やがて西空が茜色に染まってきた。 フィアがほら穴から下してきた松明を二本、崖下に固定した。もうすぐ夕暮れになるが、まだ火を点けるのには早い。何かを始めるには間がなく、ただじっとしているには手持無沙汰な時間になった。岩場に腰かけながら何となく手の平を眺めたりしている。 「セネカは近衛で剣を学んだのでしょ?」 天秤を作るのに切落とした細枝を振りながらフィアが問うてきた。 「剣術を仕込まれたのは士官学校にいた頃だな。近衛に配属されてからは非番の日に稽古を積んだよ。幸い、良い師匠を見つけてな」 男臭い宿舎で寝起きしていた懐かしい日々が思い浮かんだ。 「わたしも鍛錬を積んだら剣士になれるかしら?」 フィアが剣に見立てた細枝を水平に繰り出してそれっぽいポーズをとった。フィアの身体はしなやかで動きは軽快だが、いかんせん華奢過ぎる。 「筋がいいんじゃないか」 片方の口の端だけで笑いながら、冗談めかして言葉を返した。フィアは細枝を両手で持ち、拳を腹につけてじっとしている。やがてふと真顔で俺を見上げた。 「本気でやったらセネカみたいに強くなれる?」 嘘はつきたくない。フィアが話題を変えないかと待ってみたが、じっと俺を見ている。 「稽古を積めば誰でもある程度は上達する」 フィアが視線を外して、そりゃそうよね、と呟いた。フィアが聞きたいのはそんなことではない。 「その先は人それぞれだよ。フィアは剣士になるには少し小柄じゃないかな」 やんわりと言った積りだが、フィアは眉を持ち上げてちらっと俺を見てから溜息をついた。がっかりしている様子で、わるいことを言ったなと思う。 「それなら、なにか技を教えてくれたらいいのに」 フィアが細枝で地面をつつきながら呟いた。技? と鸚鵡返しに聞き返す。 「必殺技があるんじゃないの?」 ルメイも興味を持ったらしく視線を投げてくる。俺は目を細めて笑い声をあげた。 「そんなものはない」 フィアとルメイが声をそろえて、「ないの?」と言う。 「必殺技なんてない。士官学校にいた頃、退屈な型を繰り返しやらされた。それが体に染みついてるだけだよ」 フィアが納得いかないという顔で俺を見ている。 「カオカで山賊とやり合った時、セネカは本当に強かったと思う。そういう差はどこから生まれるの?」 そんな質問に一言で答えられるわけがない。俺は腰に手を当て、空を見上げて暫く考え込んだ。それから、自然に言葉が出てきた。 「俺はまあ、ちょっと小手がうまくてな」 フィアが眉間にぎゅっと皺を寄せた。 「小手?」 間延びしたような、こてえ? という声が癪にさわる。俺の得意技にがっかりしたような顔をしている。 ひとつ咳払いをする。 「相手の体の中で小手が一番近くにあるだろう。そこを狙うのが常道だ。ただし小手は素早く動き回る」 俺は地面に落ちていた小枝を拾い上げて選った。指より太いのを数本残してあとは捨てる。それをフィアに突き出した。 「こいつを俺の一歩前あたりに投げてみて」 バスタードソードと呼ばれる長剣を抜いてその切先を指で触ってみる。うん。これなら大丈夫、刃が立っている。右手で柄を握り、左手を刃元のリカッソに添える。 緊張しながら待っているのにフィアがなかなか投げてこない。調子が狂ってフィアの方を見ると、枝を体に引き寄せたまま黙っている。 「投げた枝を空中で切るくらいなら、わたしにも出来ると思うよ?」 俺は溜息をつき、剣の柄から片手を離してフィアに向け、手の平を上にして何度か指を折り曲げてみせた。再び両手で剣を構え、足場を固める。フィアがつまらなそうな顔をして枝を投げた。 木の枝が放物線を描いて飛んでくる。全身の神経を集中させてその動きを追う。