ルメイの唸り声がする。 体にのしかかる重みが片側に傾いで明るい空が見えた。呼吸が出来るようになる。鬼蜘蛛の死体がドサッと音をたてて脇に転がると、体を曲げて咳き込んだ。 「セネカのこと刺しちゃった?」 フィアが慌てて俺に取りつく。ちょっと待ってくれ。今、息が止まってたんだ。そう言おうとしても、ぜいぜいと喉がなるだけで伝わらない。 「この剣すごい重くて、蜘蛛の頭に突き立てたらどんどん刺さってくの」 判った。判ったから俺を揺すらないでくれ。 「……どこも切れてない。大丈夫だ」 何とか掠れ声で言うと、フィアは「良かった」と言ってへたりこんだ。 いつまでもみっともなく寝転んでいるわけにいかず、上半身だけ起こしてフィアの肩に手を乗せた。 「ありがとう、フィア。助かったよ」 ルメイも両手を地に着いて肩で息をしている。俺たち三人は今、あやうく死にかけたのだ。ルメイが顔を歪めて声を絞り出した。 「すまない。何も出来なかった」 「いや、一人でも欠けたら全滅してたよ」 敢えて言わないが、最初に飛び掛かられたのがフィアなら助からなかったかもしれない。ルメイがメイスで反撃して時間を稼いでくれたから何とか一撃を加えることが出来た。そしてフィアが鬼蜘蛛の頭を刺さなかったら、俺は毒牙にかかっていただろう。 「こんな厄介な奴がごろごろしてるなら、先が思いやられるな」 ルメイの声に自責の念が滲んでいる。 フィアがぼろ布で俺の剣を拭ってから柄の方をこちらに向けた。俺は立ち上がって柄を握ると、フィアが手を離すのを待ってから剣を受け取った。 「油断した。すまなかった」 剣を納めて周囲に目を配った。見晴らす岩場には俺たち以外誰もいない。フィアはこれまでに鬼蜘蛛に出会ったことがあるのだろうか。 「まさかこんな化け物が何匹もいるわけじゃないだろ?」 俺たちは並んで鬼蜘蛛の死体を見下ろした。剛毛の塊のような体から萎えた脚が投げ出され、青く輝いていた複眼は消し炭のように艶を失っている。 「こういうのが居るって話は聞いたことあるけど、わたしは初めて見る。この道は何度も通ってるけど」 「こいつが特別に成長した奴だったんだろうな。街のそばにいたらたちまち話題になって討伐されるけど、こんな僻地にいるから誰にも知られず生き延びた」 「わたしにはほとんど姿が見えなかったんだけど、セネカにはどうして見えたの?」 フィアが口にした疑問で、俺はバロウバロウの護符のことを思い出した。慌てて革鎧の襟ぐりから手を差し入れるが、護符が見当たらない。草摺りを外して腹の方から手を入れ、脇腹に貼りついている護符を破かないようにそっと取り出した。 「これのお蔭らしいんだ」 龍の護符を広げてみるが、もはや熱は冷め、輪郭が光っていることもない。フィアとルメイはじっと俺の顔を見ている。 「信じられんかもしれんが、こいつが肌についてる時は鬼蜘蛛の姿が見えた」 「そんな効能があるなんて知らなかった」 フィアが半信半疑の小さな声で言う。ルメイは明らかに疑わしいという顔をしてこちらを見ている。 「今度イルファーロへ帰った時は、二人とも手に入れたらいい。そんなに高い品でもないしな」 俺の言葉を聞いたルメイが暫く黙ってから、何事も信心次第ではあるな、と呟いた。 草摺りを付け直して剣帯の位置を直していたら、フィアが俺の剣をまじまじと見ている。 「その剣、すごい重い。扱ってみて初めて判った。よくそんな長いのを振り回してるわね」 これか、と言って剣を抜き、左手で刃元を握って構えてみせた。 「バスタードソードだよ。長いように見せて短く使う。短いように見せて長く使う。真ん中くらいまで刃が付けてないから素手でも握れる。それで、片手でも両手でも扱えるわけだ」 「どおりで切れないわけね」 「切れないこともないんだが、ちょっとフィアには重過ぎるかな」 フィアは鬼蜘蛛に対するのに、地面に転がっていたこの剣を使ったのだ。自分の短剣よりは頼もしくみえたのだろう。しかし斬り付けても傷を与えることが出来ないので、動き回る脚に邪魔されない真上から複眼の付根を刺した。お蔭で命拾いをした。 