「しっかりしてください!」
 クレメンスの大声が聞こえる。体を起こして額を手で押さえながら、細めた目で辺りを確かめる。フィアが立ち上がって両手をこめかみに当て、頭を振っている。まだ朦朧としているようだ。うつ伏せに伸びていたルメイはクレメンスに木の枝で尻をつつかれて目を覚ました。そのやりように違和感を覚えるが、どうやらクレメンスは徹頭徹尾、俺たちの体に触れないと決めているらしい。ルメイは両手をついて上半身を起こし、きつくつぶった目を細く開けて周囲を見渡している。なんという体たらくか。俺たちは揃いも揃ってだらしなく伸びていたのだ。


 厭な夢を見ていた。
 その名残が胸の奥に残っていて落ち着かない。俺は何かから必死で逃げていた。湿気た暗い場所にイシリオンがいたのを覚えている。言葉をかわした筈だが、なにを話したのか思い出せない。夢の記憶を掴み取ろうとするが、それは砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。呪いの森で野営をしているという現実が心を占めていくのと入れ替えに、老エルフの面影が薄れていった。目をしばたかせながら周囲を見回すうちに、キャンプから十歩ほどのところに毛皮のようなものが落ちているのが目に入った。それが何か気付いた瞬間、俺は弾かれたように抜刀した。シャリン、という鋭い金属音がして、皆が一斉に俺を見た。


 クレメンスが両手を突きだして俺を留める。
「剣をしまって! こいつはもう死んでる!」
 右腕を小さくたたみ込み、肩甲骨が痛むほど背中に引いて小手を腰につける。刃のついていないリカッソに左手を添えながら腰を落とす。泥だらけになって転がっているのは毛皮なんかじゃない。体格からしてコボルトだ。地に伏せて動かず、首がおかしな角度に曲がっている。物凄い力で捻じ曲げられたのだ。
 俺の様子を見たフィアもそれに気づき、小さく声をあげた。こちらを振り返ったルメイもぎょっとして立ち上がった。


「落ち着いて。今は剣を抜かない方がいい。間違いのもとだ」
 クレメンスが両手で撫でるような仕草をして俺を宥めている。クレメンスの顔を見て、コボルトの死体を見て、またクレメンスの顔を見る。恥をかく予感でしかめ面になる。
「あんたが仕留めたのか?」
 俺の掠れ声に、クレメンスが「そうだ」と答えた。
「すまない……」
 言葉が続かない。コボルトの死体をじっと見下ろしている俺を、クレメンスが気遣わしげな顔で見ている。
「とにかく剣をしまって」
 俺は周囲をざっと見渡してから剣を納めた。そして溜息をつき、がっくりと肩を落とした。


 俺は猛省しなければならない。
 恥ずかしさと怒りが胸を締めつけてくる。道に迷ってこんな場所で野営する羽目になった。 そのうえ食い物にあたって人事不省に陥るとはなんたる様か。そうして伸びているうちにコボルトに襲われ、パーティーメンバーでもない男に助けられたのだ。幸いにも物を口にすることがない死体と一緒にいたから難を逃れたのだ。そういう偶然がなければ俺たちはここで死んでいた。こんなことでは命が幾つあっても足りないではないか。


 激情の背後から、暗くてやりきれない気持ちが覆いかぶさるように俺を包み込んでくる。自分たちの力量を越えたエリアに迷いこんで全滅するパーティーの匂いがぷんぷんとしてくる。メメント・モリ。死を忘れるな。なるほどその通りだ。だが気付いた時に泥濘に腰まではまっていたとしたら、どうすれば良いのか? こんな有様で、俺たちは探索を無事に終えることが出来るのか?
「おそらくキノコのせいです。残りはもう捨ててしまった方がいい」
 火勢の落ちた竈のそばに置いてある小分け用の麻袋を見ながらクレメンスが言った。なかば開いた袋の口から白々としたキノコがまだ顔をのぞかせている。俺たちは会計役の死体から探索のアドバイスを貰っているのだ。


 フィアが竈のそばまで膝立ちで移動して麻袋を拾い上げ、目の高さまで持ち上げた。
「明日、陽の光の下で確かめるからそれまでは取っておく。もし毒があるなら形を覚えておきたいから」
 クレメンスがなるほどと頷いた。
「間違いなく毒キノコでしょう。食べて暫くしてから、セネカ殿とルメイ殿は伏せてうなされていました。声をかけても返事がないので慌てましたよ」
 ルメイが、申し訳ない、とつぶやく。俺は返事をする代わりに深く頷いてみせた。
「コボルトはソフィア様の歌に引き寄せられたようです。雨がやんで静まり返ってましたから」
 キノコが入った袋の口を縛っていたフィアが肩をすくめてクレメンスを振り返った。フィアの洗ったばかりの髪がぱっと翻った。


