アリア河の河原に出た。
 二十歩ほどの幅があり、森を映して緑色の水が流れている。河の縁には大小の石が堆積し、河を挟む灰色の帯をなしている。足音がジャリジャリという音に変わり、絶え間なく水の流れる音がする。対岸にはこんもりとした深緑の森があり、空には白い雲が浮かんでいる。
 川風に顔を撫でられながら上流に目をこらすと、これから歩いていく河原が平らにうねって続いているのが見える。すぐにも河の水を使いたくなるが、少し先にちょうどいい感じに湾曲した幅広の河原がある。俺たちはもう少し先まで歩くことにした。


 開けた河原沿いの平地を歩いていると、胸苦しい思いがしてきた。誰もいないのだ。この周囲の河原も、丘陵も、森も、すべてひっくるめて、見渡す限りの景色の中に、人っ子ひとりいないのだ。
 俺たちがここで何をしようとも自由だ。
 生き残るか死ぬか、自分次第なのだ。
 自由と孤独が心を締め上げてくる。広大な森をゆく、芥子粒のような俺たち。疲労からばかりではない。興奮に息があがる。地図の北端まで果てしなく描かれる「呪いの森」が、目の前に広がっている。


 この世界はなんという広さだろう。
 表面だけ眺めている森の奥には、数えきれないほどの枝が張り、無数に影を落としている。対岸に小さく見える林まで歩いていけば、そこにはまた新しい景色がある。その先にも。またその先にも。人生を使い果たしても相手にしきれないほどの世界がどこまでも続いている。
 俺はその中に線を描いて進みながら、ほんの一部を眺めて、カオカには行ったことがある、あの森は知っている、などと嘯くだろう。だがこうして街から離れ、辺境を歩けば、自分の無力さに慄然とする。俺を滅ぼす千もの因果が絡み合うただなかに、裸で分け入っているのだ。巨大な龍と目が合った瞬間を思い出して体に震えが走る。


「ちょっとだけ休憩!」
 フィアが浅瀬に面した河原に荷物を置いた。
 ブーツを脱いで裸足になると、皆の水筒を受け取って河の中に入って行く。フィアの細い足首が流水を小さく波立たせている。
「ちょっと冷たいけど、気持ちいい」
 フィアは裾をまくって脛をだした。少し深い所まで進んで水筒の古い水を捨てている。それからしゃがんで、川面に伏せるようにして水筒を沈めた。その手元にぶくぶくと泡が立っている。
 ルメイもブーツを脱いで河に入ると、身を屈めて両手で顔を洗っている。俺はごく浅瀬までブーツで入り、タオルに水を吸わせてからきつく絞り、顔を拭った。


 一人では生きてゆけないが、三人いたら楽になるかといえば、そうでもない。
 俺はゆったり構えて森を眺める振りをしているが、さっきからずっと空を見ている。午後の日差しは西に傾き、畑で働く者には何とも言えない甘い色に雲が染められている。親父の農場を手伝っていた頃、手足に綿が詰まったような疲れとともに何度も見上げた雲の色だ。仕事を片付けに入る時刻だ。
 そうして立ち尽くしながら、焦りが這い上がってくるのを堪えている。荷を負って一日中、ぶっ通しで歩けるものではない。俺ももう少し、こうして川風にあたりながら重い背嚢を足元に投げ出していたい。しかしこの地に夜が訪れたらと思うと、恐ろしい。明かりなどどこにもない。備えなく暗闇に包まれたら、顔の前にひろげた自分の手の平も見えないだろう。前後も判らない真っ黒な空間に、ただ河の水音が聞こえるだけだ。