「おおい、ちょっとこっちに来てくれ!」 大岩の後ろに回り込んでいたルメイが大声を出した。声が緊張している。抜身の剣を握り締めたまま岩の裏へ行く。 見たくない、と思った。 大岩の足元の土がえぐられていて、人間が潜り込めるほどの隙間ができている。その片側半分は分厚く織った蜘蛛糸のカーテンで塞がれている。出入口の方の地面には何かを引き摺った跡が幾筋も残されている。心が重いのは、そこにちらっと冒険者のものらしきブーツの爪先が見えているのだ。 「鬼蜘蛛の巣ね」とフィアが言った。 俺はルメイとフィアの顔色を窺った。二人が見返してくる。俺はこのまま通り過ぎたいという気持ちを顔に出しながら、中を見るか? と聞いた。どのみち酷い有様になっているのに決まっている。 「探し人かどうか確かめないと」 フィアの言葉に思わず頷いた。忘れていた。俺たちはコルホラ隊長の弟、クレメンスを探すと約束したのだ。穴から飛び出ているブーツはぴったりと両足を揃えている。ルメイが身を乗り出して両手でブーツを掴み、ぐいと引っ張った。俺は何が飛び出して来ても対応できるように、剣先を巣の方に向けて低く身構えた。 不恰好な白い繭が出てきた。 死体は肩から膝下まで蜘蛛の糸に完全に絡め捕られている。顔は餓死者のように痩せ細り、苦悶の表情を浮かべたまま干上がっている。あんぐりと開いた口と眼窩は、大きな黒い穴としてぽっかり開いたままだ。ルメイが目を細め、口元を歪めている。 「むごいな」 何か身元が判るような物を持っているかもしれないが、このままでは確かめようがない。気は進まないが、一歩踏み出して死体の足の間に剣を差し込んだ。 「この繭から出さないとな」 粘り気が失せた繊維の束に切れ目を入れ、そのまま半分ほど切り開いた。開いた両端を俺とフィアが踏みつけておいて、ルメイが足を引っ張った。 繭の中の死体は体液を吸われてすっかり枯れ果てている。 体の割に大き過ぎる金属製の胸当に繭が絡みついて取れない。その胸当も、鞘からはみでた剣も、雨ざらしで形が変わるほど錆びている。クレメンスは短剣を持っていたというが、これは片手剣だ。まして名前が付くような業物ではない。何度も刃を付け直した一山幾らの中古品だ。フィアそのも片手剣を注視している。 「<智慧の剣>ではないわね」 一応は鞘を引っくり返して確かめながら、そうだな、と答える。胸当に腕が引っ掛かるので、死体を最後まで引っ張り出せない。それでも腹から下が露わになったので、ベルトに付けた革袋が手に取れるようになった。 一瞬、これでいいかなと思ったが、すぐに思い直す。足を引っ張ったので骨と皮だけになった腰骨が白日の下に晒されている。その骨が、両手で水を受けるような形をしているのが判る。この死体がどこの誰だか知らないが、繭の中に頭を突っ込んだように見える姿のままでは余りにも不憫だ。 「繭から引き出そう」 繭の両脇にも切れ目を入れて腕を自由にした。繭と一体になった胸当を押さえてルメイに足を引っ張らせると、両手を上げた状態で死体がするりと抜けて出た。棒のように痩せ細った死体だ。こんなのは初めて見る。 髪の色は煤けてしまってよく判らないが、栗毛に見えないこともない。瞳の色は、神のみぞ知るだ。 「胸当の錆び具合からして数か月以上は経ってる筈だけど、こいつは蛆に食われてないな」 しゃがんで剣帯の辺りを確かめる。革袋が付いているが、縛り紐が固くなっていてなかなかほどけない。フィアも片方の膝をついて見守りながら陰鬱な顔色をしている。 「この手の毒蜘蛛は、──普通の小さい奴ね、麻痺毒を持ってるの。麻痺させて、糸で縛って、生かしたまま何日もかけて体液を吸う。死んでからも毒の成分でなかなか腐らないの。だから蠅もたからない」 暗い穴の中で何日も生きているところを想像してぞっとする。縛られて身動き出来ないまま、剛毛の生えたあの脚に抱えられて、生きたまま血を吸われるとは。 革袋の紐が千切れて中身がざらっと飛び出た。数枚の銀貨とそれより多い銅貨。それと何かの紙片。細かく折りたたまれた紙を広げると、そこに書かれている文字の一部が読めた。