おかげで宿代に事欠いて馬小屋で一晩を明かしたところだ。体の芯に疲れが残っている。二十余年の人生でいい日もあったし、悪い日もあった。しかしこんな風に、明日まで生き残れるだろうかと心配するような朝は初めて迎える。気が重いことに、今朝が人生のなかで最悪でこれ以上悪い日はないとは誰も請け負ってくれそうにない。そのうち雨露を凌ぐことさえままならなくなって、馬小屋を懐かしく思い出す日が来るのだろうか。


 冗談じゃない。
 身を起こして漆喰の壁に背をあずけ、隣で寝ている男を見た。狩り仲間のルメイが栗色の髪をくしゃくしゃにして、なかば干草に埋もれるようにして寝息をたてている。詳しい身の上話はお互いしたこともないが、かれこれ二年近くは一緒に行動している。おそらく俺より年上で、三十に近い年の筈だ。その日暮らしをしている割には大食らいで、不精髭のこびりついた顎が二重になっている。むき出しになった二の腕が丸々として、日に焼けている。ルメイは力自慢の大男であるが、身のこなしが鈍く、残念ながら狩りには向いていない。ルメイの手の甲にある生々しい瘡蓋が、昨日の出来事を思い出させた。


 俺たちはカリグラーゼの林で狩りをしていた。イルファーロから近場ではあるが、コボルトが出るので街の人は誰も近づかない。コボルトは犬の化け物で、力が強い上にすばしこい。俺とルメイはこのバカ犬を狩って暮らしを立ててきた。バカ犬とは身も蓋もない言い方だが、コボルト駆除の依頼人たちは口をすくめてそう呼ぶ。農園の柵を壊され、堆肥小屋を荒らされた農場主たちだ。


 昔は地の果てまで旅でもしない限り、化け物に出くわすという話は聞いたことがなかった。それが今では里のそばでも見かけるようになった。コボルドは林をうろつき回って人を襲い、森に近い川縁には粘土をこねて作った人形のように見えるゴブリンが群れをなすようになった。洞窟や穴倉には大男に見える不潔極まりないズールが住み着き、人々の暮らしを脅かした。


 やがて王の直轄地や領主たちの農園でモンスターが田畑を荒らし、都の地下水路の陰に湿気た魔物が潜むようになると、被害を食い止めるために国王は兵を募り始めた。商人は輸送の安全を図るために私兵を囲い、農園の主たちも腕の立つ男達を雇って自分の地所を守り始めた。そしていつしか、武装して野山をさすらう男達は、冒険者と呼ばれるようになった。


 イルファーロの街には冒険者協会があり、酒場の向かいの建物で仕事の仲介をしている。カラコロンと鳴る木戸を開ければテーブル席のある広間があり、その奥のカウンターで髭を生やした恰幅のいい爺さんがパイプを吹かしているのが見える。冒険者協会の会長であるドルクは手元の依頼票を仕訳しながら、隙のない目つきで出入りしている男たちを紫煙ごしに眺めている。カウンターには助手らしい若い男がいて、仕事を請けに来た冒険者達に分相応の仕事を紹介している。


 俺は協会に登録したくないわけがあってドルクからは仕事を請けていない。それでも仕事のやりようはあって、例えば協会にコボルトの耳を持参すれば銀貨一枚と交換してくれる。この界隈からコボルトを一掃したいと願っている農園主達が出資してそういう仕組みを作っているのだ。ドルクから直接仕事をもらえばもう少し報酬もよくなる筈だが、仕事を仲介されるのはどうにも性に合わない。


 早い話、コボルトを倒せば耳が二つ手に入り、それが銀貨二枚になる。贅沢をしなければ大人が二人、一週間は食いつなげる稼ぎだ。とは言っても狩りには道具立てが必要で、武器や防具といった装備品を保っていくにはそれなりの経費がかかる。諸々のやりくりを考えると、俺たちは三日に一度は狩りに出てコボルトを仕留めなければならない。ところがこのところ不猟が続いて懐が寂しくなってきていた。