 フィアが昼飯の時に使った木皿を洗うのを眺めながら、つとめて平静な声で、シラルロンデまであとどれくらいか訊いてみた。
「もうすぐよ。実はもう見えてるくらい」
「そうなのか」
 俺はアリア河の上流へ視線を走らせた。蛇行する川面を緩やかな斜面が少しずつ隠しているのが見える。しかしそれらしいものは見つからない。俺がいつまでも探しているので、フィアは皿を濯いでいた手をとめて上流の一点を指差した。その指から水が滴って陽光を反射している。
「あそこ、見えるかな。崩れた塔の先端が見えるの」
 俺は手庇をして目をこらした。低い林の稜線を越えて、白い建物が少しだけ突き出ているのが見えた。
「あれか」
 建物の大きさが判らないので距離感がつかめないが、およそ千歩というところだろう。思わず安堵の溜息をついた。しばらく頭を左右に動かしていたルメイも、あったあった、と呟いている。


 見えた場所まで歩くのがけっこうな距離に感じる。
 河から上がった俺たちは背嚢を担いで再び歩き始めた。塔の先端が逃げていくような気がして何度か見直す。
 やがてフィアが「こっちよ」と言って俺たちを林の中へ導いた。河原から離れ、木々に囲まれて白い塔が見えなくなる。足元で乾ききった枯葉がかさかさと音を鳴らす。その乱雑なようで一様な積もり方が、随分と長いこと誰もここを通っていないことを知らせてくれる。振り向けば俺たちの足跡ははっきりと判る。一瞬、不吉な思いが胸をよぎり、足跡を消したい衝動にかられたが、きりがない。数日もすれば風が均してしまうだろう。


 林の中は薄暗く、いきなり陽が落ちてしまったような錯覚に陥る。慌てて木々の枝が作る網目越しに真上を見上げれば、空はまだまだ明るい。
「そろそろ見えてくるわ。明るいうちに辿りついたわね」
 フィアが木の幹に手をついた格好で振り向いた。今日の目的地まで到達した興奮がその瞳に輝いている。フィアが林を抜け、ルメイがその後に続くと、「うおお」という感嘆の声を漏らした。俺も急いで最後の木立を抜け、斜陽に照らされるシラルロンデを目の当たりにした。


 焦げ茶の台地に白い瓦礫が山積みとなり、その表面を蔦草のくすんだ緑が包み込んでいる。ところどころに屏風の木が根を張り、空に枝を伸ばしている。人の背丈より高く積み上がった建造物の痕跡が、一か所で他よりぐんと高くなり、その中央から四角い塔が垂直に切り立っている。その塔は、五階ほどの高さで壁の一部を残して倒壊している。その白い肩に緑の草がはびこり、黄色い花を点々と咲かせている。
 無人の荒野を進んできた俺たちにとって、シラルロンデは眼前にいきなり現れた人間文化の形跡である。しんとして音もなく、わずかに鳥のさえずりが聞こえるのみではあるが、ここで暮らしていた人間たちの息吹を生々しく感じる。


 白い大振りな煉瓦のように見える瓦礫が積み重なっているのはカオカ遺跡と似ているが、ここは明らかに加わった人の手が少ない。カオカのように通り道が作られていないし、灌木も刈りこまれていないので、まさに森に侵食されたかのように見える。眺めているうちに、俺にも冒険者の血が流れているのだなと得心する。人の手がついていない遺跡を探索したいという野心が湧いてくるのだ。どこかに財物が埋もれているように見えて仕方ない。


 その野心をくすぐるのは、崩れてもなお威容を誇る塔の存在だ。
 あの一辺が数十歩もありそうな塔がもともとどれほどの高さだったのか見当もつかないが、あれだけの建物を建造するには相当の資材と期間、それに何より技術を要する筈だ。思いもよらぬ掘出物が眠ってはいないだろうか。ざっと見ただけでも相当な内法があるのが判るが、こちらから見える壁の二面には窓がない。いったいどういう構造になっているのだろうか。


 フィアに先導されて、俺たちは言葉もなく歩き始めた。
 どうやらうず高く積もった瓦礫を回避して、遠回りに塔に向かうようだ。細かく粉々になった砂礫が小さな斜面を作っている坂を上ると、回廊の屋根に達した。その高みから見下ろすと、瓦礫の裾野が数百歩四方に伸びているのが判る。かなり大きな街だったのだ。街をなかば包むようにアリア河が囲み、そこに桟橋の痕跡が幾つか見えた。先端が傾いで水中に没しているもの、根元から崩れてアリア河に即席の瀬をつくっているものなど、どれもまともな姿ではないが。