ある一瞬が目に見え、押し縮められていた発条が飛び出す勢いで真っ直ぐに突く。カッという短い音がして木の枝が空中に静止した。剣先が枝に沿って刺さっている。 「えっ!」 フィアが目をみはり、身を乗り出した。俺は枝を振り落としてから剣を構え直し、次! と怒鳴った。フィアがもう一本枝を投げる。これもカッという音とともに空中に静止した。 「おお!」 つられてルメイも身を乗り出している。 「ちょっとそのままで」 フィアが剣先に近寄ってしげしげと眺めている。枝を抜き取り、剣の切先が貫通した跡を指でなぞっている。 「すごい。こんな細い枝を狙えるものなのね」 俺は得々と頷いて剣をゆっくり納めた。 「セネカ、俺も気になってることを聞いていいか?」 ルメイがフィアから受け取った枝を見ながら声をかけてくる。なんなりと、と言う代わりに片手を胸につけて頭を下げた。 ルメイの心配はもっともなことだ。 カオカ遺跡で山賊に反撃した時、ルメイとフィアは怪我をしたウィリーと共に二枚岩から離れた林に残った。そこへ怪力男のサッコがやってきた。サッコは山賊で乱戦に慣れているとはいえ、四人を相手に平然と剣を振り回した。ルメイが言うには、サッコは全身に金属の鎧を身に着けていて、打ち込む隙がなかったと言うのだ。あれでは剣の攻撃が効かないのではないか。 俺は両足を開いて立ち、腹の前に突き出た剣の柄に両手を置いた。 「サッコの装備は俺も見たよ。あの体格でプレートアーマーを装備していたら、それだけで相当なものだ。そのうえ怪力ときたら、なかなか厄介だな」 ウィリーや他の剣士がサッコに斬りかかっても、金属鎧に阻まれて有効打は無かったという。そのうえぐいぐいと力押しされて防戦一方になってしまった。さすがのセネカでもああいう輩を相手にしたら危ないのではないか。 俺はぐっと顎を引いて流し目気味にルメイを見た。 「ところが、俺にはカモに見える」 そう言い放つと、ルメイとフィアが棒立ちになって俺を見た。 「本当なのか?」 ルメイが目をしばたかせながら聞いてくる。その瞳には疑いと希望がないまぜになっている。 「俺は長いこと、完全武装の敵を倒す訓練を積んできたんだぜ?」 端的に事実を述べるが、二人とも表情を変えない。 荒野で最後に必要となるのは常に具体だ。 方向をしっかり見定めなければならない。日が暮れる前に火を起こさねばならない。食える物と食えない物を選り分けなければならない。朝日が昇る前に目を覚まして身支度を整えておかなければならない。 口では何とでも言える。それらのことをてきぱきと実際にやってみせなければ、冒険者は一日と置かず屍になる。 「フィアの短剣をちょっと貸してくれ」 フィアが抜いて寄越した短剣の刃を持ち、柄をルメイに向ける。 「これを構えて立っていてくれ」 受け取った短剣を構えたルメイが、急に及び腰になった。 「これ、なんか技をかけられるんじゃないか?」 「お互い怪我のないよう、ゆっくりやるから大丈夫だ」 俺が長剣を抜いて構えると、ルメイはさらに体を固くした。 「あらためて見ると、その剣はおっかないな」 当たり前だ。殺気は込めていないが、本気で構えているのだ。 「この界隈で重装備をしてる奴は少ないから、人間同士で戦う時、どうしても切先で斬り合う戦いになる。ほとんど裸みたいな防具で、相手の懐に入るのは度胸がいるからな。自然と間合いがひらく」 俺は長剣の間合いで構えたまま足をにじらせた。 「だが金属鎧を全身に装備していれば堂々と間合いを詰められる。鍔迫り合いになる」 俺が近寄ると、ルメイが緊張で肩をいからせた。 「間合いが近くなるのだから、普通は片手剣を使いたくなる。或いは両刃の短剣でもいいくらいだ。とりまわしが効くからな。 