「ソフィア・リヒテンシュタイン。それがわたしの名前よ」 広大な森のただ中で、フィアを囲んだ三人の男たちがその言葉を耳にした。暫くは静けさがその場を満たした。男たちはそれぞれ眉根を寄せてその意味を考えていたが、やがてオロンゾがふっと溜息をついた。 「なるほどな。なぜこんな森の奥まで追いかけ回す必要があるのか、やっと判ったぜ」 オロンゾが薄笑いを浮かべて俺とルメイの顔を交互に見た。 「なんだ。お前ら、知らなかったのか?」 俺は屈辱と怒りを噛みしめた。俺とルメイは本当のフィアを知らずに一緒に旅をしてきたのだ。フィアがデルティス公の長女ソフィアであるならば、これまで判らなかった事すべてに合点がいく。 「傑作だ!」 オロンゾは唾を飛ばして叫んでから、痛そうに顔を歪めて哄笑した。たてがみのように伸ばしたごわごわの赤髪が幾らか顔に垂れてきた。 「俺は親父の名前も知らねえ。知りたくもねえがな。だから名前はオロンゾで、苗字は泣く子も黙る、だ」 オロンゾが喉をひゅうひゅういわせて笑うたびにフィアの華奢な体も一緒に揺れた。 「称号をとっちまうなんざ、殊勝なことだな、おい?」 オロンゾが真顔になってフィアの頭に頬を付けた。 「ソフィア・グレース・フォン・リヒテンシュタイン・ド・デルティス……。それがお前の名前だろう?」 その長い名は、フィアがデルティスの領主である貴族、リヒテンシュタイン家のソフィア公女であることを意味している。 「称号は剥がされたわ」 フィアが俯いたまま囁いた。 「おい、屁たれ野郎ども!」 オロンゾが髪を振り乱し、噛みつくような顔で俺たちに叫ぶ。 「お前らが連れ回してた女は、畏れ多くもディメント王の姪だぞ!」 オロンゾの言葉が追い打ちのように響く。デルティス公はディメント王の姉ジョアンヌを娶っているので、確かにその通りだ。しかし俺たちはずっと、フィアを孤独な罠師として接してきたのだ。仲間が隠し通してきた素性を、山賊の嘲笑を聞きながら受け入れなければならないとは。 「隠しててごめんなさい」とフィアが言った。「言い出せなかったの」 フィアはあらゆる者から逃げ続けてきたのだ。そうそう言い出せるものではない。いったいどんな暮らしをしてきたのだろう。 俺はフィアと話がしたい。唇を引き結んだまま黙っているルメイも同じ思いだろう。だがこの下種野郎が邪魔だ。一方で、フィアの命はこいつが握っている。オロンゾはフィアの喉に突きつけた短刀をゆるめずに握ったまま、フィアが無抵抗なのを良いことにその体を揺するようにして弄んでいる。 「俺もまさか姫様を抱っこすることになるとは、夢にも思わなんだ」 オロンゾはフィアの金髪に頬ずりをし、手先がない右手でフィアの腹から胸を絞り上げた。フィアは目を細めて歯を食いしばっている。 「ああ、勿体ねえ。こんな別嬪さんを道連れとはな!」 あやうく怒りに我を忘れて剣を拾いそうになった。しかし今、オロンゾには隙がない。拳を握って激情をやり過ごす。ルメイも唇を噛み、投げたメイスの落ちている辺りに目をやっている。俺は目だけでルメイを見て、ごく小さく首を振ってみせた。もしそれをやるなら、俺の仕事だ。 フィアへの哀惜の念と、オロンゾに対する憎悪がせめぎ合う。俺はむき出しの心で話をせざるを得なかった。 「フィア、こんな事になって本当に済まない。俺の責任だ」 フィアは黙ったままだが、ぎゅっと目をつぶってゆっくりと息を吐いた。フィアは死を覚悟している。 「ただで済むと思うなよ」 真顔で睨み付けると、オロンゾもふざけ顔をやめて睨み返してきた。 「お前らは自分の立場が判ってねえな」 オロンゾが背中をずり動かしてさらに深く崖に寄りかかった。短刀を持つ手がゆるんでフィアの喉から離れている。俺は自分の足元に転がっているバスタードソードの位置をそっと確かめた。 「いいことを教えてやる」 オロンゾが眉を吊り上げて顔を傾け、生徒に講釈する講師のような顔をして落ち着いた声を出した。 