俺はまたこの部屋にいる。
 ことの初めから夢だと気付いているのに、目が覚めないというのはどういうわけなのだろう。俺が今いるのは、近衛兵として働いていた頃に貴族の見送りを終えてからよく訪れたルーアンの安宿だ。一階が食堂と酒場になっていて、二階に間仕切りをした窮屈な部屋がある。しかもこの部屋に見覚えがある。狭いながらも窓があって、人通りの多い街道と軒の低い街並みを夜風にあたりながら眺めたものだ。


 俺はベッドの上に一人で横たわり、肘をついて上半身を起こそうとしている。テーブルの上の燭台の明かりを眺め、入口のドアを確かめ、首を曲げて開け放たれた窓の外の景色を呆然と見つめる。部屋には誰もおらず、レースのカーテンが夜風に物憂げに揺れているだけだ。蝋燭の炎がわずかに傾いて燭台の影が生き物のように震えている。


 ベッドが乱れている。
 毛布は足元に蹴り寄せられ、俺が横たわっている場所の隣にシーツの窪みがある。そっと顔を寄せてみると、女の匂いとローズマリーの香がする。つい今しがたまでセシルがいたのだ。そう思った瞬間に情欲が俺を捕える。
 栗色の髪を伸ばし、黒いロングスカートをはいたセシル。洗いざらしで乾いた手触りのするスカートに手を乗せ、ゆっくりと脚を撫でるのが俺は好きだった。膝の膨らみや、内腿の柔らかなカーブが生地越しに伝わってきた。しかしもはやセシルは部屋を出た後で、俺は寂しさを味わいながらシーツを見下ろしている。


 ノックの音がする。
 指の背でドアを叩く硬い音が小さく三回。誰だろうか。セシルでないことは判っている。それならいっそ誰も招き入れたくない。じっと様子をみていると、さらに三回ノックの音がした。
「どなた?」
「ちょっと外まで付き合ってもらえないか」
 ドアの向こうからエルフの老人の声がする。この人はどこまで俺を追いかけてくるつもりなのか。これは俺の夢の中ではないのか。


 どう返事をしたものか迷う。
 渋い顔をしたままドアを見ているが、それきり声はしない。じっと見つめるうちにドアの背が少しずつ高くなり、天井を押し上げ、入口の空間が湾曲し始める。部屋の一角が溶けたバターのように間延びしていくのを見ていられなくなり、ぎゅっと目を瞑る。再び目を開けると、取り澄ましたかのように元の部屋の姿に戻っている。
「ちょっと待ってて下さい。今行きます」
 姿が見えない老人の存在感に降参してベッドから起き上がった。


 床に散らばっていた近衛の制服を身に着け、ドアを開ける。薄暗い廊下に、足元まで垂れる薄紫のローブを纏ったイシリオンが立っている。ローブの頭巾を目深にかぶり、肩から腰までを覆う黒いストールを羽織っている。俺はエルフの装束には詳しくないが、喪服を連想させる。ぶらっと人の夢を見に行くような恰好ではない。
「外に何があるのです?」
 俺の問いを無視してイシリオンが歩き出す。仕方なく廊下に出た。


 建物の外へ出るには廊下の突き当たりにある階段を下りなければならない筈だが、イシリオンは立ち止まって一枚のドアの前に立った。右手に一列に部屋が並んでいるので、右手にドアがずらっと続いている。だがイシリオンが立っているのは壁の左手にあるドアの前だ。建物の構造からして、そんなところにドアを付けてもどこにも繋がらない筈なのだが、イシリオンはそのドアノブに手をかけて俺を見ている。


「ここから先は人の夢だ。あまり影響を与えないように」
 イシリオンが表情を欠いた顔で淡々と告げる。
「人の夢って、誰のです?」
 イシリオンが出来のわるい弟子を見るような目で俺を見た。
「能力を使いこなしていないな」
 何のことを言っているのかさっぱり判らない。俺に人の夢を盗み見するような力があるのか。そんな話は初耳だし、俺はそんなことはしたくない。俺が何か言う前にイシリオンがドアを開けた。その途端、真夏の熱気と群衆のざわめきがわっとひろがった。


 ドアの先にある数段の階段をイシリオンが平然と降りていく。
 俺は唖然として口をなかば開けたまま、ドアのところで立ち止まった。目の前では群衆が押し合いへし合いしてざわめいている。その中に、四角い石の台座が人々の背丈を越えて立ち上がり、さらにその上に銅像が置かれている。棹立ちする馬にまたがり、左手で宙に躍る手綱を取り、右手に構えた長剣を高々と掲げているのはアルバート豪胆王の像だ。ここはアイトックスの王城近く、英雄広場ではないか。


