「これはまた上品な味ですな」
 子供が喜ぶような甘いお菓子を思い浮かべていたので意外だった。エリーゼは目を細め、笑顔を浮かべた。
「お褒めに預かり光栄です。ですがどうぞお話の続きを。やっとフリオさんが登場しましたね」
 誤解が解けたようで、エリーゼは柔らかい表情をしている。眠いところを我慢して話した甲斐があったというものだ。
「フリオは大金を巻き上げられて怒り心頭の様子で、いかさまだと怒鳴っていました。黒頭巾たちは他の客の手前、その場で手荒なことは出来ませんでしたが、奥の部屋に来いと言ってフリオを連れ出そうとしていました」
「奥の部屋?」エリーゼが眉間にしわを寄せる。
「そう、奥の部屋です。そんなところに連れ込まれたらもうお仕舞いです」
「どんな部屋ですか?」シュザンヌが前のめりになる。
「セネカは見たの?」フィアも訊いてくる。
 俺は面食らった。この際、奥の部屋はどうでもいいではないか。
「いや、奥の部屋なる場所へは行っておりません。ですがまあ、それはそれは、恐ろしい部屋なのでしょうよ」
 変な物言いになった。女たちはそれぞれに想像をめぐらせて戦いている。勝手にしてくれ。


「フリオを放っておくと大変な事になりそうだったので助けてやりたかったのですが、あいにく腰に剣を吊るしていたので、黒頭巾の連中ともめたら却って危ない。そこでグリム殿に頭をさげて仲裁を頼んだのです。グリム殿はそれは鮮やかに黒頭巾どもを御してフリオ君を助け出してくれました。そればかりか、失った金の一部をやりくりまでしてくれた。実に立派なお金持ちです」
 ルメイが小さくいびきをかきはじめて思わず視線が集まった。 
「ごめんなさいね、ルメイはちょっと疲れちゃったみたい」
 フィアがルメイを庇う。俺もそろそろ潮時かと思い、紅茶を飲み干した。
「あとはもう、三人で街まで帰って来たというだけの話です」
 グリムの正体と、ネバとイレーネの話は伏せたが、大半をありのままに伝えた。


 女主人のエリーゼが頭をさげた。
「セネカさん、大変失礼をしました。疑ってすみませんでした」
「こちらも突然人を増やして申し訳なかった」
「いえいえ、そういう経緯があったのなら仕方ありません。遅くまでお付き合いさせてしまって申し訳ありませんでした。もう退散しますので、ゆっくり休んでください」
 エリーゼが立ち上がり、シュザンヌがテーブルの上にあるコップと皿を片付け始めた。ルメイの腕を取って首にまわし、立たせようと苦労していると、反対側の腕をフィアが取った。
「ああ、ごめん、うつらうつらしてた」
 ルメイが目を覚ましたが、しっかり立てないのでフィアと二人で支えたまま、寝室に向かった。エリーゼが先回りして毛布をめくってくれた。ルメイをベッドに寝せて毛布をかける。フィアが溜息をついて奥のベッドに身を投げ出し、ショールを取って枕元に置いた。
「わたしもくたくた。お先に失礼するね」
 フィアは毛布に潜り込み、壁に向かって身を丸めた。


 俺はエリーゼを入口まで見送った。エリーゼはドアの手前で振り返ってこちらを見ている。
「どうかフィアさんを守ってあげてください。そして良かったら、また冒険の話を聞かせてくださいね」
 エリーゼは本当にフィアが好きなのだ。きつい女ではあるが、悪気はない。
「パーティーメンバーですから、当然ですよ。今夜はもう俺も寝ます。おやすみなさい」
 エリーゼは頭をさげて出て行った。
 俺はふうと息をついて両膝に手をついた。革鎧の脇の紐を解いて体から外し、腕から落ちるに任せてそれを床に置いた。腿当てをゆるめて脚から落とす。芯入りのブーツも足を振るって脱ぎ捨てると、肩を回した。痛みは少し鈍くなったようだ。応接室の壁の燭台を外して蝋燭を吹き消すと、薄暗闇のなかに白い煙がもうもうとひろがった。


