荒野の廃れた祠で、料理をする女の手を眺めているとは不思議なものだ。
 フィアは一人旅をしながら毎度の食事を自分で作ってきたのだろう。手際よくさっと作るにしては美味いものを作る。俺とルメイは日帰りの狩りばかりだったから、狩りの合間に一度だけ素のパンを水で胃に詰め込んで済ませていた。実に味気ない。そんな食事で何日も街を離れる探索行をしたら、体がもたなくなってしまうだろう。俺とルメイのパーティーは、能力不足で長旅をすることが出来なかったのだ。


 これまでの考え方を改めなければならない。
 自分もその一人であるから、どうしても力と技で刀剣を振るう能力ばかりをパーティーメンバーに求めてしまう。一昨日、仲間を増やそうとしてイルファーロに来たが、頭にあったのは屈強な剣士のことばかりであった。それゆえに、手付かずの良い狩場を知っているというフィアを仲間にした時、俺はパーティーのバランスを懸念したものだ。だが、それは間違っていた。長旅をこなす罠師のフィアを仲間にしたことで、俺たちのパーティーは格段に能力を向上させたのだ。


 料理など女のすることで、自分には関わりのないことと思っていた。冒険者のパーティーはほぼ男所帯で、まれに料理のうまい奴がいると重宝した。がさつな男どもはそういう奴の手際を眺めながら、何を女のような手仕事をと内心思う。それでいて作られたものを有難く食う。
 出来上がった料理を何日分も持ち運ぶことは出来ないのだから、荷物に食材を入れて運び、そのつど調理することは探索行に必須なのだ。その逆を言えば、調理の能力を持たないパーティーは日帰りの探索しか出来ない。それでは得る物が枯渇した卑近な狩場ばかりを徘徊することになるだろう。俺とルメイのように。


 フィアが鍋の横に小さなフライパンを出し、ブツ切りのソーセージとスライスしたニンニクを炒め始めた。その手元を気持ちも新たに見つめる。
「鍋が小さいから一人分ずつしか作れないの」
 そう言いながら脂の爆ぜるフライパンの中に若草色のハーブを手で揉みながら投げ入れている。小さな細長い葉が白っぽい茎についている。ローズマリーのようだ。脂にまみれたニンニクの薄切りに焦げ色がついてきたところで、葡萄の果実酢と塩で味付けをしている。ジューという高い音がして湯気に酸味が混じる。


 ルメイはフィアの手際を感心して眺めている。
「フィアは料理が上手だな」
 我がパーティーの調理人は小鍋の中のパスタを二枚の木箆で器用にすくって湯切りをしながら、食いしん坊なだけよ、と謙遜してみせた。木皿に乗せられたパスタはもうもうと湯気をたてていて、皿に盛りあがるほどの量がある。そこへフライパンの中身をあけて木のフォークでさっとからめた。捻じれた羽根を持つ親指ほどのパスタに、少し濃いめの味をつけたスープがからんでいる。
「お先に」と言って料理を受け取ったルメイがさっそく頬張る。
「ちょっと待って、パンも付けるね」
 硬いライ麦パンを薄切りにしたものが三切れ、皿の端に添えられる。
「ありがとう」
 ルメイは皿を傾けてパンにソースを染ませている。


「今セネカの分も作るからね」
 物欲しそうに見ていたらフィアに笑われてしまった。パスタが茹で上がるまで手持ち無沙汰でそわそわしてしまう。やがて俺の分も出来上がった。
「ありがとう、フィア。先に頂くよ」
 木のスプーンでパスタをスープごと掬い取り、鼻のそばまで持ってきて匂いを嗅ぐ。俺たち以外は人っこ一人見当たらない岩だらけの旅先で、茹でたてのパスタが食えるとは。口に頬張れば柔らかい腸詰の甘みに、スープの酸味と塩味が効いている。なんといっても嬉しいのは、士官学校時代に宿舎の食堂で出された料理に負けないほどの大盛りであることだ。これなら腹いっぱいになる。こうでなければ荷を負って一日中歩けるものか。


 昼飯を平らげ、石像の台座に背を預けた俺とルメイは、呆けたような顔をして足を投げ出した。そうして思い出したように小さな林檎を齧っている。隣ではやっと自分の分にありつけたフィアがふうふう言いながらパスタを口に運んでいる。
「フィアが仲間になってくれて本当に良かったよ」
 ルメイが林檎の芯を小さくかじりながらフィアに目を向ける。フィアはスプーンを口の前で立てたまま、ちらっとルメイを見た。
「お昼ごはん気に入ってもらえたみたい?」
「ああ。うまかった」
 ルメイの言葉に俺も頷いた。