 今日は必ず仕留める。そんな気負いから、昨日は林の奥まで分け入っていった。それでも午前中は何にも出くわさず、成果を出せなかった。コボルトは鼻がいいという。風向きでも悪かったのだろうか。切羽詰った顔をして歩き回った挙句に、ルメイがちょっと休もうと言い出した。まだ何もやってないぜと口に出そうになったが、腹が減って力が出ない。仕方ないので遅めの昼飯にすることにした。辺りを見渡してから、尖った小枝をつける低潅木の茂みに分け入る。


 革帯で袈裟懸けにした中型の丸盾を外し、姿が隠れるように地べたに座り込む。休むと言っても装備を外すわけにはいかず、座ると厚手の革鎧が喉もとを押し上げてくる。腰に佩いた長剣がさすがに邪魔になるので帯から外して手元に置く。ルメイが背嚢から昼飯を出して渡してくれた。球を半分に切ったような形をした握り拳ほどのパンが一つだ。俺はいつものようにパンの固い皮を鼻につけて息を吸い込んだ。イーストの香りがする。食い物の匂いだ。


 その匂いが、子供の頃の記憶を呼び覚ます。様々な庇護の下にありながら、それを当然のこととして知らず、この世界という揺り篭が自分を温かく守ってくれるとぼんやり思い込んでいた頃の、甘い思い出。農園をしていた実家の古めかしい母屋の厨房には、パンを焼く大きな竈があった。家族も多かったし、収穫の時季には使っている者たちの食事も賄わねばならなかったので、竈の中は三段に分かれていた。パンが焼けて竈の蓋を上げると、厨房全体がいい匂いに包まれたものだ。焼きたてのパンをくすねようとして母に叱られた俺は、大人になったら自分の竈を持つのだと思ったものだった。


 それで、現実はどうなっているかと言えば、かさばる鎧をつけたまま吹きさらしの地面に座り込んで焼きたてとは言い難いパンを噛みちぎり、水筒の水で流し込んでいる。安くて日持ちするので狩りに出るときはたいていこの手のパンを持参する。俺たちの食事はいつもこんな風だ。滋養に満ちているとは言いがたい。それでも腹を空かせているので、初めの一口はわずかな甘みが口に広がってたまらなく感じる。せめて腹一杯食べられたらいいが、俺たちの稼ぎだとこれが精一杯だ。


 二人ともあっという間に食べ終わってしまう。大食漢のルメイはパンを平らげた後に、これで仕舞ですかという所在なさそうな顔をしている。もちろん俺の方を向きはしないが、その問いを誰にしていいか誰にも判らない。俺は水筒の蓋をきつく締めてドサリと横になった。両手を伸ばして横たわる姿は降参のポーズに見えなくもない。ルメイもすぐ脇で横になった。狩場では口をきかないのでずっと押し黙ったままだが、わずかに溜息が聞こえた気がした。自分の足を持ち上げて揺すってみる。鉄芯入りのブーツがずしりと思い。疲労が染み渡っている感覚があるが、食った物が腹の中で落ち着いたらまた荷を負って歩き出さねばならない。見上げれば視界の左右には潅木の枝がこんもりと張っている。その真中に青空が広がって、鱗のような雲が点々と散っている。色々なものがすっかり変わってしまったが、空は、そうだな、空はあの頃と変わらない。


 バネで弾かれたように起き上がって剣を取ろうとした。近くで枝の折れる小さな音がしたのだ。だが中腰になった瞬間に毛むくじゃらの塊が鼻息荒く体当たりをしてきた。俺は無様に回転しながら倒れこんだ。剣が弧を描いて飛んでいくのが見えた。
「コボルトだ! 武器を!」
 慌てて伸ばした手が丸盾の帯を掴むやいなや、それを引き上げて体を庇わねばならなかった。人と同じほどの背丈のある大柄なコボルトが間髪入れずに棍棒を叩き込んでくる。なんとか盾で防いだが、横様に薙ぎ倒された。きちんと保持していなかったので盾の縁が左肩の下を強打した。盾が間に合わなかったら腕をへし折られていただろう。