それなのに長大な両手剣を振り回すということは?」 フィアの方を向いて謎をかけた。フィアは小さく首を振って、判らない、という。 「力技しか持ってない、ということだよ」 それにしても、とルメイが口にする。 「力技にどう対処する?」 ルメイが短剣を構えたままぐっと脇をしめた。 「例えばサッコが迫ってきて、こんな風に剣で押し合いになる。その時にだ」 俺はルメイが構えている短剣とゆっくり切り結んだ。柄から十字に飛び出たキヨンを回して相手の剣を絡み取り、柄頭に付いているポンメルをルメイの手首の内側に引っかけた。飽き飽きするほど繰り返し練習させられた技で、手元も見ずに流れるような手捌きでやれる。そのままゆっくり体重をかけると、大柄なルメイの上体がぐらっと傾いた。 「あらららら」 ルメイは倒れないように身を反らして頑張っている。関節技のようなもので、このまま体重をかけていけば剣を手放すか倒れるかしかない。 「サッコは怪力だが、手首に俺がぶらさがったままでは動けまい」 俺はルメイの手首を極めたまま、あいた方の手で胸元のホルダーから短刀を抜いた。ルメイが怪我をしないように、短刀の柄頭をすっと顎の下にあてる。 「参った」 ルメイが降参したので剣の柄を外して半歩さがる。腕組みをして見ていたフィアが、ふーんと感心している。 「今のはほんの一例だ。剣を打ち合わせるたび、鍔迫り合いをするたび、体が勝手に動いて敵を絡め取る。そういう訓練を積んでいる。だから必殺技なんて必要ない」 カシャン、と納刀してなんだか恰好いいみたいだ。 「地味な技ね」 フィアの言葉にがくっとする。 「見た目の派手さなんて関係ないだろ。俺が言いたかったのは、全身に鎧を装備した怪力男が相手でも少しも怯まない、ということさ」 「それが聞けて良かったよ。またいつなんどき出くわすか判らんからな」 ルメイが返した短剣をフィアが鞘に納めた瞬間、俺たちは揃って身を固くした。 反射的に森の方を見る。 微かではあるが、長く尾を引くような雄叫びが聞こえた。狼ではない。中腰になって耳を澄ませていると、はっきりもう一度聞こえた。キシャアアアアア、というような聞いたことのない叫びだ。声の主がいる場所までは相当の距離があるようだ。暫くすると、生木を裂くようなメキメキという音も聞こえてきた。西空が赤々としているのに気付いてはっとする。そろそろ狩りの時刻ではないのか。 フィアが少しでも高い場所を探して崖の斜面を登った。途中で止まって振り返り、森の方に視線を向けながら手庇をしている。俺とルメイはフィアの足元まで行って森の方に目をこらした。 「あの声はおそらく沼の主ね。機嫌が悪いみたい」 フィアの言葉にルメイが顔をしかめ、沼の主? と聞き返した。 「わたしも足跡しか見たことがない」 俺も高い場所まで登ってみるが、変わったものは何も見えない。 「そういうのがいるってことは、通り過ぎる前に行ってもらわないとなあ」 ルメイが背伸びをして森の方を窺いながら、心細そうに呟いている。 「水のそばで騒いだり火を起こしたりしなければ大丈夫よ。沼を離れて遠くまで出歩くこともないし」 三人で神妙な顔をして様子を見ているが、その後は何の音も聞こえない。 「ここは呪いの森よ。見たことも聞いたこともないことが次々に起きる。でもいちいち気にしていたら探索は出来ないわ」 フィアが崖下に下り、腰に提げた火種筒から火縄を取り出した。一度だけ周囲をぐるっと見渡してから、固定した二本の松明に火を点ける。油煙を巻き上げる小さな火柱が二本立ち、辺りを照らし出した。 「もう狩場に入らないと。段取りは覚えてるでしょ」 俺とルメイが短く返事をすると、フィアが一度だけ深く頷いた。そのまま身をかがめ、滑るようにして狩場の森に走っていく。 