寝返りをうつと、スープの匂いがした。
 まどろみながらも、それが柔らかく煮えた蕪の匂いであることが判る。つぶった瞼の裏側に、幼かった頃の記憶が浮かんでは消える。ふかふかの毛布、清潔なシーツ、兄弟たちの寝息、カーテンの隙間から漏れる朝日。世界は優しく俺を包み、飢えも寒さも知らずに済んだ。たまに早く目を覚ますと厨房からパンを焼く匂いがしたものだった。


 薄目を開けると、ほら穴の中はまだ暗い。森は闇の底にあり、黒い空に星が出ている。頬に当たる帆布はざらつき、わずかに敷き詰めた枯葉の下に岩の硬さを感じる。毛布やシーツが当たり前の世界から遠く離れた場所で目を覚ましたのだ。森は冷酷で容赦がない。俺たちはそれに備えなければならない。
 スープが煮えるコトコトという音が玄室に微かに響いている。振り向いて薪の火に照らされた竈の方を見ると、湯気のたつ鍋からフィアがスープを味見している。この匂いはわるくない。呪いの森で目を覚ましたにしては、良い目覚めだ。


「おはよう、フィア」
 上半身を起こして声をかけるとフィアが肩をすくめた。髪はすでに上げてあり、馬の尻尾のように後頭部から垂れている。今日の狩りにかける意気込みが伝わってくる。
 フィアはこちらを向いて申し訳なさそうな顔をした。
「おはよう、セネカ。起こしちゃったね」
「スープの匂いで目が覚めるなら上々だ」
 ルメイがああ、と声を漏らして寝床で背伸びをした。
「いい匂いがするなあ」
 上半身を起こして目を擦りながらついでに欠伸をしている。


 日の出には狩場に繰り出さねばならない。
 俺はさっそく起き出して革袋の栓を細く開け、滴る水で顔を洗った。ルメイも立ち上がって空を眺めている。皆が起き出したのでフィアが蝋燭に火を灯してくれた。ほら穴の中が明るくなる。黄金の森での狩りもいよいよ二回目で、期待に胸が膨らむ。
「これ、硬くなってるけど捨てるの勿体ないから食べよう」
 フィアが蕪のスープをカップに注ぎ、丸パンをひとつずつ配ってくれた。受け取ったパンを鼻の下に押し付けるようにして匂いを嗅ぐ。確かに少し硬いが、パンの香りが残っている。ひとくち噛み千切って熱いスープを口に含んだ。蕪は蕩けるようで、なんとも言えない良い味だ。


 朝飯を食べながら、床に置かれた道具を眺める。ロープが一巻、木に巻きつける大きな罠網が一枚、松明が一本。スープを飲んでいたルメイが罠網の端を何気なく持ち上げた。
「これ、どうせならもう一つ二つ用意して、一度に採れる虫を増やしたらどうなの?」
 昨日の初めての狩りで、三本の木に罠網を巻くつもりが時間切れで二本にしか巻けていない。今から罠網を一つ追加するが、もっと増やしたらどうかというルメイの提案だ。
「もし余裕があったらもう一つ編むね。でも昨日と違って、罠網を巻いた木からは相当な数の虫が採れるよ」
 ルメイは罠網から手を放して、そういうものか、などと呟いている。


 食事を終えた俺たちは荷物を背嚢に詰めてほら穴を出た。空がうっすらと青みを帯びているが、まだ日の出には間がある。森は黒々として底が知れない。最後に出て来たフィアは蝋燭を吹き消し、竈の残り火で松明に火をつけてきた。いつの間に拵えたのか、崖の縁に松明の架台が付いている。フィアはそこに松明を差し込んだ。
「狩りが終わる頃は明るいと思うから、松明はこれだけにするね」
 風がほとんどないので炎がまっすぐに立ち上っている。その明かりが崖下をかろうじて照らしている。微かに水の音が聞こえてくるが、暗くて小川はよく見えない。


 崖から下りると、まずは昨日の収穫を確かめた。
 帆布をめくると丸々としたオオルリコガネの死体がびっしりと並んでいる。朝露に濡れていることもない。これが大金で売れると思うと心が浮き足たつ。フィアがよしよしと頷いてから帆布を戻した。
 そのそばに背嚢を並べて置く。ルメイがじっと空の色を見ている隣で、フィアは脚の曲げ伸ばしをしている。俺は左肩を大きく回してみた。痛みは少しずつ引いてきているようだ。虫どもよ、待っていろ。何千匹いるのか知らないが、片っ端から黄金に替えてやる。


