甲冑姿の男たちが息を切らせて走っている。
 苔むした古い石畳の街を一団となって走る二十人の男たち。夜が明けたばかりでまだ薄暗い地面に、鉄靴の音が響き渡っている。先頭を行くのは近衛きっての長身痩躯、トマス・ブライトナー。名前がすんなりと出て来た。


 デルティスの城下町はまだ目を覚ましたばかりだ。
 右手に石造りの街並みが広がり、砂岩煉瓦の壁に開いた縦長の窓と、焦げ茶色のスレートで葺いた三角の屋根が見える。左手には腰程の高さしかない木組みの欄干が続き、少し低くなって用水路が流れている。空は霞んだような灰色で、静かに流れる水は深緑をしている。そうした景色の中で、俺たちの甲冑だけが横ざまに射す朝日を銀色に反射させている。


 荷物を担いだ行商人が慌てて脇に避け、通り過ぎる俺たちを眺めている。途中ですれ違った街の人たちはみな、怪訝そうに俺たちを見送った。走っている時はそんなことを考える余裕はなかったが、城下町の人たちにとって俺たちは殺気立った武装集団に見えただろう。
 この後、近衛兵は擾乱を収めるのに奔走しなければならなくなったが、皮肉にも俺たちがその火種だったのだ。世に言うデルティスの変は、この前夜にクシャーフの丘で起きた。そしてその翌朝には、他ならぬ近衛の手によって、舞台をデルティスに移した。


 ほんの少し前、デルティス城の正門で城代ブルーノとデルティス公の長男カールを捕縛していた。前夜に発生したディメント王暗殺未遂事件の首謀者、デルティス公に連なる者として尋問するためである。
 ブルーノは剣こそ抜かなかったが、正門の奥にある頑丈な鉄門を閉めて鍵を城内側に投げ入れてしまった。その上、城の者たちに逃げろと伝えたのだ。
 バイロン卿に付き従ってその場にいた近衛兵は五十人で、攻城槌の類は持ちこんでいなかった。突破に手間取るうちにその他の容疑者を取り逃がす恐れがあり、半数ちかい二十人が裏門に派遣されることとなった。その別働隊の指揮は、俺に任された。


 正門前の掘に掛かった跳ね上げ橋を渡ってすぐ、トマスの名を呼んだ。街並みを見れば二階建て三階建ての屋根が複雑に絡み合っていて、路地が細かい。敢えてこういう作りにしてあるのだろう。俺は土地勘がないので迷う心配があった。そこで咄嗟に、デルティス育ちのトマスに案内させることを思いついたのだ。
 背の高い男がのっそりと前に出て来て面覆いを上げ、ここに、という。甲冑を装備していると誰だか判らないので、呼ばれた者は返事をして顔を見せる。しかしトマスだけは遠くからでもすぐに判る。他の隊員より頭ひとつ分は背が高いのだ。


「裏門まで先導してくれ」
 彫りの深い顔に面覆いの影を落としていたトマスが一瞬返事を遅らせた。
「最短のコースで頼む」と付け加える。
「判りました」
 トマスの声は沈んでいた筈だが、俺は気付かなかった。彼は自分の生まれ故郷に武器を帯びて侵入しなければならなかったのだ。だが仕方ない。それが仕事だったのだ。トマスは面覆いを下ろし、街なかへ駆け出した。


 近衛は基礎鍛錬の厳しい部門だが、甲冑をつけたまま走るのは相当にきつい。駆けに駆けて裏門の前の広場が見えて来た時はほっとした。しかし俺たちは出遅れていた。堀と用水路に挟まれた広場には、裏門から着の身着のままで飛び出してきた様々な人間で溢れかえっていた。数百人はいる。
「広場の出口を封鎖!」
 そう命じて部下たちを並ばせた。堀の上に渡された細い通用門に先着していたら、この人数で十分に封鎖できただろう。しかし目の前の群衆はそこを通過して広場に出てしまっている。こいつらが全員で押し寄せてきたら、二十人で抑え切れるものではない。


