いつの間にか眠ってしまったようだ。 柔らかいベッドにうつ伏せたまま、身体を包み込んでいるだるさを味わっている。レースのカーテンが脇腹を優しく撫でる。舗装された道をゆく車輪の音が聞こえてくる。起き上がって窓から見下ろせば、貴族たちを乗せた馬車が通り過ぎていくのが見える筈だ。夜も更けたので御者はカンテラに火を入れている。街から離れていく車列はやがて光の群れとなり、天使の行列のように見えるだろう。 馬車をここまで引率してきたのは俺の騎兵小隊だ。王宮での会合を終えたお偉いさんたちが馬を替えながら領地へ帰るのを見送るのがその役目だ。逆らえない人間を相手にするのはうんざりさせられる事が多いが、近衛の仕事はそればかりだ。どこかの侯爵が突然に馬車を止め、道が違うだの寄り道をするだのと言い始めたら、俺たちの仕事は途端に面倒なものとなる。 ただしその厄介なお勤めも宿駅があるこのルーアンまでだ。俺たちはここで任務を終え、酒場で食事をし、翌朝の点呼まで自由になる。 ここがルーアンなら、隣で静かに息をしているのはセシルだ。 涼しい夜気がむき出しの背中を撫でるのを感じながらまどろみの余韻に身を任せ、彼女との出会いを反芻している。 任務でこの街へ来るようになってから何度目かの夜、酒場で会った。会ったと言ってもたまたま席が近かっただけだ。長袖の黒いコートの下に黒のロングスカートをはき、灰色の地味な付け襟という姿だった。何かの事情で家庭教師が待ち合わせをしているように見えた。この辺りには王都まで出向くガヴァネスが沢山いる。しかし、それにしては時刻と場所が変ではあった。 女は栗色の髪を伸ばしていて、故郷にいる幼馴染に似ていた。それで顔をじろじろ見ていたら目が合った。女はつと眉をあげて俺を見返した。困惑もはにかみも感じさせないその仕草で、どういう種類の女か判った。 俺が盃を干すと、女は先に立って宿屋へつながる廊下に立った。そしてちらっとこちらを見る。媚びるような顔をしておらず、ほとんど無表情だった。俺はどのみちこの宿に泊まるのだし、女の服装や態度がそれっぽくないのが気に入った。それで、酒を足そうとするマスターを手で制し、酒代をカウンターに置いた。 貴族の見送り警護は当番制で、手当が出る。 当番制とは言いながら実は貧乏くじで、同じ近衛兵でも貴族の子弟たちはその任務から放免されている。それでは不満が募るので、食事代と宿代に多少上乗せをした手当が出る。これを浮かせるのに安宿に泊まり、酒代を捻出する。 そんなわけで俺が泊まる部屋はとても狭い。もともと大きめの一部屋だったようだが、間仕切り板がはめられて薄壁越しに三部屋に分けてある。さすがにベッドは一部屋にひとつずつ置いてあるが、テーブルと椅子を押し込めるために窓際に押しやられている。いかにも手狭ではあるが、構いやしない。飯を食って酒を飲んだら後は寝るだけだ。それでも窓側の部屋なので少し高い。 黙って部屋についてきた女は後ろ手で閉めたドアの前に立ち、部屋を見ていた。 「狭くて済まんな」 俺が椅子を跨ぐようにして奥へ行きベッドに腰掛けると、女はやおら服を脱ぎ始めた。 「ちょっと待ってくれ」 怪訝そうな顔をして脱ぎかけたコートを肩に戻した女に、椅子を手で示した。女はゆっくりと腰を下ろした。 「実はあんたが幼馴染に似ててな。それでついじろじろ見た」 女が寂しそうに微笑んだ。 「そういうのには付き合えないよ」 少し掠れたような声をしている。幼馴染よりは三つ四つ年上のようだ。女が立ち去ろうとするのを手で止めて、無造作に隠しの中に手を入れて手持ちの金を確かめた。銀貨が三枚と銅貨が六枚。どうせ明日の朝には宿舎に戻って非番となるのだ。俺はテーブルの上に銀貨を三枚置いた。 