「あまり覗かないで」
 はっとしてドラウプニルの顔を見た。目を伏せて恥らっている。女なら誰でも隠しておこうとする部分に誰かが深入りしてきた時に浮かべる表情だ。俺はぎくしゃくと数歩さがった。
「これで私たちは仲間よ」
 ドラウプニルがゆるく溜息をついて緊張をといた。その顔にまだはにかみの色が残っている。上半身はほぼ人間と変わらないのでいよいよ女に見えてくる。彼女の心の底にあった思い出の情景を振り払うようにして言うべきことを言う。
「あなたの方がはるかにうわ手だが、丸く収めてもらって感謝する」
 死人遣いの女は悠々と微笑んでいる。その顔に、たった今垣間見た情景が重なる。


 俺は見た。
 若かりし日のドラウプニルが、頬を染めて目蓋をなかば閉じる瞬間を。イシリオンに身を寄せて互いの肌のぬくもりをやりとりしながら、瞬きのたびに睫をぱちぱちと揺らしていた。その恍惚とした微笑は実に悩ましい。柔らかい髪が白い肌を流れ落ちていった。まだ少女のような顔立ちだが、落ち着いた眼差しをしていた。そこには、時間をかけて成熟した精神が若い肉体を支配する喜びがあった。


 ドラウプニルの恋は、さながら数世紀も咲き誇る大輪の花だ。
 彼女の人生が完全無欠だったとは言わない。だが彼女は、このままならない世界で足りないものを惜しみながら今あるささやかなもので楽しむ術を、子鹿のような肢体の内側にすでに宿していたのだ。魔法が使えることなどより、遥かに幸福なことではないか。それはイシリオンも同じこと。彼らエルフは、人間よりはるかに長い寿命に恵まれている。


 悠久を生きるとは、なんという素晴らしいことだろう。
 エルフにとって幼少と呼ばれる時期は人間の時間で数世代にわたる。寿命の長い彼らは、人間ならとうに老成する時間を経てなお少年少女の肉体のままでいる。心が成長する前に肉体が成熟し、貪るように繁殖して死んでいく俺たちとはまるで違う。ドラウプニルは人間を平等に扱うのに反対したと言うが、なるほど彼らにしてみれば俺たちは毛むくじゃらの猿に見えることだろう。俺は生まれて初めてエルフという種族を尊敬し、そして嫉妬した。


 おそらく俺はなんとも言い難い表情を浮かべてドラウプニルを見詰めていたのだと思う。ドラウプニルは小さな素振りで両手をあげた。
「わたしを追放した人がいるパーティーには加われないけれど」
 少し皮肉な笑みを浮かべてはいるが、イシリオンへの嫌悪はまるで感じられない。慕情も恨みも突きぬけたところに立っているようだ。
「イシリオンに言伝があれば預かるわ」
 肉親の情報を教えてもらったフィアが一歩前に出て請け合った。お返しに何かしてあげたいという気持ちなのだろう。ドラウプニルは一瞬真顔に戻ったが、やがて苦しそうな顔つきになった。


「恨みつらみをぶちまけたいところだけど……」
 雨はやや小ぶりになってきたが、ドラウプニルはまったく濡れずに立っている。剣を弾く膜が消えてもなんらかの魔法が残されているのだ。ドラウプニルは髪を指で梳きながらほぼ真横に視線を向けた。そうして暫く地平の彼方を見詰めていたが、やがて静かに口をひらいた。
「わたしはこの森に、自分の家を建てるの」
 こんな場所に家を建てるというのか。愛想笑いを顔に貼りつけたまま背後の暗い森に目を走らせてぞっとする。しかし或いは、死人遣いの女には相応しいのかもしれない。


 揺れる松明の光に照らされたドラウプニルが振り向いて俺を見る。
「寝室にはミスリルの暖炉を設えるのよ」
 どう思う? という風に小首を傾げているが、俺にはよく判らない。暖炉は煉瓦でつくるものではないのか? 少なくとも俺の実家にある暖炉はそうだ。小間物のように口にしたミスリルという言葉も信じがたい。それはドラゴンとか、妖精というような絵物語に登場する物ではないのか?
 もっとも俺は両方とも目の当たりにしている。もしかしてこの世には魔法を弾くミスリルなる物質が本当に存在するのかもしれない。