 俺たちは自然に動きを止め、空を仰いだ。
 日の出前ではあるが星々が姿を消し、地上にいる俺たちが互いを見分けられる程度の不思議な明るさが空から降り注いだ。フィアがゆっくりと俺たちに頷いてみせた。命懸けの狩りの始まりだ。
 フィアは背をかがめ、片手を地面につくようにして小走りに進んだ。森の入口にある大岩の所まで進むと、両手をついて身を伏せた。そのままにじり進んで下草を分け、森の中を覗いている。俺とルメイもその後に続いた。岩に身を付けてそっと森を覗くが、まだ何も見えない。ただオオルリコガネたちが羽根を擦るブブブブブという音が低く唸っている。


 辺りがさあっと明るくなった。
 こんな森の奥地に俺たちがいなければ、誰もこの日の出には立ち会わなかったのだ。東の稜線にわずかに顔を出した太陽を感慨深く眺める。森の上空に浮かぶ細切れの雲が明るさを増した。雲は夜空に浮かぶ染みのようにしか見えなかったのに、陽光に照らされた瞬間、形を帯びて生まれ変わったように見えた。
 小川の水が輝いて、ほんの数十歩の所を流れているのがはっきり見えると、水音が増したような気がした。


 オオルリコガネたちが木を登り始めた。
 棘の付いた脚をカシャカシャと動かす音が無数に重なって響いてくる。昨夜とはちがって逆光で、見上げる梢の方がわずかに黄金色に見える。俺とルメイがブーツをにじらせると、フィアが手の平を伏せて何かを抑え込むような手振りをした。その身振りの強さに思わず怯んだ。力もこもる筈で、このタイミングに三人の命が懸っている。早過ぎれば無数の毒虫にたかられ、遅ければ狩りの時間がとれなくなる。
 フィアが手をさっと一振りして走り始めた。こういう時のフィアは恐ろしくすばしこい。急いでその後を追った。


 森に入った途端、あまりの眩しさに目を覆った。日光がほぼ水平に差し込んで森は黄金色に輝き、木の幹が蒸発したかのようにぼやけて細くなった。手近にある木の幹のこちら側だけが影になって垂直に立ち上がっている。
 なんとか目が慣れると、昨日の狩りで罠網をしかけた木の幹にオオルリコガネが鈴生りになっているのが見えた。その数に思わずたじろぐ。目に見えるこちら側だけでも四、五匹が立ち往生している。罠網から飛び出た小さな輪に鉤爪が引っ掛かり、それを外そうとしてもがいているのだ。
 生まれてこのかた使ってきた物差しがぐらぐらと揺さぶられる。コガネムシはこんなに大きくないぞ、と脳裏の物差しが警鐘を鳴らしている。それを無視し続けているうちに、悪酔いしたような気分になってくる。


 フィアが隣の木の幹をじれったそうに指差しているのに気付いた。
 そちらには罠網がまだ仕掛けられておらず、出遅れたオオルリコガネが二匹ほど鈍い動きで幹を登っている。俺は慌てて木に近寄り、幹にくっついている虫の体を抑え込んだ。フィアがオオルリコガネの四角い頭の先を押し込め、背中との間に隙間を作った。そこに短刀の刃を滑りこませると、オオルリコガネは一瞬脚をびくっと振るわせてから事切れた。
 俺とフィアは次々とオオルリコガネを仕留めてルメイに手渡した。ルメイは昨日と同じく、それを二つずつ小脇に抱えて崖下まで走った。


 ようやく木の幹に罠網を巻き終わると、昨日しかけた分とあわせて都合みっつの罠網が出来上がった。フィアはさっと場所をかえて既に罠にはまっているオオルリコガネの処理を始めた。罠網に脚を取られているオオルリコガネは簡単に狩ることが出来た。頭の先を押して首の後ろを短刀で刺すだけだ。これなら一人でもやれる。
 ただし、罠から外すのに手間がかかる。俺は短気を起こしてオオルリコガネの脚の関節を短刀で切ろうとした。フィアが横から俺の腕を取って制止する。フィアの顔を見ると、目を細めて首を左右に振っている。そうだな。こんなことをしていたら罠網は虫の脚だらけになって、罠の役割を果たさなくなってしまうだろう。


 罠網は物凄く効率が上がる。
 ルメイを待っている時間が長くなった。足元にはオオルリコガネの死体が幾つも転がっている。これでは駄目だ。仕留めるだけ仕留めても、時間がきたらこれを置いて立ち去らねばならないのだ。俺も死体を二つ小脇に抱えて崖下まで走ることにした。途中でルメイとすれ違い、収穫を置いて森に戻る最中には荷物を抱えたフィアともすれ違った。
 何往復かした後、オオルリコガネの死体を抱えて森から出た所で、置き場から走ってきたフィアが両手を水平に開き、終わり、終わり、と身振りで示した。