 道を塞がれたと思った人々が脇へ逃げ始めた。用水路につながる低い土手から水深の浅い場所を探す者たち。広場の区画の隅にある塀を登ろうとする男たち。俺たちが見えない城内からは、まだ細い裏門を通って広場に出てくる人たちもいる。
 内心に焦りが込み上げてきた。
 ここにいる人たちはほぼ全て無垢の人々だ。職務のためとはいえ剣を振りかざすようなことはしたくない。だが逆上して襲いかかってきたら身を守らねばならない。


 この中にデルティス公がいるのだろうかと思って見まわした。
 スカートの裾を持ち上げて息を弾ませながら走り寄って来た女たちが、立ち塞がる俺たちを見て呆然としている。おそらく城内は大混乱しているのだ。半信半疑で裏門から逃げようとした時、金属鎧で完全武装した集団が待ち構えていたら慌てるのに決まっている。
 鞄を両手に提げて外につながる道がないか探し回っている男がいる。普段は城で事務を執る者たちに違いない。他にも、騾馬の背に荷を積んだ商人や、背嚢を担いだ行商人たちが不安そうに周囲を見渡している。


 人波を掻き分けて前に出てきた若い女が、俺たちを見て悲鳴を上げた。その甲高い声に触発されたかのように人々が仲間内で寄り合い、口々に叫び始めた。小さな子供たちが何人か泣き始める。
 これはまずい。恐慌に陥ったら大事になる。俺は群衆にゆっくり近寄り、片手を上げた。
「落ち着いて。敵襲じゃない。俺たちは近衛だ」
 俺が何を言うか聞くために、辺りが静まり返った。
「バイロン卿の命令で謀反人を探している。大人しく誘導に従ってもらえたら、市民に武器を向けることはない」
 ざわめきが広がった。どこからか、謀反人て誰だ、と叫ぶ声がした。


「デルティス公フランツ・フォン・リヒテンシュタイン!」
 俺は大声で呼ばわった。
「もしこの中に居るのなら、大人しく前に進み出て欲しい。荒事は避けたい。事の真偽はいずれ公正な裁判ではっきりするだろう」
 後から後から膨れ上がる群衆の数が、その何百という人々の顔が、俺に「公正な裁判」という言葉を言わしめた。その言葉を聞いた人々に俺は謝らなければならない。この変事でバイロン卿に捕えられたデルティス公の長男カールと次男ヴィクトルは、閉ざされた宮廷裁判の後に処刑された。城代ブルーノも獄中で病死している。それを公正な裁きと言い切るほど、俺の面の皮は厚くない。


 群衆のなかから、軽装ながら武装した者が五名ほど前に出てきた。金属の胸当を身に着け、片手剣を吊るしている。どうやら城兵のようだ。
「我が領主への悪しざまな言葉、近衛といえど許し難い」
 俺はさらに数歩前に出て相手をよく見た。五十才は越えた黒髪の老兵で、依怙地な眼光を鋭く向けてくる。しかしバイロン卿が書いたリストの中に名前がある人物でないことは明らかだ。


 俺は面覆いを一瞬あげて顔を見せ、小声で話しかけた。
「近衛の一番隊隊長、セネカだ。そちらは?」
 老兵が俺を睨む眼もそのままに、貴族の若造めが、と呟いた。
「守備隊長のセブロだ。謀反とは何だ?」
 俺は思わず顔をしかめた。こんな所で昨夜の出来事を悠長に話している暇はない。しかし相手はそれを聞くまで納得しないだろう。頭の中で小さな独楽が回り始める。俺の知っていることをそのまま伝えたら、この守備隊長は決して言うことを聞かないだろう。デルティス公が王を暗殺しようとしたなどという話は、俺自身にも信じられないのだ。


