フィアが浴室から出てきた。頭を傾けて髪をタオルで押さえている。キルティングの亜麻の服に、シナモン色をしたウールのショールを羽織り、胸元でゆるく結んでいる。俺は目をそらして売り物のブローチに目を寄せた。しかしフィアが近くまで寄ってくるので、ふわふわと石鹸の匂いがする。
「いつまでも持ってても仕方ないから今夜売ってしまおうと思うのだけど、その値段で買ってくれる人がいるかしらね」
 俺はうーんと唸って考えた。夜市で買うアクセサリーに銀貨を出すのは少しだけ度胸がいるかもしれない。
「銅貨で買える品はいけるかもだな」
「そうよねえ」
 フィアは頭を反対側に傾けてそちらの髪もタオルで押さえている。俺は長い間ルメイと寝食を共にしてきたので、そういう女の仕草がいちいち目新しく感じられる。だが努めて平静を装うようにしよう。狩りのパーティーに男も女もない。


 フィアは暖炉の近くでお湯を沸かし始めた。しゃがんで火を扱いながら、背中を向けたまま話しかけてくる。
「このあと忙しいから、お風呂に入っておいたら?」
「そうだな。ルメイには悪いけど先にもらうか」
 何しろ石鹸が使えるのだ。この機を逃す手はない。背嚢からタオルを引き出すが、あまり清潔とも言えない感じで、思わず丸めて小脇に抱えた。
「ディナーは平目のムニエルとビーフシチューですって。女将さんに聞いたのよ。楽しみね」
 フィアは後ろを向いていて顔が見えないが、笑顔が見える気がする。
「ごちそうだな」
 俺は浴室に入る前に思わず感じ入って立ち止まった。俺とルメイは昨日、朝飯は抜きで、昼飯は地べたに座ったままパンをひとつ、晩飯はめぐんでもらったベーコン入りのパンを暗闇の中で食べた。それに比べたら今日は、普段の三日分くらい物を食わせてもらっている気がする。アブルールの神に感謝を捧げるべきだろう。
「何か嫌いな物でもあった?」
 突っ立っていたら、フィアがしゃがんだまま振りむいて俺を見ている。しっとりとした金髪がこちら側の頬に被っている。
「いや。なんでも食うよ」
 フィアは微笑んでから火に向き直り、そうなのね、と言った。


 浴室で服を脱ぎ、壁際に置かれた水瓶から浴槽に水を流し込む。近くにお湯の入った薬缶があるが既にぬるくなっており、浴槽に注いでもあまり温かくはならない。しかし春とはいえ肌寒いこの時季、吹きさらしの川で水浴びするよりは余程ましだ。
 ぬるま湯につかって肩に湯をかけながら見上げれば、梁に紐を渡してあり、そこにキルティングの亜麻服とパンタレットが干してある。紐は折り返して二重にしてあり、肌着のパンタレットが背後になるよう配慮されている。


 フィアはついでに洗濯をしたようだ。替えを持ってるとは羨ましい。替えがない俺はなかなか乾かないキルティングの服が乾くのを裸で待っているしかない。黒鹿亭で洗濯できるときはまだましだが、宿がご無沙汰になって野外で洗濯する時はいつまでも無防備に待っているわけにもいかず、生乾きのまま着込むこともあった。金ぴかツノムシの甲羅がうまいこと売れたら、まずは服と装備を一新することとしよう。


 真新しい石鹸を泡立てていたら、浴室のドアが開いた。
「お湯さめてたでしょう。熱いの持って来たから、ここに置いておくよ」
 フィアが衝立の陰から腕だけ出して薬缶を床に置いた。つい今しがたまで火にかかっていたようで、床の水気に触れた途端にジュッと音がした。
「お、ありがたい」
 浴槽を出てぬめる手をゆすぎ、薬缶から熱い湯をつぎ足すと、ちょうどいい湯加減になった。改めて湯につかり、深々と息を吐く。ふと左腕を曲げて痣を確かめると、紫の色が薄くなって少しひろがっている。やはり腕を上げると痛い。


 石鹸で体を洗ってから湯船の栓を抜き、水瓶の水で浴槽の泡を洗い流した。タオルで体を拭いて着替えると、衝立を畳んでから浴室を出て、薬缶を暖炉のそばに戻した。フィアは売り物を一旦しまって荷物を整理している。
 やがて階段から大きな足音が聞こえてきて、荷物を抱えたルメイが戻ってきた。フィアが入口のドアを開けてルメイを迎え入れた。
「おかえり」
「ただいま。ご注文の品を買ってきたよ。うん? 石鹸の匂いがするね」
 ルメイから大きな袋を受け取ったフィアが、それを床において中身を取り出し始めた。
「買い出しご苦労様。先にお風呂を使わせてもらったわよ。後でルメイもどうぞ」
「いいね。久しぶりにお湯に浸かれるな」
 ルメイがお釣りの入った財布をフィアに手渡す。フィアはそれを受け取って、確かめもせずに自分の背嚢に収めた。


