黄金の森。
 食うや食わずの冒険者にとって、その言葉は余りに魅力的だ。川に向かって急ぎ足に歩いていたフィアが、たった今言ったのだ。わたしが見つけた狩場は、まさに黄金の森よ、と。鹿のように軽やかな足取りで先を行くフィアのあとを懸命に追いかけながら、その言葉を何度も心に呟いた。もはや背嚢は石のように重く、こんなに小走りを続けていたらそのうち倒れてしまうのではないかと思うが、なにしろ行く手には黄金の森が待っているのだ。


「ホーッ!」
 後ろを走っているルメイが興奮して大声をあげた。狩場で追い立て役があげる雄叫びだ。フィアがおかしそうに笑いながら振り向いた。珍しく歯が見えるほど大きな口で笑っている。
「ホーッ!」
 俺もたまらず大声をあげた。言葉の通じない野蛮人になったようで痛快な気分だ。どうせここには俺たち以外誰もいないのだ。どこまでも広がる森を見ていると、孤独と自由が研ぎ澄まされる。
「ホーッ!」
 驚いたことにフィアも大きな声を出している。俺たちはホーホーと叫び合いながら、浅い川が流れているところまで走った。


 フィアが倒れるようにして地面に背嚢を置いた。二歩でまたげる川の手前まで来ている。
「ああ、わたしたち馬鹿みたい!」
 フィアが四つん這いになり、荒い息をつきながら笑い声をあげた。俺もフィアの隣で膝に両手をついた。
「こんな所まで来ちゃうんだからな」
「そうね。山賊に襲われ、寝込みを起こされ、ヒルにたかられ、本当に馬鹿みたい」
 フィアと目があった途端、笑いの発作に襲われた。二人して笑っているところへルメイが走ってきてどうと前に倒れ、両手を地に着いた。
「馬鹿の仲間に入れてくれ!」
 フィアが笑いながらのけ反って倒れた。腹を抱えている。俺もルメイの背中を叩きながら笑い声をあげた。


 笑い疲れたルメイはそのままにじり進んで、川の水で豪快に顔を洗った。両手で水を掬って飲んでいる。水筒の水を入れ替える必要はないが、ブーツや小手についた汚れを落としたかった。俺はルメイより下流に行き、手で掬った水でブーツを洗った。さらに下流でフィアが小手をゆすいでいる。
「ここまで来たら判るでしょ?」
 俺とルメイはフィアの方を向いた。フィアは水の滴る小手をつけたまま目の前の森を指差している。そちらを見ると、左手の方に大きな岩山がある。わずかに苔がこびりついているが、草も木も生えていない。緑の世界に腰を下ろした影のようだ。岩山の中ほどに小さな滝があって、そこから川が流れだしている。岩山の右手はなだらかな斜面になってやがて森に繋がっている。


 その森は、何の変哲もないように見える。
 確かに二本の川に挟まれて他の森とは一線を画している。百歩四方ほどはあるだろうか。しかしその森にオオルリコガネが群生しているとは想像もつかない。
「普通の森に見えるけどな」
 俺の呟きを聞いたフィアが独特な表情で振り向いた。年長の子が幼い子に物を教える時に浮かべる表情だ。いいこと、セネカ、麦を間引かなければかえって実入りが減るのよ? そんなことも知らないの?
「ツノムシはだいたい十五歩のところまで近寄らないと人間に反応しないの。姿を隠す物が何も無い時の話だけど」
「なるほどな」とルメイが言った。「さすがに詳しいね」
 何度か試みてその十五歩というのを割り出したのだろうか。ふうんと頷くしかない。


「あそこにいる沢山のツノムシがわたしたちに気付いて襲ってくるなんてことはないの」
 フィアは満足そうに森を見ている。
「でも狩りをする時は森に入らないといけないだろう?」
 ルメイの顔に不安の色が表れている。たかがヒルでさえこの森では人を捕えようとする。群生するツノムシをどうやって狩るのか、俺も疑問に思う。フィアが森から視線を外してゆっくりとこちらを向いた。
「たかが虫と思って狩りをしたら、あの森がわたしたちのお墓になるわ」
 ツノムシにはカオカ遺跡でさんざん苦労させられた。たった数匹であの様なのだから、たかが虫とは思わない。
「狩りが出来るのは一日にたった二回だけ。日の出と日の入りの間だけよ」
 俺とルメイは眉を寄せたまま棒立ちになった。