「歌?!」
 フィアは眉をつりあげ、両手で袋を胸元に掻い込んでいる。
「はい。あいにく私はこの様でソフィア様の口をふさぐ手立てがありませんでした。仕方なく、失礼を承知で棒でつついたりはしたのですが……」
 フィアがその場にぺたんと座って顔を伏せた。クレメンスは恐らく、生前ならフィアを抱きすくめて手で口を塞いだだろう。何しろ危急の時なのだ。しかし今、それが出来ずにおろおろとしていた様子が目に浮かぶ。
「ごめんなさい。……本当にごめんなさい」
 俯いたフィアがか細い声で謝っている。
「フィアのせいじゃない。俺が不甲斐なかった」
 道に迷ったのもキノコを選ったのもフィアだが、パーティーのリーダーは俺なのだ。


 今さらながら思い出した。
 かつて街の冒険者たちとパーティーを組んで探索をしていた頃、近場ながら野営をしたことがあった。パーティーリーダーはアリスン・ダーナ・ロック、通称ロック隊長。この男は威勢のよい男であったが、いささか浅慮なところがあった。それを補佐する役として、副隊長の剣士ウィリーがいた。そのウィリーが食事の支度をする仲間にあれこれと注文をつけて揉めたことがあった。炊事役の当番は、確かロニーがやっていた筈だ。剣士ロニーは陽気な奴だが、細かいことを気にする男ではなかった。


 塩漬け肉を切るのに手元に屈みこんでいたロニーが体を起こしてウィリーを見返した。ウィリーはすぐそばに座ってロニーのすることを眺めていたので、まともに目が合った筈だ。確かカオカ遺跡の奥まった辺りで、白っぽい廃墟の壁と生い茂る屏風の木を竈の火が照らしだしていた。その向こうには静かな闇がひろがっていた。
「いちいちうるせえな!」
 ロニーが舌打ちをした。一日中からだを動かした冒険者は塩辛いものを好む。ロニーは塩漬け肉を切り分けるのに、塩で塗り固めた肉塊の表面をそぎ落として料理に使おうとしていたのだ。そうすれば自然と味が辛くなる。


「まっすぐ同じ方向に切るんだ」
 ウィリーが手刀で空を切りながら辛抱強く言った。
「だったらあんたがやれよ」
 ロニーが刃の方を持って小刀の柄をウィリーに差し出した。ウィリーは笑って両方の手のひらを揺らしてみせる。
「今日はお前が当番じゃないか」
 ロニーは一瞬ウィリーを横目で睨んでから、塩漬け肉を水平に切り分け始めた。それからもう一度大きく舌打ちをして憎まれ口をきく。
「年を取ると剣より先に口が出るってか?」
 パーティーメンバーたちが笑いを漏らし、場の緊張が緩んだ。


 俺はその光景を、何の気なしに眺めていた。
 憎まれ口をきかれたウィリーは一緒に笑いながら、ロニーの肩を叩いていた。今なら判る。食い物の管理は直ちに生き死にに繋がるのだ。保存食の肉から塗りつけた塩を剥ぎ取ったら腐敗が進む。若い冒険者は剣を抜いてからの立ち回りは気にするが、そういう細かいことには目を向けない。ウィリーには仲間を死から遠ざける能力があったのだ。そのうえ、自分が嘲笑されても笑って水に流す度量があった。もし俺が年をとってから同じ場面に出くわしたら、持ち前の気の短さがたたって相手の胸ぐらを掴んでいたかもしれない。


 ああ、ウィリー。
 あの男にはそういうことがやれるのだ。なぜ俺はウィリーのようにやれないのか。フィアが暗いなかでキノコを取り出した時に、一度陽の下で確かめた方が良くないか、とひとこと言うべきだったのだ。ウィリーならきっとそうしただろう。そういうことに気が付かない奴がリーダーをしている限り、パーティーメンバーは思わぬところで死に直面する。いま、ウィリーをリーダーとしてパーティーを組んでいる連中は幸運だ。そういうパーティーには自然と、赤髭のメイローのような名剣士が集うことになる。