 フィアが食事を終え、粗朶の細い方を幾らか束ねて木皿の汚れを落としている。後片付けを終わらせると、何度か屈伸して肩を回した後、俺たちと同じように石像の足元に背を預けて足を延ばした。
「風が気持ちいい」
 フィアは皮鎧で覆われていない肘の内側で林檎を磨いている。それから目をつぶって風の中に顔を差し入れるかのように顎を出した。後頭部に束ねた髪の先がわずかに揺れている。風が吹いてもなびく草がなく、とても静かだ。涼しいそよ風が顔から首にこもった熱を奪っていく。疲労と満腹が体を鈍らせる。このまま昼寝が出来たら最高だなと思いつつ、もう少しだけ休もうと自分に言い訳をしている。


 陽だまりの心地よさにうとうとしたようだ。
 気付けばルメイとフィアもぐったりとして身動きもせず、黙っている。俺は太腿に違和感を感じて目覚めた。周囲が完全に無音になっている。何か不吉なものが心をよぎって背筋がざわりとする。
 ズボンの隠しの中がやたら熱い。手を入れると、折りたたまれたバロウバロウの護符が真夏の日差しに焼かれた石のように熱々になっている。広げてみると、描かれた龍の輪郭が灼熱するように赤く光っている。五番街の夜市の時に見たのと同じだ。


  視界に現れたものに思わず息を呑んだ。
 並んで足を投げ出している俺たちの数歩先に、剛毛の塊のようなものが立っている。牛ほどの大きさがあり、丸々とした胴体と、そこから生えている節くれだった脚が何本も見える。その全身が棘のような体毛に覆われて黒々としている。
 正面を向いた顔にあたる部分に、スープ皿ほどもある巨大な青い眼が四つ並んでいる。その眼球は球を半分埋めたように体から飛び出し、陽光を反射して照り映え、縁が虹色に輝いている。
 子供の頃、引っくり返した石の下に無数の蟻が群がっているのを見たことがある。あの時のように手の甲に粟が立って、それが二の腕に走り、背中までかけぬけた。


 複眼から一定間隔で波動が出ている。
 水溜りに反射した空を見ている時に、水面に小石を落としたかのように、同心円状の揺らぎが広がっている。揺らぎと共に、とても低いドゥン、ドゥンという音が聞こえる。何かの術をかけられているのだ。
 そいつは巨体の割に静かに動く。まるで羽根のような軽さで手前に進んでくる。体を支える脚がそれぞれ独立してシャカシャカと動くのに、体幹だけは空中を水平に滑ってくる。一番長い脚を恐る恐る伸ばして、その先端でフィアの爪先に触れようとしている。鍋が熱くないか調べる時のように、ごく軽くとんとんと叩いている。


 フィアが動いたわけでもないのに、そいつはビクリとして触手のような脚を引っ込めた。何かあれば退く体勢のまま、またフィアの爪先に脚を伸ばす。今度は自信を持ったようで、剛毛の生えた脚の先端でフィアのブーツの甲をなぞっている。複眼からは絶えずドゥン、ドゥンという波動が響いている。
 青い複眼の下に折りたたまれていた牙がすうっと前のめりに立ち上がってきた。人の指ほどもある黒い牙で、てらてらと輝いている。そこから滴がぽたりと垂れる。まるで止まってしまった時間の中で、そいつだけが動けるかのようだ。


 俺はゆっくり立ち上がろうとして龍の護符を手放した。
 その瞬間に、目の前にいた奴の姿が消えた。慌てて護符を拾い上げる。その姿が再び目の前に現れた時、それが鬼蜘蛛であることが判った。姿を消すことができる巨大な毒蜘蛛の話を、年老いた冒険者が酒場で話していた。
 鬼蜘蛛は身を屈めてさらにフィアに近寄っている。フィアは目を開けているが、人形のように呆けている。その先にいるルメイも目を開けているが、やはり呆然として身動きをしていない。辺りは完全な無音に支配されていて、鬼蜘蛛が発する微かなドゥン、ドゥンという音だけが聞こえている。俺は護符を襟ぐりから鎖骨のあたりに落とし込み、上体を起こした。


 恐怖が俺の体を縛り付けている。
 おそらくこいつは素早く飛び跳ねる能力を持っている。大声を出して二人を起こしたいが、俺はいま地面に横たわっている。注意をひいたら飛び掛かってくるのではないか? 何本もある脚で押さえ込まれて牙を突き立てられる絵が目に浮かぶ。とても避けられない。
 鬼蜘蛛はフィアの上に覆いかぶさり、どこを噛んだものか舐めまわすように見ている。俺は静かに中腰になり、腰の剣を抜く。剣身が安物の鞘をゆっくりと擦るシャリィィィィンという音が響く。ほんのわずかな音の筈なのに、やたらと大きく聞こえる。


 鬼蜘蛛が動きを止めて複眼を俺に向けた。
 波動が強まり、世界が揺らいで見える。その音は高熱が出た時の鼓動のようなドォン、ドォンという大きな音に変わっている。意識が朦朧としてくるが、鎖骨に貼り付いた護符の熱さが俺を目覚めさせてくれている。剣を構えたまま、すり足で鬼蜘蛛の尻の方に回り込んだ。複眼をもつ化け物はその場で回転して俺から目を離さない。これでもかと複眼の波動を強調してくるが、こちらが意識を保っているので不安を感じている様子だ。そのまま距離を開けるように退くと、じりじりと詰め寄って波動を浴びせてくる。いいぞ。フィアから離れてそのままこっちに来い。


