「そろそろ起きてくださいな!」
 誰かが脛を叩いている。がばっと身を起こして周囲を見渡した。フィアがしゃがんで声をかけながら俺とルメイの脚を手の平で叩いている。まだ安宿のベッドの匂いが辺りにたちこめているような気がして、頭がぼんやりとしている。イシリオンからの言伝は確かに受け取ったが、こっちはこっちで命懸けの状況だ。頭を振って意識をはっきりさせる。
 ここは呪いの森のほら穴の中だ。昼飯を食った後、壁に寄りかかった途端に寝込んでしまったようだ。


「二人が寝てる間に鳴子を張っておいたよ」
 フィアが片膝をついたまま俺の顔を覗き込んでいる。しょうがないわね、という顔付きで、怒ってはいないようだ。
「ああ、すまない、フィア」
 起き上がろうとすると、腹から下に毛布がかけてあるのに気付いた。眠ってしまった俺たちを起こさずに、フィアは一人で準備をしていたのだ。申し訳ないことをした。はっとして外を見ると、空に浮かぶ雲がなんとも言えない甘い色に染まりつつある。まだ日は翳っていないが、この午後をとっぷり寝てしまったようだ。


「ごめんよ、フィア。どれくらい寝てたのかな」
 ルメイが目をこすりながら上半身を起こした。
「ほんのいっときよ。二人とも荷物を背負って飛んだり跳ねたりしたから、ご飯を食べたら眠くなったのね」
 フィアは自分の言葉にふっと笑った。
「でももう起きて。そろそろ狩りを始めます」
 よし、と気合を入れてルメイが起き上がった。俺は毛布を畳んで戻しながら恥ずかしさが込み上げてくるのを止めようがなかった。いかに疲れたとはいえ、飯を食うたびに寝入っていたら無防備過ぎる。フィアが棚の前に広げた狩り道具を見て気持ちが引き締まる。俺たちは狩りをしにここまではるばる来たのだ。


「それじゃ、詳しく説明するよ」
 竈のそばの石に腰を下ろしたフィアが、足元の罠網を引っ張って形を整えてから顔をあげた。手仕事をするために薄暗いほら穴の中に蝋燭を二本灯してあり、フィアの緊張した顔が良く見える。もはや準備万端にしてあるのだ。
「初めに言っておくけれど、もし私たちがこの狩りに失敗して死ぬとしたら、初手をつける今日よ。誰も弔ってくれないから、死体は野ざらしになる」
 口をあんぐりとあけて蠅をたからせた三つの死体を思い浮かべる。そうはなるものか。とはいえ、そろそろ死のうと思って死ぬ奴はいない。突然、自分が今まさに死のうとしているのに気付くだけだ。
「手抜かりなく行こう」と俺は言った。「死ぬ気でやるよ」
 ルメイは黙ったまま、両手で頬をぱちんと打った。


「オオルリコガネの森には、普段は決して近寄れない。森に分け入ることが出来るのは日の出と日の入りの時だけ。森の奥まで陽が射す時、ツノムシたちは揃って木に登るの」
 ツノムシにそんな習性があるとは初耳だ。
「なんで木に登る?」とルメイ。
 フィアは薄く笑って首を振りながら、知らないわ、と答えた。
「ここに初めて辿りついた時、夕暮れ時だったの。もし時刻がずれていたらわたしは死んでいたと思う。偶然が重なってなんとか生き延びた」
 フィアが何かを思い出したように苦しそうな表情を浮かべた。
「底なし沼を迂回して、湿地を走り抜けて、くたくたになった頃に河原に出た。小川に沿って進んでる時に、この岩山を見つけたの。野営地にしようと思ったわ。高くまで登りたかったの、灯火新聞を持ってたから」