革袋の中にあって濡れずに済んだようだ。 「これは冒険者協会の受注票だ。読むぞ」 探索依頼受注票。仲介者はイルファーロ冒険者協会会長ドルク。依頼物は瑪瑙、特に大粒のもの。報酬はその買取りで、金額は品質による。依頼人はボルタック商店店主、エリーゼ・クルーガー。 「依頼主はエリーゼさんだわ!」 フィアに言われてはっとする。聞いたことがある名前だと思った。ホテル南イルファーロの女主人であるエリーゼは、通りの向かいにある商店の店主でもある。装身具の材料として瑪瑙を発注したのだろう。 俺はフィアの顔を見てひとつ頷くと、その先を読んだ。 「請負人はハンス・エスレベン。住所の記入なし。日付は……半年以上前だな」 受注票には請負人の住所や連絡先を書く欄が設けられているが、ここはたいてい空欄になる。冒険者には帰る家が無く、頼る人もいないのが普通だ。 「この人はアリア河の上流を目指して来たのよ。呪いの森の周辺は通りかかる人も少なくて、根気よく探すと瑪瑙や孔雀石が拾えるの」 「アリア河の上流って、要するにこの辺りかい?」 ルメイが背伸びをして斜面の下に広がる河原を指先でくるりと示した。アリア河の水位は最近ずっと低いらしく、山肌を削って蛇行する深緑の流れに沿って、河と陸の境界線が白く縁どられている。 「そうよ。特に大水のあった後は狙い目なの。上流から新しいのが流れ着くから」 俺は身を低くして鬼蜘蛛の巣の奥を覗き込んだ。もしかして他にも死体があるかもしれない。しかし岩の陰になって薄暗く、よく見えない。 岩の下に貼りついた蜘蛛の糸を剣の先で剥ぎ取った。窪みに頭を突っ込むようにして中を見ると、次第に暗さに目が慣れてきた。 「気を付けて」 フィアも短剣を抜いて後ろで構えている。 「鬼蜘蛛の卵がびっしり、なんてことはないのか?」 ルメイの言葉に虫唾が走って思わず振り返った。 「今そういう話、やめてくれる? そもそもあの化け物に雄とか雌とかあるのか?」 フィアが眉根を寄せて首を傾げる。 「雄も雌もないなら、モンスターってどこから生まれてくるの?」 「知らんよ!」 何をいまさら言っているのか。再び暗い穴倉を覗き込むと、ぞっとするものが見えた。 穴倉の奥にある物を剣先で引っかけた。 「人骨がごろごろしてるよ」 そっと剣を引くと、眼窩に剣先が刺さったままの頭蓋骨が日光の下に現れた。下あごは外れてどこかへ行ってしまっている。ルメイがうへえ、と唸りながら顔をしかめた。フィアは目を細めながらもしっかりと見ている。 「それではもう誰だか判らないわね」 頭蓋骨を手に取って引っくり返した。上あごの歯がほぼ揃っているので年寄りではなさそうだ。しかし男か女かも判然としない。 「これは返しておこう」 体を伏せて手を伸ばし、頭蓋骨を穴倉の奥にそっと置いた。その時、掻き寄せられたように積み上がった人骨の中に、鞄の襷紐のような物が目についた。 剣先で引っかけて紐を手繰り寄せ、手を伸ばしてそれを掴んだ。引っ張ると、骨の山の中から小さな収集鞄が出て来た。 「他のに比べるとまだ新しいな」 硬く仕上げた革製の小箱を、しゃがみこんだルメイがじっと見ている。留め金を外して蓋を開けてみると、握り拳ほどの柔らかい布袋が三つ入っている。 一つ目の袋からは、小さな金槌が出て来た。片側は平坦で、反対側は尖っている。細かい傷はついているが、油が塗ってあるので錆びていない。採掘道具のようだ。 二つ目の袋の口を開けて中が見えるようにした。色目のついた小石が幾つか顔をのぞかせている。火山の噴煙のように乳白色の粒子が積み重なっている石。氷の上にミルクを流したように見える半透明の石。どれも綺麗だが、ソラマメほどの大きさしかない。 フィアが透明な小石を手に取って陽にかざしている。 「これはハンスさんの持ち物ね。河原で採集を終えた帰り道、鬼蜘蛛に見つかった。さぞ心残りだったでしょうね」 たまたま俺たちが見つけたから明るみに出たが、通り過ぎていたら永久に判らないことだったかもしれない。この薄暗い穴倉の底で、長いあいだ人骨にうずもれていたのだ。改めて痩せ細ったハンスの死体を眺めた。