このまま斬り結んでいたらやられる。
 サッコが大振りを外してたたらを踏んでいる隙に、まるきり逃げ腰になって森の方へ回り込んだ。みっともないが仕方ない。このまま狭い岩場の方へ押されていったら危ない。サッコが再び雄叫びをあげて突進してくる。こいつは泣いているのか? こいつはいったい何者なのだ? 血も涙もない山賊ではなかったか? 俺はサッコが振り下ろす両手剣を体術だけで躱し、分厚いミトンの金属手甲に剣先を叩きつけた。サッコが指先を胸元に引き寄せて痛みに唸るのが見えたが、また目の前が暗くなる。


 そこに光景が見えた。
 夜中の雷が地上を一瞬だけ照らし出し、目に焼きついた残像をしばらく眺めているようなものだ。俺はサッコの攻撃を躱しながらその残像を反芻した。
 場所はどこか判らないが、橋げたを木板で囲ったような暗がりに二人の子供がいる。二人とも汚れた布きれを体に巻いたようななりをしている。頬がこけて垢まみれの顔をしているので年頃さえはっきりしないが、片方の子は髪を伸ばしているので女の子のようだ。その牛蒡のように痩せた女の子が弟に何事か言って聞かせている。しかし弟は唸り声をあげるばかりだ。寒さに震えている弟は、言葉が話せないのだ。


 残像が動き始め、情景として像を結び続ける。
 何故かは判らないが、この姉弟が薪をかじるほど飢えていることと、その薪さえ不足して暖が取れずにいるのが伝わってくる。隙間だらけの板囲いの外からはわずかに街の明かりが漏れてきて、目の前の川には橋の影が暗く落ちている。そこには闇の隔絶が横たわっていて、街の灯には手の届かない温かみが滲んでいるように見える。姉弟の家には満腹も暖房も、寝床さえない。


 川の上流を眺めれば、細かく立つさざ波が月の光を反射している。そこに流れている水は冷え切っており、水銀の密度を持つかのようだ。歯の根が合わずにがたがたと顎を鳴らせている弟が、板の隙間からその輝きを見詰めている。やがて姉が弟を寝かしつけ、板の隙間に藁くずを詰める。しかし姉が身を横たえる頃には詰め物が風に飛ばされ、真っ暗な空間に一筋の光が走る。


 俺は近衛から慣れない冒険者に身を落とした時、食っていけるのだろうかという漠然とした不安を感じていた。王都から流れ流れてスラムに辿り付いた時、この貧民窟の宿は幾らなのだろうと思案しながら残りの金を数えたものだ。
 しかしこの、寒さのあまり震える手で自分の体を撫でさすっている二人の子供が感じているのは、不安などというぼんやりとしたものではない。いつまで続くのか判らない飢えと、いつ止むか判らない寒さを味わっている者にとって、世界は苦痛そのものといえる。


 俺は二重に見える世界を眺めている。
 橋の下に住む貧しい姉弟の様子がありありと見えてくると、大きな剣を躱し続けている現実の世界が遠くに霞むような気がしてくる。二重に見える世界のうち、俺はどちらに属しているのだろうか。頭のなかに霧がかかって意識がぼんやりとしてくる。家の中にいるというのに、二人の口からは白い息が漏れている。寝具もない部屋の片隅で体を寄せ合っているこの子たちは、一息ごとに死にたくないと叫んでいるようなものだ。やがて俺は静かに得心した。この物言えぬ弟はサッコだ。俺はサッコが言葉を話すのをまだ一度も聞いていない。


「いい加減にしろ!」
 怒りに我を忘れて叫んだ。俺はこのままでは殺される。こんな馬鹿げた死に方があるか。目を見開いて現実に戻る。壁越しに聞こえていたような剣戟の音が、直に聞こえてきた。サッコが両手剣を水平に繰り出してきている。それを剣で受けた瞬間に視界を失いながらも、大きく踏み込んで一回転する大技でサッコの兜を剣で強打した。ガンッと言う音がして指が痺れるほどの手ごたえがあり、俺は暗闇の中を飛びすさるようにして後退した。ゆっくりと視力が戻ると、サッコが片膝をついて頭をふらつかせているのが見えてくる。剣を杖のように使って倒れないように踏ん張っている。


 サッコは何度も叩かれて変形した面覆いを苦労して引き上げた。思いのほか色白の顔をした壮年の顔が現れる。ただし鼻から唇にかけてが痣になっていて、傷から流れ出た血が早くも瘡蓋になっている。サッコは据わった目で俺を睨みながら、かーっと喉を鳴らした。そして一瞬だけ横を向き、ぺっと血を吐いた。すぐに視線を俺に戻し、変形した面覆いを力任せに引き千切ると、地面にかなぐり捨てた。おそらく鼻の穴で血が固まって息苦しいのだ。唇をもごもご動かしているなと思ったら、血のついた歯を舌で押し出すようにして胸元に落とした。


 サッコは妖術使いではない。
 この男に相手の視力を奪うような能力があるなら、とうに「怪力」以外の綽名で呼ばれているだろう。現にさっきまでは何ともなかったではないか。
 これは俺に与えられた例の能力が無分別に働いている結果なのだ。そう気づいた瞬間に、これまで戦いの中では決して味わったことのない感情が喉元までせり上がってきた。これは焦りだ。息がどんどん浅くなっていく。俺はいったい何に巻き込まれているのだ。これではうっかり戦えないではないか。


