星が降るようだ。
 夕方に浮かんでいた雲はほぼ地平に吹き流され、満天の星空がひろがっている。薄い月は西空にほぼ沈んでいる。漆黒に散りばめられた星々が小さく輝いて、夜空に貼りついているように見える。地平の暗黒から天の川が立ち上がり、俺たちはおろか広大な森さえ包み込んでしまっている。その光の雲を見ていると、巨人が背をかがめて俺を見下ろしているような気がしてくる。


 最後に星空を見上げたのはいつだろう。
 子供の頃、夜は家にいて外に出ることはほとんど無かった。王立士官学校で学んでいた頃と、近衛の仕事をしている時期は、空を見るどころではなかった。近衛を逃げ出して冒険者になってから、夜は疲れ果てて眠る時間だった。


 組んだ指が頭の重さを受けて岩に食い込む。だがむさぼるように星を見る目は疲れを知らない。星が降ってきて俺のなかに落ちてくるようだ。
 人生の大半は剣の修行で明け暮れた。こんな風に体を横たえてまともに夜空を見上げた記憶などない。星のことなどすっかり忘れていたが、星はいつも俺を見下ろしていたのだ。そのことに何故か愕然とする。こういうものに俺は目を向けずに生きてきた。一匹の地を這う獣に過ぎない俺には、この光景は計り知れないものを秘めているようにみえる。この世界は神秘そのものではないか。


 士官学校で受けた座学の授業を思い出す。
 占星術師たちは星の運行を記録して、その未来の姿を言い当てるという。錬金術師たちは物質変化の理を研究して、ある物から別の物を再構成させるという。白髪の博士たちはこの世界が水、土、木、金、火の五元素から成り立つという。
 日食の日を言い当て、金属を溶かす液体を調合し、人類はいつか全ての謎を解き明かすだろうと豪語する頭の良い人たちに尋ねてみたい。
 星々はなぜこんなにも輝いているのか?
 いったいこの世界というものは、なぜ存在しているのか?


 イルファーロで雑貨商でも営んでいたら、こんな感慨は持てなかっただろう。毎日のように仕入れをし、売り物を並べ、値段を決めねばならない。売れ残りを捌いて帳簿付けを終えた頃には美味い物が食いたくなるし、酒も飲みたくなる。そういう生活に、この世界がどんなものか考える時間など訪れない。
 俺はたまたま冒険者になって野辺を流離うことになり、この世界のなんたるかを否応なく突きつけられている。ときに繊細で、ときに荒々しく、一瞬の油断もならない、この美しい世界。


 自分たちが作ったものを眺めて、世界はこういうものだと思い込んでいるのは滑稽ではないか。俺は王都の街並みを退屈そうに眺め、雨風を凌いでくれる宿舎に寝起きしながらそのありがたみを知らず、衣食を賄う近衛の仕事に飽き飽きしていた。それでいて、この世のことは知り尽くしていると思っていた。
 俺のこのどうしようもない人生がどうなるのか知らないが、心に銘記しておこう。毎日足元を見て、手近な壁に触れ、小手先の仕事に時間を取られていたらすぐに忘れてしまうだろう。この世界は最初から最後まで神秘に包まれているのだ。


 隣で横になっているルメイが身じろぎし、スンと鼻を鳴らした。
「なんだか自分がどんどん小さくなってく気がするな」
 ルメイの言う通りだ。星空があまりに圧倒的で、俺たちの存在などは消し飛ばされてしまいそうだ。龍と目が合った瞬間もそうだった。俺は見透かされ、裸にされ、自分がいかに小さな存在か噛みしめねばならなかった。
「灯火が始まった。そろそろだよ」
 崖の上からフィアが声をかけた。俺は起き上がって炭の筆を取り、数字を書き留める準備をした。ルメイが蝋燭を持ち上げて手元を照らしてくれる。果たすべき役割があるのは良いものだ。


 いくらか口数の少なくなった俺たちは、灯火信号を記録していそいそとほら穴に戻った。その間、耳を澄ませていたが狼の声は聞こえてこなかった。
 温かい竈のそばに座ったフィアが、蝋燭の明かりを受ける方へ新聞を傾けて手に持った。それでは読みます、とフィアが言うので、俺たちは石に座って両手を腿に置いた。
 前半を一通り聞いているが、昨日とあまり変わり映えしない。王国に大きな事件はないようだ。イルファーロの雑貨相場がやや高いというのは気になった。俺たちは数日のうちに、いや、夢の中のイシリオンが言うには明後日の朝に、ここを発ってイルファーロへ帰る。そこでオオルリコガネの甲羅が幾らで売れるかが勝負なのだ。


