薄目を開けるとフィアの顔が見えた。
 俺は地面に大の字に倒れていて、フィアの膝に頭を乗せられている。フィアは俺の顔を上から覗き込むようにして頬を叩いている。メイスを握り締めたルメイがそばに立っていて、周囲に目を走らせている。良かった。二人とも無事だったのだ。
「もう大丈夫だ」
 すっくと立とうとするが、上半身を起こした瞬間に立ち眩みがして思わず顔をしかめた。フィアが背中をさすりながら、ゆっくりで大丈夫よ、と声をかけてくる。


「サッコはどうした?」
 眩暈をこらえて大声で問うと、ルメイが顎で傍らの地面を示した。見ればサッコが巨体を投げ出すようにして仰向けに倒れている。両手剣はルメイが既に取り上げて背に担いでいるとはいえ、もしサッコが暴れ始めたらと思うと気が気ではない。膝立ちになってよく見ると、剥がれた面覆いの下にサッコの顔が見えた。目を見開き、口をなかば開いて泡を吹いている。顔面は蒼白で、とてもじゃないが生きている人間の顔ではない。


 ついさっき見たものを思い出して複雑な気持ちになる。
 俺は黒鹿亭の女将ハンナに何度か世話になっている。そのハンナが、弟の生首を見て泣いていた。身内に山賊がいることを隠して暮らしながら、サッコのことを気にかけてきたのだろう。その気苦労もこうして終わったわけだ。
 いや、そうではない。俺はこれからサッコを埋めてしまうから、いつまでたっても行方不明ということになる。生きているのか死んでいるのかも判らずに気を揉み続けるのは哀れだが、晒された生首を見る方が幸せとも思えない。サッコの顔には死の直前に味わったであろう苦痛がありありと刻まれている。


「オロンゾはセネカが、サッコは虫たちが倒したのよ」
 そう言うフィアの顔を振り返って見上げる。なぜ俺は無事だったのだろう。
「何が起きたか、覚えてないのね?」
 情けない話だが、静かに頷くしかなかった。中腰になった俺に、フィアが手で抑える仕種をする。
「とりあえず座って。無事で良かった」
 フィアは安心しているだけではなく、少し怒っているように見える。俺を信じろと豪語して山賊退治を請負った男の戦いが余りに無様だったからだろうか。



 俺はその場に座り込み、苦悶の表情を浮かべて事切れているサッコを見下ろしながら、フィアが腕を持ち上げたり指を摘まんだりするのに身を任せた。生きている奴と、死んでいる奴。ほんの僅かな差がこの結果をもたらした。死んだ方がまし、なんて言葉もあるが、断然生きていて良かった。太陽の光も、森の香りを運んでくる風も、信頼できる仲間も、すべてはこちら側にある。
「どこか痺れてるところはない?」
 フィアが甲斐甲斐しく面倒をみてくれるのが嬉しい。狩りで倒れようが斬られようが、こんなことは今までにはなかった。
「特にないな。俺はなんで虫に刺されずに済んだんだ?」
「わたしにも判らないわ」


 フィアが話してくれたところによれば、俺とサッコが鍔迫り合いをしているところに森から大量の虫が飛んできた。サッコはみるみるうちに何十匹もの虫に押し包まれ、抵抗むなしく地に倒れた。倒れてから暫くもがいていたが、やがて断末魔の叫びをあげて動かなくなったという。
 それに対して俺は、虫が飛んできた瞬間に発作に見舞われたかのように片膝をつき、地面に倒れ込んで動かなくなった。俺が伸びているところへ虫が何匹も取りついたが、まったく攻撃されなかったという。


「サッコのそばにいた虫は全部サッコに向かっていったのに、セネカは相手にされなかったの」
 フィアの言葉に一瞬だけこちらを見たルメイが、すぐに森の方へ視線を移しながら口を開いた。
「俺たちは自分の身を守るので精一杯だったよ」
 岩場の方に数匹のオオルリコガネが転がっているのが見える。ルメイとフィアが仕留めた虫たちだろう。


