ほら穴に戻った俺たちは物も言わずに装備を整え始めた。
 様々な思いが目まぐるしく思い浮かぶが、とりあえず武装しなければならない。可能な限りの大急ぎでだ。山賊たちが沼の主と遭遇したのは昨日のことだ。俺たちがいるこの岩場からその雄叫びが聞こえた。夕方の狩りをする直前に聞いたあの物音は、山賊たちが沼の主と戦っている時のものだったのだ。ということは、連中が早発ちをしたら既にここを見つけているかもしれない。装備を身に着ける前にオロンゾたちが崖を登ってきたらと思うと、ベルトの穴に金具が入らない。ほら穴の外を何度も見てしまう。


 矢筒の肩紐を絞るようにしてピッと止めたフィアが、蝋燭のそばで前屈みになって気忙しそうに声をかけてくる。
「装備を済ませて。灯りを消すわよ」
 俺とルメイが装備を終えて頷くと、フィアが蝋燭の火を揉み消した。ほら穴の中は再び闇に包まれる。
「とりあえず外の様子を見るわ。覚られないように気を付けて」
 フィアの小声が闇に響く。ほら穴の入口から射すわずかな光が、四つ這いになって進むフィアの姿をかろうじてとらえている。俺とルメイも伏せてその後ろに続き、物音をたてぬように気を付けながら断崖に取りついた。亀のように首を伸ばしてそっと下を覗き込む。


 こういう絵画をいつか見たことがあるような気がする。
 東の空が乳白色にうるみ始めている。ほら穴の闇と比べたら眩しいほどだが、太陽はまだ地平から顔を出していない。東雲の輝きが地平を薙ぐように照らしている。目の前に広がる河原と原野、その先の森はいまだ茫洋とした薄暗がりのなかにある。ほぼ色彩を欠いた灰色の世界だ。眼下の河原は霧に包まれ、雲の通り道のように見える。


 豆粒のように小さく、地を這っているピューが見えた。
 地面に伏せて足跡を追いかけながら、河原のはずれの辺りをこちらに進んでくる。およそ三百歩ほど離れた場所だ。剃りあげて白々としたあの頭を見間違える筈がない。その後ろから、抜刀していないサッコとオロンゾが周囲を見回しながら歩いてくる。
 もしあの窓を見ずに出発していたら、背嚢や売り物の虹羽根を担いだまま森のなかで鉢合わせになっただろう。俺たちは森に誰もいないと思い込んでいたのだから、出会い頭の戦いはこちらが不利になっただろう。


 鼻息を荒くしたルメイが伏せたまま、わずかに足をにじらせた。
「どうする。このほら穴も見つかるぞ」
 フィアがぱっとこちらを振り向いた。
「逃げよう。岩場づたいにアリア河の本流まで出れるわ」
「だめだ」
 俺の断固たる返答に二人がたじろぐのが判った。
「ピューはともかく、サッコやオロンゾとやり合えるのはセネカしかいないのよ?」
 フィアが眉根を寄せて言い募る。もちろん逃げるという選択肢もある。しかし俺はそれを取りたくない。


 自分が熱くなり過ぎていないか深呼吸をしてみる。大丈夫、頭は冴えている。
「逃げ回るには食い物がないし、どこまで行ってもピューが追いかけてくる。そして連中がこのほら穴に気付けば虹羽根もみつかる。俺はこの狩場を失いたくない」
 ルメイが苦しそうに目を瞑った。俺の言うことが理解できたのだ。フィアが懸命に言い返してくる。
「狩場はまた別のを見つけたらいい。命あっての物種でしょう?」


 俺はうつ伏せたまま、小さな声に力をこめた。
「俺たちはピューの恨みを買ってる。いつか勝負をつけなければならないんだよ」
 フィアの肩に手を乗せ、その瞳を覗き込んだ。
「そしてフィア、君は──」
 バイロン卿とゴメリーから追われている、と言おうとする前に、フィアが慌てて顔を左右に振った。
「判ってる! でも今は話をしてる場合じゃないわ」
 フィアが気遣わしげに崖下を見下ろした。無数の足跡を見つけたピューが、蜥蜴のように上半身だけで伸び上がって辺りを見ている。オオルリコガネの森の手前の辺りで、もう二百歩もない。


 フィアの肩を掴んだ手に力をこめた。
「俺たちは寄る辺ない三人組だけど、連中はその気になったら仲間を呼べる。これは逆にチャンスなんだよ」
 もはや立ち上がって用心深く森に目を懲らしているピューを視界にとらえながら、フィアが少しずつ頭を低くした。ピューは追跡の専門家らしく、道なき道にフィアが張り巡らせた鳴子のひとつを指差し、背後のサッコとオロンゾに注意を促している。旦那方、鳴子を踏まねえように、と言う声が聞こえてきそうだ。この辺りに野営地があることに連中も気付いただろう。


