霧深い木立の中にぽつねんと立っている。
 おそらく早朝ではないかと思うが、辺りは薄暗く、木々がぼんやりと影になっている。その縦長の影が、霧が動くにつれて姿を消したり現したりしている。空気は張りつめていて、肌寒い。
 辺りには奇妙な鳥の鳴き声が響いている。きつく張り渡した短い弦を続けざまに爪弾くような声だ。霧が濃くて見えないが、近くにヨタカがいるのだ。高い声で鳴くのと低い声で鳴くのがいて、会話しているように聞こえる。


 足元に積もった枯葉は湿気ている。
 どちらへ歩いたものかと四方を見回しているうちに、林の切れ目の方、木の影が途切れたあたりの霧が風を受けて一瞬はれた。そこに、こちらに向かって歩いて来る男が見えた。俺は嫌な感じがしてそばの木の陰に隠れた。
 その男は怪我をしている様子で、足を引き摺りながらゆっくりと歩いてくる。ズリッ、ズリッという枯葉を引き摺る音がする。


 男がそばまで来た。
 俺は木の陰にいるとはいえ、すっかり体を隠せているわけではない。しかしその男は俺には一瞥もくれずに歩いて来る。瞳は思いつめたかのように見開いているが、まるでどこも見ていないかのように焦点が合っていない。
 男は顔の左半分に生々しい裂傷を負っていて、瘡蓋になっている。伸び放題にして乱れた髪がまだらに顔にかかっている。大きな鷲鼻をしていて、元の形が判らなくなるほどぼろぼろの衣服を着ている。最近みかけた男だなと思う。


 名前が思い出せない。
 俺はこいつを知っている筈だ。通り過ぎる時にそっと後ろに回り込むと、首に横一直線の赤い傷があるのが見える。こいつの名前が喉元まで出ている。これはどうしたことか。名前が思い出せなくなる呪いを受けてしまったかのようだ。俺は立ち止まって、ぎくしゃくと歩み去る男を呆然と見送っている。
 男は霧のなかに消えていった。
 ヨタカの鳴き声が一際高くなり、辺りに響き渡った。


 足音にはっとして振り向くと、さっき男が現れた辺りから二人の男が歩いて来る。歩くペースが違うので連れ立っているわけではなさそうだ。
 一人は顔面に大きな傷があり、眉間から頬にかけて肉が見えてしまっている。不思議と血は流れていない。右足の膝が折れていて、おかしな方向に曲がるのを気にせず体を傾けながら歩いている。首が少し曲がっているのかと思ったら、根本のところで少しずれている。


 もう一人は恐ろしく痩せている。
 目玉は朽ち果ててただの暗い穴になっている。ほとんど裸のような恰好で、金属の胸当だけ肩にひっかけている。胸当から見覚えのある白い繊維が幾筋も垂れ下がっている。あれは鬼蜘蛛の糸だ。人間が歩いているというよりは、そういう形をしたものがぎこちなく動き回っているかのように見える。
 名前が思い出せない。俺は確かに名前を知っている筈なのだ。俯いて眉間にしわを寄せて考える。しかし思い浮かばない。喉元まで名前が出て来ているのに、もどかしい。
 二人とも俺を無視して通り過ぎていく。その後ろ姿を、大きな塊として流れてきた霧が包み込んで隠した。


 濃霧のなか、後から後から人が出て来て通り過ぎていく。これはいったい何の行列なのだろうか。
 無性に確かめたくなって彼らが進む先に早足で向かう。この林を通過しているのは一人や二人ではない。何十人という人間が歩いているようだ。彼らは互いに干渉することなく、一方を目指している。
 行列の人々を追い越して進んでいくと、緩い下り坂にさしかかって林から出た。足元を見て驚く。ぬかるみに夥しい数の足跡が残っている。いったいどれほどの人数なのか見定めようもない。


 やがて河原に出た。
 霧が濃くて河面は見えない。ここでは人々は一列に並んでいる。俺だけがその列の外にいて、様子を眺めている。水の音が聞こえてきて、いよいよ河に近づいたのが判る。河原は相当に広く、砂利混じりの土地に葦のような背の高い草が群生している。冷たい風が吹いてきて葦原がざわざわと音をさせた。河の霧がはれる。
 喫水の浅い船が停泊している。
 穀物を運ぶような平らな甲板を持つ船で、マストも帆もない。船乗りも見当たらず、船べりから岸に差し渡した一枚の舟梯子の上を、人々が勝手に歩いて乗り込んでいく。すでに何十人も乗っていて、物見遊山に景色を眺めるでもなく、寄り集まって話に興じるでもなく、ただただ呆然と甲板の上に立っているのみである。


