「フィアはどこへ行った?」
「よその露店を見て、ついでに振る舞い酒をもらってくるそうだよ」
 ということは教会の辺りか。振り返ってそちらの方を眺めると、明らかにその周囲だけ人が多い。酒を待つ人々の群れだろう。あの中から探し出すのは大変そうだ。ルメイがまだぶつぶつ言っている。
「俺はもう酒はいいよ。もう沢山。もらってもまあ、一杯くらいかな?」
 思わず苦笑する。今のルメイに何を話しても詮無い気がする。俺はすぐ後ろにいるフリオを見た。フリオは所在なさげに立っている。今夜の一幕をルメイに説明するのは明日にしよう。ルメイの肩をゆすって話しかける。
「おい、しっかりしろ。客足はもう引いたから売物と荷物は宿に持って帰る。フィアと合流したら宿に戻ってくれ。判ったか?」
 ルメイは揺すられて頭をぐらぐらとさせながら、わかった、わかったと連呼している。賭場から借りてきたランタンは火を消して露店に置いておくことにする。陳列棚に置いてある売物を摘みあげ、ござの隅に重ねてある荷物を取って両手に提げると、フリオに声をかける。
「すまんがルメイは酔ってて話にならん。一緒に宿まで来てくれるかな」


 フリオを宿屋の前で待たせておいて建物の中に入るが、フロントに人がいない。仕方なく通り過ぎ、階段を駆け上がろうとした矢先、フィアに言われていたことを思い出した。部屋で寝ている人たちもいる筈で、夜中に物音をさせないでくれと注意されていたのだった。足音を忍ばせて三階まで上がり、応接室の隅っこに荷物をそっと置いた。部屋は静まり返っていて、窓の外には篝火のわずかな光に照らされた並木道が見える。海風に揺れる欅の葉がバルコニーの手すりをこする微かな音がする。







 階段を下りてフロントの中をよく見てみるが、やはり誰もいない。奥にあるドアをノックしてみた。中から返事がかえってきて、やがてドアが開いた。食事を運んでくれた給仕の女が待機しているようだ。エプロンをつけたまま大きめのショールを羽織っている。
「何か御用ですか?」
 女は腫れぼったい目をしており、もしかして居眠りをしていたのかもしれない。手には使い古した感じのブランケットを持ったままだ。
「もう一人泊めたいのだが、なんとかならんだろうか」
「そう言われましても、もう満室です」
 女は明らかに迷惑顔をしている。
「俺たちはつなぎの部屋を借りている。あそこは広い。俺はソファで寝るから、あと一人だけ入れされて欲しいんだが」
「それなら大丈夫と思いますけれど……」
「ありがとう。夜市に露店を出してる連れが戻るまで、追加する一人をロビーで待たせてもらうよ」
「判りました。一応、奥様に伝えてきます」
 フロントの女はドアを細く開けて奥にいる別の係に声をかけ、顔を出した同僚にブランケットを手渡してから急ぎ足で外に出て行った。


 俺は宿の入口から半身を出してフリオに手招きをした。
「こっちで座って待っててくれるかな」
 眠そうな顔をしたフリオがロビーのソファに座るのを確かめてから欅並木に飛び出した。フィアを探さねばならない。フィアが借りた部屋なのだから、パーティーメンバー以外の人間を入れる前に断っておくべきだろう。それに、ルメイは酔ってしまってあてにならず、フィアが露店に戻ったら売物が盗まれたと勘違いするかもしれない。俺もくたくたでもう横になりたいというのに、なんとも慌ただしい夜だ。フィアが振る舞い酒をもらうつもりなら、そろそろ真夜中でその時間だ。教会の辺りにいるに違いない。


