こんなところに探し人がいる。
 断崖から空に屹立する武骨なカオカ櫓の中ほどに、別荘を思わせる小奇麗な部屋があった。その部屋でコルホラ隊長から人探しを頼まれた時、俺はまだフィアの素性を知らなかった。今にして思えば、城に勤めていたクレメンスとフィアは面識があるのだ。探索行が苦難の連続で、こんな森の奥に人がいるとも思わないので依頼を忘れかけていた。そこへ突然、大勢のうちの一人と思っていた塚人が、探し人として目の前に現れた。なんという奇遇か。


 こんな状況でよく見つけたと思うが、フィアは少しも得意そうにはしていない。目だけでそっと窺うと、クレメンスの変わり果てた姿を苦しそうに見つめる横顔がそこにある。ただの顔見知りではなく、親交があったのだろう。コルホラ隊長が危惧していた通り、彼の弟は死んでいた。俺たちがこの森でたどった道筋を思い返せば、城勤めの男がやれる旅ではないことが判る。苦悩を顔に刻んだ依頼人にこれを報告しなければならないと思うと気が重くなる。


 暗い森のなか、降りしきる雨を松明の火が照らしている。
 この森は不思議な場所だ。ついさっき、俺はデルティス動乱の日の話をした。フィアもその日に起きたことを語ってくれた。デルティス城の領主の娘と、その城を襲撃した近衛隊の記憶が交差したのだ。そこへ現れた塚人を俺は斬ったが、塚人を率いている死人遣いはかつてイシリオンと親交があった。そして今、俺たちは探し人のクレメンスを見出した。
 自分の意志でここまで来たが、何かに導かれたような気がしてくる。龍の姿を探して遠くに目をやるが、重苦しい暗雲が低く垂れこめているのが見えるだけだ。


「あててみせましょうか?」
 死人遣いの女が年増のように語りかけてきた。フィアが塚人から目を離してこちらを向いた。ドラウプニルは首を傾げ、指を一本立てて得々と話し始めた。
「この男はお城で会計役をしていた男だわ」
 探るような眼差しで塚人を見ている。
「山積みの金貨に動じない公正な男。占い札でいったら王佐の臣かしら。でも玉座を狙うようなタイプではないわ」
 ドラウプニルが指を立てたまま首を逆向きに傾げ、つとフィアを見る。
「あなたはお城の出入り業者で、仕立て屋だったのかしら。或いはその小間使い?」
 フィアは俯いてわずかに首を振っている。


「そしてこの男とは恋仲だった?」
 ドラウプニルの問いに、フィアがふっと微笑んだ。こんな所でこんな目にあっていても、人間は笑えるのだ。
「いい話ね」とフィアが言った。「でも違うわ」
「あら残念」
 信じられないことだが、ドラウプニルとフィアはこの会話を楽しんでいる。俺はその柔和な表情が一転しないように祈るばかりだ。もしかしてこれが男と女の違いなのだろうか。俺にはどうにも理解できない。


 フィアは顔から笑みを消し、かつてクレメンス・コルホラであった塚人をしみじみと眺めた。
「わたしの父はとても厳しくて、気難しかったの。お城にいた最後の年はわたしも生意気盛りだったから何度も叱られた。そのたびにこの人が父を宥めてくれたわ」
 ドラウプニルが、おや、という顔をしてフィアを見た。
「生きてる頃はコルホラおじ様と呼んでた。血はつながってなくても、家族のように接してくれる優しい人だった」


 フィアが塚人の顔に片手を伸ばした。腐った顔とフィアの指の間には光の障壁があるが、見ていて落ち着かない気持ちになる。
「こんなところで、こんな風に再会するとは思わなかった……」
 フィアの顔に浮かぶ苦悩がさらに色濃くなった。ドラウプニルが静かに、だがきっぱりと告げる。
「触ってはだめよ」
 フィアがすんと鼻をならして手をおろした。フィアはこの午後を泣いて過ごしている。その腫れぼったい目で死人遣いをじっと見返した。
「あなたは死んだ人のことが判るの?」
 ドラウプニルが静かに頷く。


