「ニルダの火に触れるのだ」
 言っていることを理解するのに時間がかかった。触れた途端に体から炎が吹き上がる様が思い浮かぶ。そんな恐ろしいことは出来ない。俺がゆっくりとかぶりを振るのを見て、ケレブラントはそばまで来た。
「恐れることはない。力を手に入れるのだ。魔力に乏しい人間でも、龍の護符と王佐の剣の力を借りれば使いこなせるようになるだろう。意を汲む力は無駄に使わず、ここぞという時に使うのだ。例えば、今夜のような時に」
 ケレブラントが話しているエルフ語を耳では理解できないが、何を言ってるのか伝わってくる。これが彼の言う力なのだろうか。眉根を寄せながらケレブラントの口元を見ていると、彼は改めてニルダの火を手で示した。


 俺はゆっくりと手を伸ばし、燭台の中に手を差し入れた。玻璃の板が外してあるので灼熱しているかのような赤い光源が剥き出しになっている。触って火傷するということはないのだろうか。鍋の熱を確かめる時のように指先でつつき、熱気がないのを確かめると、思い切って掌を伏せて置いてみた。棒状の物に手が触れる。
 何事も起きないな、と思った次の瞬間、燭台から光の奔流が押し寄せて気が遠くなった。いきなり歯車を噛ませた水車小屋が轟々と音を立てて粉を挽き始めるように、脳裏に様々な光景が溢れかえった。それは押し止めようがなく、瀑布の下に立って流れ落ちる水を受けるかのように、ただ頭の中を通り過ぎてゆく。


 霧にかすむ湖を、帆を高く張った小舟が波頭を掻き分けながら進んでいく。舟はぐんぐん沖に進んで小さくなってゆく。風にはためく三角の帆を操る男が湿気た空気を身に受けながら、霞をまとって光輪を倍にも膨らませた太陽を目を細めて見詰めている。男の胸のうちに焦燥と不安が渦巻いているのが判る。







 どこまでも風紋がつづく砂丘で焚火をしている隊商の人々。馬車のそばで煮炊きをしている男たちが数名、豆粒のように小さく見え、それを高いところに登った月が見下ろしている。それなのに何故か判るのだ。男たちがその荷を運ぶ仕事を厭わずに気に入っており、満ち足りた顔つきをしているのが。その全員が良き仲間たちで、仕事が順調に進んでいることに満足している。


 苔むした遺跡の壁をよじ登る一人の男を、下から数人の男たちが手庇をしながら見上げている。紋様が浮き彫りになっている壁を午前の陽が照らしている。それがいったいどこにあるのか判らないのに、高い湿度と上がり始めた気温のせいで、彼らが汗をかいているのが伝わってくる。水筒の残りを気にして喉の渇きを我慢していることまで。


 村のお祭であろうか、小さな丘の上に一列に並んだ男たちを笛や太鼓の音で囃している。男たちは色使いがばらばらの派手な服を着て、武器にみたてた農具を肩に担いで取り巻きの村人たちに雄姿を披露している。しかしそのうちの一人が、和やかな舞台には相応しくないどす黒い怨恨に身を焦がしているのがひしひしと伝わってくる。激情に任せて握る拳の震えまでもが。


 薄桃色の大理石の壁に規則正しく窓が並んだ大きな館を、真っ赤な西日が照らしている。手前では喪服を着た女性が、灌木の合間に立ち止まって建物を仰ぎ見ている。窓は全て閉ざされていて人の気配はないが、それらの窓のうちのひとつに、カーテンに隠れながらそっと女性を見下ろしている男がいる。その密やかな息遣いまでもが伝わってくる。


 光景はあまりにも素早く次々と通り過ぎていってしまうので、脳裏にかろうじて印象が残るだけだ。これでは切りがなくて頭がおかしくなってしまう。やがて客観が戻ってきて、自分がうめき声をあげながらニルダの杖の破片を握り続けているのに気付いた。ケレブラントが慌てて燭台の中に手を入れ、俺の手からニルダの杖の破片をもぎ取ってくれた。ケレブラントと手が触れ合っているほんの束の間、またしても一幕の情景が脳裏に浮かんだ。


 巨大な樹木が生い茂る薄暗い森の中を、背嚢を担いだ一行が進んでいる。蔦草を山刀で撫で斬りにしているのは、年若いケレブラントではなかろうか。脇に倒木が重なった場所があり、陽が抜けてそこだけ明るく照らされている。緑に覆われたその一角には、大振りの花が群生している。目が痛くなるような赤い花弁が反り返って立ち上がり、細い黄色で縁どられている。花の根元からは鎌を持つ手のような薄緑の葯が六つ、小気味よく四方に広がっている。


 前髪を切り揃えた七歳くらいの女の子が、歓声をあげてその花に近寄り、小さな人差し指でつついてじっと眺めている。そばに立つ杖をついた老エルフが、キツネユリだ、毒があるぞ、と言うのが聞こえる。女の子が分別らしく手を引き、可愛らしい驚き顔で振り向いた。森を進む面々が立ち止まって笑っている。俺の中にある情景を眺めている部分が一人ごちる。これはさっき聴いた歌の場面だ。杖の老人がイシリオン、女の子がイザン、それ以外にも何人かいる。そう思った瞬間に場面が暗転した。


 頭がくらくらするので目をぎゅっとつぶり、やっとのことで燭台から腕を引いた。ケレブラントが俺を落ち着かせようとして二の腕を叩いている。
「もう十分だ。気を付けて、これは強いものだ」
 フィアの短剣を脇にはさみ、ニルダの火に触れた右手の手首を左手で握り締めた。まるで蛇に噛まれた毒がそれ以上体に入ってくるのを防ぐかのように。俺は昏倒しそうになるのをなんとか抑えて踏みとどまった。ニルダの火を納めた燭台は再びケレブラントの手によって高いところまで吊り上げられた。


「今のはいったい何だ」
 人心地ついて口を開いた。ケレブラントは足元のリュートを拾い上げている。
「杖は記憶を持っている。力と一緒にそれが流れ込んだ。蜃気楼のようなもので気にすることはない」
「俺はどんな宿命を託されたのだ」
 答を聞くのが恐ろしい気もする。ケレブラントが俺の顔を見て微笑んだ。俺はこのエルフと会って間もない筈だが、それは本当の仲間に向けられる深い眼差しに見える。見返していると、ケレブラントはフードを目深にかぶり直した。
「これで儀式は終わりだ。いつかその時が来ればすべて判る。あとはお前の信じる道を進むのだ」
 ケレブラントが龍のいた方の虚空を仰ぎ見た。つられてそちらを見る。もう俺には龍の姿は見えない。雲はますます厚みを増し、海風にのって目に見えて流れている。月光を浴びた上辺は明るく照らされ、底は暗い。まるで生きているかのようだ。


 ふと気づくとケレブラントの姿はなくなっていた。
 教会の入口でニルダの火がぼんやりと赤く光っているだけだ。自分が肩を上下させながら荒い息をしているのに気付いた。ひどく疲れていて、寝床が恋しい。ひとつ大きくため息を漏らすと、宿に向かって歩き始めた。
 なんという長い一日か。
 自分の身に何が起きたのか整理する暇もなく、疲労と眠気でふらつきながら宿まで戻った。幸い入口のドアは開いている。階段を上ってルメイとフィアが寝ている暗い部屋に戻り、自分のベッドに潜り込んだ。
 そして間もなく、底なし沼に落ちるかのように眠りについた。


→つづき

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