 王都から馬で半日かかるルーアンにいた筈だ。階段を下り、建物を振り返った俺は自分の目を疑った。
 数えきれないほどの人が押し寄せている英雄広場の中に、ルーアンの安宿の二階部分だけが独立して佇んでいる。こんな出鱈目があるか。なぜ誰もこの建物を不思議に思わないのか。こんなものがあったら怪しむのが普通ではないか。集まった人々が広場の前方を見ようとして前に立つ人の頭を避け、さかんに顔を左右に動かしているというのに、建物の周囲だけ人がいない。


 イシリオンが振り返って、何をしているのか、という顔で俺を見ている。俺は自分でも判るほど険しい顔をして鼻から息を吐きながら、なんとか自分を落ち着かせた。夢の世界を詮索しても始まらない。むっとする空気のなか、イシリオンの後を追った。
 人をかき分けて広場の前に進むうち、王城を背景にした舞台が見えてきた。骨太な木材で組んで幕を張ってある。広場から良く見えるように一段高くなっていて、そこに巨人の椅子を思わせる構造物が置かれている。断頭台だ。


 聖堂の鐘が打ち鳴らされた。
 重々しい響きが人々の頭上を越えてゆき、喧噪は一層大きくなった。舞台に上がった正装の役人が、巻物を縦に開いて読上げているが、よほど前に並んでいなければ聞き取れない。イシリオンの後をついていくうちに、口上役の言葉が切れ切れに聞き取れるところまで来た。
 簒奪を企てし謀反人、デルティス公が長子、カールをここに断罪する、云々。ということはこれは、デルティス公の二人の息子、カールとヴィクトルの公開処刑だ。


 イシリオンの言う通り、これは俺の夢ではない。
 俺は公開処刑の噂は聞いたことがあるが、刑が執行された頃にはイルファーロに落ちのび、駆け出し冒険者として荒野を彷徨っていた。この日の様子を俺は何も知らない。じっと立っているイシリオンの袖を軽く引いた。
「これは誰の夢なんだ?」
 イシリオンは振り返りもせず、小さいがよく通る声で、隣で寝ている、と言った。さっきの部屋の様子を思い出してセシルを連想したが、彼女はすでに帰ってしまった。誰のことを言うのか。


 英雄広場が静まり返った。
 はっとして舞台の上を見る。後ろ手に縛られたカールが刑場に引き出されている。貴族にだけ許された特権で、処刑される日の服を自分で選んでいる。刺繍をした前身頃の長い生成色のベストの上に、澄み渡る空のような青いコートを羽織っている。真夏の陽射しのもと、白絹の長靴下が眩しいばかりだ。金髪は梳られているが、明らかに頬がこけている。しかしその瞳には、晴朗というべき光がある。これから処刑される男の表情ではない。


 カールが断頭台の横に立たされた。
 普通、さんざん抵抗して両脇を押さえつけられるものだが、このうら若い青年はすっと一人で立っている。恐怖を感じているようには見えず、諦めと困惑がわずかに表情に出ているのみだ。見ていると、殺してしまうのが勿体なくなってくる。人々が静まり返ったわけが判る。公開処刑は民草にとって娯楽に近い。謀反人を断頭台にかけると聞いて興奮して集まってきたが、思えばこの人は、善政を敷いてくれるのではないかと期待していたデルティス公の長子なのだ。


 壇上の役人がカールに向き直り、最後に言うことはあるか、と尋ねた。これも貴族の特権だ。カールは後ろ手に縛られたまま、少しだけ前のめりになって広場に集まった人々を見渡した。ただ見渡しているのではない。誰かを探しているのだ。それこそ舐めまわすように見るので、俺とも目が合ったような気がする。
 やがてカールは探し人を見つけたようで、俺の近くをじっと見つめた。カールが自分の顔になんの表情も浮かべぬよう苦労して抑えているのが伝わってくる。


 イシリオンが俺の腕を軽く叩いた。
 そっと促すように視線を向ける先に、フードを被った少年がいる。少年は銅像の台座の段差に片足をかけ、隣にいる老人の肩に手を乗せて背伸びをしている。そうして頭を他の人より上に出し、舞台の上で処刑を待つ男を見詰めている。胸に当てている小さな拳が小刻みに震えている。ちょっと見物に来たという感じではない。一歩前に出て少年の顔を覗き込んだ。


 俺は目を見開いた。
 短く刈った金髪の生え際、おでこの辺りに蚯蚓腫れのような傷跡がある。傷跡は頭頂に向かって伸びているが、フードを被っているのでどれほどの傷か判らない。汗ばむような陽射しのなか、木枯らしに打たれるかのようにぶるぶると体を震わせている。拳をあまり胸に押し付けるものだから、体の線をごまかすために身に着けているコートに胸の膨らみが出てしまっている。フードの下では青灰色の瞳がうるうると濡れている。
 思わず伸ばそうとした俺の手をイシリオンがはっしと止めた。無言でゆっくりと首を振りながら、ひたと俺の眼を見ている。影響を与えないように。