 フィアは少し眠そうな顔をしながら、細めた目を新聞に近づけている。
「イルファーロ鍛冶屋協会の会長にバルバスタン氏就任。クォパティ寺院で炊き出し始まる。山賊の活動、活発。速報あり、だって!」
 フィアが急に大きな声を出した。うつらうつらし始めていたルメイが驚いて顔を上げた。フィアは紙面に食い入るように目を寄せている。
「カオカ櫓に山賊現る! サッコとオロンゾ、他四名。守備隊は弓で反撃。双方に死傷者なし」
「カオカ櫓を襲撃したってのか?」
 ルメイは信じられないという顔をしている。
「そういうことね。何のためにそんなことをするのか判らないけど……」
 フィアも言葉に詰まっている。


 その知らせに胸騒ぎを感じる。
「サッコとオロンゾが何を考えてるか気味が悪いな。ただ、双方に死傷者なしということは、本気で櫓を落とそうとしたわけじゃないな」
 フィアが新聞を下ろしたので眉根を寄せた思案顔が見えた。
「ほんの数人で落とせるわけがないわ。それはさすがに山賊たちも判ってる筈。なにか襲撃する理由があったのよ」
 ルメイがフィアから新聞を受け取って眺めながら、口惜しそうな顔をした。
「いっそのこと全員討伐してくれたら良かったんだがな」
「守備隊は数が少ないから、櫓を空にして追いかけ回すわけにはいかないだろうな」
 落ち着かない思いを抱いたまま、俺たちは暫く黙りこんだ。


「まあいいわ。考えてても仕方ない。明日の灯火新聞もきっと読みましょう」
 フィアがそばにあったルメイの裸足を掴んで手元に寄せた。ルメイは新聞を脇に放って、なんだなんだ、と声をあげた。
「ヒルに吸われたところ、化膿してないか見せて」
 フィアが蝋燭の火をルメイの足に近づけた。
「大丈夫だよ、大したことないって」
 ルメイがわたわたと手を振るが、フィアは真剣な顔をしてルメイの脛を見詰めている。俺は逃れようとするルメイの肩を、じっとして、と言って押さえた。ルメイが一瞬心外そうに振り向いた。
「傷口は膿んでない。良かった。ナイフでえぐったり焼いたりしないで済みそうね」
 ルメイが足を引っ込めて、やめてくれ、と懇願している。
「俺の足より、セネカの肩の方が気になるよ」
 ルメイの言葉にフィアが動きを止めた。


 フィアがずんずんと俺の方に歩いてくる。
「大丈夫だよ。心配には及ばない──」
 フィアが後ろに回り、キルティングの布服を裾からまくり上げた。肌寒い夜気がすうっと脇腹を撫でる。
「ちょっと待ってくれよ」
 制止しようとするが、フィアは両手を上げて、ときつい口調だ。ルメイが脇から、左の肩だよ、という声が袋を被ったようにくぐもって聞こえる。布服をすっかり脱がされると、フィアが俺の左腕を取って蝋燭を手繰り寄せた。
「痣ができてる」
「ちょっとぶつけただけだって」


「指を閉じたり開いたりして」
 フィアの真剣な眼差しに負けて俺は言われる通りにした。指が動かなかったらおおごとだろうにと思いながら。
「膝の曲げ伸ばしを」
 子供のように言われた通りにしているのが恥ずかしくなってくる。
「腕を上げて」
 水平くらいまでなら何ということもない。しかしフィアに、もっと高く、と言われて頭上まで上げた時、思わず痛みに顔をしかめた。
 ルメイが反対側から顔を寄せてきて、ナイフでえぐった方がいいんじゃないか、と言うので、その顔をぐいぐいと押しのけた。


「二人ともふざけないで」というフィアの声にはっとする。
「この打ち身、どうしたの?」
 俺とルメイは悪戯がばれた子供のようにしゅんとしている。
「四日ほど前かな。コボルトの棍棒を盾で受けた時、ちゃんと保持できてなかったから盾の縁がぶつかったんだよ」
「四日前ね。それじゃ出来ることはほとんどないわ」
 フィアが俺の腕を放した。それはそれでちょっと寂しい気がする。フィアは立ち上がって俺とルメイの間に割り込んできた。