女は暫くそれを見ていたが、手に取って隠しに入れた。チャリチャリ、と音がする。 「こんなに払うのは、何か趣向があるの?」 大抵のことなら大丈夫だけど、という。 「いや、相場を知らないだけだよ」 損したな、と両手を上げると、女は静かに微笑んだ。商売柄だろうか、少し薄情そうに見えるが、上品な顔立ちをしている。 「名前は?」 「セシル」 「なんでそんな格好をしてるんだ?」 「そんな格好って?」両手を広げて体を見下ろしている。 「家庭教師みたいに見える」 セシルはふっと視線をそらせた。 「やってたからね。逃げ出してきたけど」 ひどい目にあったというが、話したくはないらしい。服はこれしかないのだという。 「それならセシル、一つこういう趣向で頼む。君は田舎から出て来た俺の幼馴染だ。たまたまこの街で出会った」 ちょっと待って、と女が首を振る。難しそうだわ。 「適当でいい」 ぞんざいに指を振ってみせた。目を細めて考えていたセシルが口を開いた。 「その子の名前は?」 俺は少し間をおいてから、ミシェル、と答えた。こんなところで嘘をついても仕方ない。 「恋仲だったの?」 「どうだろう」と俺は言った。「納屋で口付けをした」 セシルは俯いて自分の指を見詰め、はにかんで身じろぎした。 「そこに座ってもいい?」とベッドを指差す。 俺は頷いて自分の隣を叩いて示した。 服を着たままのセシルの肩に手をまわした。 「久し振りだな、ミシェル」 「そうね」 「元気にしてた?」と、細い肩を抱き寄せる。 両手を尻の脇について爪先をわずかに上げていたセシルが顔を上げ、くるっと瞳を動かしてみせた。 「なんて答えたらいいの? あなたのミシェルは娼婦になってるようよ?」 俺はバタンと音をたてて心の戸を閉めた。自分の感情が顔に出ないようにするためだ。俺のミシェルは絶対に娼婦になったりしない。しかしそれをうっかり口にしたら、この女には酷い言いぐさになるだろう。 この女も娼婦に生まれついたわけではあるまい。家庭教師をやっていたということは、中流の家で育ち、それなりの教養を持ち、推薦状を書いてもらえる程度には品行の良いお嬢さんだった筈だ。 それからじわじわと、絶対に娼婦にならない女などいない事を受け入れた。 絶対に職を失わない男というのも存在しない。流れ者にならないと言い切れる男もいない。お尋ね者にならないと断言できる男もいない。たとえ王を守るのが仕事の近衛兵であったとしてもだ。 故郷のミシェルがその後どうしているか、俺は知らない。 あの自尊心の強い澄まし屋が娼婦になったとは思えないが、そんなことは誰にも判らない。俺たちは自分のなりたいものに必ずなれるわけではない。首尾よく何かになれたとして、その暮らしをいつまでも続けられるとは限らない。そういうことは稀だ。唇を歪めて涙を振り絞ったことがある者なら身に染みている。 優しい気持ちを取り戻せたので、セシルの栗色の髪を撫でた。 「色んなことがあったんだろうな」 セシルは真顔で俺を見返した。瞼が落ちて、また開く。 「そうね。色んなことがあったわ」 腰の辺りにとぐろをまいていた蛇がぞろりと動き出す。何がそうさせたか判らない。安宿のベッドで若い女が隣に座っているからか。家庭教師のような黒いコートを羽織っているからか。栗色の髪を伸ばしていて、睫が長いからか。上っ面でない言葉を交わせたような気がしたからか。 俺はセシルをベッドに押し倒した。黒いスカートから白い脚がまろび出た。膝の内側に手の平を乗せる。セシルは両腕をだらりと体の脇にたらしたまま、静かに俺を見返した。 「ミシェルに優しくしてあげて」 俺はセシルに覆いかぶさってその口を塞いだ。 それ以来、貴族の見送りが苦にならなくなった。 