 風の冷たさに吐く息が白くなり、指先がかじかんできた。
 人々は船に乗ってどこへ行くのだろうか。みな薄着で寒くはないのだろうか。河に浮かぶ船の様子が見えていたのもつかの間、生き物のように這ってきた霧に包まれてすべて白色に呑みこまれた。
 船に乗るための行列は遅々として進まない。その顔ぶれを眺めているうちに、その男を見つけた。もっとよく見ようとしてその男に近寄る。この大柄な、堅肥りした男、不精髭を生やした憎めない奴、こいつの名前が思い出せないなら、俺の人生はいったいなんだったのか。俺はそいつの肩に手を乗せた。


「ルメイ、こんな所で何をしているんだ」
 肩を揺すってもルメイは俺を見ようとしない。どろんとした目付きで宙を眺めているだけだ。これが何の行列かは知らないが、ルメイがあの船に乗るべきでないことは確かだ。思わず腕に力がはいる。
「おい、しっかりしろ。俺と一緒に帰ろう」
 帰ろうと言ってもどこに帰るのかは判らない。どこでもいい。ここではないどこかだ。しかしルメイは相変わらずぼんやりしていて、俺に腕を引かれて列からずれはしたが、また元の場所に戻ろうとしている。それをまた引き戻そうとするが、むき出しのルメイの腕の冷たさにぞっとして思わず手を離した。氷を掴んでいたかのように痺れている自分の指先を思わず見つめる。


 カチャカチャという金属の音がする。
 周りを見渡すが、どこにも金属などない。ルメイをこのままにしておくわけにはいかないが、その音が俺を不安にさせる。この音を最近聞いたような気がするのだ。これは不吉な音ではなかったか。金属片がぶつかり合うカチャカチャという音は、その余韻がチャリチャリという音に変わっている。
 金属の音がやむと、誰かが俺の足を蹴る感覚がある。もちろん俺の周りには誰もいない。大人しく行列に並んでいる人々とルメイの姿があるだけだ。
 とにかくルメイを取り戻さないと。一歩踏み出してルメイの腕を掴もうとした時、霧に包まれて何も見えなくなった。世界は真っ白で、それは、闇と同じであった。



   *



「セネカ! 起きてってば!」
 フィアが大きな声を出して俺の足を蹴っている。慌てて上半身を起こし、辺りを見回した。ここはシラルロンデの廃屋だ。小さな蝋燭ひとつが部屋の中をかすかに照らし出している。フィアは俺のそばに立ち、短刀を構えている。フィアの視線の先でルメイが寝ている。ルメイは身もだえしながら歯を食いしばり、ひどく苦しんでいる様子だ。すぐ脇に、真っ黒い子供のような姿が見えた。
 脇に置いた剣を取って立ち上がり、抜刀して鞘を捨てた。
「こいつはなんだ!」
「判らない。でもルメイが苦しんでるわ」
 黒い子供のように見える奴がルメイの肩口のところに立ってルメイの寝顔を見下ろしている。ルメイは高熱を発しているかのように唸っている。


「立ち去れ! さもなくば斬る!」
 恫喝をくわえても反応がない。俺は刃を寝せて黒い子供を叩いた。これがまんいち笑えない冗談だった時に、なんとか取り返しがつくように。しかし剣先はその体を通り過ぎて突きぬけた。水面を叩いたかのように黒い飛沫が飛び散った。
 これは子供なんかじゃない。
 俺が手を出したので、その赤い目が俺に向けられた。ぼんやりとした形をとっているが、こいつはまるで真っ黒い煙だ。口を模したと思しき場所がかっと横ざまに開き、黄色い蒸気が漏れ出る。生臭い匂いがする。
「くそ! 剣がきかないぞ!」
 もはや遠慮なく切先を突き込むが、手応えらしい手応えがない。刀身に黒い繊維のようなものがくっつくので引き寄せて見た。女の長い髪のようなものが数本、うねりながら蠢いている。俺は身震いし、反射的に剣を振ってそれを振り落とした。


 俺がさらに踏み出そうとすると、フィアが腕を取って止めた。
「迂闊に近寄らないで。おそらく魔物よ」
 しかしどうしたらいいのだ。俺が目線でフィアに問うと、フィアは黒い魔物から目を逸らさないようにして短刀を床に置き、短剣を拾い上げた。
「刃物は通じないぞ」と俺は言った。「煙みたいなやつだ」
 フィアが短剣を抜いた時、思わず目を瞠った。短剣の刀身が青白く光っているのだ。
「もしかしてこれなら」
 フィアが短剣を片手で下段に構えた。そのままゆっくりと進んでゆく。自分の影で魔物がすっかり見えなくなったので、フィアは横にずれて攻撃する相手を照らし出した。