 教会の前に何百人も集まっている。
 さっきまで劇をやっていた芝生のあたりに大きな葡萄酒の樽が運び込まれ、テーブルの上には取っ手のない木製カップがずらりと並べられている。酒をもらう行列は教会の正面を回り込むようにして脇道へとつながっていて、正面辺りは人がまばらになっている。俺はそこへ進んで行って周りを見渡し、フィアの姿を探した。しかしこう人が多くては見つけられるものではない。
 顔を左右に動かして人垣の先まで視線を走らせていたら、隣にいたご婦人が「振る舞い酒の行列の最後は向こうの方ですよ」と手で示してくれた。曖昧に返事をしてフィアを探す。確か亜麻服の肩からシナモン色のショールを羽織っていた筈だ。


 ざわめいていた群衆がいきなり静まったので何事かと思えば、教会から人が出てきたところだった。白い貫頭衣を来たリベルト司祭に並んで、深緑のローブをまとった長身の男が進み出て来る。ローブ姿の男はフードを被っているので顔はほとんど見えない。二人はそのまま人々の前まで進み出て、正面に立っていた俺の数歩前まで歩いてきた。篝火に照らされた二人は、純白と深緑の明暗に分かれている。







 リベルト司祭が拳を口にあてて咳払いをしてから、よく通る声を出した。
「皆さん、イルファーロの夜祭にようこそおいでくださいました。並木道は露店で賑わっていますが、先ほど日付が変わって教会の水時計を掛け直したところです。皆さんお楽しみの振る舞い酒の時間です」
 司祭が笑顔を浮かべると、拍手と指笛が沸き起こった。
「佳き街イルファーロは春分の夜を迎え、ニルダの火はあそこで輝いておりますが──」
 リベルト司祭は振り返って教会の正面入口に吊るしてあるニルダの火を手で示してから、隣の長身の男の方へ手を移した。
「クォパティ寺院が建てられる前から、果てしなく長い時代をニルダの火とともに過ごされてきた、エルフのファインマンさんを紹介します」


 深緑のローブを着た男がフードを外した。よく手入れされた銀色の髪を伸ばし、大理石のように白い肌をした壮年の男だ。からくり鏡に写したようにわずかに面長で、両耳が髪から出てその上端が細く伸びている。
 顔を見るのは初めてだが、ファインマンはイルファーロに古くからいる長老エルフであることを思い出した。エルフの年でいったい何歳なのか判らないが、俺には四十ほどに見える。ファインマンは微笑みを浮かべていて、落ち着いた表情をしている。辺りを見渡すようにしたので、青緑の瞳が篝火を反射してかすかに見えた。


「ご紹介に預かりましたファインマンです」
 ファインマンが胸に手をあてて軽く頭を下げるが、聴衆にわずかな緊張があるのが伝わってくる。その容貌はやはり人間とは微妙に異なり、言葉にはエルフ語の訛りがある。俺たち人間には遠く及ばない魔力を操るちからを持った種族、エルフ。一言の呪文で野を焼き払い、魔法を操って人心を乱したという悪名高い魔法使いたちは、みなエルフであった。俺たち人間は、エルフ族に対して心のどこかで畏怖を感じている。
 しかしファインマンの語り口は、そんな気持ちを和らげるような砕けた調子であった。


「わたしはもうこの雰囲気は慣れっこですが、どうぞ、エルフを恐れないでください。嫌わないでください。この通り、多少耳が長いだけです」
 ファインマンは自分の耳を犬が掻くように何度か折ってみせた。
「それに、わたしは長らくこのイルファーロで葡萄酒協会の会長を務めさせて頂いております。皆さん、葡萄酒は好きですな?」
 そりゃ好きさ! という合いの手があがり、わずかに失笑の波がひろがった。緊張が解けるのが感じられる。ファインマンはこの街で長く暮らしているのだから、話し慣れた人間も当然多い筈だ。エルフを見て邪悪な魔法使いを連想するのが偏見に過ぎないことを、身を以て知っている人が大勢いるのだ。
「今夜はいつもお世話になっている醸造所と農場主さんたちから、ご覧のとおり、葡萄酒の大樽を八つ寄進してもらっています」
 ファインマンが背後の樽を示して間をあけると、まばらな拍手が起きた。