「でも今から下りて行ったら囲まれるわ」
 俺を見るフィアの瞳には悲壮の色が滲んでいる。確かに今からのこのこと崖を下りていったら不利になる。できたら連中に上がってこさせる方がいい。俺の頭の片隅で小さな独楽が勢いよく回り始めた。正念場だ。残されたわずかな時間で最も有利になる道を選ばねばならない。
 考えの道筋はどれもひとつに収斂する。このまま俺たちが姿を現さずにいれば、連中は必ずここに上がってくる。まだ払暁前で、寝入っている可能性があるからだ。
「俺に考えがある。だまし討ちにしよう」


 フィアにはその場に残ってぎりぎりまで様子を見てもらうことにした。俺とルメイはそっとほら穴に戻り、背嚢や薪を寝床に置いて毛布をかけた。暗いのでまるで誰かが寝ているように見える。俺たちは暗いなかで待ち伏せているので目が慣れているのも有利に働くだろう。
 ルメイにはメイスを持たせて窪みの奥に陣取らせた。その中に入ろうとするなら腰をかがめなければならない。そこをメイスで強打してくれと伝える。


 ばたばたしているのでルメイは一も二もなく言う通りの配置についたが、なかなか本音は言えないものだ。もし俺一人なら、あの連中を相手に一人でもなんとか渡り合える。しかしルメイとフィアを庇いながらではいかんともしがたい。安全な場所にいて欲しいのだが、面と向かって隠れていろと言われたら受け入れがたいだろう。
 こうしている間にもサッコとオロンゾが向かって来る。振り向けば、崖に貼りつくようにしていたフィアが頭をさらに低くしている。いよいよ崖を登ってきたのだろう。空が少し明るくなってきた。


 唇に指を一本あて、足音を忍ばせながらフィアが戻って来た。
「罠に警戒してるわ。二人残してピューが一人で登ってくる」
 フィアは唇を一直線に引き絞って俺の返答を待っている。
「連中は俺たちがまだ寝てると思ってる。お誂え向きに背嚢に毛布をかけておいた。ルメイは窪みの奥にいる。フィアもそこで待機しててくれ」
 張りつめた目をしたフィアが俺の小手に手を乗せてきた。
「ピューは目ざとい奴よ。気を付けて」
 俺はフィアを窪みの方へ押し出しながら、わかった、と答えた。ふと、こんな顔をしたフィアを以前どこかで見たことがあるような気がした。だがこの忙しい時にそんな思いつきに構っていられない。


 ほら穴の入口の左脇に隠れ、使い慣れたバスタードソードの柄を握る。安物の鞘が音をたてないように、左手の指の腹で刀身を挟みながらゆっくりと剣を抜く。ほら穴の中は狭いので振り回すわけにはいかないが、相手より長いリーチで突くことができる。足を開いて立ち、固く握った柄を脇腹に付け、狙いをつけるために刀身の中ほどのリカッソに左手を添えた。静かに息を整えながら物音に耳を澄ます。最初に入って来るのが誰であろうとも、一撃のもとに倒してやる。


 フィアのしていることを見て目が吊り上る。
 怒鳴り声をあげてやめさせたくなるが、声を出すわけにはいかない。右手を剣の柄から離し、感情をこめて追い払う仕草をするが、フィアは意に介さない。竈のそばにある奥の寝床に入ってこちら向きに横たわり、抜身の短剣が引っかからないように気を付けながら毛布を被っている。そこで寝た振りをするつもりだ。
 確かに、入口から覗いた時に寝ているフィアが見えたら油断するだろう。しかし危険過ぎる。なんとかしてやめさせたいが、今さらどうにもならない。俺はひとつ溜息をついて右手を柄に戻し、捩じるようにして握り直した。


 静かすぎる。
 キーンという耳鳴りがするほどの静寂のなか、人間が全く物音をさせずに動ける筈がない。ピューはここをやり過ごして別の場所に行ってしまったのだろうか。上体を右に傾けてほら穴の入口を覗き込むと、床のすぐ上に肌色の頭頂が見えた。自分の心臓がばくんと鳴ったのが聞かれてしまったような気がする。ピューはわずかな衣擦れの音さえさせずに蜥蜴のように這ってきたのだ。不自然なほどゆっくりと前に繰り出してくる手には短刀を握り締めている。殺気を帯びた刃が微塵も音をさせずに俺たちのねぐらに入ってくる。


 息を殺し、意識を集中させる。できたら有無を言わさず一撃で、ひと声もあげさせずに倒したい。剣はぎりぎり届きそうだが、急所の首が隠れている。俺に気付く前にもう少し前へ出ろ、と念じるうちに、ピューの動きが止まった。薄明かりの中にフィアを見つけたようだ。フィアが狸寝入りしていることには気づいていない様子で、顎をあげて食い入るように見詰めている。
 足をにじらせて音をさせないように膝から上をつかって剣に溜めをつくる。それにしてもここまで細心の注意を払っていたピューが余りにも無防備に見える。フィアの方を横目で確かめた時、思わず目を奪われた。