 シラルロンデは、まさに河に沿って造られた街なのだ。
 対岸には灰色の河原があり、目を上げてゆけば丘陵に点在する林と、霞む地平まで広がる森が視界一杯に横たわっている。空はいよいよ斜陽の時刻を迎えつつあり、色づき始めた雲の下を小さな点にしか見えない渡り鳥がゆっくりと雁行している。鳥たちのゆく姿を遠望していると、旅の空の下にいるのだという時間を忘れるような感慨が束の間、俺の心をよぎった。


 この廃墟に何度も足を運んでいるフィアは歩き慣れていて、瓦礫の上の道なき道を選んで進んで行く。フィアのような案内人がいなければ、途中で行き止まってしまうだろう。やがて俺たちは塔の足元に近い辺りにある建物の外に集まった。本来の出入り口は一抱えもある瓦礫に頭上まで塞がれているが、側面の壁にある縦長の開口部から中に入れるようになっている。


 フィアは背嚢を下し、胸の高さほどの所にある開口部の底に手をかけて跳躍した。壁に腹をつけて上半身を乗り出させ、薄暗い内部を覗きこんでいる。窓のような四角い穴の内側に細工がしてあるようで、フィアは身をよじってそのあたりをいじっている。バランスを取るのに足をひねったり曲げたりするたびに、特別注文した革鎧の下半身がぱたぱたと動く。間近に見ると身に着けているものが体にぴったりとフィットしているのが判る。フィアの小さな尻を見ているうちに劣情がやってきて、俺は目を逸らせた。


 片手で体を支えたフィアが、振り返ってもう片方の手で細い糸を見せてくる。
「わたしが最後にここを出てから誰も来てない」
 フィアはそれだけ言うと、軽々と中に飛び降りた。ルメイが背嚢を順に送り出し、それをフィアが受け取った。ルメイに続いて俺も中に入る。十歩四方ほどの四角い部屋で、真っ暗なのかと思ったら天井と壁の一部が壊れて空が見えている。そこから入ってくる西日を受けたフィアが、金髪を輝かせながら微笑んでいる。
「ようこそ、フィアの小屋へ」
 ほうー、と唸ってルメイが部屋の物色を始めた。天井に穴の開いたそばに石を積んで簡単な竈が組んである。その反対側には枯葉を厚く敷いて帆布を被せた寝床がある。片側の壁には細い木材を紐で縛った簡素な棚が造りつけてあり、輪にした縄が幾束か置かれている。


 竈のそばにある丸石に腰を下ろしたルメイが、嬉々とした顔つきでフィアの方を振り向いた。
「こいつはいい部屋だな」
 フィアがおどけて鼻の下を指の背でこすってみせた。
「崩れた天井の方からは入って来れないのか?」
 俺は気になることを確かめた。フィアは小さく首を振ってみせた。
「無理ね。あそこに辿りつこうとしたら、瓦礫の山を登らないといけないの。崩れたら命取りの不安定な斜面よ」
「それなら良かった」


 フィアは急にしんどそうな顔つきになり、指を組んだまま背伸びをした。
「はあ! 峠道きつかったわあ。早いところ夕食にして休もう」
 俺は何もない方の壁際に立ち、白い石材を削った下から見えている色の違う部分を撫でてみた。誰かがこの壁に穴をあけようと試みたかのように、手で輪を描いたほどの範囲の白壁が削りとられ、その下から黒くて艶やかな下地が見えている。指にしっとりするほど肌理の細かい素材で、岩石などではない。人工物だとは思うが、何なのかさっぱり判らない。


