「だまらっしゃい!」
 調子はずれの甲高い声があがった。フードを被ったままのバイロン卿が歩み出て俺の横に立った。その時、ほんの一瞬だが俺を見上げた。眉間に深々としわが寄っている。左の腿に軽い衝撃があり、バイロン卿に拳で殴られたのが判った。カールとのやり取りを黙って聞きながら怒りをたぎらせていたのだ。
 緊張で息が浅くなっていたところに思わず鼻息が漏れ、口の端が片方つりあがる。世俗で栄達どころの話ではない。今にも職を失いそうではないか。


「大逆人とその眷属を、見逃す筈があろうか!」
 バイロン卿が怒りに声を震わせながら言い放った。カールとブルーノは動きを止め、割り込んできたのが誰かを見定めるのに目を細めている。バイロン卿がフードの縁を両手でつまみ、それを後ろにぱっと跳ね上げた。カールが驚きに目を見開く。一度見たら誰でも覚えてしまう猿のようなご尊顔は、俺の方からは拝めない。小さな頭に白髪の鬘が乗っているのが見えるだけだ。
「バイロン卿……」
 ブルーノが呟くと、しばし絶句していたカールが慌てて周囲を見渡した。まるで今初めて、自分が罠にかかっているのに気付いたかのように。


 カールがバイロン卿に向き直り、片手を胸にあてて頭をさげた。
「どうか荒事にしないで頂きたい。わたしはこれからクシャーフの丘に赴き、反逆の意志がないことを──」
「そなたらは宮廷裁判で身の潔白を明かさねばならん。観念することだ!」
 カールが控えめな声で話しているというのに、バイロン卿はかぶせるように大声で怒鳴りあげた。この因業爺は話が通じる相手ではないのだ。その意味ではここまでついてきて正解だったのかもしれない。とてもじゃないが俺は、自分のしていることを棚にあげてここまで卑劣に振る舞えない。


 カールが顔をしかめ、くっ、と息を吐くのが聞こえた。姿勢はそのままに、ブルーノにひっそりと声をかける。
「どうやら、先手を打たれて勝負あったの図だ」
 ブルーノの顔からすっと表情が消える。年嵩の城代という雰囲気は消えさり、剣士の顔になった。
「いや、まだこれからです」
 ブルーノが静かに前に出る。遠くを見るような目をしている。


 見れば肩から腕まで丸々と筋肉がついており、鍛え抜かれた体をしている。これで若ければ御しようもあるが、この男は俺たちが生まれる前から剣で飯を食っているのだ。血飛沫のなかを潜りぬけ、殺し尽くしてここまで生き永らえてきた。その迫力に近衛兵たちが浮足立った。
 俺はなんとか踏みとどまったが、こんな状況で戦うのは最悪だ。この男は今、自分の命を捨てる覚悟をしたのだ。もう何も失うものがなく、誇りのために剣を抜こうとしている。敵に囲まれながらも果敢に戦って死んだ、と後世の人々に言ってもらう、ただそれだけのために。だが心の奥底で、自分の剣で逆転するしかないとも思っているのだ。それだけの剣士であることが立ち居振る舞いから伝わってくる。


「待て。抜くな」
 何かを一心に考えていたカールが鋭く命じる。しかしブルーノは退かない。
「なぜです。近衛隊長は手ごわそうだが、二、三人なら殺してみせます」
 近衛兵たちがじりっと後退する。無理もない。
 一瞬のうちに通り過ぎる災厄、というものがある。激しくいななきながら蹴りたててくる馬や、泡を吹いて突進してくる牛のたぐいだ。あるいは、最期に誰かと刺し違えようとしている剣士、と言ってもよい。そういう災厄の正面に立つのは愚か者だ。このブルーノがどんなに頑張っても完全武装の近衛兵を何十人も倒せる筈がない。剣を抜けば、ほどなく死体になる運命だ。だが初めに手のついた二、三人の近衛兵の運命はどうだろう?


