思うに生きるとは、瑞々しさを保つということではなかろうか。
 竈のそばに座らされたので料理をしているフィアの手元がよく見える。雨に濡れた俺のために温かいスープを作ってくれている。フィアが麻袋から取り出したのは塩漬け肉とクマニラの葉、それに一塊りのニンニクだ。ニンニクについた白い薄皮がかさかさに乾ききっている。まるで死んだ果実のようだ。だがナイフで切り割った実の断面からはみるみる汁気が溢れてくる。こいつは生きてるんだ、と思いながら、真ん中にいびつな穴のある薄切りが次々に重なっていくのをじっと見ている。


 背後ではルメイが毛布で背中を擦ってくれている。もういいと何度か言ったが、近くで所在なさげにしているクレメンスと話をするのに手持無沙汰のようだ。暖をとり、食事の用意をし、これから団欒が始まる雰囲気だというのに、クレメンスはキャンプの中に入ることを固辞して地面に座っている。そんなクレメンスを気にかけてルメイは色々と話しかけている。
「荷物を置いた玄室というのはどのあたりです?」
 腿の上に置いた自分の手を見下ろしていたクレメンスがふと首を傾げる。
「言葉で言うのは難しいですね……」


 その返事が俺を不安にさせる。地下道は複雑な構造なのだろうか。
「一本道なのでしょう?」とルメイも気にしている様子だ。
「それほど単純ではありません。迷路とまではいきませんが、途中に広間があったり、そこから行き止まりの分岐があったりはします」
 ルメイが手を止めて考え込んでいる気配だ。
「でも迷うほどの造りではありませんよ」
 クレメンスが慌てて付け加える。探索に慣れないクレメンスが何往復もした道なのだから大丈夫とは思うが、想像していたような真っ直ぐの道ではないようだ。
「はっきり何番目の、とは覚えていませんが、シラルロンデからカオカ遺跡までの間に玄室は数箇所しかありません。探すのに苦労はしませんよ」


 フィアが薪の端をつついて竈の火加減をしている。鍋からはスープの匂いが漂ってきた。軽く沸騰する鍋のなかで塩漬け肉の細切れとクマニラの葉が泳いでいる。匂いはその湯気から立ちのぼってくる。わずかにニンニクの匂いも混じっている。
「もうすぐ出来るわよ」
 フィアはカップを手元に寄せながらスープをかき混ぜている。
 剣と剣がぶつかり合う時の衝撃の激しさを俺は知っているが、空腹の時に嗅ぐスープの匂いはそれに似ている。地下道についてあれこれと思いを巡らせていたのだが、頭のなかは温かいスープのことで一杯になってしまった。


 フィアはまず俺にスープの入ったカップを手渡してきた。
「すまないが先にもらうよ」
 俺はカップをわずかに上げ、皆に声をかけた。そのまま鼻に寄せて湯気を吸い込む。胃袋がギュッと締まる。ひと口含めば喉から胃にかけて熱い滋味が通り抜けていく。料理というのは不思議なものだ。肉と菜っ葉を水に入れて温めると、こういう美味い汁が出来るのだ。わずかにぬめるような舌触りで、とたんに体が温かくなる。
「あったまるな」
 ルメイもカップを両手で包み込むようにしてスープを堪能している。


 フィアは自分のスープを一口飲んでから、白いキノコを手で縦に裂き始めた。
「おじ様、キノコを焼いたものなら食べられそう?」
 フィアがじっとしているクレメンスの方を窺いながら声をかける。
「わたしは何もいりません。皆さんどうぞお好きにやってください」
 顔の前で手を振っているが、遠慮しているのではない。死体となったクレメンスには空腹も渇きもないのだ。この男が味わっている体の感覚がどのようなものか気になるが、おそらくどれだけ説明されても判らないだろう。