「俺は平民の出だ。あんたと同じ、馬小屋の糞の匂いで目を覚ましたくちだ。だから汚い言葉も受け流す処世術を身に着けている」
 セブロの目がぎゅっと細められた。
「昨日、クシャーフの丘で閲兵式があったのは知ってるな?」
 黙って頷いている。
「おたくの領主様は、王の目の前で、バイロン卿と激しい口論をなされた。そして式の途中で、あろうことか領地へ帰還されてしまった。お蔭で俺たちはやんごとなき方をほうぼう探し回る任務を頂いたというわけだ。実に有難い話だ」
 セブロがさらに目を細めて唸った。領主がバイロン卿と犬猿の仲であることも、激情家であることも知っているのだ。


「貴族の中の貴族にして我が上司、バイロン卿はここぞとばかりに謀反だと騒ぎ立てている。あまりご乱心めされるので頭に振った白い粉が俺の制服に飛び散ったくらいだ。なぜお前の領主は、あの因業爺に勝手なことを言わせるような隙を作るのだ?」
 畳みかけるようにして言葉をぶつけると、老兵が目を白黒させた。なんとかこちらのペースに持ち込めそうだ。
「閲兵式で薬師卿と怒鳴り合って途中で帰るなど前代未聞だ。王は寛容なお方だが、こたびの事でデルティス公はなにがしかの咎めを受ける事になると思うぞ」


 一介の兵士の言葉ではあるが、セブロは俯いてぐうの音も出ない。
「激高されぬよう、かねてより様々な方よりご注進されていたのだが……」
「後の祭りだ! 俺はリストされた人物を連行して帰り、早いところ飯が食いたいだけだ。ここに集まってる何の関係もない連中に武器を向ける積りはない」
「御館様はまだ城に戻られていない。他に誰を連行しようと言うのだ?」
 セブロが顔を上げて疑わしげな顔で俺を見た。俺が小さな声で数名の名を告げると、その瞳に不敵の色が現れた。


「お勤めご苦労なことだな。お前自身がその命令を正しいと思うなら、やってみるがいい」
 老兵は自分を取り戻し、逆捩じを食らわせてきた。
「御館様が責められるのは致し方なかろう。だがカール様やヴィクトル様、まして年端もゆかぬ姫御前、ソフィア様になんの罪がある?」
 今度は俺が答に窮した。俺はいっそ言ってやりたくなった。
 判るだろう、セブロ。薬師卿の位まで登りつめたバイロン卿はこの際、リヒテンシュタイン家の血を絶やしたいんだよ。デルティス公が王の姉を娶ったりするからこういうことになる。王侯貴族に仕える身でありながら、意味が判らんなどとは言わせんぞ。そして悲しいかな、俺たち近衛はきょうび、薬師卿の使い走りをやらされているのだ。


 英雄にも悪党にもなれない俺の口から実際に出て来たのは、こんな言葉だ。
「人が多くてやりづらい。リストのことは忘れて女子供は通してやる。だが男は検める。それでどうだ」
 老兵セブロが顔を歪めて笑った。
「まずは女子供を通してから言え」
 そう言って仲間たちの固まっている所へ帰り、振り返って剣の柄に手を添えている。見れば城兵は軽装ながら既に十名以上が集まっている。デルティス公に忠誠を誓った者たちで、最後には近衛に対して剣を抜くことも辞さないだろう。厄介なことになった。


 隊列のところまで戻って女子供を通すことを伝えると、副隊長のバーミンガムが血相を変えて面覆いを上げた。意見する者は顔を見せる。
「捕える者のリストにはヴィクトルやソフィアの名もあります。まだ十代の子供です。女子供を通してしまっては取り逃がします」
 俺は面覆いを上げ、怒りと侮蔑のまじった目でバーミンガムを睨んだ。こいつは今、バイロン卿の命令を笠に着て物を言っている。俺より年嵩の副隊長は素晴らしい家柄を誇っているが、現実を直視することが出来ない。