 少年に変装したフィアが唇を動かしている。誰か止めて、と繰り返しているのだ。誰か止めて。誰か止めて。
 断頭台の横に立つカールが一つ咳払いをした。壇上を見ると、カールは開き直ったような微笑を浮かべている。ただその顔にはうっすらと苦悶の陰がさしている。こういう顔をした人を何度か見たことがある。死にゆく家族を見守る眼差しだ。
「いつか笑える日がくるから、強く生きて」
 刑場が静まり返っていたので、カールの声がここまで聞こえて来た。その言葉が俺の胸を打ち、人々の心に刻まれてゆくのが判った。カールは恨み言をいうのはやめて、群衆の中にいる誰かに言葉を残したのだ。


 カールが言葉を発したので処刑人が彼を断頭台の上に引っ立てた。貴族の最期の特権が行使されたので、もはや待つ必要はなくなったのだ。人々の中に野次を飛ばす者が出てきた。謀反人は地獄へ堕ちろ、などと口々に叫んでいる。
 俺たちはそんなに良く出来た生き物ではない。断頭台に首を嵌められた青年が謀反人とは思えないが、大勢の人にとってそれはどうでも良いのだ。胸に手を当ててよくよく考えてみれば、俺がそいつらをなじる権利などないということが判る。俺が今までに何人の困ってる奴を見過ごしてきたか、数えきれない。


 振り返ると、フィアは我慢できずに唇を歪め、赤く腫らした目から涙を流している。口をわななかせながら、誰か止めて、と繰り返している。
 フィアに肩を貸している老人が、頭を動かさずに瞳だけで左右を確かめた。それからそっと、フィアのフードを摘まんで少し深めに顔にかけた。老人は農夫のように下賤な風体をしているが、よく見ればそれらしく顔を汚しているのが判る。つぎの当たった古めかしいコートの下には長い物を隠し持っている。意識を集中させると短剣が見えてきた。これは王佐の剣ではないか。フィアはこの男から短剣を譲られたのだ。


 とある理解が訪れ、頭を殴られたかのように立ちすくんだ。
 この老人はデルティス公の配下だったオイゲンだ。あの日、バイロン卿が率いる近衛隊がデルティス城を襲った時、裏門から逃れて街を離れ、森にはいった。オイゲンはもともとデルティス公のもとで狩猟係をしていた下男であったが、仕事がしっかりしているのを認められて城にあげられ、侍従長にまでなった男だ。森の中なら追手を巻いて逃げおおせるだけの術を身に着けている。
 オイゲンは、混乱のさなかにデルティス公の娘、ソフィア公女を助け出していたのだ。


 あらゆる狩りの玄人で野営術の達人であるオイゲンと共に、幼いソフィア公女は森で生き延びた。お城のなかで何不自由なく暮らしてきた姫と荒野をゆくのは想像を絶する苦労の日々であったろう。執拗に追跡してくる王の耳、誰何してくる衛兵、よそ者に敏感な市民、荒野をうろつく山賊、凶暴なモンスター、それらすべてが敵だったのだ。追手から逃れて辺境を旅するうちに、とうとうオイゲンが姫をかばって死ぬ。そこからソフィア公女の一人旅が始まる。
 これがフィアの物語だ。俺は今、フィアの夢のなかにいるのだ。


 フィアはこんな場所にいてはいけない。デルティス公の息子たちの処刑を、バイロン卿もどこかで見ている筈だ。すぐにも広場から離れなければ。なぜオイゲンはこんな危険な事を許したのだろうか。オイゲンの表情を糸を手繰るようにして汲み取ってみる。心の色が透けて見えてくる。
 オイゲンは何度も止めたのだ。しかしフィアが言うことを聞かなかった。その時の情景が心の中に映し出される。


 どこかは判らない森の中に設えたテント小屋。兄たちの公開処刑をこの目で見ると言ってきかないフィアを、居住まいを正したオイゲンがやめるように諭している。
 バイロン卿は体面を失うことを恐れて年端もゆかぬ姫を公に手配することは控えている。しかし街に一歩でも入れば、バイロン卿の手先や王の耳がどこにいるとも知れない。もし見つかって捕えられれば姫は秘密裏に抹殺される。そんな危険を冒すわけにはいかない。その言葉を聞いて、まだ幼さの残るフィアは泣き腫らした目を見開き、唇を引き結んで激しく頭を振っている。


 オイゲンは苦しそうに目を細め、さらに言う。
 王の耳たちに見つからずに済んだとしても、生涯消えることのない心の傷になる。自分の選択を後悔し、止めきれなかったわたしを恨みに思うことになるが、それでも良いのか? フィアは自分の膝頭を握り、涙を振り絞りながら頷いている。オイゲンが目を瞑って静かに問う。目の前で肉親が殺されるのを黙って見ているしかないのに、それでも行くのか? フィアは身もだえしながら泣き崩れる。