 他の者からみればほんの一瞬だったかもしれない。だが俺はこんなに長い一瞬を味わったことがない。互いに腰を落として剣の柄を握りこみながら、どう斬り結ぶか思案し合っている。接近戦なので剣を薙ぎ合うことはあり得ない。掴みかかって柄頭のポンメルで殴るか、鍔のキヨンで目を刺すか、相手の体を押し出して尺を稼ぎ、鎧の継ぎ目を突くか。ブルーノが装備しているのは軽騎兵用の長剣で、引っ掛かりをなくすためにキヨンが短く、重心調節用のポンメルも申し訳程度の小さなものだ。さらには刀身が湾曲しているので突きには向かない。この間合いなら俺が有利と思うが、幾重にも交差したヒルト・バーで拳が守られており、小手を狙うのは難しそうだ。


 ブルーノの集中がふっと途切れた。勝つことより、早く結果を出して終わりにしたい男の顔に変わりつつある。
「卿を仕留めれば形勢逆転までありますぞ」
 ブルーノの言葉に気圧されたバイロン卿が俺の真後ろに回り込んだ。幾らかやりやすくなったし、もうとっくに剣の間合いに入っているが、先には抜けない。相手に先手をゆるすことになろうとも、恭順をせまる近衛が先に抜くわけにはいかない。俺が抜けば当然ブルーノも抜く。こういう場面で剣が抜かれれば必ずや血を見る。抜けば血を見る因果な道具を、それと承知して抜く覚悟がなければ剣士はやれない。だが先に抜くならば、そこで流された血のすべてに責任を負わねばならない。


 ブルーノの剣が届く範囲、上半身の右側が炎にあぶられるようにジリジリする。色々と剣筋を考えてはみたものの、目の前に立つ大男の抜き手が俺より速ければ、その辺りにくっついている俺の肉は仮住まいをしているようなものだ。他人にとっては戦場で散々見てきた肉塊となんら変わりはないだろうが、俺にとっては大事な体の一部だ。もう暫くはその辺りに在り続けて俺が生きるのに役立って欲しいのだが、一息後には砕け散っているかもしれない。瞬きをするのが恐ろしく、目が痛くなってきた。


 カールがブルーノにそっと左腕を伸ばした。
「相手は近衛だ。剣を抜けば反逆になる。妹たちも逆賊として思うさま処断されるだろう。それが狙いなのだ」
 ブルーノが顔を歪め、ひん曲がった唇の下からくぐもった声を出した。
「カール様。わたしは、……抜きたいのですが」
 ブルーノの言葉が心に沁み通る。
「だめだ」
 剣の柄に手を乗せていたブルーノがその姿勢のまま目を瞑った。それから目を開け、ふと思いついたように壁際に立つ近衛兵に声をかけた。
「モーリス・ジュアンとやら。ルナハスト将軍からの言伝とはなんだ?」


 剣も持たず、兜もかぶっていないモーリスが名前を呼ばれてびくっと体を震わせた。この場で相手に名が知れているのは俺とバイロン卿を除けば彼しかいない。モーリスは褐色の熊髭を生やした顔で俺とブルーノを交互に見ている。俺はモーリスから目をそらした。俺には頓智は無理だ。自分で考えろ。
「将軍は、公務のさなかにも……」
 モーリスが上ずった声でブルーノに告げる。
「ブルーノ殿がご健勝であられるか、気にされていたご様子である」
 ブルーノが一瞬かみつくような顔をしてから、溜息をついて肩を落とした。自分自身が騙されたばかりでなく、カール公まで巻き込んでしまったのだ。


 緊迫が解けたかにみえた時、すっと前に出たカールが剣に手をやったので再び緊張が走った。カールは腰に吊るした長剣を鞘ごとはずすと、俺に向かって柄の方を差し出した。
「やましいことは何もない。裁判を受けよう」
 そう言って俺の目をまっすぐに見ている。
「だが偽の使者を立てるバイロン卿は信用できない。近衛隊長であるセネカ殿にこの身を委ねよう。わたしが抜刀しなかったことは覚えておいて欲しい」