「ルメイ! フィア! 起きろ!」
 溺れかけた人が水面から顔を出した時のように喉を鳴らして、フィアが目覚めた。ルメイも自分を取り戻し、息を喘がせている。鬼蜘蛛は首をまわして背後の二人を確かめた。その隙に踏み込んで剣を振り下ろした。
 シャアアアアア!
 鬼蜘蛛が奇声をあげて飛びのいた。一番後ろの太い脚を中ほどから一本叩き折った。途中からおかしな方向に曲がってぶら下がっている。
「鬼蜘蛛だ! 武器を抜け!」
 ルメイとフィアが立ち上がって武器を構えたので、鬼蜘蛛は俺の背後にあった一抱えもある大岩の上に回り込んだ。脚がばらばらに素早く動くのに、本体だけは地面すれすれのところを滑るように移動していく。それが気色わるくてまたぞろ手の甲に粟が立つ。


 鬼蜘蛛は八本の脚のうち、前の四本を持ち上げて威嚇してきた。見た目が倍近く大きくなっている。複眼からはち切れそうなほど強く波動を出して、ドォォン、ドォォン、という巨人の鼓動のような音が辺りに響き渡っている。
「消えたわ! どこに行ったの?」
 フィアが叫んだ。ルメイもメイスを突き出してゆっくり左右に振っている。
「そいつの目を見るな! 何かの術を仕掛けてくるぞ」
 鬼蜘蛛の目が混乱している二人を見ている。俺は敢えて及び腰になって剣を左右に振り、見えない振りをした。鬼蜘蛛は俺やフィアの尖った武器を嫌って、先端の丸いメイスを持ったルメイに焦点を合わせている。なるほどこいつは少々叩かれても平気だが、撫で斬られるのを嫌がるのだ。
 鬼蜘蛛がぐっと身を低くしてから飛び上がった。ルメイの上に乗っかる積りだ。俺は両手で握った剣の柄を顔の横で絞り込むようにして構えながら、素早く前に出た。


「うわああ!」
 ルメイが押し倒されて悲鳴をあげた。鬼蜘蛛が馬乗りになって毒牙で噛もうとするが、ルメイがメイスを無茶苦茶にぶつけてくるので躊躇している。しかし振りかぶる間合いがないので打撃が弱い。
 俺は鬼蜘蛛の背後に回った。棘だらけの丸々とした腹を撫で斬りにしようとして一瞬手を止めた。勢い余って鬼蜘蛛の体の下から飛び出ているルメイの足を切ってしまうかもしれない。剣を構え直し、深さを加減して突き込んだ。黒々とした腹の皮は薄く、剣先はやすやすとその中に呑み込まれた。手応えのなさに剣を引き抜くと、べっとりと付着した緑色の粘液が剣先から滴り落ちた。思わず顔をしかめる。


 鬼蜘蛛がものすごい速さで振り返り、四本の脚で俺を振り払った。流木に当たったような強い衝撃を受け、俺はなぎ倒された。鬼蜘蛛がそのまま馬乗りになってくる。まずい。剣を投げ出してしまっている。顔を横に向けて剣を探すが、手に届くような所には見当たらない。
 鬼蜘蛛が俺の胸に顔を近づけてくる。慌てて牙の根元を手で押さえた。鬼蜘蛛が体重をかけてきて、毒牙が俺の心臓の辺りに下りてくる。つやつやとした青黒い眼球がのしかかってきて、触れんばかりにドォン、ドォンと波動を浴びせかけてくる。


「うおおお!」
 気合を入れて跳ねのけようとするが、これだけ沢山の脚で押さえ込まれると力が入らない。俺の手がぶるぶると震え、毒牙が革鎧の表面を擦っている。
 いきなり牙と牙の間から、もう一本の白い牙が飛び出してきた。俺はその牙が恐ろしく尖っているのを呆然と見つめた。こんな奥の手があるのか。この牙は止めようがない。あっけないものだな。俺はここで死ぬ。
「待て、フィア、それ以上は駄目だ!」
 ルメイの叫び声を聞いた瞬間、その白い牙が俺のバスタードソードの剣先であることに気付いた。鬼蜘蛛の脚の力が萎え、びくんびくんと痙攣し始めた。化け物の全体重がかかってきて、思わずくぐもった声を絞り出した。毒牙の真ん中から飛び出ている剣先が俺の革鎧に下りてきて、先端がプスリと刺さった。
「抜け! 剣を抜け、フィア!」
 ルメイが叫んだ瞬間、鬼蜘蛛の口から緑色の粘液がどっと流れ落ちてきた。俺は手を滑らせた。ドン、という音がして巨大な砂袋のような重みがのしかかり、目の前が真っ暗になった。


→つづき

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