 サッコに重なって窓が見える。
 苔蒸した朽木の窓枠をもつ窓が、金属鎧に身を包んだ巨体に重なるように浮き出ている。ちょうど肩の辺りから窓枠の側辺が真上に飛び出し、頭上で上辺が横渡しになっている。まるで魔法がかった神々の彫刻のようだ。窓の内側には月夜の川面のような暗い景色が広がっていて、サッコが首を曲げるたびに暗黒面から顔の一部だけが出たり引っ込んだりしている。気色わるくて見るに堪えない。


 なんとかして窓から離れようとするのだが、窓はサッコと一緒に迫ってくる。この遠見の窓は、自分の死を意識したサッコがこの世界に対して抱いている怨恨そのものだ。その思念の強さは並外れている。
「があああ!」
 逃げ回る俺にサッコが激怒し、叫びながら剣を振り回してくる。雑な攻撃ばかりだが、怪力でうなる剣に当たれば命を取られる。


 この危機をどう回避したらいいのだ。
 じりじりとオオルリコガネの森の方へ後退していく。サッコはいきり立って剣を振り回しており、その剣に触れずにまともに戦えるわけがない。
 どうしたらいい?
 訓練の賜物で、与えられた条件のなかで体が勝手に動いてくれる。しかしこんな戦いをいつまでも続けられるわけがない。やがて俺の体力が尽きるだろう。
 どうやってこいつを倒したらいい?


 悪いことは重なるものだ。
 俺の様子がおかしいことに気付いたルメイとフィアが崖から下り始めている。来ちゃだめだ。サッコは不器用な剣士だが、ルメイとフィアが敵う相手じゃない。一撃でも食らったら致命傷になるだろう。大声で戻れと叫びたくなるが、今のところサッコは後ろの崖を下り始めたルメイとフィアに気付いていない。たまらない気持になる。俺のせいで二人が傷付くようなことがあってはならない。


 さらに追い打ちをかけるように、森からオオルリコガネたちの羽音が聞こえてくる。サッコは怒りに我を忘れて気付いていないが、虫たちが木に登って羽根を擦り合せる音が低く響いている。今頃、森の木々にはオオルリコガネが鈴なりになっているだろう。虫たちのこの時間帯の習性は知り尽くしている。
 日の出はとうに過ぎた。まもなく森から、無数のオオルリコガネが飛び出してくるだろう。そうなったらサッコとの勝負どころではない。


 俺の頭のなかで巨大な独楽が風切り音をさせて回転している。
 この状況をなんとかしなければとは思うが、サッコの剣を躱しているだけでも命懸けだ。虫たちが飛んできたら崖の方へ走って逃げなければならないが、それにはサッコを越えてゆかねばならない。これ以上、森の方へ退いたらだめだ。


 サッコの大きな剣をまともに受け、身を寄せて鍔迫り合いに持ち込む。またもや視界が薄れるが、なんとか現実に齧りついてサッコを押し返す。しかし押し合いはサッコの得意とするところで、一歩も退かない。体を躱して後ろに回りたいのだが、こいつの馬鹿力が恨めしい。朽木の窓が目の前に迫ってきて、その世界に吸い込まれそうになる。こんなところで遠見の窓に入ったら、棒立ちになってサッコに斬られてしまうだろう。そのサッコの肩越しに、とうとう地面に降りたルメイとフィアがこちらに向かって走り寄ってくるのが見えた。


「こっちに来たらだめだ!」
 たまらず大声で叫んだ。サッコが俺と剣を交わしたまま背後を振り返っている気配があるが、俺の視界はすでに暗くなっていてよく見えない。急流に飛び込んだ時のように体が遠見の窓に吸い寄せられ、この地に留まっているので精一杯の状態だ。
 夢中になってサッコと剣の押し合いをしている最中に、蜂の巣をつついたような羽音が森の方から響いてきた。目には見えないが、無数のオオルリコガネが森から飛び出してきたのだ。このままではサッコと一緒に虫に囲まれてしまう。それなのに俺は、朽木の窓枠を持つ遠見の窓に、なかば吸い寄せられている。


 オオルリコガネの飛来に気付いたサッコがあげる驚きの声、その背後から俺の名を鋭く呼ぶフィアの声、もはや数匹がそばを通り過ぎている毒虫の群れの羽音、さらさらと流れていく川の音、それらの音が入り混じって心の内法を埋め、気が遠くなる。高い所から遥か下の地面を見下ろしている時に感じる眩暈に似た感覚が俺を包み込む。俺は自分が気を失う寸前であることに気付く。あっけないものだな。俺の冒険はこれまでのようだ。


 その瞬間、俺の背中に誰かが手を当てた。
 ルメイやフィアである筈がない。もちろんサッコでもない。もしこの手がオロンゾなら、俺は無様に後ろを取られたことになる。しかしついさっき、崖に寄りかかったまま横倒しになって動かないオロンゾを見た気がする。この手は誰なのか。なんとなく、心当たりがある。
 その手が優しく、だが力強く、俺を遠見の窓に押しやった。



   *



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