 こんな忙しい狩りをしていたら時間の感覚が狂ってしまう。
 俺とフィアが崖下でルメイを待っていると、森からオオルリコガネたちが溢れ出てきた。日の出が終わり、登った木の上から虫たちが飛び降りて四方に滑空している。フィアの終わりの合図が早過ぎる気がしたが、そうではなかったのだ。
 慌ててルメイを助け出しに行こうとすると、虫たちが滑空する下をルメイが走ってくるのが見えた。両脇に獲物を抱えているので思い切り走れないようだ。目をむき、脚だけ動かして懸命に走るルメイの姿はどこか滑稽である。
 間に合うと思った瞬間に、可笑しさがこみあげてきて噴き出した。フィアが手の甲で俺の腕を叩き、よしなさいよ、と言う顔で俺を見ている。しかしフィアも笑いを我慢している顔だ。


 崖下までたどり着いたルメイが倒れ込むようにしてオオルリコガネの死体を置き、両手で地面を掴んで荒々しく息を整えている。息を喘がせながらルメイがこちらを振り向いた。
「君たちは今、笑っていたな!」
 俺とフィアは、笑ってない笑ってない、と慌てて否定した。
「実に失敬だ!」
 ルメイがぷんぷんと怒るので我慢できずに笑ってしまった。そのうちルメイもくつくつと笑い始める。笑い合う俺たちの足元には、新たに十六ものオオルリコガネの死体が転がっている。いや、これは虫の死体ではない。黄金が転がっているのだ。


 地べたに座り込んで一しきり息を整えてから、あらためて獲物を見渡した。辺りはすっかり明るくなっている。青い空に白い雲、深緑の森に灰色の河原。見慣れた光景の中で、地面だけが異様に輝いて見える。オオルリコガネの甲羅が日光を反射しているのだ。
「こりゃあ大漁だぞ」
 周囲を見渡してルメイが嬉しそうな声を出した。
「甲羅を剥ぐ前に、毒腺を取るよ」
 フィアが短刀を手にしてオオルリコガネの死体から毒の棘を取って回った。前脚に一つずつ薔薇の棘のような三角錐の盛り上がりがある。その毒腺の根元に鋭い刃を潜らせて捻ると脚からぽろっと外れる。フィアは取れた毒腺を注意深く拾い上げ、腰に吊るした竹筒の中に入れていった。


 毒腺を取ったオオルリコガネをひとつ手繰り寄せ、甲羅を持ち上げてみた。わずかな抵抗はあるが、背中の真ん中に蝶番のような物があって楽に持ち上がる。甲羅の下に畳まれていた茶色い薄羽根が虫の腹に貼りついている。
「この甲羅はどうやって外すんだい?」
 俺の質問にフィアが答える。
「持ち上げて捻ればすぐに取れるよ」
 フィアがやって見せようとすると、ルメイが「待った!」と声をかけた。フィアは甲羅を持ち上げた手を止めたまま、ルメイが背嚢から道具を取り出すのを見ている。


「小楯板を割るから見てて」
 ルメイがオオルリコガネの背中にノミを当てた。甲羅の蝶番にあたる部分に刃を押し当てている。そうして木槌でとんとんと叩くと、刃が小楯版に食い込んでいく。ある程度の深さまで刃が食い込むと、ルメイはノミをくいっと捻った。三角の部分が真ん中から二つに割れた。
「小楯板が根元から外れたらこの通り」
 ルメイが甲羅を両手で掴んで持ち上げると、それは箱の蓋のようにすっと持ちあがった。本体から離れた甲羅の端に、硬い腱でつながった小楯板がぶら下がっている。甲羅が人の顔ほどの大きさがあるのに対して、小楯板はコイン程の大きさしかない。


「本当は細工師をやってたんじゃないの?」
 フィアがルメイの手捌きに感心して言う。しかしルメイはもう片方の甲羅も持ち上げてみせながら、首を振った。
「商会を経営してたって言ったろう」
 ルメイは眉を吊り上げてフィアを見返した。それからおもむろに、虫の甲羅を陽に透かしながらくるくると回転させた。
「この細工物に使う綺麗な部分は虹羽根といって、工芸品の材料として流通してるんだよ。前に仕入れたことがあるんだが、この蝶番の部分を残して保存してた。穴をあけて紐を通すんだな」


 ルメイが小さな木の台座を地面に置き、先が丸くなったノミを小楯板に押し当てた。木槌でポンと叩いて刃先をどかすと、綺麗に丸い穴があいている。思わず、おおと声が出た。ルメイが穴に指を入れて甲羅を持ち上げてみせた。フィアが甲羅を受け取ってその穴をじっと見ている。
「これなら傷を付けずに保管できる」
 フィアは自分で採った甲羅を運ぶ時、擦れないようにするのに苦労したという。俺にはいまいちピンとこないが、いかにも本場のやり方にみえる。