月に一度か二度の任務に楽しみが出来た。ルーアンの宿駅まで行けば酒場でセシルに会えた。どうしてそんなことをする気になったかは判らないが、初めに払った分だけ毎回払った。これくらいが相場だろうと値切る気にはなれなかった。上客だったのだろう。セシルはいつも落ち着いていて、機嫌が良かった。彼女が時折みせる自然な微笑は、俺だけのものと思い込んでいた。おめでたい奴だ。 ベッドでミシェルごっこをするのはすぐにやめた。そして俺は、小さな桃を惜しみながら口にするようにセシルを味わった。 懐かしい日々よ。 あの何気なく過ごしていた毎日がどれほど素晴らしかったことか。だが俺はそれに気付かなんだ。過ぎた昔を思えば、胸を焼かれる思いがする。 ほんの半歩のずれが剣を打ちあう間合いを狂わせ、攻守を入れ替えさせる。師匠はいつもそう言っていた。そしてこんな風に、独り言のように付け足したことがあった。人生も同じ、思いもよらぬ事からある日を境にがらっと暮らしが変わる。だがそれで良い。 俺は若かったので一抹の不安を感じ、それで良いのですか、と尋ねた。師匠は重ねて、それで良いのだ、といった。同じ日々の繰り返しのように思える時、お前は寝床でまどろんでいるようなものだ。人生は冒険だ。命掛けでやることだけがお前を前に進ませる。 俺はセシルの横で寝込んでしまうことがあった。そんな時、セシルはいつも黙って部屋を去る。静かに着替えるので気付かないことも多い。今日は何故か一緒にいてくれている。せっかく久しぶりに会えたのだ。セシルともう少し話がしたいと思った。 瞼を開け、寝返りをうつ。 俺は首を浮かせたまま凍りついたように動きを止めた。隣には誰もいない。椅子に座った老人がじっとこちらを見ている。こちらが気付くまで居住まいを正したままじっと待っていたのだ。この人の名前を知っている。魔法使いのイシリオン。エルフの言葉で、月の息子。 「お邪魔してすまない」 イシリオンはテーブルの上で手を組んだまま、落ち着いた声を出した。俺は上半身を起こし、毛布で腰を覆った。 「そのままでいい。言伝を預かっている。それを伝えたら去る」 エルフの老人の顔には何の表情も浮かんでいない。 「言伝って、誰から?」 ぼさぼさの頭を掻きながら顔をしかめた。なんでこの人がここにいるのだろう。わけがわからない。 「君たちは明後日の朝にここを発つ。その時は必ずシラルロンデの塔に立ち寄るのだ」 何を言っているのか判らない、と答えようとしたが、そうでもないことに気付く。心のどこかでイシリオンの言うことが判っている。胸のあたりが嘘寒くなる。 エルフの老人は黙ったまま俺の顔を見ている。それが全くの無表情で怖くなる。ドアのそばと机の上に燭台があり、その明かりで部屋は満たされている。机の脚の影は床に落ち、老人の影は壁に映っている。レースのカーテンは夜風に気だるく揺れている。 「塔に行ってどうする?」 「窓だよ」 俺は目を細めて、窓? と聞き返した。老人は立ち上がると、行けば判る、という。そのままドアのところまで行ってドアノブに手をかけ、振り向いた。 「この夢は忘れないことだ」 これは夢なのか? そう思って部屋を見渡すと、天井も壁も書割のように見えてきた。しかしこんなにはっきり見えていても、目が覚めた時には忘れてしまうのが常だ。 「覚えていられるかどうか自信がない」 イシリオンが初めて表情をみせた。うっすらと微笑んだのだ。 「途中でたたき起こされるといい」 そう言い残して出て行った。部屋の中にまだ老人の名残があるうちに、俺は文字通りたたき起こされた。 * (→つづき) |
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