森のそばにある岩場に身を潜めると、既にオオルリコガネたちが木に登るカシャカシャという音が聞こえてくる。薄い羽根を擦り合せるブブブブブという低い音も地を這うように響き渡っている。 フィアの合図で俺たちは森に入った。最初に見た時と同じ、西日をまともに受けた黄金の森だ。この探索行での最後の狩りになるが、実は心ここにあらずという状態だった。 罠網にかかったオオルリコガネの首に短刀の刃を滑り込ませ、全ての虫を仕留めたところでフィアが罠網を外す。自分に任せてくれと言うだけのことはあって、罠網を結び付けている縄の一ヶ所をフィアがほどくと、たちまち罠が外れた。その罠網を巻き取って持ち上げ、ルメイと二人で崖下まで走って運ぶ。これは意外に骨が折れたが、一枚の罠網には七、八匹のオオルリコガネが絡まっていて、効率の良い狩りになった。そうして狩りをしている間じゅう、俺の心を占めていたのは沼に住む化け物の朧げな姿だ。 フィアでさえ足跡しか見たことがないという沼の主。 どんな姿をしているのだ? 普段は沼の底にいるのか? 足跡ということは、足があるのか? 俺たちが水際を歩いていた時、水底から見ていたのか? 不気味なイメージが膨らんでいく。 そんな化け物がそこかしこに待ち構えている森で野営をしている。俺たちが命を繋いでいるのは偶然の為せる業ではないのか。さっきは偉そうに剣の技を見せつけたが、想像したこともないような何かが目の前に現れた時、俺の剣は余り役に立たない。俺が身に着けた剣術は人間を相手にするためのものだからだ。 コボルトを相手にする時、例え体幹を深々と刺しても油断できない。すぐにも剣を抜いて距離を取り、反撃から逃れなければならない。刺す時も剣身を水平にしてはだめだ。コボルトがそれ以上刺さるのを防ごうとして剣を両手で握り、前のめりになることがある。そうなるとコボルトの骨格に引っ掛かって剣が抜けにくくなる。現に、剣を抜こうとしてもがいているうちに別のコボルトに喉を咬み破られた剣士を見ている。 沼の主をあれこれ想像しているうちに狩りは終わった。 俺たちは肩で息をしながら崖下に集まった。目の前には罠網が三つ投げ出され、そこにオオルリコガネの死体が数十も絡まっている。フィアが罠網の一つを二本の松明の間に引っ張っていく。その明かりを頼りに、オオルリコガネの脚を網から外していった。ルメイもフィアも黙ったまま手を動かしながら、暗くなった周囲を気にしているのが伝わってくる。 罠網から外されたオオルリコガネは二十四体に及んだ。 フィアが並べられた死体を次々と引っくり返して前脚の毒腺を取って回った。畑から収穫をする農家を連想させる慣れた手つきだ。次いで、ルメイが大急ぎでノミを振るい、小楯体を割って虹羽根を取り外した。俺は蝋燭を片手に、甲羅を取り外されたオオルリコガネの死体を少し離れた所まで捨てに行った。凹凸の激しい岩場で足元が暗いので、気の抜けない作業になった。 大きくせり出した岩の塊を回り込んだところでルメイとフィアがいる崖下を振り返った。そんなに離れてはいないが、松明の明かりが二つ、心細い感じで見えるだけだ。このまま進めば百歩も行かないうちに闇に紛れてしまうだろう。なんという深い森か。 崖下から目を転じて小川の上流を眺めれば、青黒い夜空を柔らかい森の稜線が黒く塗りつぶしているのが見える。そこから足元まで渾然一体となった闇がひろがっていて、そこには幾らかの原野と林、小川がある筈だ。月明かりに照らされた岩場だけが頭上に聳え、水が溢れる細い滝をうっすらと照らしている。この夜の底にこびりついた三つの点が俺たちなのだ。 フィアは虹羽根を少しずつまとめてほら穴まで持ち上げた。