「この壁はなんだ?」
 フィアが、ああそれね、と言って近寄ってきた。胸にあるホルダーから短刀を抜くと、手慣れた仕草で黒い壁に刃を立てた。真っ直ぐに突き立てたり、刃で傷をつけようとして手首を捻ったりしてみせてから、眉を吊り上げて俺をみる。
「叩いたり、斬り付けたり、熱したり。何をしても削れないのよ、この壁」
 本当かよ、と言ってルメイが寄って来た。自分のメイスでコンコンと叩いている。
「気を付けて。鶴嘴でも傷ひとつつかなくて、打った方が駄目になっちゃうよ」
 ルメイは一回だけ強めにゴン、と壁を叩いた。顔を寄せてみるが黒壁にはひび一つ入っておらず、メイスの先端の球には凹みが出来ている。
「なんなんだ、これ」
 ルメイが眉根を寄せて壁を見詰めている。


 フィアは短刀をホルダーにしまって壁から離れ、天井をぐっと見上げた。
「この向こう側が塔の基部。この部屋は、塔の外壁と一面だけ壁を共有してるの。巨大な塔はこの黒い壁で作られていて、その表面を白い石材で化粧してある」
「塔の中には入れないのか?」
 俺が鋭く問うと、フィアは冒険者らしいきつい目で見返してきた。
「四方ぐるりは勿論、上からも下からも入れない。この黒い壁に完全に包まれてるから」
 誰も入ったことがないなら、お宝があるかもね、といって笑みを浮かべている。
「気になるところだな」
 フィアは何度も試した挙句に諦めた経験があるのだろう、黒い壁を名残惜しそうに撫でている。
「もっとも、白い石材の方も謎だらけなの。これだけ均一で連続した素材が大量に使われてるから、自然石から切り出されたものではない。漆喰でもないし、焼成煉瓦の一種だとは思うけど、材料も作り方も判らない」


 白い壁を短刀でえぐっているルメイが口を開いた。
「古都レメンカームには、消石灰と火山土を練り合わせた建材が使われてたって話だけど」
「質も量もぜんぜん違うわ」
 フィアは壁には飽き飽きした様子で、背嚢のところまで戻って荷物を出し始めた。
「火を起こして夕飯にするわ。この部屋の中は安全だと思うから、武器以外の装備は外しても大丈夫と思う」
 ルメイが大きなため息をついて革鎧を外しにかかった。俺は思い当たることがあって一度外に出ることにした。
「この建物の周りだけちょっと見てくるから、先に食っててくれるか。俺は最後でいい」
 ルメイが草摺りを外しながら、はいよーと気のない返事を返した。手にした火種に息を吹きかけていたフィアは、怪訝そうな顔で俺を見返した。
「瓦礫に気を付けて。うっかりすると足を挫くわよ」
 わかった、と答えて窓枠に飛び乗った。


 ケレブラントとのやり取りを秘密にしておくのは限界だなと思う。
 さっきフィアが部屋の中を確かめている時、建物の外でルメイと並んで待っているあいだ、俺は幻を見る予感に満たされていた。今ならそばに塔の壁があるのが判る。瓦礫が積み上がった中にある、直接地面が踏める珍しい場所に立っているものだから判りずらいが、フィアの小屋の向かって左にある壁を見上げれば、それが空に向かって屹立しているのが見える。まさに塔の基部に立っているのだ。廃墟の上空には夕焼雲が浮かんでいる。


 カオカ遺跡の遠見の丘で幻を見た時、魔法使いのイシリオンが幼い日のケレブラントに向かって話をしていた。地下道を真っ直ぐに進めばシラルロンデまで行ける、と。あの昼飯を食った場所と、この廃墟は、地下道でつながっているのだ。だとすれば、出入口は恐らくこの塔のそばではないか?
 今、じっと見つめている塔の白い壁に手を触れたら、またぞろ龍に幻を見させられるのかもしれない。しかしこれ以上、一人で宿命とやらを抱えるのは御免という気がする。信じてもらえるか判らないが、ルメイとフィアにも伝えておきたいという気持ちが募る。


 塔の壁に近寄っただけで、脳裏に小さな窓が準備されるのが判る。
 俺は少しずつこの能力を使いこなせるようになってきているのかもしれない。幻を見る気配を、自分で抑えることが出来ている。そのたがを外せは、俺はまた別世界に立たされたような気持ちでそちらの世界の景色を眺めることになるのだろう。今はやめておこうとか、これについて見させてくれとか、そういう選択が出来るようになれば意外と便利かもしれない。現に、それがなければ地下道の存在など気付く筈がない。
 あの幻を、何とかしてルメイとフィアと共有できないだろうか。