 暗い部屋を横切って自分のベッドのところまで来た。ルメイが寝息をたてているのが聞こえる。毛布をめくって横になると、久しぶりの柔らかな寝床に疲れた体が沈み込む。手を伸ばして燭台を手に取り、最後の明かりを吹き消した。部屋は一瞬にして闇に閉ざされる。
 寝床にもぐりこんで毛布を首まで引き上げた。体が下へ下へと降りていくような感覚に身を任せる。今日はずいぶんと長い日だった。これでもう眠れる、と思った時、心に引っかかっているものがあるのに気付いた。俺は寝床で上半身を起こした。


 ゆっくり目を開けると、月明かりで青黒く浮かんだ陰影だけの部屋がひろがっている。キルティングの布服の隠しに手を入れた。そこから四つ折りにした版画を取り出す。それだけで異変が起きているのが判る。折りたたまれた紙の内側から赤い光が漏れている。恐る恐る地龍バロウバロウの護符をひろげると、描かれた龍の線が細く輝いている。まるで熾きた炭のような赤い光だ。震える指でなぞってみるが、熱さはない。紙も厚みのあるごわごわした手触りで変わり映えしない。しかし赤い光の上に乗った指は、太陽の光を透かしたかのように半透明に光っている。その光を、浅く息をしながらじっと見詰める。目が離せない。


 これはなんなのだ。
 護符から無理にも目を離す。闇に慣れてぼんやりと部屋が見える。いびつな四角に見えるのは、月光の射す窓だろう。俺は護符を畳んで隠しに戻し、そっとベッドを出た。机や椅子にぶつからぬように手を前に突き出しながら窓辺に移動する。静かに戸を開け、バルコニーに出る。欅の影が漆黒の巨人のように手摺に迫っていて思わず息が詰まる。夜気に包まれて胸元から肌寒さが忍び込む。見下ろす並木道は暗く、もはや残っている篝火はほとんどない。人通りもなく、静まりかえっている。空を見上げるが龍の姿はなく、厚い雲を月が照らしている。
 その時ふいに、弦をつまびく音と、風のような歌が聞こえた。ゆったりとした旋律に、懐かしむような歌声が乗っている。俺は耳を澄ませた。


  覚えているか、イシリオン
  あの早咲きの百合の色を
  前髪を揃えた小娘が
  はしゃぎながら走り過ぎていった
 
  師は厳かに杖をつきながら
  つられて笑ったものだった
  とまれ、イザン、小さき者よ
  昼なお暗き森の小道ぞ

  今日の旅の終わりに
  うろこ雲のはや暮れゆく
  東には細き面の月霞み
  粟の如き明星がここぞと光る

  入江を浚った砂は積みあがり
  大河はとうとう流れを変えたが
  焚火を囲んだ我らの微笑は
  闇にいつまでも浮かんでいる


 俺は気が狂ってしまったのだろうか。
 聞こえてくる歌は聞き慣れない言葉で、恐らくはエルフの歌である。俺にその言葉の意味が判る筈もない。しかし耳では判らないまでも、心の中で意味が通るのだ。早まった鼓動に全身が包まれたような気がする。なんとも理解しがたいことで、思わず手すりを握り締めた。
 歌声の主が何か知っているかもしれない。
 ほとんど胸騒ぎのような抑えがたい衝動に駆られて部屋に戻った。居間を足早に通り過ぎようとした時、これもまた不思議なことだが、どうしてもそれが必要に思えて、壁に立てかけてあるフィアの短剣を手に取った。袋から出して左手で鍔の下を握る。短靴をひっかけ、足音を忍ばせて階段を下り、しっとりとした夜に支配された欅並木に歩み出た。


 別世界に迷い込んだかと思う。
 今夜は五番街の夜祭の日で、確かに夜は更けたが、水底のような静けさに包まれている。欅並木は月明かりに照らされていて、上手から海のほうまでずっと見渡すと、篝火の残っている場所は数えるほどしかない。ただ教会の前だけが、異様な赤い光に照らされている。ニルダの火だ。