「今はもう昼に近いけど」ルメイがさっと太陽の位置を確かめた。「今日はあと一回しか狩りのチャンスがないってこと?」
「そうよ。しかも初めの一回はほとんど準備にあてられると思う」
 そんな不自由な狩場なのか。三日も歩いてここまで来たが、長逗留できるほど食料を持ちこんでいない。ちゃんと収穫をあげられるのだろうか。
「詳しくは後で説明するわ。あの岩山にちょうどいいほら穴があるから、そこに拠点を作りましょう。今から準備すれば日没前に狩りが出来る」
 フィアが背嚢を担いだので、俺たちも荷物を背負った。少なくともこの重い荷から解放されると思うとほっとする。


 歩き始めるかと思ったフィアが立ち止まって俺たちに顔を向けた。
「狩場のそばで寝起きすることになるから、虫にうっかり姿を晒さないように気を付けて。あそこにいるのは百匹や二百匹ではないの。気付かれたら蟻の巣に落ちた砂糖みたいになるわよ」
 ルメイがぶるっと震えながら判ったと言う。俺もしっかり頷いた。
 フィアが川に沿って迂回するように歩き始めた。いきなり川を越えて狩場に近寄らず、大きく上流に回り込んでから岩山に登るのだろう。
 森との距離を意識していたフィアが立ち止まって場所を見定めた。浅い流れの中に突き出た岩に片足を乗せ、それを軸足にして大きく跳躍する。俺とルメイもなんとか川を越えた。目前に岩場が迫り、右手の方には森が見える。もはや境界線の川を越え、ツノムシの群生地と俺たちを隔てるものは何もない。


 フィアが身を屈めて岩場の下まで進む。俺たちも身を屈めてその後を追う。耳を澄ますと、森の方からブブブブという虫の羽音がかすかに聞こえてくる。姿は見えないが確かにいるのだ。
 岩場を回り込んですっかり森が見えなくなると、フィアはやっと背を伸ばして岩山を見上げた。垂直に近い岩棚だが、亀裂のような谷間が出来ていてよじ登れないこともない。
「ここからほら穴の入口まで登るけど、わたしの通った道筋をぴったり追って来て」
 そう言ってフィアは岩山の裾野の急な斜面を両手をつきながら登り始めた。初めは体力が持つのか心配になったが、壁が垂直になる辺りを身の丈ほど登ると崖にせり出した大きめの足場に辿りついた。


 ルメイが崖を抱えるようにして体を持ち上げてきたので、背嚢の肩紐を持ち上げて手伝ってやる。フィアは俺のベルトを掴んで体を後ろに反らし、万一に備えた。足場に乗ったルメイは背嚢を下ろして息を吐いた。
 肩を上下させながらルメイが感慨深そうに言う。「これは良い眺めだな」
 俺たちは並んで崖下の河原と森を眺めた。森の中に湿地が開けているのが見え、そのずっと先に小さくシラルロンデの塔が午前の陽に照らされているのが見える。春の空は青く澄み、綿のような白い雲が浮かんでいる。
「そしてこれがフィアの隠れ家か」
 俺は振り返ってほら穴の入口を見た。大柄なルメイが手を伸ばせば届く程の高さが天井になっていて、大きさは調度いい。奥がどんな風になっているのか判らないが、ほんの少し先が幅広になっていて、天井から陽が射している。これは雨漏りがするな。


「着いたばっかりでごめんだけど、仕事を分担して欲しいの」
 フィアが洞穴の中に入って背嚢を床に置き、ほぼ円形に近い空洞を見渡している。俺とルメイも中に入って荷物を下ろした。壁に小枝を結んで作った棚が置かれていて、そこに輪にした縄が幾らか置いてある。片隅に石を積んで作った竈もあるが、いかにも即席という感じだ。一つだけ奥につながる穴が開いているが、これは身を屈めないと出入りできそうにない。
「わたしがここに泊まったのは一晩きりだったから、全然手入れされてないの。取り敢えず二人とも荷物を全部出して。枝と縄で棚を作ってあるから、ルメイはそこに荷物を収めて。足りなかったら棚も作ってね。あと水汲みもお願い」
 ルメイが、よし、と言って背嚢から荷物を取り出し始めた。