「樽開けの前に、少しだけ話をさせてください。ほんの短い話です」
 ファインマンは目を瞑って顔を上げた。
「先代のディメント王がこの街を囲んだ時、イルファーロは混乱していました。わたしは昨日のことのように思い出すことが出来ますが、実は皆さんの祖父や祖母が生まれる前の、ずっと昔のお話です。
 戦うべきと言う者がいました。降伏するべきと言う者がいました。街の大人役がみなこの教会に集まって議論しました。そこには人間に交じって、相当な数のエルフ族やポークル族がおりました。今夜のような、不気味な雲が流れる明るい月夜の晩でした。郊外からは攻城槌を組む大工の音が、遠く闇を通して響いておりました」


 ファインマンがしばし口をつぐんだ間、その夜を思い浮かべた。真剣な目をした男たち。祈りをささげる女たち。怒鳴る声。悲痛な眼差し。
「わたしは和睦するべきと主張しました。アイトックスに都を築いた王の寛容な施策を知っていましたからね。そのせいで、戦うべきとするエルフの一団から責められました。わたしはエルフの集落から出て、当時の葡萄酒協会の会長のところで世話になることになったのです。その時、名前も人間が使うものに改めました」


 辺りは静まり返っていて、篝火が風に煽られる微かな音が響いている。
「結局、イルファーロは王と和睦することにしました。和睦を不服とするものは、北へ去ることが許されました。去る者たちを、残る者たちが街の北で見送りました。そんなわけで、北に通じる出口のそばにある丘は、今でも名残の丘と呼ばれています。それぞれが不安を抱えながら、手を振りあって別れを惜しんだのを忘れることが出来ません」
 ファインマンが古い記憶を呼び覚ましている。集まった人たちのなかには、この街で生まれ育ち、当時の言い伝えを耳にしたことがある者もいるだろう。それぞれの思いが深夜の雪のようにしんしんと降り積もっていく。


 ファインマンが切々と続ける。
「覚えておいてください。意外に思うかもしれませんが、戦おうと言う者と、和睦しようと言う者の二つに分かれた時、人間もエルフもポークルも、それぞれほぼ半分に分かれたのです。わたしたちの思いをへだつるものは姿形ではなく、心によるのです。人も、人の形をしたものも、仲よく暮らせる日が一日でも長く続きますように」


 ファインマンが胸に手をあてて頭を垂れた。そしてふと、驚いたように目を開けて虚空を見上げ、明るい声で言う。
「思わず話が長くなりました。昔話はこれくらいにしましょう。この街の守り神、バロウバロウは今夜珍しく目を覚ましています。たった今、話が長いと叱られました」
 ファインマンの冗談にあちこちから笑い声があがった。場が和やかな雰囲気になる。しかし俺は笑えなかった。エルフのファインマンにはあの龍の姿が本当に見えるのかもしれない。今は月光や篝火が邪魔でニルダの火は小さな赤い灯にしか見えないが、俺はバロウバロウがこの教会の壁に頭をつけて休んでいるのをこの目で見たのだ。


「それでは、振る舞い酒を始めます。皆さん、アブルールの神に感謝するのを忘れませんように!」
 ファインマンの合図で酒を待つ人々の間から低いどよめきがひろがった。
「深酒をして衛兵の世話にならぬように!」とリベルト司祭も言い添える。
 木製のコップを受け取った最前列の人たちが酒樽の前に来て、葡萄酒教会の人たちに酒を注いでもらっている。貧相な冒険者が煽るように飲み干してカップを返し、そのまま急ぎ足で最後尾に並び直すのがみえた。食うや食わずの冒険者にしてみれば、ただ酒が飲める数少ない機会なのだろう。リベルト司祭とファインマンは連れだって教会に戻って行き、見物に来た人、とりあえず一杯飲んで気が済んだ人たちが退散して人垣が薄れた。