こいつは確かに生きていて、空気を吸って、飯を食って、誰かと話をしていたのだ。生きたまま鬼蜘蛛の弁当になっている時は、さぞ口惜しかったことだろう。 「こういう石はどれくらいの値で買い取られるんだい?」 ルメイが商売人らしく価値を気にしている。 「わたしもここを通りかかるたびに採集してたけど、これくらいの大きさだと一山幾らにしかならない。もっと大きいのか、硬い宝石を見つけたら話は別だけど」 三つ目の袋には、拳ほどの大きさがある苔色の石が一つだけ入っている。引っくり返した瞬間に手が止まった。河を流れてくる間に一部が割れて欠け落ちたらしく、ほぼ平らな断面が見える。縁から中央にかけて、暗色から明色へのグラデーションがあり、途中に真白い輪が層になっている。真ん中あたりは透けるような淡い緑色をしている。 「大きめの縞瑪瑙だわ。綺麗ね。これなら結構な値で売れる筈」 フィアが石を手に取って眺めてから、ふっと死体に目を移した。 「この辺の土は硬そうだけど、ハンスさんを埋めてあげないと可哀想ね」 俺は重い腰を上げて背嚢から小さなシャベルを出した。設営に使うために持ってきて良かった。辺りを見回して、すぐそばに土の柔らかそうな所を見つけた。体はしんどいが、ここで死体を見つけたのも何かの縁だろう。埋めてやるなら手早くしないと日が暮れてしまう。ルメイも無言でシャベルを出している。 人を埋めるには浅すぎる辺りで硬い岩場にぶつかった。 「すぐ下に岩の層がある。シャベルを壊さないように気を付けろ」 土を掘っているルメイが無言で頷いた。掘った穴にルメイと二人でハンスの死体を運んできて横たえた。余りにも浅い墓だ。ルメイは肩で息をしながら小手で額の汗をぬぐっている。 俺が埋め戻そうとしてシャベルに手を取ると、フィアがちょっと待ってと片手を上げ、その場に跪いた。ハンスのくしゃくしゃになった髪をまさぐると、汚れていない黒い髪が中から出て来た。フィアはその髪を短刀で幾らか切り取った。余り深さのない凹みに横たわったハンスが、落ちくぼんだ暗い穴のような目で俺たちを見上げている。ほんの少しの差で俺たちも同じ目に会っていたのだと思うと、改めて恐怖を感じる。 「街に戻ったらエリーゼさんに話を聞いて、ハンスさんに身寄りがないか確かめよう。依頼人と請負人は必ず一度は顔を合わせてる筈よ」 フィアは片膝を付いたまま顔を上げた。 「道具と小さな石は一緒に埋める。大きな縞瑪瑙と受注票は私たちの手で持ち帰る。家族がいたらその人たちに預けよう。引き取り手がなければ、エリーゼさんに売ってわたしたちの冒険の糧にしましょう」 「そうだな。俺がそいつなら、賛成する」 ハンスはあんぐりと口を開けたままで答えないが、ルメイはうんうんと頷いている。フィアが立ち上がってハンスの荷物を取ってくると、死体の胸の上に金槌と小石を置いた。切った髪を細紐で束ね、瑪瑙と受注票と共に布袋に入れて俺に差し出してくる。 「これはリーダーが預かっていて」 判ったと答えてベルトに括り付ける。 ルメイと二人でハンスに土をかけた。死体が露わになってはいけないので周囲の土も掘ってかけてやる。やがてこんもりとした盛り土が出来た。俺とルメイは手近にあった石を拾ってシャベルの面についた土をこそげ落とした。この辺りに水辺はない。早くアリア河の河原まで降りなければ。 ルメイが大きめの石を運んできて盛り土の上に据えた。フィアがチョークを手渡してくる。昨日、賞金稼ぎのスミスがしたのを真似ることにする。しゃがみこんで墓石代わりの石に「ハンス・エスレベン」とだけ書いた。 フィアが拳を胸に付けて目を閉じた。俺とルメイもそれに倣う。形だけの弔いだが、何もしないよりはましだろう。俺たち三人が今日、鬼蜘蛛にやられていたとしたら全ては一巻の終わり、骨の山に仲間入りしたことだろう。あの一つ一つの骨にも人生があったとは思うが、俺にはもう背負いきれない。この旅路は墓標だらけだ。 (→つづき) |
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