 俺は入口に背を向けていて、背後の空が暮れていくのが気になっている。しかし今はフィアの言葉に耳を澄まそう。
「異変に気付いた時、わたしは森のすぐそばにいた。木の様子が変で何事かと見上げたら、ツノムシたちが一斉に木を登っているところだったの」
 あの森にいるツノムシは百匹や二百匹ではないとフィアは言っていた。恐ろしい光景になるだろう。
「あんまり距離が近かったから金縛りにあったみたいに動けなくなった。でもツノムシたちはわたしに襲いかかってこなかった。なんとか岩山に回り込んで難を逃れたわ。てっきり人を襲わないのかと思ったんだけど、そうじゃないの。木に登ってない時は人を襲うの」


 何事か考えていたルメイが唇を噛んでいる。
「狩場から退散する潮時を間違えたら一巻の終わりだな」
「その通り。だから時間との争いになる。因みに太陽の光が届かなくなると、一斉に飛び降りてきて森の周囲まで虫だらけになるの。森からはみ出た虫たちはまた森に帰っていくんだけど」
 そんな所に居合わせたら命がいくつあっても足りない。フィアが通りかかるのがもう少し遅かったら巻き込まれていただろう。
「今からすることは、この罠網を、少なくとも三本の木の根元に巻きつけること」
 フィアが三枚の罠網を手で示した。人の身長ほどの長さがある帯状の網で、目の粗い格子状に編んであり、交点から小さな輪が飛び出ている。


「タイミングを間違えなければツノムシは襲ってこないけど、自由に動き回ってるところを狩るのは大変なの。これを巻いておけば、鉤爪が引っ掛かって動けなくなる。それなら狩るのもたやすい」
 なるほどな、とルメイが唸る。
「まず、わたしが指差した木に取りついてる虫を取り除いて罠網が張れるようにする。セネカが虫を押さえつけてる隙にわたしが短刀を使う。セネカは虫を幹から剥がしたら、ルメイに渡して。ルメイはそれを岩山の下まで運ぶ」
 フィアがルメイをじっと見る。
「虫の甲羅は売り物だから、運ぶのは一度に二匹ずつにして傷つけないように。前脚に毒腺があるから触らないように注意して。いっぺんに沢山運ぶと甲羅が擦れて駄目になっちゃうからね」
 ルメイは深々と頷いて、わかったと言った。


 フィアが罠網を器用に畳んで肩にかけた。
「木の根元あたりにくっついてるのを全部剥がせたら、わたしが罠網を巻きつける。ここに帰ってくる頃は暗くなってるから、勿体ないけど蝋燭はつけておく。岩山の下にも松明を二本つけておくわ」
 フィアが上物の松明を二本手渡してきた。木の棒に布が巻きつけられ、油脂が染ませてある。明るくて長持ちする松明で、雨が降っても消えない。俺は松明を袋にくるんで背嚢に入れた。これ位の荷物ならどこまででも歩いて行ける気がする。
「甲羅の取り外しは明るくなってからやる。虫の死体は下に放置するけど、雨で濡らしたくないからこの帆布をかけておく」
 フィアが折りたたんだ帆布をルメイに渡した。ルメイは受け取ったものを背嚢に入れて担いだ。いかにも身軽そうだ。


「いよいよ始めるよ」
 フィアが上目使いに俺を見て拳を突き出した。握り締めた拳をそこにぶつける。
「なんとか成功させよう」
 フィアがひとつ頷き、ルメイに向かって拳を突き出した。ルメイも拳を当てて頷く。
「崖を下りる前に鳴子を見ていって。自分で引っかからないようにね」
 フィアは先にほら穴の外に出て、入口の辺りで片膝をついた。指で地面すれすれのところを叩くようにすると、金属片がぶつかり合うカチャカチャという音がした。身を屈めてみれば細糸が見える。その辺りを跨いで外に出ると、崖のそばにも鳴子があることをフィアが示した。それから身を反らせて崖の斜面を見上げ、その右手と左手の方を黙って指差す。どこに設置してあるのか判らないが、とにかくこの洞穴に近寄ろうとしたらあちこちで鳴子が鳴るようだ。


