旅支度を整え、口数も少なく峠道を下り始める。
 眼下には深緑の森が広がり、その中をアリア河が蛇行しているのが見えるが、ブーツの靴底越しに岩場の感触が伝わってくる。河原へ出るまでにまだ暫くはこの硬い道を進まねばならない。
「ちょっと時間くっちゃったね」
 フィアがぼそりと呟いた。すぐ後ろにいるルメイが答える。
「仕方ないさ。旅先では色んなことが起きる」
 確かに色んなことが起きた。まだ日が高いから良いが、出来たら明るいうちにシラルロンデまでたどり着きたい。フィアにあとどれくらいで着くか尋ねたい気分だが、さっき訊いたばかりだ。


 なだらかな斜面を下りるにつれて草地が増えてきた。
 登りに比べたら脚への負担は少ない筈だが、脛のあたりに鈍痛がし始めている。普段は使わない筋肉が悲鳴をあげているようだ。狩場のそばに三人が寝泊まりする野営地を作るための道具を背負っているので、初回の往路が最も荷が重い。そう思えば多少は気が楽になるが、背嚢の重みは遠慮なく肩に食い込んでくる。
「シラルロンデはかつて船着き場だったって話だけど、何を運んでたんだろうね」
 ルメイの問いに、フィアは暫く考えている様子だ。
「恐らくこの周辺から何かを運び出してたんだと思うけど」
 首を傾げながら、木材とか石材かしら、という。


 荒地を抜け、こんもりとした林が点在するあいだを縫うようにして進む。
 視界を覆うように葉を生い茂らせているのはブナの木だろうか。ほぼ円筒形の真っ直ぐな幹に長い枝がつき、卵型で先の尖った葉が風に揺れている。幹の白さと若葉の緑が目に染みる。もしシラルロンデがまだ廃墟になっていない頃、下流の都市に船で荷を運んだとしたら木材だったのではなかろうか。この辺りのブナはまだ若いが、成長したものはきめの細かい良い木材になる。
 歩きながら樹木をしげしげと見ている俺にフィアが声をかける。
「不思議なのは、シラルロンデには道らしい道がつながっていないの」
 言われてみれば、カルディス峠を越えてから先に街道はない。目の前にアリア河が見えていて、その河原を遡れば良いと知っているから進めるだけの話だ。


「よほど水運が発達していたとか?」
「見たら判るけど、シラルロンデはけっこうな大きさの街だったの。カオカやデルティスとつながる街道があってもおかしくないんだけどね」
 後ろを付いて来ていたルメイが急に鼻を鳴らし始めた。
「なんかいい匂いがしないか?」
 振り向くと、ルメイは立ち止まってスンスンと空気の匂いを嗅いでいる。俺には何の匂いもしない。
「ルメイは鼻が効くわねえ。クマニラの匂いよ。急ぐ旅だけど、少しだけ採っていく?」
 ルメイがどこどこと言って騒ぎ始めたので、フィアは笑いながら背嚢を木の根元に置いた。


「わたしが採るから、セネカとルメイは見ていて」
 革鎧姿のフィアが身軽に林の中に分け入った。一休みすることにして、俺も背嚢を地面に置いた。水筒の水をぐっと飲み干す。多少なり荷が軽くなった。
 荷物を置いたルメイがフィアの後に続いて林に入っていく。林の中に湿気た土地があって、膝にも届かない草が生い茂っている。その葉を、片膝をついたフィアと四つん這いになったルメイが摘んでいる。
「待って、ルメイ。そっくりの毒草が混じってるから、後で良く見せてね」
 俯いてクマニラの葉を採りながら、フィアはほつれた髪を耳にかけて笑っている。フィアとルメイの姿が、薄暗い草地で木漏れ日に照らされている。


 こんな風景をどこかで見たことがある気がする。眉根を寄せて考えていたら思い出した。イルファーロでの夜、教会の入口でニルダの杖の破片に触れた時に見た幻影だ。その幻の絵の中に、深い森の中を行くパーティーの姿があった。イシリオンとケレブラント、イザンと呼ばれていた幼い少女、彼らはみな木漏れ日の下にあった。
 俺たちは何かに憑りつかれたように辺境を目指す。
 イシリオンのパーティーがどこへ向かっていたか知らないが、彼らの表情に含まれる緊張が安全な旅ではないことを物語っていた。陽だまりに咲く百合を触ろうとした幼な子イザンに、毒があると注意したイシリオンのしわがれた声を思い出す。


