「めぐり巡って、冒険者の手に」
 フィアが両手を開いて小首を傾げ、作り笑顔を浮かべてみせた。剣の由来は話してくれたが、その辺りのことをまだ話す積りではないのだ。そんな説明があるものか、と思うが、吹き出してしまう。ルメイは呆れたように横を向いたが、体を小さく揺すりながら笑っている。
「いいさ。経緯はいつか詳しく話してくれ。それより、せっかく早起きしたんだ。早目に発つとするか?」
 俺の言葉を聞いてフィアがすっと立ち上がった
「そうね。もうひと寝入りって気分じゃないわね」
 ルメイが重い腰をあげて、あーあ、と溜息をついた。目覚めの悪いまま荷を背負うと思えばたまらず出る溜息だろう。


 荷物をまとめて窓の外に出ると、足元はまだ暗い。東の空はわずかに明るくなっている。フィアがいつものように窓に這い上がってそれと判らぬように細糸を張り渡した。もし俺たちがいない間に誰かが中に入ったらすぐに判るように。
 仕掛けを終えたフィアはさっと地面に降りてくると、背伸びをしているルメイの背中をポンと叩いた。
「さあ、いよいよ狩場に向かいますよ!」
 ルメイがよし、と返事をしたのを合図に、俺たちは歩き始めた。フィアの後についてよろめきながら瓦礫を登ると、藍色の空に星が瞬いている。塔は薄明かりを浴びているがまだ仄暗く、不気味に聳えている。人の気配が全くしない静けさに包まれた朝だ。


 まずは岸部まで行って水を使うことにする。
 傾いた桟橋が斜めに水中に潜っている場所へ向かう。フィアが先まで行って伏せながら水筒に水を汲んだ。足元でなかば崩れた桟橋は平らな石を重ねて造ってある。まともなのが残っていないか横目で確かめるが、並行して河に突き出ている桟橋はどれも元の姿を保っていない。
「狩場のそばに水場はあるのかな」
 水筒を受け取ったルメイが対岸を眺めながら問うた。
「あるわよ。この河が蛇行していったん離れて、上流でもう一度まみえる辺りが狩場なの」
 俺たちは並んで河を眺めた。桟橋が沈んでいるので水流が淀み、低い音が響いている。上流の方に目をやると、少し先で流れがぐっと右手に折れているのが判る。
「河に沿って行くと遠回りになるから、森を抜けていく」
 そう言うフィアの横顔を黙って見詰める。ここから先はフィアを信じて進むしかない。


 瓦礫の積み上がった場所を避けながら岸部寄りに上流へ向かう。
 フィアが先に立ち、体を傾けながら壁伝いに、或いは両手を水平に構えてバランスをとりながら凸凹の道を進んだ。どうしてもルメイが遅れるのでフィアはたびたび立ち止まって振り返った。
 やがて広々とした河原に出た。街の残骸が終わり、外に出たようだ。途端に歩きやすくなる。振り向くと曙光に浮かぶ廃墟と、物言わぬ巨人のような塔が別れを惜しむように佇んでいる。何を秘めているのか底知れない風景を振り切るようにして急ぎ足にフィアの後に続く。
「ここからは絶対に離れないでね」
 俺とルメイを振り返っていたフィアが真顔で言った。俺たちが頷くと、フィアは森のとばくちに向かって歩き始めた。


 森の中は暗く、まだ夜のようだ。
 フィアは何かの法則を決めているらしく、一定の間隔で鉈を振るって枝を折った。森に入ったということは当然、無数に生えている木と木の間を通ってきたのだ。しかし俺は同じ道を辿って来いと言われてその通りにする自信がない。どちらを向いても鬱蒼とした葉を生い茂らせている木ばかりで、目印が何もない。
「これ、迷わないのか?」
 ルメイが心細そうにフィアに声をかけた。地面に盛り上がった木の根に乗って樹皮に手をかけ、周囲を見回している。先をゆくフィアが立ち止まり、振り返らずに答えた。
「迷うわよ。真っ直ぐ進むにはコツがあるの」
 フィアが鉈をすっと水平に構えた。
「百歩くらい先を見定めたら、木をまともに見ないようにするの」