「この女を追ってる張本人は俺たち山賊じゃねえ。大元は、いま王国を牛耳ってるバイロン卿よ」 どうだという顔をして俺たちの顔を見比べている。 「女を匿うお前らも含めて、全員が王国の敵だ。逃げる場所なんてどこにもねえぞ」 剣を拾って間合いを詰めることが出来るかじりじりと考えていた俺は、オロンゾがフィアを押さえ込んでいた両足を解くのを見て眉をひそめた。 「行けよ」 オロンゾはそう言うと、フィアの首に回していた腕を外して両脇に垂らした。短刀はまだ手に持っている。フィアは拘束を解かれ、オロンゾの真意を図りかねて却って不安そうに背後を確かめている。 「俺は納得したんだ。もう行けよ」 フィアの心に希望が生まれ、その嵩の分だけ恐怖も生まれた。フィアは緊張しながら立ち上がると、こちらに向かってよろよろと歩いてきた。 オロンゾの手がフィアに届かない距離になった瞬間、俺はさっと屈んでバスタードソードを拾い上げ、後ろにさがるフィアと入れ替わりにオロンゾと対峙した。何も罠は無い筈だが、用心してあと一歩で剣が届くところまで詰め寄ると、剣先をオロンゾに向けた。 「どういう風の吹き回しだ?」 オロンゾは両手両足を投げ出すようにして崖に寄りかかり、しんどそうに息をしながら俺を見上げた。 「なあに、お前らを楽にしてやる必要もないと思ってな。足掻いて、足掻いて、国中を逃げ回るんだな」 大量の血を失って死につつあるオロンゾは目をつぶり、やれよ、と止めの催促をしている。 俺は気を付けながら背後を振り返った。 フィアはベルトから小さな水筒を外し、体を折り曲げて首の切り傷を洗っている。その脇でルメイが心配そうにフィアの肩に手を置いている。 オロンゾに向き直って止めを刺そうとすると、背後からフィアが「待って」と声をかけてきた。フィアは短剣を抜いて切先に左手を添えながら、俺の隣に並んだ。 「口を開けて」 フィアが短剣の先を静かにオロンゾの顔に近づける。俺はフィアがそんなことをするべきでないと示すために片手で制したが、フィアは一瞬俺の目を見返してきっぱりと首を左右に振った。 ぐったりとしたオロンゾが目を開けてフィアを見上げた。 「お姫様は可愛い顔をしてなかなか──」 「口を開けて」 フィアの鋭い口調にオロンゾが言葉を止めた。そして一瞬だけ不快そうに顔を歪めてから、諦めて口を半開きにした。フィアは短剣の先をオロンゾの口の中に入れると、刃先を歯に擦りつけるようにしてすぐに抜いた。フィアはその剣先をブーツで拭ってから、短剣を鞘に納めた。 「なんだこりゃ。毒か?」 オロンゾが口の中に入れられたものをころころと動かしている。 フィアが首を傾けてこめかみから後頭部にさっと手を回し、顔にかかる前髪を払った。朝の陽を受けて金髪がぱっと輝いた。生きている女の仕草だ。フィアはそのまま前屈みになってオロンゾと目を合わせた。オロンゾも重そうな瞼の下からフィアを見上げた。俺の眼前に広がる世界で、フィアは生き残った女の代表となり、オロンゾは死にゆく男の代表となった。生き生きとした若い女の精気と、死を迎える壮年の男のコントラストに思わず見入った。ついさっきまでは逆だったのだ。 「あなたはどうしようもない悪党だけど、最後にわたしを生かしておいてくれてありがとう」 オロンゾは大儀そうに口を動かしながら、フィアが何を言い始めたか聞いている。オロンゾの不精髭に包まれた口から薄荷の匂いがしてきた。 「それ位しかお礼が出来なくてごめんなさいね」 オロンゾの顔がみるみる歪んでゆく。 「下らねえことをしてる暇があったらさっさと止めを刺しやがれ」 オロンゾは毒づくが、フィアの顔に浮かんでいるのは怒りでも憐憫でもない。 「飴なんて下らないわよね。でもわたしは明日も味わえるけど、あなたはおそらくこれが最後よ」 オロンゾがぐっと目を細めてフィアを睨んだ。