 まるで晩餐会の席で、遠くにある料理を寄せてくれたかのような爽やかな笑顔で、身を守る唯一の手段である剣を差し出してくる。
「どうか、近衛の名に恥じぬ公正な処置を」
 カールは家族を守るために笑って命を差し出しているのだ。断りたい。そんな申し出は断りたい。俺は宮廷裁判に何の影響力ももっていない。この男は大貴族でありながらそんなことも判らないのか。いや判っているのだろう。藁にもすがる思いなのだ。俺は目を伏せ、差し出された剣を黙って受け取った。それ以外、何が出来るというのか?


「何をしている! この男を捕えよ!」
 しびれを切らせたバイロン卿が、俺の背後から前に出てカールを指差した。フードを取り払ったせいで鬘に振った白い粉がローブの肩に落ちている。この対比はどうだ。軽快な武装をした年若い男を、人前で堂々と指差している老獪な宮廷貴族の図だ。悲しいかな俺の上司は後者なのだ。
 長剣を抱えたまま立っている俺の脇から、近衛の若い隊員が前に出た。その手にはカールを捕縛するための縄がある。カールは抵抗する様子もなく従順に縄目を受けた。


 カールが縛られるのを見届けてから、ブルーノが振り向いて背後の鉄格子に取りついた。ガシャンという金属音に全員の視線が集まる。いまさら逃げ出そうというのか。この距離では自分だけ逃げて鍵をかけ直すのは無理だ。近衛の若い隊員がブルーノの背中に取りつこうとし、それを二人の城兵が体をもって遮ろうとしている。
 俺は鉄格子の脇に身を寄せた。これを開けてくれるならかえって好都合だ。開いたところで取り押さえれば持ち物の中から鍵を探す手間も省ける。


 ブルーノは格子の間から腕を突き出すと、手首のスナップをきかせて何かを遠くに放り投げた。小さな金属の塊が石の廊下に落ちるチャリンという音がする。
「オイゲン! 俺の声が聞こえるか!」
 失態に気付いたのはその時だ。ブルーノが投げたのは鉄格子の鍵だ。ブルーノは鉄格子にはりつき、斜に構えて暗い廊下の奥を覗き込んでいる。
「リヒテンシュタイン家に仇なすバイロン卿の手下どもが来ている。ヴィクトル様とソフィア様を連れて逃げろ!」
 その声を聞いて近衛兵たちがブルーノに一斉に飛び掛かった。さすがのブルーノもその場に取り押さえられた。


 俺はブルーノがしていたように、鉄格子にくっついて斜めに廊下を覗き込んだ。廊下の奥は暗い影になっているが、壁の細長い開口部から陽がさして床を一直線に照らしている。その明るい領域に、黒服を着た男が入ってきた。小柄な老人で、床に落ちた鍵を拾ってこちらを確かめている。ブルーノが放り投げた鍵を拾う時も、拾い上げてからも、金属の音をさせなかった。俺は、これが侍従長のオイゲンだと思った。老人は鉄格子のこちら側に俺の姿を認めると、そのまま廊下の奥に姿を消してしまった。


 バイロン卿が鉄格子を揺すって閉じているのを確かめ、さも不興げに俺の顔を見上げた。
「どうするつもりだ?」
 俺は一瞬、縄目を受けて引き立てられていくカールとブルーノを手で示して叫びたくなった。五十人の先遣隊を指揮して、一人も殺さずにあの者たちを捕えることに成功した。リヒテンシュタイン家で兵を指揮できる者はもういない。これで十分ではないのか? 俺は労いの言葉を受ける代わりに、この鬘をかぶった小男に、鍵を失くしたことを申し開きしなければならないのか? しかし俺の口から出た言葉はこうだ。
「道具を持ちこんでいます」