 夢を見ているかのような気持ちで、教会の前まで歩いた。
 深緑のローブを身に着けた男が、入口の段差に腰をかけ、組んだ足の上に卵の形をしたリュートを乗せている。もはや弾き語りは終えていて、驚いたことにこちらをまっすぐに見ている。まるで俺がここに来るのを知っていたかのようだ。
「振る舞い酒の時、一番前に立っていたね」
 男はフードを被っていて顔が見えないが、この声はファインマンだ。俺は自分が何をしているのか理解できなかった。ただ呆然として、エルフの長老の前に突っ立っていた。


 ファインマンはリュートを持ち上げてそっと階段の上に置くと、フードを外して立ち上がった。その頭上には梁から吊るされたニルダの火がある。大きめの兜ほどの大きさの燭台で、玻璃の風防から赤い光が粘りつくように周囲に漏れている。ファインマンの流れるような見事な銀髪もその縁が赤く彩られて見える。
 痺れたように立ち尽くす俺の頭からつま先まで、ファインマンはとっくりと見た。その顔にどんな表情が浮かぶのか、探るように見返す。しかしそこにはわずかに充足の表情が浮かんでいるだけだ。
「龍が起きているから、きっと来ると思ったよ」
 ファインマンが面長の顔に微笑を浮かべた。


 混乱して何もまともに考えることが出来ない。この一連の不可思議な現象に説明が欲しかった。目の前にいるのがエルフだろうと人間だろうと関係ない。このままでは頭がおかしくなってしまう。
「教えてくれ、ファインマン。あなたには龍が見えるのか?」
 ファインマンはすぐに頷いて答えてくれた。
「見えるとも。これだけニルダの火が近くにあるのだ」
「ニルダの火とはなんなのだ?」
 矢継ぎ早に浮かぶ疑問をそのまま口にしてしまう。まるで頑是ない子供のようだ。ファインマンは仕方ない奴だな、という顔をしながらもちゃんと答えてくれる。
「はるか古の時代に、都を守るために創られた魔法の杖の破片だ。国をあげての奪い合いの結果、それは砕けてしまった。我々はわずかな力を残したその破片に縋りついているのだ」
「そんな物を誰が作ったのだ」
「それはお前が知る必要はない。まずは名乗るのだ、人間よ」
 俺は名乗りもせずに次々と質問している非礼に気付いた。しかしファインマンの受け答えを聞いていると、俺がここにいるのはなにかしらの道理があるようだ。


「俺の名はセネカ。なぜここにいるのかも判っていない」
「それではセネカ、落ち着いてよく聞くのだ。わたしの名前はケレブラント。その名でなければ力を使えない」
 俺はまた頭がぼうっとするのを感じた。ケレブラント。初めて聞く名だ。しかしなぜか、冷たい銀色の川が目に浮かぶ。牡蠣の身のような真珠色の河原と、それに続く薄緑をした針葉樹の森が見える。稜線の彼方までつづく森林は彩りを失ってほぼ灰色にも見える。怖いほどの静寂に包まれた眺めだ。
「なにかの魔法を使っているのか?」
 俺は思わず半歩にじりさがった。
「恐れることはない。お前は、セネカ、自分がなぜここにいるかまるで判っていないようだな」


 エルフの名でケレブラントと名乗った男の目に力がこもった。その瞬間、エルフの体からわずかな後光が発した。恐怖は感じない。優しい、慈しみを思わせる光だ。
「お前のこれまでの人生は、どのような紆余曲折があったにせよ、今日、たった今、ここに立つためにあったのだ。ニルダの火がイルファーロにある夜に、龍の護符と王佐の剣を持って、銀筋川の前に立ったのだ。こんな偶然はないぞ。
 これからお前は神託を受ける。それがいったい何であるか、人としての知識にたくし込むことは出来ない。あまり多くを訊かぬように。このケレブラントでさえ一部を担うのみ、そのすべてを知るわけではないのだ」
 俺は漠然とした不安に押しつぶされそうになったが、教会の建物の左側、というより、視界のおよそ半分以上に覆いかぶさってきたものを見て、もはや案山子のように立つただの棒切れになってしまった。


 建物より大きな岩石が、空から静かに下りてきた。
 それは地に触れることなく浮かんでいる。いや、これは岩石の肌ではない、巨大な鱗に覆われている。これは龍の頭部だ。空に向かって屹立する尾根はその首。山岳の稜線と思しき龍の背が上空に連なっている。見たこともない長い尾をした鳥が悠々と飛翔しているのが、夜空に浮かぶ光虫のように見える。これは先刻、丘の上から見下ろした龍の姿そのままだ。