「あなた方にはその暖炉の素晴らしさが判らないでしょうね」
 栗色の髪を伸ばした美しい女が残念そうに微笑む。
「ヴァイレで話し合われたことが真実で、この世界が本当に駄目になってしまうなら……」
 表情を変えないように気を付ける。得意そうに話題にしたが、俺はその会議の中身をまったく知らないのだ。
「最後のときをその部屋で過ごすつもりなの。小さな家だけど、あと一人くらいなら住めそうよ?」
 こんな美人にそう言われるのはどんな気分だろう。俺は滋味深い微笑を浮かべて何度か小さく頷いた。


「それは良さそうな部屋だな。イシリオンに伝えておく」
 ドラウプニルの笑みが濃くなった。
「ありがとう。恩に着るわ」
 そう言うなり、ドラウプニルは真顔に戻って森の一角を指差した。
「シラルロンデはこっちの方角よ。二度と見失わないことね」
 俺はドラウプニルが示す方向と、さっき置いたメイスの向きが重なっているのを確かめた。この女は嘘をついていない。
「ありがとう。もう迷わないわ」
 フィアが森の彼方に視線を向けながら感謝している。


「この男を解放します」
 死人遣いの女はそう宣言すると、クレメンスに向かって片手を上げた。ほどなく、塚人になり果てたクレメンスの頭上に厚さをもたない円形の光が現れた。光の板は透明で、煙るように明滅しながら蒼く光っている。
「呪いを解かれてただの死体に戻るけど、暫くは動けるはずよ」
 クレメンスの頭上に浮いていた光が、腐った体を透過してまっすぐ足元まで下がった。それが地に沈んで見えなくなると、塚人はぐうっと唸ってくずおれ、前のめりに両手を地についた。


 ドラウプニルが再び宙に輪をえがいて自分の体に光の膜をまとった。
「さようなら、イシリオンの仲間たち」
「さようなら、ドラウプニル」とフィアが言った。ルメイは呆然と立ち尽くしている。
 ドラウプニルは何事もなかったかのように歩き始めたが、一度だけ振り向いて視線を寄越した。流れるようにうねる髪が肩を越えて乳房にかかっている。腰の辺りから始まる蒼い鱗のような紋様は太腿あたりで密度を増し、その下は完全に蒼い。まるで蒼いブーツを履いているようだ。鳩尾から下腹にかけて白い肌が残っていて、強調された鼠蹊部に淫靡な印象がある。目が合った瞬間に頷くと、ドラウプニルは背を見せて狩人のように歩み去った。その後ろを塚人たちが不器用に追いかけていく。


 解放された筈のクレメンスは倒れかかったままで立ち上がらない。こいつは死体に戻ったということだが、本当に動けるのだろうか。或いは自由の身になって俺たちを攻撃してくるということはないのだろうか。ベルトを回し、背後に隠していた剣を元に戻して用心する。身動きをしないクレメンスを注視しているうちに、この男が何をしているか判ってきた。彼は地面に両手をついてうなだれながら、離れていく死人遣いを横目で確かめているのだ。


 やがてドラウプニルが森のなかへ分け入って見えなくなると、クレメンスはかつての主人から目を離してむっくりと体を起こし、俺たちを見回した。
「あの女から解放して頂いてありがとうございます」
 その声は低くしわがれているが、十分に聞き取れる。知性がなければこういう振る舞いは出来ない。こいつは死体だが、確かに自分を取り戻しているのだ。顔が腐っていてどうにも落ち着かないが、仮面を付けていると思ってやり過ごすことにする。仮面の下には、リヒテンシュタイン家の会計役をしていた男の理知的な表情があるのだ。


 フィアが恐る恐るその顔を覗き込んだ。
「コルホラおじ様なのね?」
 フィアを認めたクレメンスが一歩前に出た。俺は思わず剣の柄に手をやった。
「お久しゅうございます、姫様」
 それから、信じられないことが起きた。クレメンスが片膝をついて胸に手をあて、頭を垂れている。
「土に還るまでの僅かなあいだも、生きていた頃と同じ忠誠を誓います」
 そのままじっとしている。ドラウプニルとは違うやり方で、フィアも死人を支配しているのだ。


「こちらはセネカとルメイ」
 フィアが俺たちを手で示して紹介してくれた。
「一緒に探索行をしている冒険者で、わたしの素性も知ってるわ」
「それは頼もしい」
 クレメンスが頭を下げてくるので俺も目礼する。だが超常を嫌うルメイはにわかには信じられないという顔をしている。
「なんてこった」
 ルメイが複雑な表情でクレメンスとフィアを見ている。動く死体が騎士道精神を持ち合わせているとは、確かに驚きだ。しかし死体をパーティに加えることは出来ない。フィアはその辺りにちゃんと一線を引けるのだろうか。
「おじ様はどれくらいの時間、その、そうして動いていられるの?」