「遠見の窓に入っていたんだよ」
 革の小手を引っくり返して点検していたフィアが手を止めた。ルメイも驚いて俺を見る。
「なにもこんな時に入らなくても良かったんじゃないのか?」
 その通りだ。俺は渋い顔をしてルメイを見返した。
「サッコの体にぴったり寄り添うようにして窓が現れたのさ。逃げても逃げても追いかけてきた」
 切羽詰った感じを思い出して胸苦しくなる。


「どおりで様子がおかしいと思ったわ」
 フィアは崖の上から戦い振りを見ていて、俺がサッコの剣を急に嫌がるようになったのが判ったという。怪我をしたと思ったらしい。
「なんでいきなり窓が現れたんだ?」
 ルメイが疑問を口にするが、それは俺が知りたいくらいだ。
「理屈は俺にも判らない。おそらくサッコの気持ちを映した窓だったんだと思う。そしてある種の窓は、見る者を吸い寄せる」
 ルメイがぼそりと、それは厄介だな、と呟いた。
「窓の中で何を見たの?」
 フィアの問いに思わず俯いた。何からどう話したらいいのか。
「取り留めのない話だが、聞くか?」
 二人とも頷いている。


「サッコは幼い頃、姉と二人で橋の下に住んでいたらしい。板を張った小屋でがたがた震えながら寝てる姿を見たよ」
 ルメイとフィアがサッコの死体をそっと見下ろした。
「窓の中で見るものがどこまで真実なのか知らないが、そのサッコの姉ってのは、俺たちの知ってる人だった」
 ルメイが神妙な顔をして「誰だい?」と聞いてきた。
「黒鹿亭の女将、ハンナだよ」
「まさか」
 ルメイはサッコを見下ろしながら自分の顎を撫でている。
「そうか。ずっと秘密にしてたんだな」
 スラムに縁のないフィアはハンナを知らず、黙っている。


「でもサッコは筋金入りの山賊だったんだから、気に病むことはないぞ」
 ルメイが俺の肩にぽんと手を乗せてくる。
「俺たちのセネカがサッコとオロンゾを倒したんだ。久しくなかった痛快事だよ。暫くは街でも英雄扱いされるぞ」
 ルメイが満足そうな笑みを浮かべている。だが俺は目を逸らして黙った。
「ハンナのことは気にするな。生き残って山賊として罪を重ねる方が却って恐ろしいことだと、俺は思うよ」
 俺の顔に刻まれている苦悩にルメイが気付いた。そして何故かフィアも沈痛な面持ちをしている。
「なんとか言ってくれよ。まさかそんな事で懸賞金をふいにする気じゃあるまい?」
 ルメイが物言いたげに俺の顔を覗き込んでいる。


 とうとうこの日が来た。
 俺が手配者でもルメイとフィアはパーティーに留まってくれるだろうか。こんな所で解散となったら心残りも甚だしい。俺が黙ったままなのでルメイが業を煮やして両手を高々と放り上げた。
「おいおい、いい加減にしてくれ! 金貨六百枚だぞ!」
 サッコとオロンゾはそれぞれ金貨三百枚の賞金首だ。それだけの金があれば当分は暮らしていける。こんな機会はもう二度とないだろう。人生を左右するような大金をみすみす逃すことになるのだ。ルメイとフィアに申し訳ない気持ちで一杯になる。


「手配されてるんだよ」
 ルメイと目を合わせることもできず、情けない掠れ声になった。
「なんだって?」
 気勢を削がれたルメイが首をつきだして聞き返してくる。朝日がすっかり昇り、川霧がはれて小川の流れが見える。山賊どもと戦った喧噪は過ぎ、静けさのなかに水の流れる音が響いている。俺はゆっくりと首を回してルメイを見返した。
「ずっと黙っててすまなかった。俺は賞金首なんだよ」
 ルメイが眉根を寄せて俺を凝視している。なんとか目をそらさずにいるが、後ろめたさで思わず目を細める。フィアもそのすぐ脇で呆然と俺を見ている。