 すでに部下が道具をひろげ、さっそく金鋸を格子に噛ませている。金属が引っ掻きあう耳慣れない音が、鉄格子を振るわせて壁に囲まれた広間に不気味に反響している。俺は振り向いて広間を見渡すふりをした。まともにバイロン卿を見ていたら、どんな感情が顔に表れてしまうか判ったものではない。
 隊列の崩れていた近衛兵たちは突入に備えて整列し、装備を整え直している。指示に漏れがないか思案していたら、バイロン卿に甲冑の腹を叩かれた。


「半分連れて裏門に回れ」
 思わずぎょっとしてその小さな顔を見返す。
「この小隊をさらに分けるのですか?」
 バイロン卿は唇を歪めて俺を睨みながら、同じことを二度言わせるなという顔をしている。
「こちらの指揮は誰がとるのです?」
 そばにいた隊員が寄ってきて眉庇を上げた。目をぎらぎらさせた副隊長のバーミンガムだ。自らをアピールしている積りなのだろう。こいつに本隊の指揮を継がせるというのだろうか。こんな風に途中で横槍を入れられるなら、俺は何ひとつやり遂せることなど出来ないだろう。


 バイロン卿はまったく楽しめないという表情でバーミンガムの顔を見た。ローブの隠しに手を入れて扇を取り出している。
「城の造りは知っている。虱潰しに部屋を回るのは私がやる」
 バイロン卿は手にした扇で俺の甲冑を突き、返す刀でバーミンガムの鎧をぴしゃりと叩いた。
「お前と、お前は、裏門にまわってリストした奴を逃がさぬようにしろ」
 バーミンガムがたまらず口を挟む。
「本隊の指揮はわたくしめにお任せを。我が父ローランドが当地の収穫祭に招かれた折、わたし自身が二度ほど同行して──」
 バーミンガムは言いたいことを最後まで言わせてもらえなかった。バイロン卿に眉庇をガシャンと落とされてしまったのだ。


 俺は胸を叩いて命令を聞いたことを示すと、そのまま踵を返して隊員が整列しているところまで行った。
「この小隊を半分に分けて別働隊をつくり裏門に回る。別働隊の指揮は俺が、ここから城内に入る本隊の指揮はバイロン卿がとる」
 ぴたりと並んでいた隊員たちの体が揺れ始め、左右の者と顔を見合わせている。眉庇をあげて顔を見せ、意見したそうな者もいる。
「卿じきじきのお達しだ。ここから、こっちは、俺についてこい」
 機械的に半分のところで隊を二分する。距離をおいて整列し直しながら、別れ別れになった列の隊員たちが拳をぶつけ合っている。


 トマス・ブライトナー。城下町の地理に詳しい者として真先に思いつく名だ。トマスは今、跳ね上げ橋の操作部を占拠している。ここから裏門まで、相当の距離を走らねばならない。行きがけに彼を拾っていこう。
「裏門に回ってどうするのです?」
 眉庇を上げたままの隊員が俺に問うた。彼らもカールとブルーノが捕えられたのを見ている。もはやリヒテンシュタイン家に戦える男はいない。自分たちがすべきことを伝えようとするが、どうしても真っ直ぐに言葉が出てこない。それを言えば間髪入れずに浴びせられる次の問いが聞こえてくる。それが近衛の仕事ですか?


 言い淀んだ挙句、俺は振り向いて鉄格子のそばにいるバイロン卿の位置を確かめた。顔を戻して上目使いに囁く。
「おんな子供も皆殺しにしたいそうだ」
 問うてきた隊員が思わず顔をしかめた。俺は片方の頬だけで笑ってそいつの肩を叩いた。
「汚れ仕事になる。やりたくない奴は抜けてもいいぞ」
 眉庇を落とした隊員が黙って列に戻った。誰も何も言わない。平民出の若い隊長に付き従ってきた熱い奴らが、氷のように黙っている。同じ甲冑に身を包んだ男たちは、二十個の記号のように等間隔に整列している。俺の言葉は、辺りに反響している鉄格子を切る音に掻き消されてバイロン卿の耳にまでは届かなかった筈だ。おそらくは。


   *


→つづく

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