 潅木の細かい枝の中から体を出そうともがいている俺を、コボルトが見下ろしていた。犬の顔をした人型の化け物が、どうやって止めをさすのか考えるかのように、首をわずかに傾げたのを覚えている。全身を覆う焦茶色の剛毛が、陽光を浴びた縁だけ栗色に輝いていた。コボルトが身に着けているのは冒険者を倒して奪ったぼろぼろの革の胸当てと棍棒だけだ。その胸当てには犠牲者の血がどす黒く染み付いている。


 コボルトが武器を構え直す。血のように赤い瞳がぎゅっと細くなった。次の一撃をくらったらおしまいだ。しかし俺の剣はどこかに投げ出されたままになっている。なんとか死地を抜け出たいという気持ちが体中の血を熱くした。
「ルメイ! 後ろをとれ!」
 相棒の名を叫んだ。ルメイは既にコボルトの背後に立っていた。大柄な体に比べるといかにも小さく見えるバックラーを突き出すようにして、及び腰で突っ立っている。相手が油断している隙に手にした短剣で突けば良いものを、ぐずぐずとして足を踏みかえているのでコボルトに気づかれた。コボルトは打ち倒した俺に背を向け、武器を構えているルメイに向き直った。ルメイはさらにバックラーを突き出した。
「どうしたらいい?」
 ルメイは目をむいて肩で息をしながら、その言葉をうわ言のように繰返している。まずいなと思った。ルメイは普段は後ろに控えていて、無傷で動き回るコボルトに初手をつけるようなことはしない。俺がさんざん打ち合って弱ったところにとどめを刺すのが役割になっている。敵意むき出しに唸るコボルトを前にして、ルメイは体を硬直させている。短剣を扱うのは難しそうだ。
「メイスを使え!」
 俺が大声を出したのでコボルトがちらっと振り返った。ルメイはその隙に短剣を投げて地面に刺し、目はコボルトに向けたまま、右肩の上に持っていった手で空気を掻きまわすような仕草をした。やがてその指が、背嚢から突き出ていたメイスの柄を探り当てた。何度か持ち替えてそれを引き出すと、ルメイは武器を背中に担ぐようにして構えた。


 遅まきながらルメイが戦う気になった。バックラーを小刻みに繰り出してコボルトを牽制している。コボルトは苛立って唸り声をあげ、両手で持った棍棒でバックラーを殴りつけた。その小さな丸盾は真中にこんもりとした鉄塊がはめ込まれており、相手の攻撃を受けるだけではなく鍔迫り合いに持ち込んだ瞬間に殴打することも出来る作りになっている。そのためルメイは正拳で突くような格好で盾を保持していて、打圧の強烈な棍棒の攻撃を受けるのは相当にきつい筈だ。ルメイは何度か痛そうに顔を歪めながらもコボルトの攻撃を受け止め、メイスを握った右腕の筋肉を隆々と盛り上げている。ルメイが渾身の一撃を繰り出す瞬間を計っているのが伝わってきたが、身のこなしが鈍いので外すと危ない。空振りした後に無防備な状態をさらすので、すかさず援護をしてやらなければやられてしまう。コボルトも戦い馴れたもので、棍棒を振りぬいて隙をみせることがない。


 俺はなんとか茂みから体を起こして盾を構え、地面に目を走らせて剣を探した。剣は十歩も向こうに投げ出されていて、拾ってくる余裕はない。仕方なくこちらに背を向けているコボルトの腰に体重を乗せた蹴りを食らわせた。靴底からがっしりとした筋肉の感触が伝わってくる。コボルトはたたらを踏んで一瞬たじろぎ、振り返って俺を睨み付けた。次の瞬間、ルメイの振り下ろしたメイスがコボルトの手をしたたかに打った。コボルトがギャンと鳴いて横に飛びすさる。手首がおかしな角度に曲がっていて、それをもう片方の手で支えている。利き手をやられたコボルトは棍棒を落とし、低く唸りながら後ろ歩きに逃げようとしている。