 フィアが近寄ると、魔物は赤い目を爛々と光らせた。燃え盛る炉にふいごで空気を送ったかのようだ。魔物は青く光る剣を嫌がっている様子で、ルメイから身を引いてフィアを威嚇する。その口はもはや裂け目のようで、その喉奥に瞳と同じ色の火が燃えている。フィアがじりじりと剣を寄せるので魔物はさらに身を低くし、コーッという音と共に湯気を吐いた。部屋に硫黄の匂いが立ちこめる。
「これはデックアールブ、黒妖精だわ」
 聞いたこともない名前だ。フィアは油断せず注意を払いながら魔物を部屋の隅に追い詰めてゆく。
「地中に住む古い妖精で、人間に悪さをするの」
 フィアの声は研ぎ澄まされたように尖っている。


 妖精だか何だか知らないが、寝込みを襲うとは勘弁ならない。魔物と距離が出来たので、剣を水平に構えたまま片膝をついてルメイを揺り起した。
「ルメイ、起きろ!」
 ふうふうと唸っていたルメイが静かに目を開いた。良かった。生きている。ルメイが上半身を起こした時、黒妖精が飛び上がって反対側の壁にぶつかった。焼けた鉄を槌で叩いたように盛大に火の粉が飛び散った。部屋が一瞬明るくなり、崩れた棚を照らし出した。
「なんだこの騒ぎは!」
 ルメイがわたわたと起き上がって自分のメイスを探している。
「いいからじっとして。剣戟が効かないんだ。今フィアが追いつめてる」
 俺はルメイの肩を押さえて落ち着かせた。


 黒妖精は後ずさりをし、とうとう天井の抜けた壁際に背をついた。
 二つの目と口を赤く光らせて威嚇しているが、戦意を失っているのは明らかだ。後ろ歩きのまま瓦礫をよじ登って開口部から外に出て行こうとしている。
「どうする、逃げるぞ」
 フィアの背後に近寄ると、フィアは正面を向いたまま返答した。
「追い詰めないで。このままゆっくり追い出す。どのみち倒せないわ」
 そうか、と返してフィアの少し後ろに控えた。自分の無力さに腹が立つ。フィアが魔法がかかった剣を持っていなかったら、いったいこの場をどう始末したのか。ふとバロウバロウの版画を思い出してズボンの隠しから少しだけ出してみた。護符がわずかに赤く光っているのを確かめてから、そっと元に戻した。今回は、これでは戦えない。


 壁の亀裂から外に出て行くとき、黒妖精の体に鳴子の細糸が引っ掛かった。しかし糸はわずかにたわんだだけで、魔物の黒い体のなかに没入していく。完全に気体のようにはいかず微かに抵抗があるようだが、それでも鳴子の糸が体を素通りしていく。やがて黒妖精の体という束縛から解き放たれた金属片が宙に放り出され、カチャカチャと音をさせた。
「体を通過したぞ」とルメイが囁いた。
「あの鳴子の音で目覚めたのよ」
 フィアが剣を構えたまま言った。せっかくフィアが鳴子をつけてくれたのに、ぐうぐう寝ていたとは情けない。俺は何か夢をみていたような気がするが、まったく思い出せない。


 フィアが半ば瓦礫を登って外を見ている。俺は蝋燭を手にしてそばまで行った。
「もう大丈夫と思う」とフィアが小声で言った。
 そうか、良かった、と返答して鞘を拾いに戻った。ルメイが体に毛布を巻きつけたまま突っ立っている。裾からちらっとメイスの先端が見えている。
「もう大丈夫だそうだ」
 声をかけると、ルメイは溜息をついてメイスを寝床のそばに置いた。剣を納めて振り返ると、フィアはまだ亀裂のそばで背伸びをして外を見ている。
「東の空が微かに明るくなってきてる」
 なんだもう朝なのか。とんだ目覚めになった。
「ちょっと暖を取らせてもらうよ」
 ルメイは毛布を被ったまま竈の近くの石に座ると、くすぶっていた薪に息を吹きかけて火をおこし直している。