 フィアが気遣わしげに問うと、クレメンスが小首を傾げてみせた。
「いつまでこうしていられるか、自分にも判りません。おそらくほんのいっときです」
 そうなのね、と答えたフィアがキャンプの奥から自分の背嚢を慌てて取ってきた。もどかしそうにその中身を帆布の床に出している。雨粒の跳ね返りで荷物を濡らしてしまうのではないかと心配するが、雨はほぼやんでいる。重苦しい雲の下、はるか遠くから雷雲がごろごろと鳴る音が聞こえてくる。


「ずっとお礼が言いたかったの」
 フィアが背嚢の底から取り出したのは、綿でふくらませた布の人形であった。髪の部分は毛糸で出来ていて愛嬌がある。
「父から相談を受けて、おじ様が進言したという話を後から聞いたわ」
 クレメンスは立ち上がり、その人形をしげしげと見た。
「思い出しました。懐かしい。御父上は乗馬鞭がよかろうと仰ったのですが、わたしが人形を薦めたのです。それも高価な物ではなく、路地で売られているような物がよろしいでしょうと」


 フィアがふっと笑って人形を抱きしめた。
「贈り物が鞭だったら、抽斗の隅にずっと仕舞われていたわ。父に進言してくれて本当にありがとう」
 俺はルメイと顔を見合わせた。毒も使う腕利きの女罠師は、荷物の底に人形をしのばせていたのだ。思わず口角があがる。その気配を察したフィアが、いたずらを見つけられた子供のように首をすくめた。
「旅の途中、嵩ばるから捨てようかと何度か迷ったけど、捨てられずにいたの」
 クレメンスがわずかに首を振った。
「思い出の品は取っておくものです。きっと何かの役に立つ筈ですよ」
 フィアは人形をさらに深く抱きしめ、うんうんと頷いた。


「それで、まだもう少し時間あるわよね?」
 フィアが落ち着かない様子でクレメンスと俺たちの間に視線を泳がせている。このいつまで続くか判らない魔法の時間に何をしたら良いのか判らないのだ。
「そのようですね」
 低い声で鷹揚に答えるクレメンスは紳士然として、まるで生きているかのようだ。
「えっと、お茶でも淹れる?」
 このフィアの問いに、さすがのクレメンスも笑いを漏らした。肩がわずかに上下するだけで声は聞こえないが。
「いえ、垂れ流してしまいます」そう言って喉の辺りをさすっている。
 フィアが慌てて、そうね、そうよね、と言っているのを見てルメイが笑っている。呪いの森で、死体と話しながら、人間は笑えるのだ。


 死体となったクレメンスが俺をじっと見つめている。
「土に還る前に取り急ぎ、ここに座って話をさせてもらってもよろしいですか?」
 そう言って自分の足元を指差している。フィアがこちらへどうぞとキャンプの中へ手招きした。俺とルメイも内心は不承不承ながら勧めたが、クレメンスは汚れますからと言って固辞した。さすがに水溜りは避けたが、まだ濡れた地面に座り込んでいる。しかしこう言ってはわるいが、彼は形も色も留めない泥色の服を身に着けていて、あまり違和感はない。


 フィアが濡れた雨具を脱いで竈のそばに干すと、戻ってきてキャンプの内側、ちょうどクレメンスの前に座り込んだ。ルメイはキャンプの奥から腰かけ用の石を運んできてフィアの隣に座った。俺はずぶ濡れだったので帆布を敷いたキャンプの隅にわずかに尻をのせて腰を下ろした。
 クレメンスは俯いてじっと自分の手を見詰めている。
「おそらく私の運命は、オイゲン殿とはぐれた時からこうなると決まっていたのです」
 死体となったクレメンスは、そう言って顔をあげた。


「デルティス城で動乱があった日、わたしは身の回りの品と帳簿を鞄につめこんで裏門に走りました」
 どこを見ているか判らないクレメンスは、どうやら森を見渡しながら追想にふけっているようだ。
「わたしの部屋には金庫があって、日常の用を果たすための金が入っていました。それをそっくり革袋に移して脇に吊るしていたので、かなりの重さだったのを覚えています」


 現金なもので、視線が自然とクレメンスの脇に向かう。だがそこには服の破れ目から肋骨がわずかに見えているだけだ。クレメンスは俺の視線に気づき、垂れ下がったぼろ布を引っ張って自分の骨を隠した。
「その金が逃げのびた先で重宝しました。重いのを我慢して持ち歩いた帳簿は全く役に立ちませんでしたがね」
 クレメンスは死体となったが、やはり会計役にふさわしい話をする。ところでその金は使い果たしたのだろうか。気になるところだが話の腰を折ってまで聞くわけいにはいかない。