「セネカは外から崖を登って天井の穴に帆布をかけて。雨が降ったら水びたしになっちゃうから。でもここで煮炊きするから穴は塞がないでね」
 背嚢に縛り付けていた毛布と粗朶の束を外していた俺は短く返事をした。フィアは床一面に広げられた荷物の中から、蜜蝋を塗った帆布としゅろ縄と針金を取り、空になった背嚢に入れて手渡してくれた。
「わたしは平らな石を集めてきて竈を作り直す。その後すぐお昼にするからね」
 ルメイが床に置かれた食材を眺めながら、いいね、と頷く。ここに何日いるのか判らないが、塩や小麦粉、チーズ、乾燥肉、パスタといった食材がまだ残っているのを見て安心する。
「走ったから多めに頼むよ」
 自分の背嚢から瓶を取り出していたルメイがフィアの顔を覗き込む。フィアは、ルメイの分はいつだって大盛りでしょ、と言って笑った。


 背嚢を担いで崖を登ると、岩場の向こうにアリア河の本流が見えた。
 森の深緑が苔のように大地を覆い尽くしている。その中に灰色の岩場の帯が曲がりくねって続いている。さらにその中央を青緑をした水が流れ、白いしぶきを上げている。河は俺がしがみついている岩場に激しくぶつかって流れを替え、そのほんの一部が岩場の稜線を越えてこちら側に滝となって流れ落ちている。
 天井の隙間の上にがばっと帆布を広げる。
 とうとう俺たちの仕事場が出来るぞ。王国のために儀仗をするのではない。依頼主の代わりにコボルトを追い払うのでもない。ここは俺たちの狩場なのだ。一挙手一投足が全て自分たちのためになると思えば、どんな苦労も我慢できる。


 帆布の隅に針金を通して環を作り、しゅろ縄で縛った。そのしゅろ縄を引っ張って突き出た岩に縛り付ける。最後の一角を仕上げようとしている時に足元から熱気が上がってきた。ぺろっとめくって下を覗くと、粗朶で大きな火を作っているフィアの頭が見えた。ぐずぐずしていたら燻製にされてしまう。
「こっちはそろそろ終わる」
 上から声をかけると、フィアが真上を向いて手を振ってきた。フィアも自分の思い描いた狩りが出来そうで嬉しいのだ。俺はげほげほと咳をし、慌てて最後の仕上げをした。ワックスでぺったりとした感触の帆布がぴんと張り渡された。これなら角度に沿って雨を脇へ流してくれるだろう。


 道具を担いで崖を下りると、水袋を背負ったルメイが下から登ってくるところに出くわした。ルメイの手を取って引き上げてやる。ルメイは足場の上に辿りつくと肩で息をしながら、助かった、と言った。
「いい匂いがするぞ」
 ルメイはさっそくほら穴の中に入りながらくんくんと鼻を鳴らした。フィアは竈のそばで忙しそうに手を動かしている。
「火と水をふんだんに使えるって良いわね」
 竈は大きく作り直され、薪の炎が小鍋とフライパンを熱してごうごうと燃え盛っている。フィアはフライパンを大きく揺すりながら、もう少しだから待っててね、と言った。


 食事はいつものように、まずはルメイに渡された。
 大きな木皿に茹でたてのパスタが盛られ、その上からフライパンで炒めた乾燥肉を乗せてある。フライパンはパスタ皿の上で大きく傾けられ、褐色のソースと共にタマネギとクマニラの葉が盛り付けられた。葡萄の果実酢の匂いがぱっと広がる。
「お先に。いつもすまないね」
 ルメイは木のフォークでパスタを掻き混ぜながら幸福そうにその匂いを嗅いでいる。
「うまそうだなルメイ。見られてると食いずらくないか?」
 俺が冗談を言うと、ルメイは「いやまったく」と受けて大口でそれを食べた。じっと待っているのも手持ち無沙汰なので、ルメイが作った棚をしゅろ縄で補強した。


 俺は自分の皿を、ありがとうと言ってフィアから受け取った。皿を手に持っているだけで料理のいい匂いが鼻をくすぐる。たまらず大口で頬張る。もうもうと湯気の立つパスタに酸味と塩気のあるソースが絡んでうまい。火力が出せるからだろう、肉とタマネギがいつもより大きめに切ってあり、食べごたえがある。砂糖が入った紅茶も出されて、これも堪能した。こんな僻地で人並みの食事が出来るとは嬉しいものだ。


 最後にフィアが自分の分を作って食べ始める頃、ルメイは壁に寄りかかって目をとろんとさせていた。このまま放っておけば眠ってしまうだろう。まだ狩りの準備もしていないので起こそうとしたら、フィアが親指と人差指をぐっと近づけてみせた。両方の眉をくいっと上げている。ルメイの背負っていた荷の重さを考えたら仕方ないか。俺は小さく頷いて壁に寄りかかった。そして大きく息をついた途端、体が床に吸い込まれるような感覚に襲われた。とても目を開けていられない。



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