 目の前の鱗の連なりがむずむずと動いた。
 横一直線に走る亀裂が縦に開くと、馬車でさえ吸い込みそうな巨大な丸い膜が現れた。剣を弾く硬い鱗の下に隠されていた透明な膜は、みずみずしく光を反射して光沢を帯びている。それが龍の瞳であることに気付くと、地を踏む足の感覚がなくなり、体が水中を漂うように感じられる。
 龍の巨大な虹彩は透明な膜の下に、びっしりと地を覆う森林のようにうねりながら盛り上がっている。瞳の中央には菱形の黒い虚空があり、苔のような虹彩がそこまで達すると、古い土手のように縁が丸まっている。もこもことした虹彩がカーブを描いて落ちていく先には暗黒があり、その瞳孔が今、ゆっくりと左右に動いている。
 龍の虹彩がぎゅっと引きつれて、黒い瞳孔が小さくすぼまり、それがまっすぐこちらを向き、つまり龍と目があった瞬間、頭のなかで何かが爆ぜて髪の毛が煮え湯を浴びたように蠢くのが判った。


 暗黒に吸い込まれた。自分の体も見えない。無のみが本来の姿なのだ。無のみが理由を必要としない。何か有るのならば、忽ち何かしらの理由が必要になる。何も見当たらないが、ただ俺の心はここにある。暗黒に俺の心だけ浮かんでいる世界は恐ろしい。自分の体が欲しい。足をおろして立つ大地が欲しい。香しい空気と空が欲しい。森と、海と、川と、山が欲しい。ついさっきまで俺の目の前に広がっていた世界が欲しい。


 小さな光点がみるみる広がっていく。それは小さな球であり、光を反射している。やがてその表面に真白な雲が渦巻き、その下に赤茶色の、緑の大地が見えてくる。点であったものは巨大な球となり、俺はそこへ落ちていく。球の半ばは影のなかにあり、光点を散りばめた黒い陸地と暗い海洋の境へと降りていく。雲を抜けるとやがて龍の姿が見え、街の灯が見えてくる。高さの感覚が蘇って足がすくむ。教会が見えて、その入口が真赤な光に満たされているのが見える。そこに立っている男。俺は俺の体の中に戻った。しかし目の前には龍の瞳孔があり、底知れぬ暗黒が俺を凝視している。


 このままだと狂ってしまうので、馬を操る時のように手綱を引いて、自分の体をケレブラントの方に向き直らせた。人形の手足を動かすようにぎこちなく、倒れないように気を付けながら、関節のひとつひとつを順に動かしてやらねばならなかった。ようやく教会と正対した時、ケレブラントが目をつぶって両手をわずかに前に出し、エルフの言葉で語り始めた。


  大いなる意志は
  運命の行く先をとく眺め
  分かれ道に立つ者を見出した
  お前は選ばれた

  忘れるな
  お前の宿命を果たすときまで
  命を絶やさぬように
  生きて深淵に降りる鍵となれ


 エルフの言葉が、頭の中で教会の大鐘が鳴るように響き渡った。これだけの力を見せられてしまっては、抗う気力も湧かない。龍と目が合い、俺の殻を象っていたものは打ち壊され、心根の底まで剥き出しにされてしまった。俺はなんという小さな存在であろうか。俺に出来ることのなんと貧弱なことか。託された宿命とやらを、俺は背負いきれるのだろうか。なぜ俺が選ばれたのだろうか。


 ケレブラントが目をあけ、眩暈を抑えるように体をふらつかせた。しかしすぐに自分を取り戻した。ケレブラントは脇に立つ柱に縛り付けてあった縄をゆるめ、手元の縄を少しずつ繰り出した。高いところに吊るしてあったニルダの火がするすると降りてきて、目の前で止まった。
「セネカよ。お前は神託を受け、『意を汲む者』となる」
 黒鉄で作られた直方体の箱に嵌められた玻璃を、ケレブラントが取り外した。赤い光が渦巻くようにして現れた。それは教会の入口を、足元の芝を、俺とケレブラントの体を、不気味なまでに赤く照らし出している。


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