 荷物をまとめたクレメンスは裏門の出口辺りで並んでいるオイゲンとフィアに気付いたという。しかしバイロン卿が率いる近衛隊が城下町へつづく道を塞いているのを見て城内に取って返した。逃げ道を探しているうちに正門側から喚声があがって、そちらからも近衛が侵入してきたのを知ると再び裏門に回った。その時は近衛隊と城兵が斬り合いをしていて、その混乱に乗じて城下町へ逃げた。
「辻で馬車を見つけて、あてもないままカオカへ向かいました。カオカでは一晩泊まって、王都やデルティスから離れたい一心で東へ、イルファーロへ落ちのびました」
 食い詰めた男たちが群がっている街なら目立たないだろうと思った、というのは俺と同じ考えだ。


 クレメンスは流れ着いたイルファーロの街に馴染めなかったという。
 ろくに文字も読めない荒くれ者たちがひしめく街で、会計を生業としてきたクレメンスが浮いてしまうのが手に取るように判る。彼は街に滞在するにとどめて他の冒険者たちと依頼をこなすようなことはしなかった。ただ、持っていた金で冒険者らしい身なりは整えたという。なんとか街に溶けこもうとしたが、貴族と一緒にお城で暮らしていた人間の雰囲気はどうしても醸し出されてしまう。
 その点、俺は幸いだった。剣の扱いに慣れていたし、近衛にいたとはいえ田舎の村で生まれ育ったのだ。


 イルファーロで灯火新聞を読み漁り、酒場で人々の話に耳を澄ますうちに情勢がみえてきた。リヒテンシュタイン家の家長であるフランツは失踪し、政敵であったバイロン卿が新たなデルティス公となった。かつての領主フランツの家族は長男、次男ともバイロン卿に逮捕され、秘密裏に宮廷裁判にかけられている。動乱の日に逃げ延びた者たちに追手がかけられていることも知った。さらには、イルファーロの街で衛兵隊長をしていた兄がカオカ櫓の守備隊に異動させられているのを知って愕然としたという。頼みの綱が失われたのだ。衛兵の視線が恐ろしくなり、ついには街から離れるために冒険者たちと探索行へ出るようになった。


 しかし探索行でクレメンスに出来ることは僅かしかなかった。
 金にあかせて一通りの装備は整えたが、それを振るう腕がなかったのだ。見張りや煮炊きといった雑用を引き受けてなんとかパーティーでの居場所を探したが、メンバーからそしられることが多かった。武器を振るのが不得手で、馬小屋で寝起きしながら使い走りをして暮らしていたルメイが深々と頷いた。日銭のためになんでもやろうとする連中のなかで、大金を持っていることに気疲れしたという。


 それが杞憂でないことを俺たちは知っている。
 金目の物を肌身離さず持っていたクレメンスの用心が彼自身を救いはしたが、彼はパーティーメンバーから物を盗まれているのだ。その盗人はめぐりめぐって、クレメンスを追い詰めていた早業のムンチと蜥蜴男のピューに殺されてしまった。俺はシラルロンデで遠見の窓に入った時に見た事を思い出したが、その話はしないでおくことにした。話が複雑になり過ぎる。


「冒険者には隙を見せることが出来ません。一緒に狩りをしていても、持ち物を透かして見ようとするような視線を何度も感じたものです」
 そう言ってからクレメンスははっとして言い直した。
「お二方のように弱い者を助けることは稀です」
 俺は笑って答えた。
「あんたの言う通りだ。気にしなくていい。だがフィアは、俺たちより強いくらいだぜ?」
 クレメンスが半信半疑でフィアに視線を向けると、姫御前は謙遜せず、両手を腰にあてて澄まし顔をしてみせた。
「わたしはオイゲンから手ほどきを受けたの」


 クレメンスは感慨深げに頷くと、フィアの顔をしみじみと眺めた。
「やはりあの後、一緒に過ごされていたのですね。彼なら森での生き方を知っていたことでしょう」
 それからふと思いついて小さな声で、ところでそのオイゲン殿は? と訊いてきた。俺は目だけでさっとフィアを見た。ルメイも同じようにフィアを見ている。もし言いづらいなら、俺が話してやらねばなるまいと思った矢先、わずかに俯いていたフィアがすっと顔をあげた。


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