 俺は目を瞑って歯を食いしばり、卒倒するのを何とかこらえた。イメージの放流が俺の中に滔々と流れ込んでくる。まるで滝の下に立たされたかのように体がぐらつく。
 倒木の陰で、まだ幼いフィアが顔中を泥だらけにしてえずくように泣いている。その隣でオイゲンが片膝をついてフィアの肩に手を乗せている。狩場ではいかなることがあっても声をあげてはならないと根気よく諭しているのだ。オイゲンがフィアをあやしながらも、周囲の気配に耳を澄ませているのが伝わってくる。


 フィアの頭皮にはしる裂傷を洗い清め、傷口を縫っているオイゲン。顔面血だらけのフィアは布きれを束ねたものを噛みしめながら、胴の底からぶるぶると震えている。フィアの頬は涙の通り道だけ血が薄まっている。オイゲンの指も獣を腑分けしているかのように真っ赤だ。フィアはときどき我慢ならない痛みに肩をびくっと持ち上げ、その度にオイゲンが大丈夫、と囁きながら優しくその肩を撫でている。フィアの口元にある布切れの端が、荒い鼻息を受けて小刻みにはためいている。


 どこかは判らない森の奥。木陰に座り込んで矢の手入れをしているオイゲンと、その背中に頭を預けているフィア。二人とも満腹で、気候が温かく、上機嫌にしている。フィアは目を瞑っていて、その頬に木漏れ日がさしている。だが眠っているわけではなく、ドングリで作った小さな独楽を手の平の中で弄んでいる。わずかな風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いている。


 オイゲンは忠義の士だ。
 リヒテンシュタイン家は崩壊しているというのに、世界中を敵に回してフィアを匿っていたのだ。忠義だけで出来るものではない。森の中で生きる術を持っていたからこそ、強いからこそできたことだ。剣の師匠の言葉を思い出す。命を懸けるのに値することを見つけたら、悔いを残さぬようにやり遂げねばならない。オイゲンはまさに命懸けでフィアを救ったのだ。
 英雄広場に一際大きな喧噪が巻き起こった。いよいよ処刑が始まるのだ。俺は両足を踏みしめて目を開けた。


 フィアが太陽をまともに見るように目を細めている。食いしばった歯の下から、兄さん、と言うのが聞こえた。ドーンという棒杭が倒れるような音がして、弾けるような悲鳴が飛び交った。慌てて壇上を見ると、獣の覆面をした半裸の処刑人がカールの髪を鷲掴みにし、生首を頭上に掲げている。その首から鮮血が滴り、断頭台からは赤黒い血が流れ落ちてきた。集まった人々は興奮して手を上げ、大声を出している。嗚咽をあげ始めたフィアの肩を、オイゲンが大きな手で握り締めている。


 目の前が暗くなって地面に片膝をついた。
 景色がぐるぐると回り始め、地面も揺れている気がしてきた。両手で顔を覆い、かたく目を瞑る。フィア。かわいそうなフィア。デルティス公の血を根絶やしにすべくバイロン卿が繰り出す追手から逃れ、山野を逃げ回ってきた。ついにオイゲンも失い、一人で逃亡生活を続けてきたフィア。王国そのものがフィアの両肩にのしかかっているのだ。


 そして、俺が犯した取り返しのつかない罪。カールとヴィクトルを捕えた近衛隊を指揮していたのは、この俺なのだ。フィアはこの後、もう一人の兄の処刑を目にしなければならない。開いた傷口の中を、さらにもう一度切られるのだ。
 俺は目を瞑っているのに、まだ幼いヴィクトルが兄の血がついた断頭台を見て失神しそうになるのが見える。俺は顎が胸に食い込むほど目を逸らしているのに、刑吏が怒鳴りながらヴィクトルを立たせている情景が浮かんでくる。泣きわめきながら断頭台に固定され、その首が落ちるのを、フィアが放心したような顔で見ている。
 俺はもうここにいたくない。俺はここから逃げ出したい。だがフィアはこれを選んだのだ。俺だけ逃げられるわけがない。


「教えてくれ! 俺はこの夢を覚えているのか?」
 倒れぬように四つん這いになった俺の肩にイシリオンが手を置いた。
「今回は誰も君を起こさない」
 俺は喉を振り絞るようにして、なんてことだ! と叫んだ。暗い渦の底に呑み込まれるように沈んでいきながら、頭上はるかにイシリオンの声を聞いた。それは遠い場所から聞こえてくる鐘の音の残響に似ている。
「窓に気を付けるように」


→つづき

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