 俺はその場をルメイに任せて剣の落ちているところまで走った。小枝であちこち擦り傷を作りながら落ちている長剣を拾い、小競り合いの場所に取って返すと、そこには呆然と立っているルメイの姿があった。
「逃げられたのか?」
 声に思わず非難の色が混じった。
「すまない、セネカ。仕留められなかった」
 二人して薄暗い林の中に入ってみた。すでにコボルトの姿はなく、静まり返っている。俺は両膝に手をついてうな垂れ、仕方ない、と小声で返した。あと一息で銀貨にありつけたと思うと、口惜しさがこみ上げてきた。その感情が表に出ないように我慢しているうちに、左肩に激痛がやってきた。思わず顔をしかめて肩に手をやった。
「大丈夫か」
 ルメイが深い茶色の瞳でこちらを見ている。
「大したことはない」
 大袈裟になるのを恥じてそう言ってみたものの、俺は肩を押えたまま暫く動くことが出来なかった。


 重い体を引きずるようにして荷物が置いてある茂みに戻った。袖をまくって左腕を見ると、こんもりとした肩の筋肉が腕につながるあたりに痣が出来ていた。左手の指は不自由なく動かせるが、腕を上げようとすると肩に痛みが走った。俺は座り込んだまま、ルメイが水筒の水で痣のそばの小さな傷を洗ってくれるのに身を任せた。ルメイはさらに、背嚢の奥から汚れていない布を出して口で裂き、包帯代わりに巻いてくれた。その時、ルメイの左手の甲が擦りむけて血が滲んでいるのが見えた。その傷に俺の水筒の水をかけてやり、肩の痛みに耐えながら申し訳程度に細切れの布を巻きつけてやった。
「この様では危ない。帰ろう」
 苦渋の決断だった。このまま街に帰っても手元に金がない。医者に傷の手当をしてもらうどころか、宿をとることも出来ない。だが戦えない体でいつまでも狩場にいるのは、死を意味する。


 珍しくルメイが先頭に立ち、周囲に注意しながら林の中を進んだ。木々に覆われた丘の獣道に、幸いにもモンスターの気配はない。どんな物音も聞き逃すまいとして耳に意識を集中していると、俺とルメイの足音がやけに大きく聞こえる。ただ歩いているだけなのに、気が張り詰めて息があがる。自分の吐息の音まではっきりと聞こえてくる。


 ルメイがふと立ち止まって耳をすませるので、何かに追われているような気がしてきた。思わず背後に目をやるが、木漏れ日を地にばらまく林があるのみ。やがてルメイが再び歩き出した。背後から目を離すには、思い切りよく前に進まねばならなかった。今コボルトに襲われたら命の保証はない。これまでに狩場の奥まで分け入って帰ってこなかった男たちの話を何度も聞いていた。馬鹿な奴らが油断をするからと鼻で笑ったものだ。しかし人のことを笑えなくなった。俺たちは街からそう離れていないカリグラーゼの林で、死に瀕している。


 新しい一歩を踏み出そうと決めたのは、この時だった。
 このままではじり貧に落ちていく一方だ。狩りの苦手なルメイと分かれて別の連中と組むか、新たな仲間を探して加えるか、そのどちらかしかない。やがて林が開けてスラムが見えてくると、二人して大きく息をついた。地に張り付いたような小屋が並ぶ貧相な風景でも、人の住む場所だ。俺の荷物まで持ってくれているルメイが、振り向いて小刻みに頷いている。その顔が、もう大丈夫だ、良かった、と語りかけてくる。ルメイは狩りの下手な男だが、なんと言っても気立てのいい奴だ。午後の陽を浴びた緩やかな土手を降りながら、ルメイを放り出すようなことは出来ない、と思った。もしそんな事が出来るなら、とうにそうしていた筈だ。だとしたら、イルファーロへ行って新しい仲間を探すしかない。