 今まさにそうしているのだろう。フィアは鉈を持ち上げた肩に頬を付けて何かを狙うかのように前方を見つめている。
「あちこち見回したり、気を抜いて休憩したりしたら、もうどっちか判らない」
 フィアはそのまま数歩進むと、頭上の細枝に鉈を振るった。寸止めしているので完全に切落とされず、折れてぶら下がっている。
「そして十歩ごとに小枝を折っておくの。帰り道の時に役立つし、月日が過ぎてもよく見れば途中で切れてる枝に気付く筈よ」
 フィアについて歩きながら頭上の枝を見てみる。フィアが今折った枝がぶらさがっているのは確かに見えるが、以前に折ったものは探しても判らない。
「これはフィア頼みだな」
 ルメイがきょろきょろと頭上を眺めながら歩いている。


「敵に出会ったら大声で教えて。セネカたちの方がよほど早く気付く筈よ」
 何気なく進んでいるように見えたフィアが、方向を見失わぬよう神経を研ぎ澄ませているのが判った。次々と話しかけて悪いような気がしてくるが、ルメイは余り気にしていないようだ。
「こんな所で戦いたくないな。ケリが付いた頃には東も西も判らなくなってるぞ」
 ルメイは歩きながら首を動かして木々の背後を気にしている。そんな風にされると、木の陰に何か隠れているような気がしてくる。俺は自分を落ち着かせるために一つ深呼吸をすると、抜身の剣をぶんぶんと振ってその存在感を確かめた。


 いきなりフィアが鉈を左手に持ち替え、胸のホルダーから抜いた短刀を木に突き刺した。
「何かいたか?」
 俺とルメイは慌てて武器を構え直した。フィアが緊張を解いた笑顔で振り向いたので気が抜ける。
「こうして、進む方向に短刀を刺しておくの」
 フィアは背嚢の肩紐を外すと、木の根元に腰を下ろした。
「ちょっとだけ休憩させて。話しておきたいこともある」
 そうしよう、と言って俺たちは荷を下ろした。休憩の間隔が少しずつ狭まっている。街から離れること三日目、疲れが出始めているのだ。


 フィアが飴玉を配ってくれた。口の中に甘い味がひろがり、薄荷の匂いが鼻に抜ける。フィアは相当にしんどかった様子で、何度かギュッと目を瞑った。
「この先に沼があるの。それを迂回しながら森の中を進むわ。水は淀んでて使えないし、底なし沼だから気を付けてね」
 ルメイが嫌な顔をして、うへえ、と声をあげた。
「途中、身を屈めて早足で通り過ぎないといけない所があるの」
「そこには何がいるの?」
 ルメイが恐る恐る尋ねると、フィアはふざけてにいっと笑った。
「オオヌマヒル」
 ルメイが重ねて、なにそれ? と聞き返す。
「おっきなヒルよ」
 フィアはルメイが両腕をこすっているのを見てくつくつと笑っている。
「でも駆け抜けちゃうから大丈夫」


 重い荷から解放された背中を伸ばして木の幹に身を預け、空を見上げた。枝の合間が明るくなっている。樹皮に押し付けた後頭部から大木の質感が伝わってくる。こんな木がいったい何本生えているのだ。十万か。百万か。
 一人でこの森を行き来していたフィアのことを思う。俺たちはまだいい。フィアが道案内をしてくれるし、どんな敵がいるか予め注意してもらえる。こんな場所を一人で進むのはどんな気持ちだろうか。剃刀のように切り立った尾根を進むようなものだ。
「狩場に拠点をこしらえたら荷物も軽くなるわ。もう一息の辛抱ね」
 フィアが背嚢を担いで立ち上がった。俺が遠慮して出発の指示を出しあぐねているのを見越したのかもしれない。フィアは木の幹に刺さっていた短刀を抜いてホルダーに収めると、鉈を水平に持ち上げて先を見通した。そして、緊張感もそのままに歩き始める。