 俺たちは緊張した面持ちで崖を下り、岩場の下までたどり着いた。まだ黄昏には早い時間で、空には光が満ちている。森はたっぷりと陽光を吸って息付き、静かな午睡に身を委ねているように見える。だが雲は色付き始め、夕暮れの訪れを予感させている。フィアが狩人の目で西空を見上げている。
 荷物を下ろして地面に穴を掘り、ほら穴への上り口を示す松明を二本立てた。俺たちは河原まで往復してその根元に小石を盛り上げた。
 松明が固定されると、フィアは腰に吊るした火種筒から火種を出して火をつけた。ぼうっと音がして粘りつくような細い炎が巻き上がる。周囲が明るいのでそれは熱を発する火柱に過ぎないが、微かな風を受けて揺れる炎は狩りの始まりを告げる儀式のようだ。


 地面が少し高くなった辺りをフィアが指差し、その指をルメイが持っている帆布に移した。ルメイは頷き、その場所に帆布をひろげて伏せた。防水用に蜜蝋を塗ってあるのでてかてかしている。帆布の三隅に石を置いて固定してから、一隅をめくり上げておく。ここにツノムシの死体を集めて置くのだ。
 狩場の森の方へ行きかけたフィアが立ち止まり、片手を上げて注意を促した。フィアはその場でしゃがんで地面を指差した。細糸が張ってあるので、鳴子があるのだ。河原の方から近づいて来て岩場を登ろうとする者がいたら、よほど注意しなければ踏んでしまう位置にある。細糸を跨ぎ、身を伏せたフィアの後を追った。


 森のすぐ近くに身の丈程もある大きな岩が転がり落ちている。フィアが小走りに岩陰まで行って腹這いになった。俺とルメイも身を低くしてその後に続く。フィアは下草を手でそっと分けて森の様子を窺った。俺も岩の縁に顔をつけてゆっくり覗き込んだ。森はもはや目の前にある。ただし何の兆候もない。わずかにツノムシたちの羽音がブブブブと聞こえているだけだ。
 ルメイがにじり寄って来て、俺とフィアの間に割り込んだ。そうして俺のすぐ下で、やはり岩に頬を押し付けて森の様子を見ている。三人とも浅い息をして、体をこわばらせている。


 革鎧を身に着けた三人の狩人が岩陰に身を伏せて森を覗き込んでいる。そういう光景を想像して欲しい。木々の幹も枝ぶりも手に取れるように見える近さだ。狩人たちはそうして身を隠しながら、今や遅しと狩りの瞬間を待っている。
 日は翳り、西日が森を照らしている。時間が止まってしまったのではないかと思うほど待たされた後、とっぷりと陽が傾き、森の中に夕焼けの色がさあっと差し込み始める。光の筋が森の奥まで照らし出す。俺は微動だにせず目を見開いた。


 森の地面がざわつき、がさがさという音が重なって聞こえてきた。甲羅を鈍く光らせながらツノムシたちが木の根元に寄り集まってくる。人間の胴回りほどもある大きさの甲虫が、鉤爪のついた脚を小刻みに動かして木の幹を登っていく。くすんだ色をした虫は一匹もいない。それらは全て光沢を持つオオルリコガネだ。
 一本の木に数十匹のオオルリコガネが登っていき、百歩四方ほどの森、その数えきれない木々は、見渡す限り、オオルリコガネを身にまとって膨れ上がった。そして陽光がほぼ水平になり、森のさらに奥まで陽光が届き始めた瞬間、光沢のある甲羅が一斉に光を反射して輝き始めた。


 眩しさに目を細める。まさに黄金の森だ。
 どこまでも続く苔むした深緑の森の中に、突然あらわれた金の柱列。それがまともに陽光を受けてまばゆいばかりに光り輝いている。初めてこの光景を見たフィアが、金縛りにあったように動けなくなったのも判る気がする。こんなものを見て心を動かされない者はいないだろう。
 黄金の木々を抜ける陽光は反射して交差し、綾なすように森の奥底までを金色に照らし出している。古都レメンカームの王宮には黄金の回廊があったというが、果たしてこれほど美しいものであっただろうか。俺は金色に輝く森に呆然と見入った。