 クレメンスが立ち上がって自分の体を見下ろしている。
「どうやら今しばらくはこのままのようです。わたしはちょっと薪を集めておきますね」
 そう言って歩き始めた。あまり遠くに行かぬよう声をかけようとしたが、クレメンスはキャンプの周囲から離れはしなかった。木の枝を折って回っているが、そのやりように目をみはった。小柄な男だというのに、指よりかなり太い枝を易々と折り取っている。塚人は恐ろしいまでの膂力をもっているのだ。連中が両手を突きだして歩いてくるのは、とにかく掴みかかるためだ。油断して体を掴まれたら、生きたまま手足をもがれてしまうだろう。


 裂いて炙っただけのキノコをかじる。
 直火で焼くのでところどころ焦げているが、いい具合に塩が振ってある。噛み切った断面を見れば繊維のかたまりが色よく炙られて、粘るような湯気を立ち上らせている。
 俺は幼い頃、キノコをつまらない食べ物だと思っていた。飴のような甘さもなく、肉汁の旨さも持ち合わせず、味気ない。だがどうだろう。年を重ねたせいか、それとも腹が減っているせいかは判らないが、焼いたキノコを頬張りながらこれを腹一杯食べたいものだと思っている。


「この辺りに火をおこしますよ」
 クレメンスが森の深い方、松明が消えかかっている辺りの地面に太い薪を並べ始めた。その上に細い粗朶を乗せて濡れないようにしている。キャンプの外から竈に向かって大きく手を伸ばし、まだ端まで火がまわっていない薪を一本掴み取った。塚人は火を恐れると聞いていたが、そうでもなさそうだ。いや、クレメンスは既に呪いを解かれ、塚人ではなくなっているのだろう。塚人でもなく、死体でもない。俺たちのキャンプを汚さないように気を使い続ける不思議な存在だ。


 火のおこし方をみれば、彼なりに経験を積んできたことが判る。
 ナイフで樹皮に切れ目を入れた小枝に火をつけ、その炎から小振りの薪に、次いで太めの薪へと火を移している。湿気た薪から白煙が立ち上るが、クレメンスは咳き込む様子もなく平気だ。薪を立てかけるようにして足してゆき、炎が大きくあがり始めると前のめりになっていた体を起こした。熾火になった薪が赤黒く明滅している。俺とルメイとフィアは、キノコで口がふさがっているのでクレメンスのやることをそっと眺めている。勢いよく燃え上がる炎を映して、頭上にぶら下がった虹羽根が極彩色の光を放ち始める。そのキラキラとした光は、炎が揺れるのに合わせて瞬くように輝いている。まるで聖堂に吊るされた巨大な燭台のようだ。なんという美しさだろう。


 はっとして何度か瞬きをした。
 疲れて眠気がきたのかと思ったが、そうではない。クレメンスがなにか話しているが、それは彼方から聞こえるかのように遠い。人里離れた森の奥で野営をしている、という現実にすがりつこうとするが、頭がぼうっとしてきた。心のどこかで、気を付けろ、と叫んでいる自分の声が聞こえる。辺りを見回そうとするが、体がうまく動かない。寝ぼけているかのようにゆっくりと首を回すのがやっとだ。
 鼓動が速くなり、息があがる。俺は自分の首を支えることさえまともに出来ていないじゃないか。赤子のように頭がふらついている。目の焦点も外れがちだ。


 おい! と叫んだつもりだった。
 だが俺の口から出て来たのは、溜息に似た小さなうなり声だ。近くにいる何かから術をかけられているのだろうか。立ち上がって剣を抜こうとしたが、尻もちをついてしまった。両手で体を支えながら、ふらつく頭でルメイとフィアを見た。ルメイは座ったままぐったりと前のめりになっている。フィアは片手でキノコの切れ端を口に運んだまま、見上げるようにしてじっと虹羽根を見詰めている。その目付きをみれば、フィアも朦朧としているのが判る。キノコだ。食ってはいけないようなキノコを、俺たちは口にしているのだ。