「それと、この表面についてる膜も取り除いてあった」
 ルメイが良く研いだナイフの切っ先を甲羅の縁に沿って滑らせた。その部分を爪でめくると、ごく薄い膜が剥がれてきた。途中で切れないように加減をしながら、その膜をゆっくり引き剥がしていく。陽の光に透かしてみると、薄膜は茶色がかっている。膜がすっかり剥がれると、ルメイは甲羅の表面をしげしげと眺めた。
「何日も放っておくとこの薄膜は綺麗に剥がせなくなる。細工物に使う時は邪魔になるから、早めに取った方がいいんだよ」
 もはや口を挟むことは何もない。商売人だったルメイは実に詳しい。


「仕上げはワックスだな」
 ルメイがイルファーロの細工物屋で買った蜜蝋の缶を取り出し、蓋を開けた。清潔な布にワックスを少しだけ取り、薄膜を剥がしたオオルリコガネの甲羅に塗りひろげていく。俺とフィアはその手捌きをじっと見詰めた。小さく丸く円を描き、少しずつずれながらやがて全体へ。青みがかった甲羅がみるみる光沢を増していく。
「乾燥させながら何度か塗るともっと艶がでる」
 ルメイが磨いた甲羅を俺に手渡した。俺はそれを手に取り、日光にあててよくよく眺めてみた。


 虫の甲羅には見えない。
 光沢のある青と緑が微妙に色目を変えながら入り混じっている。二色の靄が交じり合うような模様は、甲羅の隅から徐々に細かくなってゆき、中央付近では小さな斑が連なっているように見える。さらにその中央には藍色の帯が走っていて、その境界は樹氷を思わせる。紋様には薄膜のような遮るものがなく、研ぎ澄ました刃のように陽光に照り映えている。


 子供の頃、森からドングリを拾ってきて母を閉口させたのを思い出す。飢饉でもなければ口にしない果実で、虫が出てくることがあるので母は嫌っていた。捨てる捨てないで言い争いになり、不機嫌な父のお出ましとなった。父はドングリをざっと検めて、何でもかんでも拾ってくる奴があるか、と言って叱りつけた。
 俺は黙っていたが、なんでもかんでもではないのだ。森に無数に落ちているドングリには、美しいものと美しくないものがある。愛嬌のある形と、つやつやとした果皮、筋目の色合いと光沢。俺が持ち帰ったドングリは選りすぐりだった。それを見つけた俺は、どうしても自分の物にしたくなったのだ。


 オオルリコガネの甲羅を見ていると、子供のような心になる。何の知識がなくとも、この青く照り輝いている物が欲しくなってくる。執着はドングリの比ではない。素人の俺でさえ欲しくなる物に、その道に詳しい者たちはなおさら価値を見出すだろう。この甲羅を取るためにこんな場所までやってきたのだが、その甲斐があったというものだ。
 気が付くとフィアもそばに居て、心を奪われたかのように甲羅を凝視している。ルメイが俺とフィアの様子を満ち足りた顔で眺めている。
「昨日の九匹と今朝の十六匹で合わせて二十五匹。つごう五十枚の甲羅だ」


 フィアが甲羅から目を離さずにささやく。
「すごい綺麗。これなら高く売れるでしょうね」
「俺がすべて売りさばいてみせる」
 ルメイが片方の口の端を吊り上げながら自信あり気に答えた。商売のことになればルメイは心強い仲間だ。俺はよく見えるように、フィアに甲羅を手渡してやった。フィアはその重さを確かめるようにわずかに上下させた。
「二回の狩りで五十枚。今日の夕方に狩ったらもう運びきれないわね」
 フィアが甲羅を胸元に抱くようにして俺をまっすぐに見た。それは宝物の扱いだ。
「そうだな。明日の朝は狩りをせずに早目に発とう。持ちきれないほどの収穫を持ってな」


 そうすれば夢のなかでイシリオンが言った通りになる。湿地を抜け、底なし沼を迂回し、昼にはシラルロンデに差し掛かるだろう。昼飯を食うならば、塔の足元にあるあの部屋を利用したらいい。そこで俺たちは、別の時間、別の場所を映す窓に足を踏み入れることになるだろう。だがイシリオンの指示に従うわけではない。それはごく自然な流れだ。
 俺とルメイとフィアは、狩りの収穫を足元に並べた格好で、暫く互いを見合った。呪いの森を流れるアリア河のほとりで、朝早い陽光をたっぷりと浴びながら。


→つづき

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