 俺は背伸びをして辺りを見回した。そして、行列が出来ているのと反対側の角に、フィアが座り込んでいるのを見つけた。芝生に尻をつけて膝を抱え込み、自分の膝に顔を付けて頭を伏せている。シナモン色のショールがかかった細い肩に、金髪がさらりとかかっている。間違いなくフィアだ。歩み寄りながら、いったいどうしたのかと思う。まさか酔いつぶれているわけではあるまい。すぐ後ろまで来てから、そっと声をかけた。


「フィア、どうかした?」
 フィアはぴくりと肩を震わせ、こちらを振り返るような素振りをみせたが、顔をこちらには向けなかった。
「セネカね。ううん、何でもないの」
 かすかに鼻声のような気がする。フィアは目立たぬように、亜麻服の袖で顔を拭った。
「グリムさんの用事が終わって帰ってきたところだよ。ルメイが店番をしてたんだが、酔っぱらって居眠りしてるから売物と荷物は宿に引き上げたよ」
 フィアがそっとこちらを振り向いた。顔を上げないので表情はよく見えない。
「もう人通りも少なくなってるし、店じまいね」
 フィアの顔は髪の影になって暗いが、薄く笑っているようにみえる。俺はフィアのそばで片膝をついて腰を落とし、努めて優しい顔を作った。
「なにかあった?」
「ううん。ちょっと疲れたのかも。もう少し休んだら宿に戻る」
 フィアは表情を見られたくないらしく、また顔を伏せた。
「そうか。冷えてきたから、早めに戻るといい」
 フィアがこくんと頷くのが見えた。 


 目の前の側道に馬車が止まっていて、旅の一座が荷物を荷台に運び上げている。役者たちが衣装の入った行李を運びながら声をかけあっている。馬車の側面には大きな貼り紙がしてあって、劇中の絵が描いてある。中央には擦り切れたマントを翻すデルティス公が満月に両手を掲げている後姿。これは劇の最後に、呪いの森で一人狂い死ぬ様を大写しに描いたものだろう。
 その斜め下には近衛兵と切結ぶカールとヴィクトルの姿がある。多勢に無勢で取り囲まれ、剣は折れ曲がり、背後から刺されそうな勢いである。
 もう一方には近衛兵の急襲を受けて城の裏門から逃げまどう人々。取る物も取り敢えず服の裾を持ち上げながら走る女中たち、両脇に書類を抱えて城の方を振り向いている執事らしき男、城内にいた御用聞きの商人たちも巻き込まれてはたまらんと帽子を押さえて走りに走っている。







 フィアのそばを離れがたく、片膝を付いたまま佇んでいる。
 劇の筋書きに気持ちが入って涙ぐんでしまったのだろうか。それが恥ずかしくて隠すのだろうか。ふだん気丈にしているフィアからは想像できないが、年若い女であることに違いはない。そこには触らないでおこう。
「フィア、賭場で知り合いに会って一緒に街まで帰ってきたんだが、宿がなくて可哀想なんだ。遠くの村から薬草を売りに来たフリオという青年だよ。フィアのとった部屋に入れてもいいかな?」
 フィアはそっとこちらを窺うようにして顔を向けてきた。
「セネカが信用できる人ならいいよ」
「そうか。ありがとう」


 俺が立ち上がると、フィアもそっと立ち上がった。亜麻服に包まれた腰や尻を叩きながら、顔は伏せたままでいる。
「もういいのかい?」
「もう大丈夫。悲しいお話で泣いちゃった」
 フィアがショールを羽織り直し、顔を上げて俺を見た。目が腫れているが、無理にも笑顔を浮かべている。
「一緒に露店まで行こう。ルメイが居眠りしてるから、どやしてやろう」
 フィアが笑って、照れ隠しに背中に軽く体当たりしてきた。
「ルメイをどやす!」
 そうだな、と答えてルメイの待つ露店に歩き始めた。


→つづき

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