「そんなわけないだろう!」
 ルメイが聞いたことのないような野太い声で叫んだ。
「今までずっとイルファーロで、衛兵に囲まれて過ごしてきたじゃないか。セネカが手配されてるなんて、あり得ないよ」
 俺は自分が情けない顔をしているのが判る。ルメイの言う通りならどれだけ良かっただろうと思いながら、そうではない理由を自分で説明しなければならないのだ。
「手配書の人相書きがぜんぜん似てないんだよ」
 ルメイが一瞬絶句した。そういうことがままあることは誰でも知っている。


「いったい何をしたんだ?」
「俺は脱走兵だ。近衛の装備を一式身に着けたまま逃げ出して、それを旅先で売った」
 ルメイが呆れたという顔をして食って掛かる。
「そんなのはおかしい。普通はそんなことじゃ手配までされないぞ。懸賞金をかけられるのはもっと極悪の連中だ」
「その通りだよ。普通じゃない。俺はバイロン卿に楯突いて近衛の隊長から降ろされた。そして新しい任務を負わされた。魔物がうろつく古代遺跡の最深部を測量してこいという有難い御下命だ」
 この屈辱を、誰かに話すことになるとは思わなかった。俺は思わず顔を伏せた。
「……死にきれなくて、逃げたんだ」


 暫く考えていたルメイが何かを思いついた様子だ。
「人相書きが似てないなら、名前を変えてやり過ごせるんじゃないか?」
 俺は力なく顔を上げた。
「もう無理なんだよ。手配書がイルファーロに回ってきたのは、俺があの街で冒険者として名を売り始めた後だったんだ。今更名前を変えても遅いんだよ」
 ルメイは目をしばたかせ、鼻息荒く言い返してくる。
「それなら俺が倒したことにして届出る」
 ルメイが前に出てくるので、背後にまわったフィアが小さな声を出した。
「同じことよ」
 ルメイが振り向いて、え? と聞き返した。


「セネカとルメイはいつも二人きりで、長いこと一緒だったでしょ? スラムには近寄らなかったわたしでも何度か見かけてるくらいよ?」
 ルメイの微動だにしない背中が、だからどうした、と問うている。
「こういう言い方をしたら悪いけど……」
 フィアがルメイに差し出した手をふっと開いた。
「サッコとオロンゾを倒した冒険者がルメイだと公示されてたら、わたしでも、ああ、セネカが倒したのか、って思うよ」
 ルメイが肩を落として考え込む。


「それなら、フィアが倒したことにするかい?」
 今度は小さな声でルメイが提案した。だがルメイにもそうはならないことが判っている。フィアは苦しそうな顔をしている。
「無名の女罠師、サッコとオロンゾを倒す。灯火新聞の速報に出れるかもね」
 悪名高い山賊を女が倒したとなれば、街中がその噂で持ちきりになるだろう。そしてゴメリー親分は、自分が捕えようとしている女がその辺に転がっている娘ではなく、サッコとオロンゾの首をとるような腕っぷしの冒険者と知ることになる。さらにたちの悪い追跡隊が何組もフィアを追うことになるだろう。


「でもごめんね。わたしは目立ちたくないの」
 フィアが顔をひきつらせている。何故かは知らないが、こんな華奢な娘をバイロン卿とゴメリー親分が血眼になって探している。ルメイが溜息をついて口を開いた。
「どうしてか判らないけど、山賊どもに追われてるんだったね」
 フィアが何かを言いかけた時、ルメイが脇にどいて俺とフィアを同時に見れる場所に立ち、真剣な顔で語り出した。
「金のことはいいんだよ」
 ルメイがちらっと地面に倒れているサッコを見た。
「俺は、山賊の末路を、知らしめたい」


「こうしようじゃないか。サッコとオロンゾの首は取って、街の手前までは持ち帰ろう。その旅すがら何もアイデアがなければ途中で捨てたっていいんだ」
 人間の首が二つ、それが体にも心にも相当な重さだということはルメイも判ってて言っている。誰が持つのかと問えば、俺が持つと切り返してくるだろう。
「あるいは首は誰かにくれてやってもいい。カオカの手柄を譲ったみたいに、ウィリーに渡したらいいじゃないか。土産だぞ、ってな」
 一瞬、俺の決意がゆらいだ。そうか。ウィリーにくれてやってもいいか。
「そんなのおかしいわ」
 フィアが小さな声で反論してくる。
「わたしもお金のことは言わない。でもそんな話、誰も真に受けない。ウィリーが酒場で口を滑らせて振りだしに戻るわ」