「何してるの? お待ちかねの夕飯が出来てますよ」
 フィアが窓から顔を出して声をかけてきた。黄昏時の薄暗さの中、壁を見詰めて突っ立っているのを見られてしまった。
「そうか、今いく」
 俺は右を見上げ、左を見上げ、用心しているような格好をつけてから部屋に戻った。竈のそばに腰を下ろすのに調度いい石が三つ並べてあり、そこに既にルメイとフィアが座って食事をしている。
「はい、どうぞ」
 フィアが湯気の立つ皿を渡してくる。思わずおお、と声をあげてしまった。食べ物の匂いを嗅いで自分が空腹であることをいきなり思い出したかのようだ。大盛りの皿を顔の前に寄せて鼻から空気を吸い込むと、食欲をそそる匂いに胃がきしむ思いがする。


 羽根の生えた短いパスタは茹でたてで、ぶつ切りにした腸詰と一緒に炒めたクマニラが乗せてある。クマニラの葉は濃い緑をして、茎は黄緑色、塩気をきかせてある。スプーンですくって頬張るとニンニクの風味と腸詰の甘みが口一杯にひろがった。しんなりとしたクマニラの歯ごたえもいい。
「美味しいよ、フィア。ありがとう」
 もぐもぐと口を動かしながら、自然とその言葉が出た。フィアは嬉しそうな笑顔を返してくる。ルメイは大盛りの皿をほぼ平らげつつある。こんな旅先の廃墟でうまい物を腹一杯食えるのは幸せなことだ。


 食事を終えると、フィアは粗朶の小さな束で皿の汚れを払い、それをそのまま火にくべた。さっき小休止した河原から、革袋に一杯の水を運んできてある。フィアはその水をちょろちょろと使って皿を洗った。ルメイは枯葉の寝床を広げて三人でも寝れるようにしている。安全なうえ、風雨を凌げるとは良い宿だ。
「ここなら、一晩中火を付けておく必要はないわよね」
 フィアが火勢の衰えた薪から蝋燭に火を移し、平らな石を燭台にして部屋の中ほどに置いた。背後に見える壁の裂け目からは、藍色の空に星が見え始めている。部屋はわずかに瞬く蝋燭の小さな光に満たされた。


「まだ寝ちゃだめよ、カオカ櫓の灯火を読むんだから」
 作った寝床に横たわったルメイをフィアが注意した。ルメイはそうか、と言って半身を起こし、それでも眠そうにこちらを見ている。
「でも疲れてるしお腹いっぱいだし、眠たいわね」
 フィアが口元を隠しながら大きく欠伸をした。きつくつぶった目を細く開けると、指で目尻を擦っている。
「誰かがお話をしてくれるってのはどうかしら」
 俺は心を決めかね、蝋燭の灯りが作る自分の指の影を見詰めていたが、やがて顔をあげて話し始めた。
「イルファーロの五番街で露店を開いた夜、俺がグリムと一緒に賭場へ行ったのは覚えているな」


「覚えているわ」
 俺の口調に何か感じるところがあるらしく、フィアは寛いでいた顔を引き締めた。ルメイも寝床で聞く話ではないことを悟って起き出してきた。
「まず、あのグリムという男は、カリーム商会の会長、カリーム・グリムバースだ。この話、もう秘密じゃないよな?」
 ルメイを見る。この狩りの苦手な男が、さもありなん、商会を経営していた商人であったことはカオカ櫓の主計トリアーニとの話のなかで判っている。蝋燭のそばに石を引いてきて腰を下ろしたルメイが俺の目を見返して、ひとつ頷いた。こいつも男だ。何も言い訳はしない。
「カリーム商会のカリームと、ルメイ商会のルメイが、たまたまイルファーロの夜祭で会ったってわけね。意気投合するわけだわ」
 フィアが何度も頷きながら言う。