 林のとば口に腰かけていた俺は、身をよじって上半身を伏せ、フィアたちが選っている草をよく見てみた。膝をつけばしっとりと服が濡れるような柔らかい土の上に枯葉が積もっていて、その下からカヌーのシルエットのような細長い葉が群生している。葉はわずかに反り返って手を広げたような格好で陽を浴びている。フィアは毒草が混じっていると言うが、俺にはさっぱり見分けがつかない。
 奥へにじり進んで行くフィアとルメイを見ると、その奥にさらに林が続いていて、草地の上に小さな白い蝶がひらひらと飛んでいるのが見える。なんとものどかな風景だ。


「夕飯はクマニラのパスタね」
 フィアが自分の採った葉を一通り確かめてから細紐で束ね、軽く叩いて土を払ってから背嚢に収めた。まとまっているとさすがに匂いがする。これはニンニクの匂いだ。
「待って、ルメイのはよく見せてね」
 ルメイが採ってきた分をフィアが受け取って吟味している。およそ半分くらいは地面に放られてしまう。ルメイは投げ捨てられた草をいぶかる様に目で追いながら細い唸り声をあげた。
「どうやって見分けるんだい?」
 葉を選り分けているフィアの手元にルメイが首を突きだした。


「これがクマニラ。葉に少し膨らみがあって匂いがするでしょ?」
 フィアが突き出した草を俺とルメイで交互に嗅いでみる。フィアが引こうとした手をルメイが押さえ、目を細めてクンクンと鼻を鳴らしている。手首を取られたフィアが肩を揺らして笑っている。どうにも変な絵だ。
「そしてこっちがイヌサフラン。葉がしゅっとして枚数が多いでしょ? 匂いもしない」
 俺は肩をすくめて諦めた。フィアが示した草を見てもどう違うのか判らない。確かにこちらの葉は匂いがしないが、入り混じって群生していたら見分けられそうにない。フィアが俺たちの顔を見ながら残念そうに告げる。
「見分けがつかないうちは見つけても諦めて。毒草を食べると吐いたりお腹を下したりして、わるくすると死んじゃうわ」
 困ったような顔をしたままルメイが目をしばたかせた。
「沢山摘んで、フィアに選別を頼むことにする」
「それがいいかもね」
 ルメイの分も背嚢にしまいながらフィアがにっと笑う。


 乱暴に押し退けられたフィアがよろめいて、険のある目で俺を見た。俺は二人の間を抜けて前に出ると、剣を抜いた。
「正面からコボルト一匹! ルメイは挟み撃ちの位置へ。フィアは木の陰へ」
 ルメイが背嚢からメイスを抜いて脇に並んだ。小さなバックラーを左手で握り直している。俺は丸盾を背嚢に括り付けたままだが、盾なしでもやれるだろう。林の奥から飛び跳ねるようにしてこちらに向かって来る犬頭の化け物は、短刀しか手にしていない。
「出会い頭よ。気を付けて」
 ブナの木に背を預けたフィアが短剣を抜いた。その恰好のまま左右に目を走らせている。
「うっかり風上に立ち続けてたようだ。フィアは安全な場所にいてくれ。なに、いつも狩ってるコボルトだよ」
 バスタードソードを両手で構え、蝶の舞う草地にするすると出た。ルメイは俺と数歩離れた辺りへ移動する。


「ウラー!」
 叩く盾がないので大声で威嚇する。毛むくじゃらのコボルトが体の大きなルメイに向かって行こうとするので、俺は無理にもつっかかっていく。あてずっぽうに剣を繰り出してすぐに手元に戻す。剣圧が耳をかすめ、コボルトは飛びのいて俺に目を向けた。恐ろしくすばしこい奴だ。歯をむき出してシャアアと唸り声を上げてから、大きく左に回り込んでくる。体を回しながら攻撃に備える。背後にいたフィアが見えない。木の裏側に回り込んだのだろうか。