 はっとして我に返った。もう狩りを始めなければならないのではないか? 時間は限られているのだ。俺とルメイが足元をにじらせると、フィアが前を向いたままさっと手を上げ、手の平を伏せて「待て」の合図をした。
 まだ何か変化があるのだろうか。再び森に目をやると、光り輝くオオルリコガネが甲羅を浮かせてゆっくり動かし始めた。金の柱列はいまや蠕動を始め、自らキラキラと光を反射して息づくかのようだ。
 甲羅の下からは茶色い薄羽根が出たり引っ込んだりしている。森からは何千何万という羽根がこすれる音が低い唸りとなって流れてきた。まるで地鳴りのようだ。こんな音は初めて聴く。


 フィアが上げた手を森に向けてさっと一振りした。
 次の瞬間にフィアは駆け出している。俺は慌ててその後を追った。あやうく転びそうになりながらルメイがさらに後をついてくる。
 まばゆい光と羽音のうねりのただ中に入っていくと、恐怖で身がすくみあがった。見渡す限りの木にオオルリコガネが取りついている。こいつらが一斉に襲いかかってきたら、俺は虫団子になってしまうだろう。百回でも殺される数だ。
 顔をしかめて周囲を見渡していた俺の腕をフィアが叩き、一本の木を指差した。大人が手を回しても抱えきれない程の太さがある立派なブナだ。その灰色の樹皮は甲羅を動かしながら羽根を震わせているオオルリコガネで埋め尽くされている。渋滞しているものの、虫たちは少しずつ間合いを詰めて上へ上へと移動しようとしている。


 俺はそのうちの一匹を両手で押さえた。フィアがその頭部をぐっと押して後頭部の隙間に短刀の刃を入れようとする。しかしオオルリコガネが抵抗してぐいぐいと身を反らせるので狙いが定まらない。小さな昆虫のコガネムシでさえ木から剥がすには相当の力がいる。六本の脚でがっしりと樹皮を抱えているツノムシは信じられない程の力を出す。
 フィアがすごい形相で俺を睨む。しっかり押さえててよね! とその顔は言っている。俺は体重をかけて押さえ込んだ。今度こそフィアの短刀がオオルリコガネの甲羅の隙間に潜り込んだ。その一瞬で抵抗が止み、動きが止まった。フィアが樹皮に食い込んだ鉤爪を剥がしにかかる。俺も反対側の脚を木から外す。


 六本の脚を投げ出したオオルリコガネを両手で持ち、背後で待ち構えていたルメイに渡す。俺たちがここで狩った初めての獲物だ。ルメイはそれを受け取ったが、どう持ったらいいか思案している。甲羅の側は擦らないようにしなければならないし、腹の側には厄介な鉤爪が付いた脚がだらりとぶらさがっている。ルメイは甲羅が脇の下にあたるようにしてそれを小脇に抱えた。
 二匹目のオオルリコガネをフィアと二人がかりで仕留めた。今度はその光沢のある甲羅を眺める余裕が出て来た。ルメイの脇腹に甲羅を押し付けるようにしてやると、そっと抱え込んで保持した。ルメイはツノムシが苦手の筈だが、眉間にしわを寄せて嫌悪をこらえている。


 獲物を二匹、小脇に抱えたルメイが小走りに走って行った。ルメイが枯葉を踏む足音は、オオルリコガネたちの羽音にまぎれてすぐに掻き消された。いまやその羽音は森全体の空気を振動させる勢いだ。
 木の反対側に回って三匹目のオオルリコガネを押さえつけた。フィアが流れるような手捌きで短刀を使い、難なく狩れた。しかし動きの鈍いオオルリコガネが木に登れずに地面をうろうろしていて、そのうちの一匹がフィアの脚を登り始めた。フィアははっとして自分の体に前脚をかけたオオルリコガネを押さえ込んだ。フィアは目を見開き、肩で大きく息をしている。