「今のはなんだったんだ」
 火にあたりながらルメイが訊いてきた。寒気がするらしく、前のめりになって手のひらを炙っている。薪がパチパチと爆ぜて足元の空気が温かくなってきた。
「おそらく黒妖精だと思う。この世のものではないから剣が効かないの。真っ黒い子供みたいで、硫黄の息を吐く。本人は悪戯のつもりだけど、人が死ぬような悪さをするわ」
 ルメイが目を細めてフィアを見返した。
「たまらんな。まったくもって迷惑な奴だ」
 フィアが笑っていいのか困ったような顔で、そうね、と答えた。
「何か嫌な夢を見てたんだが、はっきり思い出せない」
 フィアが荷物の中から片手鍋を取り出した。
「忘れちゃっていいと思うわ。ひとつ提案があるんだけど、よろしい?」
「いいさ。その鍋を使うようなことなら、歓迎する」
 フィアに笑顔が戻った。俺たちは毎日死にかけてるが、それでも笑えている。


「朝ご飯にしましょう。ルメイに温かい玉葱のスープを御馳走するわ」
 ルメイも子供のように、やった、などと喜んでいる。フィアは手元が明るくなるように蝋燭を二つ増やした。部屋が明るくなって気分がいい。
「それじゃ私が下ごしらえをするから、セネカは鍋にお湯を沸かしてね」
 俺は短くよし、と答えて小さな片手鍋を取り、壁際に提げてある革袋の栓をひねった。細い水流を鍋で受けながら、さっき見ていた夢を思い出そうとしている。鍋の水嵩が深くなって水音が低くなった。栓をきつく締めて鍋を火にかける。
「思い出したぞ!」
 ルメイが急に大きな声を出すのでびくっとする。
「俺は霧深い林のなかを歩いてたんだよ」
 フィアが木板の上で玉葱をサクサクと櫛切りにしながら、それは素敵な夢のおはなしぃ、と愉快そうに歌い始めた。夢の話をする者をからかう童歌だ。


「まあそう言わずに聞いてくれよ」
 ルメイが心外そうにフィアを見て言う。
「初めは一人だったんだが、そのうち周りに人が溢れてきて、それがみんな死人なんだよ」
 フィアが塩漬け肉を刻みながら、それは怖い夢ね、と合いの手を入れた。ルメイは口に手をあてて首を傾げ、うーんと唸った。
「不思議と怖くなかったな。俺もわけが判らないまま、そいつらの後について行ったんだ。どこだか判らんが、とにかく寒くてな。気味の悪い鳥の声がしたな」
 ルメイが取り留めのない話をするので、俺は自分の夢を思い出すのを諦めた。
「やがて河原にでて、その時に霧がはれて船が見えたんだ。いや、あれは船っていうより、はしけだな。アイトックスの運河で麦を満載した艀が通るのを見たことがあるけど、あれにそっくりだった。他の連中がそれに乗り込んでいくもんだから、列に並んでる俺もなんだか不安になってきてな」


 話を聞き流しながら片手鍋に湯を沸かしていると、いきなりルメイが肩に腕をまわしてきた。
「そこへ我が友セネカが登場したんだよ。俺を列から引っ張り出して、あんな船に乗るのはよして帰ろうって」
 ルメイが俺を揺するたびに鍋を押さえる手を調節しなければならなくなるのだが、俺は相槌をうちながら黙って聞いていた。
「でも帰るって言ったって、どこに帰るんだよな?」
 ルメイが可笑しそうにカラカラと笑った。確かに俺たちには帰るところがないが、それはどちらかと言うと笑えない話だ。俺とフィアが黙りこんだので、ルメイの笑いは先細りになった。暫く沈黙が続き、鍋の湯が沸く音が部屋に静かに響いた。


「それはさ、セネカに助けてもらったんじゃない?」
 フィアが玉葱と塩漬け肉を鍋に入れながら控えめな口調で言った。スンと鼻をならしたルメイも静かに答える。
「そうかもな。あのままあの船に乗っていたら、今頃は冷たくなってたかもしれん」
 ルメイはそっと寝床の方を振り返った。フィアが鳴子を付ける用心を怠ったら、俺たちは揃って冷たくなっていたかもしれない。
「まあ、現実の俺は、フィアに蹴られてやっと起きたんだがな」
 鍋をかき回していたフィアが体を起こして、そうそうさっきはごめんなさいね、と謝った。
「いや、蹴飛ばされても仕方ないさ」
 パーティーメンバーが魔物に襲われて死にかけている時に寝ていたんだからな、と思ったが、口にするのはやめた。