「今、俺たちの目の前に城から出てきた奴らがいるな。何人くらいだ?」
 バーミンガムは目をしばたかせて緊張した。頭をずらして俺の背後を見てから、おずおずと答える。
「二、三百人くらいでしょうか」
「武装してる者はどれくらいか?」
 また俺の背後をちらちらと見ている。
「……二十人くらい?」
「なるほど」
 俺は言葉を区切って隊員の顔をずらっと眺めた。物が判る人間ならば、絵が見える筈だ。自分の剣が丸腰の市民を切り裂いて血塗れになる絵が。俺はそんなことをするために近衛になったのではない。


「完全武装して整列している俺たちの所へ、真っ先に向かって来るのは度胸がいる。だから俺たちは今、あの群衆を堰き止めていられる。だが俺たちが女子供を、それも領主の子らを縛り始めたら、あいつらは大人しく見ているかな?」
「我らは近衛、王に仕える身分です!」
 バーミンガムが馬鹿みたいに胸を張って答えた。こいつを群衆のただ中に立たせておきたい気がしてくる。だが隊員のうち何名かが小さく首を振っており、俺は多少の溜飲を下げた。
「それなら、あの連中が殺到してきたらお前が盾になれ。一番前に立って、俺は王に仕える身分だと叫べ。俺たちとは言うなよ。巻き添えは御免だ」
 隊員の何人かが顔を反らせて小さく肩を揺らしている。バーミンガムは屈辱を感じるらしく顔を歪めたが、それを隠すのに面覆いを下げて退いた。


 俺は再び群衆の方へゆっくりと歩み寄り、片手を上げた。
「俺たちの仕事をさせてくれ。女子供に用はない。顔を見せながら、広場の隅をまわって出て行ってくれ」
 広場は喧噪に包まれた。俺の言葉を疑うのか、誰も前に出てこない。俺は繰り返し、女子供は出てくれ、と叫んだ。


 やがて一人の女が人波をかき分けて前に出てきた。黒いコートを着て、やはり黒のロングスカートを履いている。
「わたしはタウアー家の召使い、ナタリエ。この騒動とは何の関係もないわ。街に戻って帰り支度をしたいの」
 よく通る声をしている。四十絡みの年増だが、度胸のある女だ。
「わかった。そっちからぐるっと回って外に出てくれ」
 俺は隊員たちが整列している出口の外縁をざっと指でなぞってみせた。


 まるで何かの儀式のようだ。緊張した面持ちの女が、広場の縁に沿って直角に歩き、外へ出て行く。完全に外へ出てから、こちらを振り返り、小走りに城下町へと去ってゆく。息を詰めて見守っていた群衆が俄かに騒がしくなった。女たちがめいめいに前に出て名乗りを始めたのだ。
「名乗らなくていい! 女子供は出てくれ!」
 みるみる行列が出来て女と子供が広場から出て行く。背の低い娘も、年をとったご婦人も、泣きながら背中を押される子供たちも、連なって歩いて行く。副隊長のバーミンガムが忙しそうに行列の顔ぶれを確かめているが、こんなに大勢が一斉に通り過ぎては検められるものではない。人が一気に減った。


 広場に残った百人ほどの男たちに声をかける。
「その場でじっとしててくれ。すぐに終わる」
 隊員のうち、トマスを呼んで二人で群衆のただ中に入った。トマスはリストにある人物の顔を全て知っている。一人一人と正対して、関係ない人物には「外へ出て」と声をかけていく。視線がいちいち遮られて煩わしいので俺もトマスに倣って面覆いを上げた。残された男たちは一様に不安そうな顔をして突っ立っている。


 二十人ほどを見定めた時、トマスがふと立ち止まった。城兵が一塊になっている所へすたすたと歩いていく。守備隊長のセブロが険しい顔をして立ちはだかった。
「俺たちに何か用か?」
 トマスは背伸びをして、セブロの背後にいる一人の城兵を指差した。
「君、顔をよく見せてくれ」
 トマスに名指しされた城兵はどうにも若過ぎる。顔を見せてくれと言われても俯くばかりだ。