 まるで一幅の絵画だ。
 剥き出しの岩場に灰色の帆布が一枚敷いてあり、その境界を越えてフィアの金髪が流れるように垂れている。フィアはうっすらと唇を開いて寝ており、意識があることを知っている俺には恍惚としているようにも見える。暗黒のほら穴に微かな光が扇状に差し込み、照らし出された寒色の領域にただフィアの寝顔だけが温かみのある色をしてぼうっと浮かんでいる。


 フィアの体を包む毛布は砂丘の稜線のようになだらかに足元まで伸び、その肩が呼吸に合わせてわずかに上下している。深く、豊かな眠りを連想させる情景には執念深い闖入者も描かれている。禿頭の小男が、手に禍々しい装飾がついた短刀を握り締め、そっと這い寄っている。その横顔には歪んだ歓喜が浮かんでいる。いつか教会で見た壁画と同じ構図だ。森の小路で花に囲まれて午睡する乙女と、そこに這い寄る毒蛇の図。


 俺は教訓を得た。
 してやったりと有頂天になった瞬間こそ、最大の危機なのだ。足場を動かすことなく上体を前のめりにして距離を詰めると、剣を真っ直ぐに突き出した。切先はピューの顎の下から入り、向こう側に突きぬけた。切り裂いた喉からブハッという音がして鮮血が飛び散る。ピューが前のめりにくずおれて喉を両手で押さえ、目を見開いて俺を見返した。剣を小さく振りかぶって斧のように首の後ろに振り下ろす。ドスッという音がして剣が延髄に食い込んだ。ピューはぐったりとして長い息を吐き、手足を細かく痙攣させている。首の骨が折れたのだ。


 フィアが戦くようにして目を開き、もう来ていたのね、と囁いた。ルメイも奥の窪みから出て来た。
「まだ隠れてて」と慌てて制止する。
 ルメイが判った、と囁き返す。窪みに戻りながら途中で振り返り、これであと二人、と言って親指を立てている。
 ピューの革鎧の襟ぐりを掴んでほら穴の隅まで引きずる。床に血塗れのものを引き摺った跡ができたが、仕方ない。拠点をこれ以上汚したくないのでピューの死体を引き上げて壁にもたれさせ、傷の位置を高くした。


 蜥蜴と呼ばれた男は、受け口で物を食べる時のようにだらしなく顎を開け、瞳孔の開いた瞳をまばたきもせずに見開いている。切られた喉からゆっくりと血が流れてくるのを別にすれば、宙を見上げて大事なことを思い出した人のように見える。ピューの革鎧の腹の辺りに血の染みがじわじわとひろがっていく。
 残念だったな、ピュー。俺に運が向いて返り討ちになったぞ。お前はもう誰も追跡できないし、お前の叔父を殺したメンバーの寝首を掻くことも出来ない。


 姿勢を低くして入口の脇で剣を構えると、外の様子を窺いながら少しずつ前に出た。そっと入口の周囲を見渡すが、誰もいない。体を思い切り捻ってほら穴の上を見上げるが、サッコとオロンゾの姿はどこにも見えない。崖っぷちまで這い進み、なかば枯れつつある低灌木の陰から崖下を覗き見た。
 手持無沙汰になったサッコとオロンゾが時折こちらを見上げながらピューの合図を待っている。しめたぞ。俺は頭を低くしたまま体を引き、ほら穴の入口に這い戻った。


「サッコとオロンゾは崖下で待ってる。ピューがやられたことに気付いてない」
 フィアが毛布をぱっとはだけ、抜身の短剣を握り締めながら立ち上がった。ルメイもメイスを構えたまま窪みから出てくる。
「ルメイ、フィア、ここで待っててくれ。俺が行く」
 緩んだ剣帯をぎゅっと締め直したフィアが目を細めて俺を見る。
「わたしも下りる」
「だめだ」
 俺の荒々しい言葉に二人ともはっとしている。


「罠はフィアに任せる。金勘定はルメイだ。だが山賊を相手にするのは俺だ」
 フィアが俺の腕を取って揺すり、歯を食いしばった。
「相手は二人よ?」
 大きな声を出すわけにいかないので、押し殺した声に力がこもる。
「俺を、信じろ」
 フィアが大きく肩で息をしながらじっと俺を見ている。
「なんの恐れもない。少し遠回りをして崖を下り、二人とも屠ってくる。フィアとルメイは見つからないように気を付けて上から見ててくれ」


 苦悩とともにフィアが俺の言葉を受け入れた。張りつめた表情が解けてゆくと、悲哀だけが残った。唇が歪み、青灰色の瞳がうるんでいる。フィアは両手で俺の肩を揺すった。
「絶対に死なないでね」
 フィアを、次いでルメイを見返し、大きくひとつ頷く。いつか死が俺を捕えるとしても、それは今日ではない。俺は自分が絶対に死なないと信じている。必ずやり遂げると信じている。ほんの少し前まで、ピューがそう信じていたように。


→つづき

戻る