「デルティスの元領主だったフランツ・リヒテンシュタインがどうしているか、判る?」
 死人遣いの周囲に蒼い燐光が瞬いた。マナを集めているのだ。
「お安い御用よ。……あなたの父上ね?」
 ドラウプニルがそっと尋ねると、フィアがこくんと頷いた。ドラウプニルが目をつぶって顎を引くと、彼女の足元から蒼い波動が環状にひろがった。キャンプを丸く囲う光の障壁と、唸り声をあげ続ける塚人たち、そしていつ止むともしれない雨。俺は一瞬、自分がどこにいて何をしているか忘れそうになった。蒼い波動は木々の間を縫ってどこまでもひろがってゆき、森の彼方へと消えていった。


 やがてドラウプニルが目を開き、蒼く光る瞳でフィアを見据えた。
「その人は死人の仲間入りをしていない」
 フィアの顔にぱっと希望が輝いた。
「生きてるのね!」
 ドラウプニルは落ち着いた表情で顔を左右に振っている。
「わたしの力が及ぶ範囲の土地では死んでいないと判るだけよ」
「そうなのね。でも良かった。わたしはてっきりこの森で死んだものと思っていたわ。そしたら、もしかして爺じに、オイゲンに会えたりするの?」
 フィアが拳を胸にあてて体を小刻みに上下させている。死人遣いは再び波動を出す体勢になったが、ふと我に返って俺たちを見返した。


「わたしにこんな占いをさせる積りなら、見料を取るわよ?」
 フィアが目を見開いて俯いた。調子に乗り過ぎたのを指摘された女の子のようだ。
「見料といっても、わたしが欲しいのは黄金じゃない」
 ドラウプニルが流し目をして俺たちの体を舐めるように見回した。死人遣いの頭のなかで、俺たちはぶつ切りのスープにでもなっているのだろうか。ルメイがぶるっと震えている。
「ごめんなさい。つい調子に乗ったわ」
 フィアが謝ると、ドラウプニルが片方の口の端を吊り上げて笑った。
「いいわ。でもこれが最後よ」
 彼女の足元からひろがる蒼い波動が、森の奥へ消えてゆくさまを魅入られたように見つめる。


「オイゲンはしばらく前にこの森で死んだ。でもわたしの呼び出しには応えない」
 フィアが不安そうな顔をする。
「あなたにも操れないの?」
「わたしの力にも限界があるの」
 ドラウプニルが優しい声でフィアを諭している。あるいは何かの術ではないかと勘繰る俺は疑い深いのだろうか。
「戦士の魂をもつ者はやがてグラズヘイムへ行く。わたしの元へは来ない。まじないの品とともに埋葬された者、弔いの涙が落ちた土で埋められた者も、わたしには呼び出せない」


 フィアがその言葉の意味を考えていると、ドラウプニルがそっと告げた。
「静かに眠っているのよ。誰にも邪魔されずに」
 フィアが唇を引き締めて顔をこわばらせた。みるみるうちに目がうるみ、涙が頬をつたった。暫くは我慢していたが、やがて肩を震わせながら俯く。俺は今にして気付いた。フィアの冷静さは、数え切れない不運に独りで向き合ってきた日々の裏返しなのだ。こんな風に普通の女の子のように泣いている暇はなかったのだ。
 死人遣いの女は暫くフィアを見守っていたが、それ以上に優しい言葉をかけることはなかった。冷淡な顔に戻り、片手をさっと上げる。


「その塚人以外は一旦しまうわよ」
 ドラウプニルが手を振り下ろすと、呼び出された百体もの塚人たちがずぶずぶと泥に沈み始めた。腰まで沈み、肩が呑み込まれ、呻き声をあげる口が泡立って泥に沈んでいく。あれでは泥を呑んでしまうと思うが、死人を心配しても仕方ない。塚人たちの頭に残されたわずかな頭髪が呪われた草のように地面に引き込まれていく。やがて辺りは静まり返り、ドラウプニルが元々連れていた七人の塚人とクレメンス・コルホラだけが残された。