 俺は敢えてのんびりとした声を出した。
「何も怖いことはない。顔を上げてくれ」
 そう言いながら俺が見ていたのはセブロの右腕だ。セブロは空とぼけた顔をして体をだらんとさせている。老兵はさすがに気配を微塵も感じさせないが、少年のように若い城兵の周りにいる者たちの顔が緊張で歪んでいる。
 俺たちはヴィクトル少年を見つけてしまったのだ。セブロを始めとする城兵に紛れて逃亡する積りだったのだろう。ヴィクトル少年は顔を蒼白にして震えている。デルティス公本人ならともかく、こんな子供をバイロン卿の生贄にする必要はない。俺はトマスの腕を掴んで下げようとした。


「トマス、ここはもういい。よそを──」
 最後まで言い終えることが出来なかった。城兵のうち一人が抜刀してトマスを突いた。俺も咄嗟に剣を抜き、城兵の剣がトマスの顔に刺さる前に跳ね上げた。のけ反ったトマスが二歩下がって抜刀した。俺も二歩下がってその隣に付いた。城兵に扮した少年が顔をあげ、俺をきっと睨んだ。
「僕はヴィクトル・シモン・フォン・リヒテンシュタイン。もし僕を探しているなら、僕だけを捕まえたらいい。他の人は関係ないから立ち去らせて」
 城兵たちが抜刀しようとするのを守備隊長のセブロが手で制した。そして俺が何と言うかじっと見詰めている。


 血を見るか否かの瀬戸際で、俺は面覆いの外れた顔にありありと苦汁をにじませながら言葉を発した。
「剣を抜いたのは本意ではない。そちらが先に斬りかかったからだ。この少年はヴィクトル公に似ているので声をかけたが、どうやら別人の──」
 またしても最後まで言えなかった。背後から鉄靴の音が響いてくる。副隊長のバーミンガムが勝手に指示を出したのだ。隊員たちが持ち場を離れ、抜刀して詰め寄ってくる。
「待て、落ち着け!」
 俺は首だけで振り向いて怒鳴った。しかし興奮した隊員たちは大声をあげて歩を詰めてくる。広場にいた他の男たちが難を逃れようとして引いて行った。


 近衛が走ってくるのを見て、城兵たちが抜刀した。ヴィクトル少年を庇おうとして前に出てくる。俺とトマスは剣を構えたままにじり下がった。
 最後まで剣を抜いていないセブロを見た。老兵はじりじりと迫りくる近衛を前に目を細め唇を歪めていたが、やがて諦めたように抜刀した。俺もそれを見て諦めた。なんとか穏便に済まそうとした俺の気持ちをセブロは判ってくれたかも知れない。しかしこうなっては誰にも止めようがない。


 ひとしきり剣戟の音が響いた。
 しかし軽装の城兵と完全武装の近衛兵では勝負にならない。たちまち城兵の半数が背後に逃げ出した。ヴィクトルを庇って頑張っているのはセブロと五人の城兵だけだ。早くも包囲されてじりじりと後退し、やがて壁際に追い詰められた。
「待て!」
 身を乗り出して剣を振るおうとするバーミンガムを止めた。こいつは二重三重の意味で間違っている。壁を背にした人間を最後まで押し切ろうとすれば思いもよらない抵抗を受ける。それに、もう大勢が決しているのにこれ以上血を見る必要はない。


 近衛兵には一人も怪我をした者がいない。城兵のうち一人が脚を斬られて伏せているが、致命傷ではない。他の者は城の中へ退却している。城内とは言っても既に正門側は制圧されつつあり、逃げ道はない。
「これ以上の流血は無意味だ」と俺は言った。「剣を納めてくれ」
 ぐるりと包囲された城兵は戦意を喪失している。ただヴィクトル少年だけが震える剣を高々と構えており、その横にぴったりと老いたセブロが並んでいる。セブロは剣を構えたままだとしんどいので刀身を肩に預けている。その肩は上下に激しく揺れているが、瞳は落ち着いたものだ。