「賭場はスラムに近い丘の上、アッザーム寺院の跡地にあった。俺は途中、建物から外に出て篝火が並ぶイルファーロの街を高台から見下ろした」
 立ち上がってズボンの隠しからバロウバロウの護符を取り出す。暗がりでそれを見るが、ただの紙切れにしか見えない。
「その時、俺はイルファーロの街に伏せているバロウバロウを見た」
 上目づかいに恐る恐る二人の顔色を見る。二人とも俺が何を言っているのか判らないらしい。
「これは後から判ったことだが、日光や月の光が弱まると、地龍の姿をニルダの火が照らしだすんだ」
 ルメイとフィアは俺の話の続きを待っている。何か愉快なオチがきて、冗談に収まるのを待っているのだ。


 もどかしさに思わず目を瞑った。それから振り返って窓の方を見た。
「龍よ、俺の声は届いているか? 一人では背負いきれんのだ。例のやつを少しだけ頼む」
 手のなかで龍の護符が熱を持った。版画で描かれたバロウバロウの輪郭が赤く輝く。まるで俺の血潮がそうさせるが如く、妖しい光が脈動して強弱をつけている。一瞬で終わってしまったが、ルメイとフィアはそれを目に焼き付けた。
「今のなに?」
 フィアは眉根を寄せ、判らない、という顔をしている。
「何かの手品か?」
 ルメイは目をしばたかせながら俺の答を待っている。


「あの夜、宿の女主人が部屋にきてフリオの件を説明させられた。その後、疲れ果てて俺たちはベッドで横になった」
 二人はほとんど苦しそうな顔をしている。それはそうだろう。狩りのパーティーリーダーとしてそれなりに信用してきた男が、いきなり世迷い事を言い始めたのだ。
「だが俺一人、目を覚ました。この護符が闇のなかで光ってたんだ。窓からはエルフ語の歌が聞こえてきた。歌ってたのはケレブラント、またの名をファインマン」


 ルメイとフィアは俺の話を最後まで聞く腹を決めたようだ。揃って神妙な顔をしている。
 俺は歌につられるようにして宿を出て、教会の前まで行ってケレブラントと話した内容を二人に語って聞かせた。自分が今話している言葉が、他人が発したかのように聞こえる。俺ははっとして口を閉ざし、耳を澄ませた。
 脳裏にケレブラントの歌が聞こえてくる。


  覚えているか、イシリオン
  あの早咲きの百合の色を
  前髪を揃えた小娘が
  はしゃぎながら走り過ぎていった

  師は厳かに杖をつきながら
  つられて笑ったものだった
  とまれ、イザン、小さき者よ
  昼なお暗き森の小道ぞ


 今さらながら、あの時にケレブラントが奏でていたリュートは魔法の品だと得心する。あんな不思議な音色は聴いたことがない。まるで今、隣で爪弾いているかのようにありありと耳に聴こえてくる。
「意味は判らないけど、確かにエルフ語だと思う」とフィアが言った。
 歌を聴いているのが俺だけではないと知って体がびくりと震えた。
「どういうからくりかは判らんが、俺にも聞こえる」
 ルメイも中空を見詰めながら耳を傾けている。


  今日の旅の終わりに
  うろこ雲のはや暮れゆく
  東には細き面の月霞み
  粟の如き明星がここぞと光る

  入江を浚った砂は積みあがり
  大河はとうとう流れを変えたが
  焚火を囲んだ我らの微笑は
  闇にいつまでも浮かんでいる


 そうか。これは龍の仕業だ。俺は再び窓の方を見た。
「ありがとう。でも、もういい。話が出来ない」
 そう言い終わらぬうちに、リュートの調べが細くなって途切れた。蝋燭の光に照らされた部屋は、静寂に包まれた。
「バロウバロウと話しているの?」
 フィアがほとんど泣きそうな顔をして言う。
「俺自身、何が起きているか判ってないんだ。巻き込まれただけだ。あの晩、夜中にケレブラントに会うまでは、こんなことは何も起きていなかったんだ」
 ルメイとフィアがじっと俺を見ている。もう、仕舞いまで話してしまうより他ない。


→つづき

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