 情けない話だ。
 お前は剣士の熟練とパーティーリーダーの熟練をはき違えている。なまじ剣の腕が立つと思って増長しているのではないか? そう思いながら、さらに気が塞ぐことを思いつく。ウィリーは剣士としても腕が立つ。カオカ遺跡で山賊に襲われた時、けっきょく怪我をする羽目にはなったが、あのオロンゾを一人で抑えたではないか。いざという時に頼みになるからこそ、口うるさい奴と言われながら冒険者のパーティーでやっていけたのだ。そうでなければ蹴り出されているだろう。


 目を細め歯を食いしばる。
 お前という男は、片田舎から都に出てきて貴族の連中に良いようにこき使われ、挙句に食い詰めて場末の冒険者となり、こんな場所でへたばって仕舞の男なのか? 虹羽根でひと儲けを夢見て呪いの森くんだりまでやってきて、こんな辺鄙な場所で死ぬのか? 誰ひとりやってこない森の奥でされこうべとなり、暗い眼窩からじっと空をながめ、雨に打たれて朽ちてゆくのか? いい人生だった、俺もやるだけやったと死に際の景色を眺めながら、二十歳そこそこで屍に成り果てるのか?


 珍しくもない。
 そういう奴は掃いて捨てるほど見てきた。カルディス峠の岩の下にあった骨の山を思い出せ。鬼蜘蛛にやられた連中だ。あの冒険者たちが生きていた頃に何を求めていたのかは知らない。アリア河の河原に輝くという宝石か、シラルロンデの塔に隠された遺物か、ワーウルフのひとつなぎの毛皮か。とにかく連中も自分だけはうまくやると信じて遠路はるばる旅をしてきたのだ。お前も、自分は違うと信じているのだろう? こんな誰もいない森の奥で、黙して語らぬされこうべにはなるまいと信じているのだろう? それなら泣き言はやめろ。なんとか堪えて今やれることに目を向けろ。


 ルメイもフィアも意気消沈してほろ苦い顔をしている。クレメンスもいささかばつが悪そうだ。俺はすくと立ち、指を動かして握力を試してからベルトに吊った長剣の位置をぐいと直した。腰から飛び出た剣の柄に両手を置いて顎を引き、表情を引き締める。
「俺の手抜かりでしくじり続きだ」
 ルメイとフィア、それにクレメンスもさっと顔を巡らせて俺を見た。
「だがここで立て直そう。フィア、鳴子を設置してくれ」
 はい、と返事をしてフィアが立ち上がり、背嚢から鳴子をジャラジャラと取り出した。
「ルメイ、篝火の管理を頼む。少し暗いようだ」
 ルメイが頷いて薪を小脇に抱えた。


 フィアが濡れた地面に鳴子を刺し、ルメイが篝火に薪を足し始めた。
「俺はコボルトの耳を取って死体を離れた場所に捨ててくる。匂いがすると何が寄ってくるか判らんからな」
 キャンプの外、暗い地面に座ったクレメンスがじっと俺を見ている。
「クレメンスさん、あんたのお蔭で命を拾った。礼を言う。あんたに指示できる立場じゃないが、周りに気を付けていてもらえたら助かる」
「請負った」
 クレメンスは立ち上がって武者震いするかのように体を震わせ、小さく肩を回してから篝火の届くぎりぎりの位置まで行って立ち木に手をかけた。そうして立哨兵よろしく、闇の向こうに視線を走らせている。


 舌を飛び出させたコボルトのそばにしゃがみこむ。鼻づらに向かって細く尖った口の辺りを眺めると、こわい髭の根元がつながってしまったかのように泥がこびり付いて固まっている。死体というものはいつでも、本当に静かだ。生きて飛び跳ねている時と比べたら恐ろしいほどの静けさに満たされている。胸元のホルダーから短刀を抜いてコボルトの耳を引っ張る。濡れて滑るので指の腹でしっかりと摘まむ。半弧を描く切り口から粘液のような血が垂れてこめかみの辺りに染みた。薄皮のようなひらつく耳朶を二枚重ねて水溜りでゆすぐ。暗くて血の色は見えない。ぴっぴっと振って水気を切り、胸鎧の隠しに突っ込んで足場を確かめる。コボルトの両脇に手を入れてその上半身を持ち上げる。毛皮が雨水を吸っているので体を後ろに倒さないと引きずれない程の重さだ。


 ブーツの深い足跡を残しながらコボルトの死体を林の中まで引いてくると、やがて篝火の光が届かなくなった。後を確かめ確かめ進むうち、ルメイが松明を持ってきてくれた。松明は左手に、右手に抜身のメイスを握り締めている。
「暗いから気を付けて」
 しんどい荷を引くのに歯を食いしばっていたので、かみ締めた歯のあいだから「おう」と返事をした。死体となった男、クレメンスは怪力の持ち主でコボルトの首は骨がつながっていない。俺が体を動かすたびに首が左右に振れて始末に負えない。数十歩離れた辺りでえいやあと死体を放り出すと、下草ががさがさと鳴った。手をはたいてこびりついた剛毛を払い、ルメイと一緒に足跡を踏み均しながらキャンプへ戻った。