「ウィリーなら、あるいは信用できるかもしれん」
 俺が呟いた言葉を耳にして二人がぱっと俺の顔を見る。
「わたしはうまくいかないと思う」とフィアが即座に言い返す。
 人間、生きている限り考えなければならないことが後から後から湧いてくる。こんな辺境までやって来て、山賊を二人やっつけて、その上まだ真剣に考えなければならないことが残っているのだ。俺たちは鳥のさえずりを耳にしながら森の手前で突っ立ち、怖いような顔をして黙っている。


「山賊どもに殺された人達のことは考えないのか」
 ルメイが別の切り口で語り始める。
「カオカで見ただろう。土に埋めた冒険者たちの気持ちはもう判らんが、あの人達の家族がどんな思いでいるか、考えてみてくれ」
 俺たちの視線は自然とサッコの骸に落ちた。
「死んだ人間は戻らないが、誰かがかたきを討ってくれたと聞いたら、俺なら泣いて感謝する。倒したのがどこの誰でもいい。山賊がのうのうと暮らしている世界なんて反吐が出る」


 ルメイが珍しく強い口調で言う。
 その背中にふっと、鎧戸付きの窓が浮き上がった。頂上がアーチ状に丸くなって細い煉瓦が半円に組んであり、スリットの入った木戸と鉄の格子で守られている。恐ろしく頑丈そうな窓だ。こういう窓を王都の商館で見たことがある。
 俺の目の前で、その窓の木戸が少しずつ開いてきた。不吉にも部屋には火の手があがっている。炎は轟々と燃え盛り、パチパチという音とともに木戸が焦げ、早くも窓から黒煙が漏れ始めた。建物の奥から女と子供の悲鳴が聞こえてくる──


 反射的に手で振り払うような素振りをした。
 ルメイがひた隠しにしてきた過去をこんな所で盗み見るなんてまっぴらだ。窓が一瞬にして掻き消えた。こういう事が出来るのかと自分の手を見てしまう。それからイルファーロの方、およそ南東の空を仰ぎ見て目には見えない地龍バロウバロウに語りかける。あんたの呉れた力を、どこでどう使おうが俺の勝手だ。好きにさせてもらう。とりあえず暮らしを立てるのが先で、宿命とやらは後回しだ。イシリオンのように失望するならしたらいい。こっちは芥子粒のような命で懸命に生きてるんだ。


 俺が手を振る様子を見ていた二人が何事かと言いたげな顔をしている。だが言い訳をする手間が省けた。サッコの死体に蠅が舞い始めている。
「早くしないと全部ウジに食われちまうぞ。どうする、セネカ」
 ルメイが食い入るような瞳で俺を見る。こんなにはっきり自分の意見を言うルメイは初めて見る。俺がルメイの気持ちを尊重することを強く望んでいるのがひしひしと伝わってくる。


 俺は心を決めた。
「サッコとオロンゾの首を取って運ぶ。うまい手が思いつかなかったらカオカの手前で捨てる。二人の胴体は穴に埋めて隠す。それでどうだ」
 ルメイが深く頷きながら、よし、と言った。フィアは完全に納得した様子ではないが、顎をひいて片方の眉を吊り上げ、俺を見ながら小さく何度か頷いた。


 サッコの死体が余りにも重いので、その場で装備を外した。金属鎧に覆われていなかった部分、顔面や草摺りの隙間、ひかがみなどに赤黒く血が固まっている所がある。オオルリコガネの毒腺に刺された跡だ。
「なんてでかい図体だ」
 ルメイがサッコの両脇に手を入れて持ち上げながら叫んだ。ルメイも相当な大柄だが、サッコと比べたら一回りは違う。俺はサッコの両脚を抱えて持ち上げながら、思わず唸り声をあげた。これを運ぶとなるとかなりしんどい。