フィアのしていることが温情なのか残酷なのか、俺には判らない。 ふいに、オロンゾの背後の崖に坑道の入口が開いた。 細めの丸太を幾つも積み上げて壁とし、木枠で外側に向けて押さえ付ける構造になっている。坑道の奥は黒炭のような闇だが、やがてそこに情景が浮かんだ。 貧しい身なりをした赤髪の少年が建物の陰から通りの方を窺っている。その背中は大きく曲がり、首を突きだすようにして前のめりになっている。やがて少年は衣服と腹の間に隠し持っていた木箱を取り出して蓋を外した。指先で乱暴に中身を選り分けている。箱の中から紙にくるまれた小さな物を一つ摘みあげ、歯で包みを噛み破ると、中身を口に入れた。少年は感じ入ったような難しい顔をして宙を睨み付け、体は微動だにさせずに口だけもごもごと動かしている。 俺は剣の柄を握る指のうち、自由になる数本をさっと振ってその窓を消し去った。 フィアを睨んでいたオロンゾがふっと気を抜き、飴を口の中で動かしながら後頭部を崖にあずけた。ゆっくりと左右を見渡している。 「見納めか。ピューの言うことをもっと聞いておくべきだったな」 景色を眺めながら唇を舐めている。どうやら飴の味は気に入ったようだ。フィアが片膝をついてオロンゾに目線を合わせた。オロンゾはまだ短刀を捨てていない。俺は緊張してさらに一歩踏み出した。 「助けてもらったついでに、教えて欲しいの」 フィアが語りかけると、オロンゾは黙ったままフィアを見返した。 「わたしを追う別働隊が向かって来てる?」 ルメイが脇から口を挟んだ。 「まともに答えるわけがないよ」 フィアが一瞬ルメイを見たが、すぐに視線をオロンゾに戻した。 暫く目をつぶっていたオロンゾが掠れ声で呟いた。 「……不思議なもんだな」 オロンゾが細く目を開ける。 「ネバとイレーネが大勢連れてカルディス峠で待ち伏せしてる。あいつらは追跡者を雇ってないから、呪いの森までは入って来ない。貧乏くじは俺たちよ」 その言葉に思わず聞き入った。本当なら大した情報だ。 「なぜそれを俺たちに話す」と俺は言った。 オロンゾが弱々しく首を振った。 「あの連中には何の義理もねえ。お姫様には飴をもらっちまったからな」 「こいつの言うことがあてになるもんか」 オロンゾがルメイをぎろりと睨んだ。顔色が変わり、わずかに血色がよくなった。憎悪は生きる糧ともなるのだ。 「お前ら男どもはもうお仕舞さ。見つかって殺されるか、野垂れ死ぬかだ。ただ姫はちがうぞ。捕まっても殺されない。地下牢にでも繋がれて、バイロン卿の子を二、三人産み落とすまでは生かしておいてもらえる」 ルメイが顔をしかめるのを見てオロンゾがくつくつと笑っている。生け捕りにせよとの厳命が示す意味に気付いて怒りが湧いてくる。バイロン卿はフィアの血筋を欲しているのだ。なんという飽くなき強欲か。 俺はオロンゾに剣を向けたまま、ルメイとフィアに少し下がるよう手振りで示した。二人が数歩さがってから、オロンゾに背を向けて静かに囁いた。 「どうする。傷めつけてでも情報を聞き出すか?」 俺の上目使いの視線をまともに見返して、フィアがきっぱりと首を振った。暫く考えていたルメイも、ゆっくりと首を振る。そうだな。拷問は山賊のすることだ。二人の反応を見て頷いたところで、フィアがぱっと両手で口を押えた。ルメイも目を見張っている。 慌てて振り向いた時はもう遅かった。 オロンゾの首は真っ赤に染まり、喉の肉が見えてしまっている。最後の仕事をした血塗れの短刀は、力なく地面に垂らした左手にいまだ握り締められている。燃えるような眼差しで俺たちを見上げていたオロンゾは、やがてがっくりと頭を垂れた。汚れて房になった赤髪がざららと顔にかかる。オロンゾの唇から一筋の唾が垂れ下がり、血飛沫のついた鉄の胸当てをとろとろと流れ落ちた。 (→つづき) |
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