 ルメイに笑みを返し、スラムに入る前に立ち止まった。服の袖を戻して包帯を巻いた腕を隠す。弱みに付け込まれないようにしなければ、スラムでは生きていけない。人の住む場所には、また別の苦難がある。


 イルファーロの街はディメント王の庇護下にある。
 近くの森で採れる木材と砂岩煉瓦からなる質実とした雰囲気の街で、生活の用を足す品々や特産である木工品、果物、葡萄酒などを売る店が軒を並べている。街道から街に入る辺りには衛兵の詰所があって、建物から突き出たポールには白地に青鷹の王旗が翻っている。街なかでの武装は禁止されており、両替商は王室発行の許可証がなければ開業できない。王都のような厳粛な雰囲気はないが、程よく統制のとれた活気のある街となっている。


 イルファーロとは雑木林と湿地からなる土地を挟んで、スラムが広がっている。湿地に敷いてある腐れ板を渡っていけばすぐにも往き来できる距離ではあるが、風景は一変する。スラムには拾った木材やぼろ布で作った掘立小屋が林立しており、中には斜面の横腹を削っただけの窪みに住んでいる者もいる。要するに、職にあぶれた流れ者や、お尋ね者たちが行き着く場所だ。イルファーロで腰に剣を佩いていたらたちまち衛兵に捕縛されてしまうが、その衛兵もスラムまでは来ない。


 黄埃にまみれた軒の低いスラムで一際目立つのが黒鹿亭の建物で、木造ながら二階がある。一階部分の半分は野宿よりはましという程度の宿屋になっていて、経営者であるゴメリーは「黒鹿亭の親分」と呼ばれている。あまり人前に出ない男だが、スラムやイルファーロに住む者でゴメリーを知らない者は一人もいない。そして黒鹿亭に出入りしている風体の悪い冒険者たちも、ゴメリーには決して逆らわない。


 黒鹿亭の一階には酒場もあり、スラムに居ついているならず者たちの溜り場になっている。たまたま狩がうまくいって余分な金があったとき、一杯やろうじゃないかと一度だけルメイと行ったことがあるが、もう懲りた。薄暗い倉庫のような広間に煙草の煙が渦巻き、悪酔いした男達の怒鳴り声で満ちていた。入口のそばに反吐をつけたまま寝転がっている男がほったらかしになっていて、その投げ出された足をまたいで通らねばならなかった。広間の長いテーブルにはなけなしの金で安酒をあおる男達が肘をつき合わせて座っており、多少なり金のある連中は奥のテーブルでカードの博打に興じていた。壁際のカウンター席には人相の悪い男達が腰にぶらさげた剣もそのままに黙々と酒のグラスを傾けていて、入ってくる客をいちいち値踏みするように睨んでくる。そうした男達の隣には肌を露にした女がいて、癇に障る甲高い笑い声をあげていた。俺とルメイは居心地の悪い思いをしながら暫く飲んでいたが、呂律もまわらない男二人が掴みあいの喧嘩を始めたので、頃合をみて退散した。


 黒鹿亭の裏手に寂れた馬小屋がある。これもゴメリー親分の持ち物だが、どうやら馬は数頭しかおらず、しかも盗まれるのを嫌ってか敷地の奥の方に設けられた別格の馬房に囲われている。そうしたわけで、馬小屋は文無しの冒険者の宿に供される。ゴメリーが特に慈悲深いわけではない。野宿をして雨に濡れた冒険者が肺病にかかったら一巻の終わりだが、命さえ長らえれば翌日には狩りの実入りで金を落としてくれるかもしれない。持ちつ持たれつ、自由にどうぞ。ただし飯抜きベッドなし、というわけだ。