 俺は片膝をつき、フィアの脚にくっついたオオルリコガネの前脚を両手で持った。毒腺が刺さったら大変なことになる。じたばたと暴れるオオルリコガネの頭部を押さえつけたフィアが、震える刃先を甲羅の隙間に差し入れた。オオルリコガネは脚をぐっと反らせて事切れた。フィアのブーツに食い込んだ鉤爪を一つ一つ剥がして取り外す。
 毒虫から解放されたフィアは改めて足元を見回して、他に取りついてきそうな奴がいないか確かめた。フィアは一度大きな溜息をつくと、爪先を何度か振ってから足場を固めた。二匹のオオルリコガネを地面に伏せたところで、ルメイが戻ってきた。


 ルメイが目を丸くして獲物を見た。その目付きのまま俺を見返してくる。その顔は、もうお次が並んで待ってるのか、と言っている。俺は苦笑しながらオオルリコガネを一匹持ち上げ、ルメイの脇に押し付けた。ルメイはそれをそっと抱え込んだ。もう片側も同じようにすると、ルメイは小首を傾げて苦笑を返してきた。こりゃ大変な狩りだ。そのままルメイは走り去った。ルメイの後姿を見ながら、これを一人でやってのけたフィアの豪胆さを思う。
 フィアは肩から罠網をはずし、一端を木の幹に押し付け、網目の中に短刀を刺してずり落ちないようにした。そのまま網をほぐすようにして木を回り込み、元の位置まで戻って来る。それで、ブナの木の胴回りに罠網が一周することになった。フィアは両端から出ている縄を上下ともきつく縛り、さらに幾つかの網目を縄で縛って結びつけた。


 フィアがさらに木を一周して、網の交点から出ている輪が網の下に潜っているのをつまんで飛び出させて回った。それを両手で素早くこなしていく様はまさに職人だ。なるほどそうしておけば罠としての効率が落ちずに済む。
 フィアがはっとして振り返り、森の外を見るので俺も思わずそちらを向いた。夕焼けが赤黒く西空を染めている。もうそれほど時間が残されていない筈だ。景色を見ていたらいきなり客観が戻って来て、畏怖が足元を突き上げてきた。俺は今、人里離れた呪いの森の中で、何千何万という毒虫に囲まれて、夜を迎えつつあるのだ。
 呆然として突っ立っていたらフィアに背中を叩かれた。隣の木を指差して俺がちゃんとついてきているか目線で確かめている。わかってる、と無言で頷く。


 二本目のブナの木に取りついた四匹のオオルリコガネを仕留め、ルメイがさらに二往復し、フィアが二枚目の罠網を張り巡らせた時、明らかに森を包む空気が変わった。虫たちが羽根を震わせるのを止めた。耳鳴りのように周囲を包んでいた羽音が止むと、フィアは西空と木の上に群がっているオオルリコガネを交互に見た。その顔に緊張がありありと出ている。
 フィアは三本目に指定しようとしていた木を名残惜しそうに見てから、振り返って俺とルメイに視線を合わせた。ゆっくりひとつ頷いて、その場を後にする。罠網を三枚張るのが目標ではあったが、時間切れのようだ。


 森のそばにある大岩のところまで来ると、太陽が地平線に隠れようとしていた。雲は血のような暗い色に染まり、森ははやくも黒々と闇を湛え始めた。足元が暗くなってきたが、不気味に静まり返った森が気になって岩の陰からそっと覗いてみた。黄金の柱列は今や影に支配され、その輝きをわずかに残しているに過ぎない。黄金王朝の黄昏を思わせる。
 フィアが腕を叩いてきた。振り向くと、ここは駄目、という風に首を振っている。並んで森を見返していた俺とルメイは、フィアの後を追って岩場の下まで駆け戻った。


 何となく余裕と思っていたが、実は間一髪だったのだ。
 俺たちが森から離れて岩山の下に集まった時、再びぶうんという音が重なり合って響いてきた。ぎょっとして振り返ると、無数のオオルリコガネが樹上から滑空して下りてきている。連中は大人しくブナの木を逆向きに降りてきはしないのだ。自分のいる位置から飛び降りるのだが、もともと飛ぶのが不得手なので辺り一面に飛び散っている。さっき立ち止まって森を見返していた岩石の足元にも、数十匹のオオルリコガネが飛んできて蠢いている。
「あの岩の所は安全じゃないんだな」
 ルメイがぞっとした顔をして口元を撫でている。