 コボルトが回るのをやめ、突進してきた。短刀を低く構えている。こいつらは人間と違って体幹を一度刺したくらいでは動きを止めないので厄介極まる。差し違えるのは御免だ。
 盾が無いので半歩さがり、短刀が突いてくる辺りに剣先を持って行って反動に備えた。もう一歩のところでコボルトはほぼ地に伏せ、短刀を投げつけてくる。信じられないことをする。慌てて剣の柄を持ち上げて受ける。鋭く飛んできた短刀は剣の柄から突き出たキヨンに当たって逸れたが、正確に顔面に向けて放たれている。
「この野郎!」
 唯一の武器を投げるとは思い切った奴だ。今度は俺の番とばかりに剣を振り上げる。逃がすものかと詰め寄るが、逃げずに剣の下をくぐってくる。人間にはとても出来ない動きだ。刃元がコボルトの背中を叩くが、刃がついてないので斬れない。


「畜生、離れてくれ!」
 そばに立ったルメイがメイスを肩に担ぐようにして構えているが、コボルトが俺の腰に絡みついているので手が出せずにいる。死に物狂いの化け物は草摺りに咬みついてグルルルと唸っている。草摺りが外れたら骨ごと咬み砕く勢いだ。剣を取り回して剣先を向けようとすれば隙が出来、今度は胸元を這い上がって首や顔を咬んでくるだろう。俺は剣の柄頭にあるポンメルを化け物の口に突っ込んだ。その途端、ぐいぐいと押し込んでいたコボルトが急に体を引くので、俺は前のめりに倒れた。間合いを詰めて武器を振ろうとしていたルメイが慌てて退いた。


 コボルトは口の先を左右に振ってポンメルを吐き出そうとするが、負けじと押し込む。とうとう草摺りから口を離したが、今度は脇腹に咬みついてきた。牙の力が肋骨にみしみしと伝わってくる。口にポンメルが挟まっているのが命綱だ。俺は両足を伸ばして体重をコボルトにかけた。そうして地面に押し付けながら、右手だけで剣を支えて左手を自由にした。ポンメルを咥えこんだコボルドが重圧でグウウと声をあげるが、咬む力は衰えない。もどかしい思いをしながら左手の指で胸元の短刀ホルダーをまさぐる。短刀の柄が指に引っかかるが、体をコボルトに押し付けているのでなかなか抜けない。


 やっと左手が短刀の柄を握り締めた。
 どこでも自由に狙える状態にはない。窮屈に腕を折りたたんだまま、刃の先をコボルトの脳天に突き立てて押し込む。しかし硬い骨に当たって貫けない。コボルトが無茶苦茶に暴れるのを何とか抑え込む。短刀の先は頭蓋骨をがっちりとらえていて滑らない。さらに左腕に力を込めた瞬間、左肩に激痛が走った。
「ルメイ、こいつはなんとかするから、周囲をよく見ててくれ!」
 コボルトを組み敷いている時に他のモンスターに襲われたらたまらない。
「今はそいつだけだ!」とルメイが即答する。
 しかし、この腕に、力が入らない! 俺は歯を食いしばり、短刀の柄頭に自分の顎を付け、首の力でぐっと短刀を押し込んだ。生木が裂けるようなミシミシという音がして刃がコボルトの頭に食い込んでいく。


 コボルトが事切れた瞬間、俺は体を反転させて仰向けになった。
 ルメイがメイスを構えてそばに寄るが、コボルトは脳天に短刀が刺さったまま白目をむいている。俺は胸を上下させて喘いだ。顔を歪め、舌打ちをして左肩を押さえる。それから慌てて首を起こし、フィアを探した。フィアはいつの間に登ったのかブナの木の枝に立ち、小さな弓を構えている。つがえていただろう矢は、ぶらりと落とした手に握られている。フィアも肩で息をしている。
「なんともしぶとい奴だったな」
 ルメイがコボルトの脳天に刺さっている短刀の柄を掴んだ。骨に深々と食い込んでいるので、コボルトの頭が高々と持ち上がり、ばたんと落ちた。その刃を使って耳を切り取っている。フィアが身軽に地面に下りてきた。俺は肩を庇いながら立ち上がると、剣を拾い上げた。