 サッコが身に着けていた物をその場に広げて検めていたフィアが忙しく手を動かしている。硬貨が入っている革袋、火打石や砥石などの小間物が詰め込まれた帆布の袋、頑丈そうな短刀。金属鎧の裏側まで手でなぞるようにしてから、すっくと立ち上がった。
「わたしの似顔絵をオロンゾの手荷物から回収してくる」
 重い死体を運ぶのに食いしばった歯の間から、そうだな、と答えた。あれは俺のと違って似ていた。まんいち死体を掘り出された時、あの人相書きが残っていると厄介だ。気がかりの品を探しに崖下のオロンゾの死体の方へ走っていくフィアを目で追ってから、よたよたと脚を動かした。


 サッコの死体をできれば近くに埋めたいのだが、これからも狩りをする森や近くの通り道に埋めるのは避けたい。この辺りだったなと踏みしめるたびに、首なしの死体を連想して験が悪い。ワーウルフを埋めた辺りの土が柔らかかったので、そこまで運ぶことにした。
 小川の手前まで来たところで、フィアの細い悲鳴が聞こえた。俺とルメイは立ち止まって岩場の方に目を向けた。大きな岩が邪魔でよく見えない。
「離して!」
 フィアの二度目の声が聞こえた瞬間、俺とルメイはサッコの死体を投げ出して崖下に駆け寄った。走りながら剣を抜いている。


 それを見た瞬間、怒りと後悔で腹が煮えたぎった。
 崖に背を預けて寄りかかっているオロンゾが、途中までしかない右手と両脚でフィアを後から抱き抱えている。そして抵抗して身じろぎするフィアを、子供をあやすように自分の体に押さえ付けながら、左手に持った短刀をフィアの喉に当てている。オロンゾとフィアでは大人と子供の体格差だ。
 お前は教訓を得たのではなかったか。してやったりと思った時に油断をするものだと。それがこの体たらくだ。


 近くまで走り寄ろうとすると、オロンゾが短刀をフィアの首にぐっと突き立てた。
「近寄るな! 武器を捨てろ!」
 オロンゾまであと七歩。俺はオロンゾを一息で殺せる。だがそれを、フィアの喉が掻き切られる前にする術が見つからない。オロンゾが目をむき、小鼻を膨らませて短刀の刃先をフィアの喉に刺した。フィアが頭を傾けて逃げようとし、その顔に苦痛の表情が浮かんだ。刃先がうっすらと赤く染まる。
「判った。言う通りにする」


 俺は腰を落としてバスタードソードを地面に置いた。ルメイもメイスを放り投げた。金属と岩がぶつかる音が崖下に短く響く。オロンゾが土気色をした顔でにたりと笑うと、唇をおかしな風にもぞもぞと動かした。
「お前。お前にもう一度訊くが」
 オロンゾは眼窩に死の陰がさした目で俺を真っ直ぐに見ている。
「食い物を持ってないか?」
 こんな時に何を言っているのだ。こいつは馬鹿なのか?


「食い物は本当に尽きてる。これから街に帰るところだった」
 意外にもオロンゾは俺の答が気に入った様子で、そうかそうかと言いながらはしゃぐように笑っている。そりゃ残念だったな、ヒャハハ。
「俺は見つけたぞ。柔らかいうさぎで、うまそうな匂いがする」
 オロンゾが鼻をひくつかせてフィアの耳の辺りの匂いを嗅いだ。ただそれが言いたかったのだ。フィアは自分の運命を覚ったようで、顔が蒼白になっている。オロンゾにはもう失うものがない。何があってもフィアは道連れにされるだろう。