 俺はクレメンスの屍を障壁越しに眺めた。
 たとえ死体でもなにがしかの人となりが伝わってくるものだろうか? クレメンスは他の塚人たちと同じく、やや俯いて唸っている。暗い眼窩に理性は宿っていない。死体の姿で動きまわることは出来ても、自分を取り戻してはいないのだ。クレメンスの表情をじっと見ているうちに、その顔の手前を流れてゆく障壁の紋様がかすれ始めるのに気付いた。光がゆっくりと失われ、やがてすっかり消えた。それはあっという間の出来事で、俺は裸で前線に立たされたような気持ちになる。


 光の障壁が消えたことにルメイとフィアも気づいた。
 フィアが手甲で涙を拭い、握り締めた王佐の剣をじっと見ている。剣は輝くのをやめ、松明の光を虚ろに反射している。障壁の効果には限りがあるのだ。酒飲みがワインの瓶から最後のひと雫を落とそうとするように、フィアが短剣を上下に振っている。しかし何も起きない。それを暗澹たる顔でルメイがじっと見つめている。


「人間を平等に扱うのに反対して、わたしは追放されたの」
 振り向くと、落ち着き払った顔をしたドラウプニルがこちらをじっと見ている。俺たちと死人遣いを隔てるものは何もない。死が肌に食い込んでくる。
「イシリオンが正しかったのよ」
 ドラウプニルが泰然とした表情で辺りを見回す。
「いまや右を見ても左を見ても人間ばかり」
 まったくその通りだ。死人遣いの女は俺に視線を戻した。
「やがてこの大地は人間に覆い尽くされるでしょう」


 木々のざわめきのような音がざあっと辺りに響いた。
 ドラウプニルが笑っている。やがてその顔は完全な無表情に戻った。死人遣いはただ超然と立ちはだかっている。その左右では付き従う塚人たちが主人の命令を待っている。俺たちは蟻の巣に落ちた一粒の砂糖だ。朝日に照らされたつららが光を通すように、死が俺の体を通り抜けていく。
 だが死にゆく者にも矜持がある。俺はまったく動じる気配をみせず、その蒼い瞳を悠々と見返した。


 俺の視線を受けても、死人遣いの女は表情を変えない。対等な者が浮かべる表情を保ち、ベルトを回して剣を背中に隠した。これで一息に剣を抜けなくなった。そうして両方の手の平を見せ、くいっと首を傾げてみせた。さて、どうする?
「わたしたちは共通の友人をもつ」
 ドラウプニルの言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
「偉大なる魔術師にして、岩のように頑固な男」
 俺の言葉がドラウプニルの微笑を誘った。死人遣いが自分の頭上に指で優雅に輪を描く。彼女を鳥かごのようにすっぽりと覆う蒼い線状が一瞬だけ見えた。そのきらきらと光る線は、足元から頭上にむかって消えていった。剣を弾く膜を取り去ったのだ。


 ドラウプニルがうっすらと微笑む。
「敵意を友情に変えることは可能かしら?」
 敵味方を改めるのは槌の一撃のように明瞭でなければならない。ゆっくりとドラウプニルに近寄りながら右手を差し出す。
「火と麦に調和を。剣を隠し盾を置き、この身を晒して和を求める」
 古い言葉をなぞらえると、ドラウプニルも右手を伸ばしてくる。


「この身を晒して和を求めん」
 ドラウプニルが古の約定を復唱する。その言葉はあくまで落ち着いている。地面に向けて伏せた指の背をほんの少し触れ合せるのが流儀だが、俺は手が震えないように抑えるのに苦労している。死人遣いの指が俺の指に近寄ってくるのを見ると、いやがうえにも緊張してしまう。マナを操れない人間にとって、魔法使いは恐ろしい。この瞬間に裏切られたら為す術もないだろう。


 指先が触れ合う。
 氷のような冷たさを想像していたが、違う。温かな血が通う、女の指だ。肌が触れた瞬間にドラウプニルの内側が垣間見える。水晶の球をさっとひと撫でした程度ではあるが、この女の心が枯井戸のように乾いているのが伝わってくる。望みを絶たれたままの長い一人旅。強靭な心を持たねば狂い死んでいるだろう。心の井戸の底でイシリオンへの想いが干からびている。そのさらに下には──


→つづき

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