 なんとか難を逃れたと思った瞬間、大きく森を回り込んで飛んできたオオルリコガネが一匹、俺たちの十歩ほど先に着地した。思わず中腰になる。オオルリコガネはその場でくるくると回ってから、やおら俺たちに気付いた。甲羅を少し持ち上げて、焦げ茶をした薄羽根をひろげて飛び上がった。
「なんてこった!」
 ルメイが慌てて武器を探すが、持ち出してきていないのだ。俺もどうしたものか辺りを見回した。フィアだけが落ち着いていて、残った一枚の罠網を肩から外して両手でひろげている。


 オオルリコガネはルメイに向かって飛んできている。フィアは罠網を持ったままそちらに走り寄って待ち構えた。フィアは長大な罠網を投げることはせず、空中で受け止めて包み込んだ。オオルリコガネを絡み取った網を地面に置き、引っくり返して甲羅の上に片膝をついて固定する。必死にもがいているツノムシの頭を手で押して、後頭部の甲羅の隙間に短刀を差し込む。
 フィアが立ち上がり、小手で額の汗をぬぐった。
「ここまで飛んでくるとはわたしも思わなかったよ」
 そう言って恐る恐る森の方を覗き込む。俺たちは並んで森の周囲を眺めた。潮が引くように虫たちが森に帰っていく。もはや日の入りの部は収束したようだ。


 陽が沈み、辺りが暗くなった。
 二本の松明が照らす光の輪の中で、仕留めた獲物を並べていく。三列三段に並んだ巨大な甲虫はもはや陽光を反射することはないが、鏡のように闇を映して黒々としている。
「オオルリコガネを、一度の狩りで、九匹とはな」
 ルメイが地面に並べられた獲物を感慨深げに見下ろしている。
「つごう十八枚の甲羅よ」
 フィアが誇らしげに胸を張った。俺は笑顔で応え、拳を思い切り突き出して示した。フィアがしたやったりという顔で拳をぶつけてきた。ルメイも調子をつけて拳を合わせてくる。
「とりあえず、初日の狩りは大成功だな」
 俺たちは松明の照らす光のなか、満足げに頷きあった。


 その時、森の奥地から狼の咆哮が響いてきた。
 俺とルメイは慌てて辺りを見回したが、フィアは落ち着いた様子で、地面に並べられたオオルリコガネの死体に帆布をかけている。
「フィア、この声は狼か?」
 俺が鋭く問うと、フィアは帆布の隅に石を置きながら、そうね、と何事もないように答えた。俺とルメイは狼の長く尾を引く遠吠えに耳を澄ませている。
「距離が判らないけど、これはよほど遠くで──」
 ルメイが途中で言葉を止めた。別の方向から狼の声が答えている。さらに遠くから聞こえてくるようだが、気にするなと言う方が無理だ。広大な森のただなかで、俺たちを守ってくれるのはたった二本の松明のような気がして心細くなる。その松明も、火勢が弱まってきている。


 フィアが膝の汚れを払って立ち上がった。
「森には狼がいるものよ」
 そんな風に言われては返す言葉がない。俺とルメイは出来の悪い生徒のように顔を見合わせた。
「狼はまだ御しやすい方なの。警戒心が強いし、そもそも人間や火を嫌うわ」
 フィアは崖下に移動しながら、松明の明るいうちにほら穴に戻りましょう、という。その後ろを追うようにして崖を見上げると、斜面の辺りは松明の光が届いているが、崖の始まる辺りからほとんど闇に包まれている。
 先に立って斜面を登り始めたフィアが、背中を向けたまま呟くのが聞こえた。
「問題はモンスターたちよ」
 俺は背後をぐるっと見渡して闇に沈んでいく河原を眺めた後、フィアの後を追って崖を登り始めた。ほら穴の中が完全に安全とは言えないだろうが、少なくともここよりはましだ。


→つづき

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