 なんとも生臭い匂いがしてきた。ルメイもクンクンと鼻を鳴らしている。火山の山肌から吐き出される煙のような匂いだ。
「そろそろ沼よ。左に回り込むからついてきてね」
 フィアが背中を向けたまま声をかけてきた。少しずつ左に進路を変えている。やがて右手の木々がまばらになり、目の前に沼地がひろがった。
「なんだこれは」
 思わず棒立ちになって沼を見回した。水深はごく浅いようで、岸から離れたところから水が湧いて水面が盛り上がっている。湧水に黄色や橙の粒子が含まれていて、それが輪になって周囲へどよどよと流されていく。そのうち灰汁のような成分だけが溜まって層をなし、あちこちで水面を隠している。それら極彩色の泡が吹き溜まって、沼は気色の悪い配色に埋まっている。


「こんな色の沼は初めて見るぞ」
 ルメイが見渡そうとして一歩踏み出した。水際は水草の葉が隠してはっきりとしないが、ルメイはあっと声をあげてその足を引っ込めた。ブーツが足首まで泥濘で汚れている。
「気を付けて! 落ちたら二度と上がってこれないよ」
 フィアが注意すると、ルメイはおずおずと数歩下がった。
 五番街の夜市の日、教会の前で見た演劇の場面を思い出した。王の暗殺に失敗して呪いの森に逃げたデルティス公は、月夜の晩に毒の沼地まで辿りついた。そして喉の渇きに負けてその水を飲み、気が触れたという。作者はこの沼を知らないのだ。こんな場所で水を飲もうとしたら、底なし沼にはまってしまう。


 点々と水が湧いている場所から環状に色彩の輪がひろがり、互いに合わさったところで干渉しあっている。黄色から橙、灰色から薄紫。この沼をじっと見ていると本当に頭がおかしくなりそうだ。
 フィアが強い口調で、行きましょう、と言って先に出た。
「そうだな。早いとこ抜けちまおう」と俺は言った。「臭くてたまらん」
 ルメイもひょこひょこと後をついてくる。ブーツを踏みしだいて泥を落としながら、こりゃまさに呪いの森だ、などと呟いている。


 森の中に広がる湿地帯に出た。
 ここは木が生えず、光沢のある丸い葉を持つ水草が一面に茂っている。日光を遮るものがないので朝の陽に照らされて明るい。
 フィアは低灌木のそばにしゃがんで俺たちに座るよう手真似で示した。
「対岸の乾いた土地までなるべく高い所を通って行くから、ついてきてね。ヒルがいるから走るわよ」
 ルメイが自信なさそうに、走るのか、と言う。
「途中何度か水に浸かるところがあって、そこはジャンプするからね」
 ルメイが何か言いかけたが、フィアはさっと立ち上がって走り始めた。俺とルメイは慌ててその後を追いかけた。


 フィアが背を屈めながら小走りに進んでいる。そのうち左右の湿地から、ヒュンヒュンと音がして鞭のようなものが打ちつけてきた。止まって確かめている暇はない。駆け抜けようとするが、そのうち数が増してとても避けられなくなる。鞭は俺たちの体をパチンパチンと叩いていく。
「うわあああ!」
 ルメイが大声をあげて地面に倒れる音がした。振り向くと、鞭がルメイの足首に巻きついて湿地の方へ引きずり込もうとしている。ルメイは喘ぎながら両手で地面を押さえ、その場に留まろうと足掻いた。二本目、三本目の鞭がルメイの足を捕えた。鞭は相当に力が強いようで、ルメイの大きな体をずるずると引いてゆく。
 俺はルメイの手を取って道の方へ引き上げた。これでは綱引きだ。


「立ち止まらないで!」
 フィアが取って返し、ルメイの脚に絡みついている鞭を短刀で切った。足が自由になったルメイが起き上がって走り出す。そこへ再び無数の鞭が叩きつけてきた。ヒュンヒュンという空気を裂く音が耳のそばを通り抜けていく。
「走って!」
 フィアに言われるまでもなく、俺たちは走った。また一本の鞭がルメイの足首にまとわりつくのが見えたので、俺は手にした剣でそれを斬り払った。先を行くフィアが大きく跳躍して着地した。ルメイも飛ぶが、距離が足らずに大きな水しぶきを上げた。辺りに水草の葉が飛び散る。フィアが深みにはまったルメイを引き上げるのに手を貸している。そこへまた鞭が飛んでくる。