暗いので品定めは出来ないが、もしかしたら上物が混じっているかもしれない。全ての虹羽根を取り外してほら穴に移すと、俺たちは大急ぎで薄い膜を剥がしにかかった。これは短刀さえあれば誰にでも出来る作業だが、やはりルメイが一番上手い。俺は何度か薄膜を千切ってしまい、仕上げるのに手間取った。 夕方の狩りから働き詰めだ。腹が減ったなと思った瞬間に、ルメイの腹がぐううと鳴った。 「フィア、わるいが先に夕飯を作っていてくれないか」 「はーい、了解」 フィアが作業から離れて竈に火を起こした。虹羽根の薄膜剥きは俺とルメイが残りを仕上げにかかる。傷をつけないように気を付けながらとはいえ、心がはやった。腹が減っている時にスープの匂いがし始めると、心ここにあらずという気持ちになる。匂いが胃に食い込んできて、まともに物が考えられなくなる。 「沢山狩れたな」 最後の虹羽根から薄膜を取ったルメイが立ち上がって足元を見下ろした。壁にそっと立てかける形で重ねてある虹羽根は四十八枚になる。 「ワックスを一塗りして窪みに仕舞っておこう」 よしっと声をあげて二人でワックス掛けをする。艶出しをした虹羽根から先に窪みにしまっていくうちに、フィアが声をかけてきた。 「夕ご飯できたよ」 ルメイが虹羽根と蜜蝋を塗りつけた布を手にしたまま、ぐっと背を反らしてフィアの方に振り返った。 「フィアが先に食べててくれ。俺とセネカはもうすぐ終わるから」 フィアがうふふと笑い、珍しいわね、と呟いた。俺は背中を向けたまま、いつも先に食べてすまんな、と謝った。 全ての作業を終えると、ルメイが唸り声をあげながら腰を伸ばした。 「いい匂いがしてたまらん」 俺とルメイは竈のそばまで戻った。フィアがさっそく鍋からスープをよそってくれる。湯気の立つ豆のスープを鼻先まで持ってきて匂いを嗅ぐ。たまらず一口飲む。塩漬肉で味を調えているようで少し塩気が強いが、実に美味い。スープの他には大きなビスケットが三枚配られた。 「ごめんね、メニューが限られてきちゃった」 フィアが自分の食器を片づけながら申し訳なさそうに言った。 「いや、生き返る気がするよ」 ルメイがビスケットを噛みしめ、スープを深々と味わっている。 「このスープ、いい味だよ。いつもありがとう」 俺たちの言葉を聞いてフィアが微笑む。 フィアが灯火新聞を読むと言い出した時、俺とルメイは反対しなかった。実はすぐにも横になりたかったのだが、フィアがそれを大切な習慣にしているのだから、付き合ってやらねばならないだろう。ルメイも同じ気持ちだったと思う。 新聞や炭筆、蝋燭を持ってほら穴の上に登った。 星空は昨日と変わりなく俺たちを包み込んでいたが、それを眺める余裕はなかった。すぐにカオカ櫓からの灯火が始まって記録をつけねばならなかった。途中で一ヶ所だけ数字が飛んだ。フィアが流れ星! と言って灯火を見逃したからだ。願い事は出来たのかと聞きたかったが、灯火をみるのに忙しくてそれどころではなかった。 ほら穴に戻ってから蝋燭を囲んで車座に座り、暗号表と照らして新聞を読んだ。 王国に一大事は無いようだ。イルファーロの物価は相変わらずじわじわと上昇している。これから虹羽根を売りに戻るのだから好都合だ。 王都アイトックスでは大春節の儀が執り行われたという。王族と貴族が一堂に会する儀式で、これは庶民のものではない。この日、王城には沢山の旗が翻る。最も高い位置に掲げられるのが白地に青鷹、ディメント王家の旗だ。王都にいた頃、その旗を見上げると里心がついて苦しんだのを覚えている。同じ日に、生まれ故郷の村で小さな祭があるのだ。幼馴染たちは今頃何をしているだろうかと思えば、自然と自分の境遇が浮き彫りになる。