 フィアが床にひろげた物を、俺も椅子を寄せて眺める。
 真黒い木炭が一束。焚付け用の粗朶が一束。百合の紋章が入った岩塩の小袋、これには塩税徴収済の押印がしてある。深緑の瓶が二つあるが、ラベルからそれぞれ葡萄酒とオリーブオイルであることが判る。薄紙に包まれたパスタが四束。厚紙に半ばくるまれた燻製肉のブロックが一つ。乾燥して堅そうなチーズが一塊。握り拳より小さな壺に紐できつく縛った蓋が付いているのは雑貨屋で見たことがある、これは砂糖だ。それに小麦の中袋が二つ。さらには大振りの鉈と火打石が見えて、これだけの品をルメイはあっという間に買って来たようだ。


 頬に指をあてて考えていたフィアがふと顔をあげる。
「木炭が足りないかもね」
「ああ、うん。安い方の店がそれで品切れになってた」
「後で買い足しておきましょうか」
 これだけの品があってもまだ足りないらしい。俺は疑問を口にした。
「ずいぶんたくさん買い込んでるけど、長逗留になるのかな」
 フィアは金髪を耳にかけながらこちらを振り返り、思案顔になった。
「そうね。おそらく最低でも三日。長ければ一週間はかかる筈よ」
 俺は狩りをする場所を聞くべきか迷った。パーティーを組んでまだ半日で、俺たちを完全に信用しろと言うのは酷だ。もし俺とルメイが悪い奴なら、金ぴかツノムシの狩り場所を知ったらフィアをお払い箱にしてしまうだろう。
「だいたいどっちの方角なのかな?」ルメイがおそるおそる問うている。
「カオカ遺跡の先よ。二枚岩の脇を抜けてずっと奥ね」
「ああ、やっぱりカオカの方なのか」とルメイが頷く。この辺りでツノムシがいるのは、やはりそっち方向なのだろう。


 まだルメイと知り合う前、カオカ遺跡の入口でパーティー狩りをしたことを思い出した。そこには人気の狩場があって、二枚岩と呼ばれている。早朝に酒場の入口にいけばパーティーを求める冒険者が溢れ返っているのが見れるが、そのうちの幾らかはこんな募集をかけている。「当方剣士、カオカ二枚岩のパーティーを募集、釣り役やれます」。


 二枚岩とは、建物のように巨大な岩が並んで立っていて、その隙間に道が通っている場所をさす。道の向こうにはカオカ遺跡の廃墟があって、ところどころに残された石畳と、壊れた壁からなる迷宮のような作りになっている。その辺りにはツノムシとコボルトが多く、釣り役と呼ばれるパーティーメンバーがコボルトを二枚岩のところまで連れてくる。岩のこちら側では抜身の武器を構えている殲滅役が待ち受けていて、二枚岩の間から走り出てくる釣り役をやり過ごしてから、後を追いかけてくるコボルトを袋叩きにする。


 釣り役にはコボルトをつかず離れず二枚岩までおびき寄せる機転と脚力が求められ、殲滅役には有無を言わさずコボルトを絶命させる一気呵成の攻撃力が必要となる。コボルトが殲滅役の包囲を抜けてしまうと苦労してそこまで連れてきた意味がなくなり、自由に動き回るのを追いかけ回す羽目に陥る。
 俺は足が速いほうではないし、どちらかと言えば剣に自信があったので、入ったばかりのパーティーで殲滅役を願い出たのだが、リーダーに露骨に嫌な顔をされて釣り役をやらされた。釣り役の方が苦労が多く、危険も増すはずで、それは新参者の役目なのであった。


 ルメイが買ってきた物は重さで仕分けしてそれぞれが背嚢に入れて運ぶこととなった。ルメイは進んで瓶と粉類を選んで俺たちの負担を軽くしてくれた。俺も重い物を取ってフィアの持ち物を減らすようにした。
「ありがとうね」フィアが粗朶とチーズを自分の背嚢に入れながら感謝している。いよいよ明日は狩場へ出発かと思うと心が躍る。俺たちは背嚢の口をぎゅっと締めて部屋の隅にならべた。
「お、ニルダの火が移ってくるぞ」ルメイがバルコニーに出て俺とフィアに手招きをした。俺たちは鈴なりになって手摺に身を預け、薄暗い並木道を見下ろした。西空には赤黒い残照があるのみで、一定間隔に並べられた篝火の明かりが数珠つなぎに地面を照らしている。


 人出でざわついていた通りが静かになった。人波が左右に分かれて、ニルダの火が進んできた。先頭に白い貫頭衣を身に着けたリベルト司祭が見える。続いて僧侶の一団があり、一人が大きな燭台を掲げている。燭台から放たれる赤い光は昼に見かけた時より明瞭となり、遠くからでもニルダの火であることが判る。妖しい光が何か巨大な像を結んでいるような気もするが、判然としない。僧侶たちは芝生の際にそった脇道から、劇団の舞台や座席を迂回して教会の敷地に入っていった。


 ニルダの火が教会の入口に吊るされると、建物に赤い燐光が走るのが昼よりはっきりと見えた。燐光はやがて消え、辺りは黄昏の暗さと篝火の明かりに包まれた。沿道から自然と拍手があがり、リベルト司祭が深々と頭を下げてから教会の中に入って行った。そのタイミングで楽団が演奏を始めるのが聴こえてくる。劇団の口上が延べられ、演目が告げられると、辺りは再び喧噪に包まれた。


→つづき

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