「さあ出来上がり! 簡単なものでごめんなさいね」
 フィアが玉葱のスープをカップに入れて手渡してきた。硬くなり始めた丸パンも一つずつ配ってくれる。俺は焼き色のついたパンの皮をぎゅっと潰して鼻につけ、息を吸い込んだ。食い物の匂いだ。それを一口かじり、湯気のたつスープを飲んだ。玉葱の甘みとわずかな塩気が胃袋に流れていく。とたんに体が温まってくる。
「いい味のスープだよ。ありがとう」
 ルメイが口を動かしながらフィアに礼を言う。パンをかじっていたフィアは口を閉じたまま目を細め、うんうんと頷いた。


 パンをあっという間に平らげたルメイが、スープのお代わりを貰いながら呟く。
「鬼蜘蛛といい、さっきのといい、厄介な敵が増えるよな」
 街から離れた場所では、俺たちは自分の力だけで生き延びなければならない。たった三人で呪いの森まで来たのは、もしかして無謀だったのかもしれない。
「大丈夫、なんとか切り抜けてるでしょ」
 フィアが明るい口調で言う。その通りだと思う。フィアはこれを一人でこなしていたのだ。今更ながらフィアの会得した野営術の質の高さに驚かされる。ほんの一瞬の油断が死につながる恐ろしい場所で、ずっと狩りを続けていたのだ。フィアはまだ若いのに、独学なのだろうか。それとも誰かに教わったのだろうか。


 体が温まってきたのか、ルメイは体に巻き付けていた毛布をはがしてたたみ始めた。そして疑問を口にした。
「でも剣が効かないなら、どうして追い払えたんだい?」
「たまたま魔法のかかった短剣を持っていたのよ」
 ルメイが大きな声でへえ、と言ってから、あのいつも持ってる短剣? と問うた。
「そうよ」
「確かに凝った作りだなとは思っていたんだよ」
 俺とルメイの視線は、自然とフィアが腰に提げている短剣に集まった。
「さすが業物、王佐の剣だな」
 俺が口にした言葉に、フィアが動きを止めた。カップを口元で止めたまま俺の方を振り向く。
「どうして剣の名を知ってるの?」
 フィアは何故か傷ついたような顔をしている。


「えっと、それはだな」
 突然の切り返しに思わず口ごもる。
「王佐の剣ていうんだ」
 ルメイは鞘をつくづくと眺めながら呑気そうにしているが、フィアは固まったまま俺の返答を待っている。
「ケレブラントに教わったんだ。五番街の夜市のとき」
 フィアは姿勢を崩さない。
「ケレブラントって、振る舞い酒を用意してくれたファインマンさん?」
「そうだよ。条件を満たした者に神託を授けるとかで、その条件のうちのひとつが、王佐の剣を携えていること、だったかな」
「ケレブラントは剣のことを何か説明した?」
「いや、それだけだよ。何か由来のある品なのか?」
 俺は逆に弱々しく問い返した。フィアはカップを下ろし、黙って考え始めた。俺は何か気に障ることを言っただろうか。


 フィアが顔を上げた。その表情は決意で漲っている。
「秘密ばっかりで御免なさい。でもこのことは伝えておくわね」
 片手鍋に残っていたスープを滴まで自分のカップに移していたルメイの腕を、フィアが拳でとんとんと叩いた。ルメイが、んん? と言って振り向く。フィアが小さく、聞いて、と言う。
「この短剣は王佐の剣。魔法のかかった剣よ。どんな魔法かは判らないけど」
 フィアが言葉を区切って俺とルメイを見た。ルメイはとりあえずスープの入ったカップを足元に置いて傾聴している。
「元々はディメント王が持っていた品物なの。この王佐の剣と、智慧の剣で一対を成してる」


「智慧の剣て、探し人のクレメンスがもってる剣じゃないのか?」
 ルメイの言葉に、フィアが深く頷いた。
「そう。ただの偶然と思って黙ってたけど、どうも違う気がしてきたわ」
「なんで王の短剣を持ってるの?」
 ルメイが話に追い付けずにおろおろしている。俺もそうだが。
「ディメント王が臣下のデルティス公に二本とも下賜したの。そしてデルティス公はそのうち一本を会計役のクレメンスに、もう一本を執事のオイゲンに与えた」
「よくそんなこと知ってるな」
 俺の言葉に、フィアは澄まし顔で微笑を返した。
「クレメンスはともかく、執事に与えられた短剣を何でフィアが持ってるの?」
 ルメイがもっともな質問をした。フィアが大きく息を吸い込むので、何が飛び出してくるのか、俺たちは思わず身構えた。


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