「みすみすヴィクトル様を連れ去られたとあっては名折れだ。ここで死ぬので付きあってもらえるかな」
 セブロが剣で俺を指す。ヴィクトル少年がはっとしてセブロを見たが、何も言わない。俺は「よし」と答えて一歩前に出た。隊員たちは俺の技量を知っているので黙って数歩さがった。セブロは万一の機会に賭けたいのだろうが、これで誰も殺さずに済むかもしれない。
 剣の修行を積んできて良かった。この老兵に敵わないと思えば、俺は名指しされたのを断らねばならない。そういう恰好悪いことをせずに済んだ。


 尋常に切結ぼうと剣の間合いに立とうとした瞬間、セブロが手にした砂を浴びせて来た。俺は面覆いを上げていたので狙い易かっただろう。目をつぶり、剣で円弧を描きながら一歩下がった。面覆いを下げる。顔にかかった砂が唇に付くほどの量を、いつの間にか握り締めていたのだ。砂がさらさらと鎖骨に流れ落ちた。
 目を開けると、セブロはやはり剣の間合いの正面に立ち、こちらの面を突いてくるところだった。俺は完全に武装していて、遠くから撫で斬られても避ける必要さえない。こちらの視力を一瞬でも奪ったなら、狙うは即死させる急所のみ。セブロは正確に突くために右手を引き、小手をつけた左手を大きく前に突出し、その指で剣先に近いところを支えている。


 肉薄して面の隙間に剣先を滑り込ませようとするセブロに対し、俺は横を向いてその切先を避けた。避ける直前、セブロの小手の中からするすると剣が伸びてくるのが見えた。右の頬の辺りにカンッという衝撃がきた。切っ先が鎧の隙間に入り込んでから力強く突く技なので、力技を受けたような衝撃はない。
 俺は自分の剣の刃元でセブロの剣を跳ね上げ、そのまま柄尻を持ち上げて小手を突いた。その動作は相手が見えていなくても出来る。剣を交えた瞬間に相手の小手の位置が判るのだ。


 小手を刺した手応えがあり、セブロが呻く声が聞こえた。
 俺は左に進んでから向き直り、剣を小さく振りかぶった。小手を庇って浮いているセブロの剣を強かに叩き落とす。慌てて剣を拾おうとして下げた頭を押さえ込み、体重をかけた。前のめりに倒れたセブロの肩を膝で押さえ、剣先を他の城兵たちに向ける。
「ここを生き延びれば先があるかもしれない。だが剣を捨てないなら殺す!」
 俺の言葉を受けて城兵たちは剣を捨てた。ヴィクトル少年も剣を下ろした。その全員を部下たちが押さえて捕縛してゆく。


「卑怯なことしやがって」
 バーミンガムが縛られたセブロの背中を拳で打った。決闘で砂を投げた老兵は何も答えない。この男が自分のためにした事なら卑怯だったかもしれない。だがこの男はどうしても領主の子を逃がしたかったのだ。ヴィクトルはセブロの隣で顔を伏せ、声をたてないように涙を振り絞っている。思えば、俺がヴィクトルを見たのはこれが最後だった。


 周囲を見回すと、その場に留めていた他の男たちは皆、城下へと走り去っていた。リストには女子供の他に執事オイゲンや会計役クレメンスの名前があったが、もしこの場にその二人がいたとしてももはや見つけようがなかった。
 セブロに悪態をついているバーミンガムの肩をぐいと引いた。
「なぜ勝手に持ち場を離れた」
 俺が詰問すると、バーミンガムは心外そうな顔をした。
「隊長とトマスが危なかったからです」
 こいつが勝手なことをしなければ、血を見ずに済んだかもしれないのに。思わず殴りたくなるのを堪えた。
「他の男たちはみな逃げたぞ。オイゲンやクレメンスのことはどうする積りだ」
 バーミンガムは目を逸らした。