 昨日の夕方、疲れ果てて街に戻った俺たちは、黒鹿亭の宿屋に顔を出した。イルファーロと違って武装したままの男達が出入りするので、夜まで開け放たれているドア枠の木には無数の傷が走っている。俺は半身だけ中に入って受付をしている女将に声をかけた。
「すまないが馬小屋で寝させてもらっていいかな」
 椅子に座って帳簿を書きつけていたハンナがこちらに顔を向けた。めっきり白髪の増えた髪をひっつめにして後ろで玉にまとめている四十を越えた年増だ。言葉は悪いが面倒見の良い女ではある。
「あんたかい、セネカ。今日もオケラだったのかい」
「まあそうだな」と俺は言った。「ルメイも一緒だよ」
 ハンナが燭台を引き寄せて帳簿に名前を書いた。文無しで馬小屋を借りるのが恥ずかしくて入口から声をかけていたが、ハンナは気にする風もなく手招きした。俺たちはまるで入り込む権利がない場所に来てしまった人間のような落ち着かなさを感じながらカウンターのところまで行った。
「どうもここんとこあんたらはツキに見放されてるようだね」
 ハンナがカウンターの内側にしゃがみこんでがさがさと音をさせながらくぐもった声を出した。俺はハンナが何をしているのが判るのでさらに恥ずかしくなった。
「そのうちまとめてツキがやってくるさ」
 カウンターの上に顔を出したハンナは小さな袋を手渡して来た。俺は少し逡巡してから、それを受け取った。
「すまないな、ハンナ」
「水は井戸から自由に汲んでいいからね」
 後ろに立つルメイも小さな声でありがとう、と言っている。
「いいからもうおゆき。日が暮れたから、荒っぽい連中が大勢くるよ」
 俺は黙って頷いて宿屋から出ると、馬小屋に向かって薄暗い道を歩いた。途中の井戸でルメイが水を汲み上げて、二人分の水筒の水を入れ替えた。そして残った桶の水で手を洗った。


 灯りのない馬小屋は既に闇に包まれ始めている。
 俺たちは慌てて装備を外して馬房の一角を占めた。汗を吸って重くなった革鎧を外すと体が開放されたような気になった。湯浴みをしたいところだが、馬小屋にバスルームはない。ハンナから渡された袋を開いてみると、パンが二つ入っていた。俺はその片方を無言でルメイに渡した。俺たちは暗がりで座ったまま、壁に寄りかかってパンを食べた。ふいに口中に脂の味がひろがって驚く。暗くて見えなかったが、丸いパンに切込みが入っていて、焼いたベーコンが挟まれていた。俺は夢中になってパンをかみ締めた。不甲斐なさが否応もなくこみ上げてきた。これはハンナの夜食だったのだろう。ハンナから恵んでもらった食事は、俺たちの普段の食い物より余程ましなものであった。ルメイも何も言わなかった。


 パンを食べ終わると、俺たちは干草の中に潜り込んだ。もはや馬小屋の中は闇に溶け込んでいる。やがて遠くから宿屋に客が詰め掛けている声が聞こえてきた。狩りの余韻に興奮さめやらぬ男たちが装備をがちゃがちゃとぶつけ合いながら、大声でハンナを呼びつけている。黒鹿亭の宿屋は野宿よりましと言われるが、それにしても人の泊まる場所ではある。狭いながらも部屋があり、食事が振舞われ、ベッドで寝ることが出来る。


 武装を外して体は軽くなったが、疲れがたまって手足が火照るようだ。干草の端が触れるのを嫌って頭を振るだけで左肩に響いた。眠りに落ちる前に目を開けると、なめされたような漆黒の闇の上に四角く窓が開いて、星が冷たく輝いているのが見えた。ぼんやりとする頭で思う。王国に夜の帳がおりた。人々はベッドに横たわり、文無しは馬小屋に横たわり、死んだ奴は山野に横たわる。今日は散々な日だったが、俺はかろうじて目を覚ます方に入ってるじゃないか。とりあえず、今日のところは。


→つづき

戻る