「これがヒルのすることかよ!」
 音をたてて飛来する鞭の中で剣を鞘に納め、叫び声をあげた。ルメイがよじ登った辺りを目指して全力で助走する。目算が外れてぬかるみから蹴り出す形になったが、なんとか深みにはまらずに済んだ。俺たちの無事を確かめたフィアが、自分の手首に絡んだ鞭を短刀で切りながら走り出す。
「あともう少し! 走り抜けて!」
 ルメイが、なんだこのヒルは! と怒鳴りながら頭を庇うようにして走る。俺もその後を追う。またしてもフィアが跳躍する。三人ともなんとか飛び越えた。やがて地面から水草の姿が消え、見慣れた下草に変わった。乾いた土地を目指して走りに走る。フィアがぐんぐんと俺たちを引き離し、ルメイは遅れを取った。


 フィアが倒れ込むようにして地面に横になると、荷物を下ろして小手とブーツを外した。水を吸ってきつくなった小手をもどかしそうに振って取り外している。フィアは手足だけでなく、胸元や肩口も叩いて何か取りついていないか確かめた。
 フィアはヒルを探しているのだ。
 泥だらけの装備から突き出たフィアの生白い手首や足首を、俺はほんの一瞬だが目で追った。この深い緑の中では、あまりにも生々しく見える。
 俺はフィアの隣に座り込み、荷物を置いて仰向けになった。


 ルメイが俺たちのいる場所に辿りつき、力尽きたように膝をついた。そのまま荷物を放るようにして地に投げ、ぜいぜいと喉を鳴らしている。
「何なんだ今のは」
 ルメイが苦しい息の下から吐き出すように言った。俺たちは暫く、ぐったりとして荒い息を吐いた。
「体を確かめて」
 フィアが鼻息荒く言う。言われた通り、小手とブーツを外して何か付いてないか手足を確かめた。大丈夫、何も付いていない。水を滴らせながらブーツを脱いだルメイが素っ頓狂な声をあげた。
「うひゃあ!」
 見ると、ルメイのふくらはぎに手の平ほどの大きさのヒルが取りついている。ヒルは赤茶色をして縞々の模様が入り、波打つように蠢いている。ルメイがヒルを鷲掴みにして引き抜こうとした。


「待って! 引っぱったら駄目!」
 フィアがルメイの手を押さえて止めさせた。
「そんなこと言ったってこいつをどうするんだよ!」
 ルメイは歯をくいしばり、両手を閉じたり開いたりしながら唸っている。フィアは背嚢から麻の繊維をほぐして玉にしたものを取り出した。腰に小さな火種筒を持っていて、蓋を開けると太い縄の先が赤黒く燃えている。フィアはあっという間に麻の繊維に火を付け、それを粗朶の枝二本で挟んでヒルに押し付けた。
 ジュッという音がして細い白煙が立ち上った。焦げ臭い匂いがする。
 ルメイのふくらはぎに取りついていたヒルが吸盤を外して身を反らせ、ぼたりと地面に落ちた。フィアはヒルに粗朶の枝先を刺すと、反対側の端を地面にさして陽に晒した。ヒルの口がにゅうっと伸びて吸い付くものを探している。その口から粘液で薄まった赤い血が糸を引いて垂れる。見ているうちに体がむず痒くなってきた。


 ルメイが顔をしかめてふくらはぎの傷を確かめた。ごく小さな穴が点々とついていて、そこから血がたらりと垂れてくる。
「不思議と痛くはないな」
 ルメイが傷のそばを摘まんで動かしている。
「触らないで。今洗って薬草を巻くから」
 フィアが水筒の水でルメイのふくらはぎを洗い流し、紫色をした薬草を傷のついた辺りに貼りつける。しかし血は止まらないようで、薬草の下から滲んで垂れてくる。
「血が固まるのを防ぐ毒と、痛みを和らげる成分を最初に注入されてるの」
 ルメイが渋い顔を作って捕えられたヒルを睨んだ。フィアは布切れを裂いた包帯を手早く巻いて止めている。