 腹に力をこめ、キノコを吐きだすんだ! と叫んだ。しかし実際には、呂律のまわらない唸り声しか出てこない。大声を聞いたクレメンスがぎょっとして振り向いた。
「どうしました?」
 両手を半端にあげたまま凍りついたようになっている。俺はせめて自分だけでもと思い、指を口に突っ込んだ。舌の根元の方を指でぐっと押した瞬間に、俺は虹羽根に目を奪われた。あんぐりと口を開けたまま、目を見開いて微動だに出来なくなった。俺は自分の手首をつたって落ちる唾液を感じながら、ただただ虹羽根の輝きに魅入った。


 全ての色に意味があるのだ。
 俺は今まで何も見なかったのと一緒だ。生まれて初めて見るように、輝く虹羽根の色を順に目で追う。大部分を占める青緑は、微妙に色合いの違う光点がびっしり集まって面をなしている。それは森の緑と同じように、どの一点も微妙にちがう色をしている。俺は今までそれをぼんやりと見やって、青緑だな、と片付けていたのだ。わずかに青が濃い青緑と、ほんの少し緑に近い青緑が、妙なるコントラストを作りながら連綿と生地を織り上げている。絹を陽光にかざしたかのような滑らかな光沢がそこに息づいている。


 青緑の海がひろびろと続くなかに、わずかに紫の濃い部分が紋様をつくっている。それはオオルリコガネの体を通して滲み出てきたこの世の摂理に他ならない。紫の紋様はくねりながら波間を走り、触れるか触れないかのところで離れ、思わぬところで結集して線分を結んでいる。この複雑な綾は浅はかな人間が筆で描いたのではない。生き物の体を通してこの世界の徴がいやがうえにも現れ出たものだ。じっと見つめるうちに、紫の紋様が脈打って浮き上がってくる。これ以上ないくらい明白な意味をともなって、それは脈動している。俺はそれを全身で感じて受け入れる。


 虹羽根はもはや両手でも抱えきれない大きさに肥大している。
 いちいち相手にしきれない大量の光点がその虹のような模様を織りなしている。もはや他のことは何も手につかず、吸い寄せられるように虹羽根の表面に顔を寄せる。小さな光点のひとつひとつがさらにくっきりと見える。そこに目を凝らすと、蝶の鱗粉のように細かな粒子に、覗き込む俺の顔が無数に映り込んでいる。顔を動かすと、その映り込みが同じように動くのが見える。世界中の鏡を集めて並べたかのようだ。ぱちぱちと瞬けば、億万の世界を映した鏡のなかで俺の顔が瞬く。手甲にびっしりと粟が立ち、それがざわざわと二の腕を通って肩まで伝わった。


 この世界とは、俺のことだったのだ。
 世界は、感受されないことには存在し得ないのだ。
 何者にも感受されない世界などというものは、存在しないのだ。
 俺が見、聞き、感じるこの全てが世界であり、そして等しく、それが俺自身なのだ。
 いかなる生き物にも感受されることのない、物質ばかりの世界など存在しない。存在するとしたら、そこには誰もいないと言いながら、その世界を神のように見詰めている何者かを置かざるを得ない。この世界に初めて生き物がうまれるまで世界は存在しなかった。そして最後の生き物が死んだ瞬間に世界は意味を失い、消滅するのだ。


 世界がゆっくりと捻じれてゆき、周りからぼんやりとした闇が侵食してくる。横に細長いアーモンドのような視界が、やがて上下から闇に押し包まれて細長い帯となった。黒い真綿の裂け目の向こうで虹が煌めいている。
 暗黒と、輝き。
 死と、命。
 これはまるで、夜空にうかぶ天の川みたいじゃないか。星の群れは徐々に闇に包まれ、やがて厚さをもたない線分の世界に閉ざされた。俺は恍惚を味わいながら、その光の線が短くなって点となり、やがて完全な闇に閉ざされるのをうっとりと見守った。



      *


→つづき

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