俺には上官がいて部下がいたが、親しい友はいなかった。 新聞を読み解いていたフィアが急に黙りこくって顔をしかめた。 「今日も山賊の速報が出てる」 ルメイが投げやりな声で、なんだってんだ! と叫んだ。こうも連続で出没されると何か訳があるのかと勘繰りたくなる。どこだい? と問うと、フィアが続きを読んだ。 「カオカ遺跡に山賊現る。ネバとイレーネ、他四名。冒険者に軽傷一名のみ」 「ネバたちはチコル方面で暴れてたよな?」とルメイ。 「ああ。ほんの数日前までチコル遺跡で冒険者を襲ってた。それが今日はカオカまで出張ってきた」 山賊たちの動向が騒がしくなっているようだが、どういう意味を持つのかまでは判らない。フィアが重い口を開いた。 「昨日カオカ櫓を襲ったサッコとオロンゾたちと合流するのかしら」 暫く三人とも物思いに耽るように黙り込んだ。 「考えてたって判らん」 ルメイが首を振って降参した。 「そうね。明日の帰り道は気を付けましょう」 ルメイがごそごそと寝床に潜り込んだ。蝋燭の明かりから目を逸らすように壁際に寝返りをうつと、毛布を首まで引き上げた。 「今日は疲れた。先に寝させてもらうよ」 「おやすみ、ルメイ。わたしは鳴子を点検してから寝るね」 フィアが革袋の栓を開けようとしていたので、そこに割って入った。 「洗い物はやっておくから、鳴子を見てきてくれ」 「ありがとう」 フィアが俺の肩をぽんと打つと、ほら穴から出て行った。 革袋から細く出した水流でスープを飲むのに使った木製のカップをゆすぐ。手甲から指先にかけて冷たい水が流れ落ち、体が引き締まる。眠気でぼんやりとしていた頭がはっきりとして、ルメイの寝息が聞こえる。ほら穴の外から、フィアが鳴子を試しに鳴らすチャリチャリという音も聞こえる。俺は自分の神経が研ぎ澄まされていくのを感じた。不思議な感覚だ。ほら穴の中で洗い物をしている自分の後姿の絵が見えるような気がする。 俺が片膝をついている場所から、ぐっと引いて岩山を思い描き、そのまま範囲を広げて狩場の森や小川を連想する。さらに広げて呪いの森へ。なんとなくではあるが、俺たちの他に誰かがいても不思議ではないような気がしてくる。じっと耳を澄ますが、何も聞こえない。今夜は狼たちも大人しくしているようだ。脳裏にかすかに遠見の窓が開いているような気がするが、これはものにならないだろう。それを意識すると、ふっと霞んで消えてしまう。 洗い物を終えると、俺はほら穴の入口まで行ってフィアを探した。フィアは足場の隅で四つ這いになって仕掛けを調整しているところだった。今までずっとこうして生きて来たのだ。こんな深い森に分け入り、用心のために罠を仕掛け、自分で自分の面倒をみながら旅を続けてきた。よく生き伸びたものだ。 「今夜は俺が入口の辺りで寝るよ」 フィアが少し驚いた顔で振り向いた。 「セネカ、そこにいたのね」 フィアは立ち上がって膝を叩き、汚れを落とした。 「それなら安心ね。でも朝方は冷え込むから気を付けて」 短く返事をしてほら穴に戻った。 それからすぐ、俺とフィアも床についた。毛布をかける前に、フィアはルメイの様子を確かめてから蝋燭を吹き消した。ほら穴の中が闇に包まれる。 冷たい水に触れたせいで暫く寝付けないかと思ったが、横になった途端に疲れがどっと押し寄せてきた。頭を回して外を見上げると、雲のない夜空に星が瞬いている。スラムの馬小屋で眠りについた時、同じように夜空を仰いだのを思い出した。あの時と同じ星が輝いている。瞼がゆっくりと落ちてきて、世界を暗幕で包んでゆくのに身を任せた。 (→つづき) |
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