「もうやめろ。こんなことをして何になる」
 肩を落としたルメイが、げんなりした口調で声をかけた。オロンゾはさらに深く、フィアの金髪のなかに鼻をうずめるようにして匂いを嗅いでいる。
「一口ずつくれてやってもいいぞ」
 オロンゾは半目になって恍惚とした表情で俺を見上げている。気色の悪いことをされながら、フィアがまったく反応せずに無表情で宙を見つめている。それがかえって痛々しい。フィアはもう助からない。こいつの下らない言葉をこれ以上聞いているくらいなら、いっそ武器を拾ってオロンゾを刺し殺そうかとも思う。


「セネカとルメイ、ここまで連れて来てくれてありがとう」
 オロンゾに抱きかかえられているとは思えない平静な声でフィアが話し始めた。
「わたしが殺された後、こいつを殺してから、気を付けて戻って。別働隊がいるかもしれない」
 オロンゾが不快な表情を浮かべて左手の手首でフィアの喉を締め上げた。
「うさぎが勝手に喋るんじゃねえ」
 喉を締め上げられても表情を変えないフィアが俺を見ている。
「最後に夢がみれた。生きてるうちにお礼を言っておくわ。あっけない幕切れだけど、わたしのミスだから仕方ないね。油断した」
 そう言い終わってから、フィアの顔に微かに表情が浮かんだ。目を細めて、唇をゆがめている。


「黙れ!」
 オロンゾがフィアの首に左腕を巻き付けて締め上げた。うっと唸ったきりフィアは黙った。
「山賊のオロンゾ様はもうすぐ死ぬが、くたばるのは得心してからよ!」
 フィアの顔がみるみる土気色になっていくのをはらはらしながら見ている。オロンゾの腕と比べたら、なんという細い首だろう。やがてオロンゾが腕の力を弱め、フィアは肩で息をし始めた。殺されるためにまた息をしているのだ。


「こいつが人質になるってことは、お前らは仲間だな?」
 仲間という言葉が胸に刺さった。確かにそうだ。ただいっときのパーティーメンバーなら、放り出して逃げ出しているかもしれないのだ。俺はオロンゾに向かって静かに頷いた。
「仲間の命に代えて、性根ェ据えて返答しろ!」
 オロンゾがくわっと目を見開いて怒鳴った。
「ここで何をしていた?」


「そんなことが気になるのか?」
 俺は思わず呆れ果てたような声で無駄口を叩いた。オロンゾが左手の指に力をこめる。フィアの喉に短刀の刃先がにゅうっと食い込む。まだ切れてはいないが、フィアはもう目をつぶっている。
「待て。この森が狩場なんだ。オオルリコガネの群生地なんだよ」
 オロンゾが短刀をフィアの喉から離して呟いた。
「虹羽根か。そりゃあいい稼ぎになる」


 さんざん説明する羽目になるかと思いきや、オロンゾが虹羽根を知っていたので話が早かった。オロンゾは顔をあげて崖上の方に語りかけた。
「ピューよ、こいつらは虹羽根を取りに来たそうだ」
 俺はこれ以上難癖を付けられるのが嫌で正直に打ち明けた。
「もう死んでる。俺がやった」
 オロンゾは顔を戻し、眉根ひとつ動かさずに、わかってらあ、と言った。寒気が背筋を通り過ぎる。こいつは完全に死を受け入れている。脅しすかしてフィアを手放させることは出来ない。


「最後にもうひとつ」
 オロンゾが顔を下げ、フィアの耳元で囁いた。
「お前さんは何者だ?」
 フィアが目を閉じたままぴくんと肩を動かした。慌ててルメイが口を開く。
「彼女はフィア、女罠師だ。この狩場を見つけたのがフィアなんだ」
 オロンゾが据わった目でルメイを睨んだ。
「お前には聞いてない」


 フィアが言葉を発するために息を吸った。その気配に、オロンゾが満足げに顔を下げて耳を傾けている。そんなことは認めたくないが、オロンゾもフィアも顔から表情が消えていて、恋人同士が真剣に抱き合っているように見える。フィアが顔を上げてうっすらと目を開いた。森の奥に水を湛える小さな泉のような、青灰色の瞳の上辺に瞼が少しだけかかっている。オロンゾが聞き漏らすまいとして耳を近寄せた。
 そして、フィアの唇がそっと開いた。


→つづき

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