「コボルトを狩る時はいつもこんな風なの?」
 フィアの声に怒りがこめられていて、はっとした。
「こんな風って?」
 ルメイがおそるおそる聞き返す。
「長いことコボルトを狩ってきたって言ってたわよね?」
 フィアは何を言い出したのだろう。俺とルメイは顔を見合わせてから、ゆっくり頷いた。フィアは暫く言葉を探していたが、やがて重い口を開いた。
「今のは狩りじゃない」
 俺とルメイの二年間はあっけなく否定されてしまった。確かに、今の戦い振りは情けなかった。俺はコボルトと掴み合いを演じ、ルメイは隣でおろおろしていただけだ。


「やり方を見直したことは無かったの?」
 フィアの顔にわずかながら憐憫が漂っている。俺は自分の剣術に全てを託して、他のことは一切顧みなかったことを思い知らされた。その剣術も、本来は人間を相手にするものであって、モンスターには通用しないことが多い。それで仕方なく、男が二人がかりで武器を振り回し、当たるを幸いに狩り続けてきた。
 それに対してフィアは、罠と短剣と弓を使い分け、野営しながら呪いの森まで往き来していたのだ。
「そういう言い方は無いんじゃないの?」
 珍しくルメイが気色ばんでいる。
「言い方はきつかったかもしれないけど、このパーティーはわたしのパーティーでもあるんでしょ?」
 目を細めてフィアを睨むルメイを、フィアも負けじと睨み返している。


 俺は人から物を教わるのに慣れていない。フィアの物言いは直截で悔しくもあるが、今はその通り聞いておかねばならないだろう。
「まずい狩りだった。支度をして先を急ごう」
 無表情に言う俺の顔を、ルメイとフィアがはっとして見た。
「それだけ?」
 フィアが挑むような顔をしている。しかし今ここで狩りの組み立てを練るわけにもいかない。
「機会があったらフィアの手並みを見させてもらうことにしよう」
剣を納め、荷物を背負って先に歩き出す。


「わたしもパーティーの一員なんでしょう?」
 フィアが背後で大きな声を出した。驚いて振り向くと、支度をして背嚢を背負いながら顔を赤くしている。
「わたしは今、直接は何も出来なかったけど、周りに気を付けてたし、弓矢を使う機会も狙っていたのよ?」
 フィアが何を言わんとしているのかよく判らない。
「この次に何か出たら、わたしにやらせて高みの見物をするつもり?」
「ちがうよ、フィア」
 俺は脇を通り過ぎようとするフィアの腕を取った。フィアは立ち止まり、きっとした目で俺を見返す。
「お手並み拝見て、そういう意味でしょ」


 手の平を見せながら目を瞑り、大きく一つ深呼吸をした。
「落ち着いて聞いてくれ」
 龍が使う、脳裏に幻を見せるような便利な技を俺は持っていない。すべて言葉にしないと伝わらないのだ。面倒だが、仕方のないことだ。
「俺は今、反省したんだよ。フィアの言う通りだ。これからの狩りはもう少し工夫をしていこう。その時は俺が音頭を取るのではなくて、フィアに教えてもらう。よろしく頼む。だが今は旅の途中だ。シラルロンデまで日没前に辿りつきたい」
 フィアの顔付がみるみる柔らかくなった。小さく頷くと、そうね、と言う。


「大盛りだ!」
 荷を負ったルメイが鼻息荒く俺たちを抜かし、のしのしと歩いて行く。俺とフィアは唖然としてその姿を見送った。
「こんなに歩いたんだ。晩飯にはクマニラのパスタを、大盛りでもらうよ。葡萄酒も少しもらおうと思う」
 俺とフィアは顔を見合わせて笑った。フィアは小走りにルメイを追いかけて、その腕に軽く体当たりをした。
「葡萄酒は料理用!」
 俺は背後をぐるっと一瞥してから、二人の後を追った。


→つづき

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