 刺さった枝の上でもがいていたヒルがぐったりし始めた。俺たちはやっと人心地がついてきた。
「あの鞭みたいのはなんだ?」
 包帯を巻かれた足を静かにブーツの中に入れながらルメイが問う。
「本体なのか親なのか判らないけど、あっちが成体。私たちの背丈より長くて、腕より太いヒルよ。近くを通る生き物を水中に引き摺り込んで、何百という口で寄ってたかって血を吸う」
 フィアが遠く湿地の先へ目を向けた。
「大きな鹿がぼろ布みたいになって死んでるのを見たわ」
 これにはルメイばかりでなく、俺も首をすくめた。


 フィアは溜息を一つついて先を続けた。
「獲物が湿地から逃げても、先っちょだけ寄生して血を吸う。命を取られるわけじゃないけど、無理にひき剥がすと皮膚をごっそり取られちゃうから注意ね」
 ルメイが視線を落とした。
「走るのが遅くてすまん。手当をしてくれてありがとうな」
「いいのよ、そんなこと」
 フィアが笑顔で答える。道案内も、身の処し方も、傷の手当てもすべてフィア任せだ。情けないと思うが、今は仕方ない。


 そうこうするうちに息も整ってきた。ほんの一瞬、火を焚いて装備を乾かしたらどうかという気になる。ルメイなどは腰から下がずぶ濡れになっている。さぞかし不快だろう。だがそれは、このまま荷を置いて身を横たえていたいという誘惑なのだ。そろそろ出発しないと。そう思った瞬間に、一番しんどそうなルメイが真っ先に立ち上がった。
「時間をとらせてすまない。もう行こう」
 そう言って先に歩き出した。


 再び森の中に入り、フィアが俺たちを先導してくれた。
 湿地で走り回ったので疲れが出て、誰も何も言わない。周囲はどこまで続くのか果ても判らない樹木の連続で、靴底が地面を擦る音と、フィアが鉈を振るう音だけが静かに響いている。背嚢の肩紐は首の付け根にめり込むようだ。
 フィアが歩くペースを上げ始めた。
「あともう少しよ」
 ルメイが嬉しそうに、おお、と声をあげた。なんとかフィアに付いていくうちに木々がまばらになり、俺たちは枯れ川の広い河原に出た。砂利混じりの灰色の帯が二十歩も続くのに、水はその真ん中をわずかに流れているに過ぎない。


 立ち止まって川を見下ろしていたフィアが振り向いて大きくひとつ息をついた。
「狩場が見えてきた」
「どこだ!」
 ルメイが前に出て俺と並び、周囲を見渡している。
「あの辺りね」
 フィアが川の上流の方を鉈で示すが、森は連綿とつながっていてどこを指しているのか判然としない。
「見分けがつかないけど、もう近いんだな」
 手庇をして森を眺めているルメイが呟く。フィアは大きく蛇行している川に沿って鉈を振ってみせた。
「この細い流れがもともとのアリア河。百年だか千年だか知らないけど、大地にとっては近い過去に、岩盤が隆起して河の流れが変わったの。この川はわたしたちが越えて来た湿地や沼の辺りで途切れてる。古いアリア河の名残ね」
 ルメイが景色を見渡しながら感嘆の低い声を漏らした。


「狩場は二本の河に挟まれた土地にある小さな森よ」
 フィアが振り返り、鉈を握った手で額の汗をぬぐった。草葉のこびりついた鉈の刃が陽光を反射して光る。フィアが手を下ろすと、そこには疲労をにじませた女の顔があった。しかしフィアは、口の端を片方だけ丸めて、何とも言えない大人びた笑みを浮かべた。
「そこにオオルリコガネが群生してる」
 よっしゃ、とルメイが合いの手を入れた。
「辿りついたな」
 俺も腹の底から声が出た。フィアが無言で鉈を背嚢に収め、河原へ下り始めた。足元の地面が下草の生えた土から砂利混じりの土に代わる。その足音は次第に間隔を詰め、俺たちは小走りに川へ向かった。やがて細いながらも清流が見えてくる。


→つづき

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