「わたしは軽い怪我とか傷なら手当できるの。薬草や包帯を持ってるし、添木のあて方も知ってる。だからそういう時は声をかけて」
 フィアは俺たちの間にしゃがみこんで首に腕を回してきた。フィアの柔らかい亜麻服がするすると滑って素肌に心地よい。
「いい? 三人しかいないのよ? こんな怪我たいしたことないって子供みたいに頑張るのはいいけど、それが元でパーティーを危険にさらす訳にはいかないでしょ?」
 それはそうだ。何も言い返せない。俺は黙って頷いた。


「わたしがこんな風に猛烈に眠い時、あとは任せたって言うくらい頼みにしてるんだからね?」
 軽く締めてくる腕に抵抗して横を向くと、俯いたせいで頬に金髪がかかっているフィアの横顔が見えた。その瞼はほとんど落ちていて、まるでひどく酔っているように見える。俺たちに体重を預けている格好だ。俺は上半身を裸にされているので、亜麻服越しにフィアの体温が伝わってくる。
 やがてフィアの首がかくんと落ちた。とても深く息をしている。
 俺はルメイと顔を見合わせ、フィアの腕を取って立たせると、寝床まで連れて行った。寝床といっても枯葉を敷いて帆布をかけてあるだけなので、そっと横たわらせる。


「よほど疲れたんだな」
 ルメイがフィアの胸元まで毛布をかけてやっている。俺はキルティングの布服を首から被って身に着けた。
「朝から歩き詰めだったからな」
 フィアが何事か唸りながら体を丸めた。ルメイが甲斐甲斐しく毛布を掛け直している。俺とルメイは立ったまま、寝息をたてているフィアを見守った。フィアが何歳なのか知らないが、まだ少女の面影が残っているように見える。
「なんで一人だったか知らないけど、大変だったろうな」
 ルメイがぼそっと呟いた。無防備な寝顔のフィアを見ているうちに、守ってやらないとという気がしてきた。今のところ、こちらが世話になりっぱなしではあるが。
「そうだな。何とか狩りを成功させて、暫くは街で休めるようにしてやりたいな」
 ルメイの顔に浮かんでいる慈愛が、おそらくは俺の顔にも浮かんでいるのだろう。


 ルメイが蝋燭を消し、のっそりと寝床に横たわった。
「それじゃ、俺も横にならせてもらうよ」
 ほら穴の中は再び闇に包まれた。竈の火はもう爆ぜることもなく、赤黒い光をぼんやりと周囲に放っているだけだ。俺はその仄暗い明かりのなかで、壁に立てかけてあった剣を手に取った。
 これで世に打って出ると思った時期があったのだ。
 上下に揺らして剣の重みを確かめながら、しみじみと思う。近衛を逃げ出してからこっち、色々なものを見てきた。もはや剣での栄達など何の魅力も感じない。それは人間の誉というよりは、土地や風向きが決めると言っても良いほどの偶然の産物だ。


 バイロン卿に取り込まれて忠誠心をみせていたら、俺はもしかして栄達を手に入れたかもしれない。あの時、デルティス城の裏門から城下町に逃げる人々を堰き止めようとしていた時、恐怖に震える女たちや不安に泣く子供たちを捕えるのに良心の呵責を感じさえしなければ、降格された大隊長の代わりにその役を任されていたかもしれない。金ぴかの飾りがついた兜を被って儀仗兵の先頭をゆくのが、自分の村を捨てて来た少年の夢ではなかったのか?


 だがそうはならなかった。
 食うや食わずの暮らしが長引くと、実入りの良い職に名残惜しさは感じる。しかし、自分が苦労知らずの坊ちゃんのように得意になっているところなど想像もしたくない。貴族の子弟でそういう輩を沢山みてきた。自分が何者かも判らずに大袈裟に振る舞う奴をみていると実に度し難い。そんなことを自分に許すには、俺は硬いパンを食い過ぎた。それは美酒と違って、何度も噛みしめてからやっと味がする。それが人生ではないのか。


 長い剣を寝床の脇に、短刀を枕元に置き、横になった。
 暗さに目が慣れて竈のあたりで小さな炎が揺れているのが見える。毛布を胸まで引き上げ、ほら穴の入口を振り返った。夜空で星が瞬いている。鳴子の音はしないし、狼の遠吠えも聞こえてこない。心のどこかに、昼寝をしたお前は寝ずの番をした方が良いのではないか、という思いが浮かぶ。その厄介な物をしばらく手の平で転がしていたが、すぐに放ってしまった。明日は早起きをして、また一日働き詰めになるのだ。
 首を動かして枯葉のなかに頭を落ち着かせると、抗い難い睡魔が全身を包み込んだ。大きく息をついて体の力を抜くと、地面が沈み込んでいくような気がする。俺は死んだことはないが、それは死のように甘美だ。


→つづき

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