 この日の午後、デルティス城は近衛兵によって完全に制圧された。その後の数日で城内は徹底的に調査されたが、リストの人物は一人も見つからなかった。俺が指揮する別働隊はヴィクトル少年一人しか捕えることが出来なかったのだ。
 バーミンガムは自分の落ち度を棚に上げ、広場の人たちを俺がわざと逃がしたとバイロン卿に告げた。半分は本当のことだから抗弁しづらい。俺は確かに女子供を逃がしたのだ。その中にソフィア公女が混じっていたかもしれない。しかし今にして思えば、ヴィクトル少年を逃がしてやれなかったことに悔いが残る。獄につながれたセブロたちがどうなったのかも、俺は知らない。


 後日、俺はバイロン卿から執務室に呼び出され、隊長から降格する旨を告げられた。バイロン卿に恭順なバーミンガムが隊長に昇格した。だが幸いにも、俺はバーミンガムから命令を受ける屈辱を味わわずに済んだ。
 辺境調査隊に編入されたからだ。調査隊といえば聞こえがいいが、要するに、バイロン卿の不興を被った者たちを殉職させるための部署だ。俺の人生は暗闇に閉ざされた。文字通り、自分の手も見えないほどの闇に包まれる。真っ暗だ。


 どういうことだ。ここはどこだ。
 かたく目をつぶってから、ゆっくりと目を開けた。俺はベッドに腰掛けており、目の前には蝋燭の置かれた小さなテーブルがある。ここはルーアンの安宿だ。そしてエルフのご老人が椅子に座って俺を真っ直ぐに見ている。
 これは前の夢の続きではないか。
 俺は小手をつけていない自分の両手を見て長く息を吐いた。デルティス城の騒乱の日は思い出すだけで疲れる。そういえばこの夢を見るのは初めてではない。


「こういう悪趣味なことはやめて頂きたい」
 俺は自分にそんなことが許されるのか怖い気もしたが、わずかな怒りをにじませながら老人に抗議した。
「すまない。またお邪魔させてもらっている」
 イシリオンは無表情に答えた。時刻も夜で、午睡の時に見た夢のまさに続きという体裁になっている。老人の背後の壁に投げかけられた影も、夜風に揺れるカーテンも、俺には現実のものに見える。こんな幻惑をかけられたら、そのうち何が現実で何が夢か判らなくなってしまうだろう。


「これは何かの魔法ですか?」
 俺は身の回りの品々を手をひらひらさせて示しながら声をかけた。イシリオンはゆっくりと首を振ってみせた。
「いや。すべて君自身が創り出しているものだよ。わたしはこの街に来たことがないし、こういう宿には泊まったこともない」
 イシリオンは落ち着いた様子で狭い部屋を見回している。こういう宿とはどういう宿のことを指すのか。俺がここでセシルと夜を過ごすことを知っているのだろうか。この人にかかったら秘密もへったくれもない。


 イシリオンがひとつ咳払いをした。
「今、一緒に見させてもらったのだが、君はあの日、デルティスにいたのだな」
 老人が何を言い出すか判らず、俺はそっと頷いた。
「この夢は眠りに呑まれる。だがその前に一つ聞いておきたい」
 何も答えたくない。俺は何も答えたくない気分だ。
「広場から最初の女が出て行った後、それに続く行列が出来た。その先頭が誰だったか、覚えているか?」
 掛け値なしに覚えていない。俺は首を振った。イシリオンはほとんど表情を動かさないが、わずかに一度頷いたようだ。
「運命はかくの如し」
 イシリオンがそう言うのと同時に、辺りは闇に包まれた。


→つづき

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