 森のなかでも屋根の下は落ち着く。
 竈の火の音を聞きながら俺たちは車座に座って一休みしている。雨がやんでこんなに静かなら、何者かが近寄ってきたらたちどころに知れるだろう。
「明日は早出をしてシラルロンデに向かう。交代で番をして残りの者は休むとしよう」
 そう切り出してみたが、寝ずの番の順番で話がまとまらない。普通こういう場合、最初に番をする者が貧乏くじのように感じるものだ。しかしルメイもフィアも俺にまず寝ろという。


「神経が昂ぶって寝れないんだよ。俺は後でいい」
 そう言ってみたものの、ルメイとフィアも目が冴えて仕方ないらしい。体は疲れているが、どうにも気が張りつめている。クレメンスが横から口を出し、それなら私がと言い出した。俺は仕方なくクレメンスの方を向いてせいぜい申し訳ない顔を作ってみせた。
「すまんが、あなたに何か頼める立場にない」
 クレメンスは寂しそうに笑った。遠まわしにあんたは仲間じゃないと言われたようなものだ。だが仕方あるまい。死体がメンバーというのは聞いた事がないし、死人遣いのドラウプニルがいう、暫くは動ける、というのがどれほどか判らないではないか。


「昼間に重い荷を背負ったんだ。ルメイがまず休むべきじゃないか?」
 すぐ横にいるルメイに声をかける。ルメイは俯いていた顔をあげるが、黙りこくっている。どうにも浮かない顔だ。
「さっき見た夢が頭にこびりついて離れない」
 フィアが上目使いにそっとルメイを窺う。
「どんな夢だったの?」
 ルメイは弄んでいた小枝を竈のなかにひょいと投げ込んで後ろ頭を掻いた。
「なくした家族の夢だよ」
 そういえばルメイは結婚しているのだった。うっかりした事を言えない雰囲気になり、暗い森のなかに薪のはぜる音だけが小さく響く。


 キャンプの外に目を向けていたクレメンスが足をにじらせてこちらに向き直った。
「経理のことにとても詳しいですが、もしかしてルメイさんは……、ルメイ商会のルメイさんですか?」
 クレメンスはデルティス城の会計役をしていたからそういう事に詳しいのだろう、きっと思い当たる節があるのだ。そういえばルメイはカオカ櫓のタリアーニ主計からも同じことを問われていた。俺はルメイ商会というのを聞いたことがないが、その道の人には有名だったのかもしれない。


「……その通りです」
 ルメイが気後れするように認めた。クレメンスは興味をもったようだ。
「評判の良い商会でしたのに」
 クレメンスの物言いから、ルメイがまっとうな商売をしていたことが伝わってくる。金勘定に辛そうなタリアーニもルメイのところで買い付けをした話をしていた。
「こんなところで冒険者をしているのは、やはり、あの火事が原因なのですか?」
 ルメイがぴたりと動きを止めた。しかしクレメンスはそれに気づかないようで、何気なく言葉を続けた。
「奥さんと娘さんは残念なことをしました。お悔み申し上げます」


 クレメンスの言葉を聞いて息が止まった。フィアも微動だにしない。ルメイは竈で揺れる炎をじっと見つめている。
「そういえばカオカ櫓の寝床で、家族がいるって話をしてたわね」
 フィアが小声で確かめるように言う。
「あの時は軽口を叩いてごめんなさいね」
 ルメイは炎を見たままわずかに顔を歪め、気にしなくていい、とだけ囁いた。だが俺の考えは違う。二年も一緒に狩りをしてきたのに、そういうことを言わずにおくのは余りに水臭いのではないか。


「話してくれなかったよな?」
 ルメイが一瞬だけ炎から目を離して俺を見た。
「すまない。セネカには話しておくべきだったよな」
 ルメイがおでこに両手をあて、そのまま指を滑らせて前髪を握り込んだ。クレメンスが慌てて口を開く。
「もしかして余計なことを言いましたか?」
 しきりに口の辺りを撫でながらそわそわしている。死体となったクレメンスの体は瑞々しさを失っているが、その心からは申し訳なさがにじみ出ている。
 暫く誰も口をきかなかった。やがてルメイが自分の掌から顔を上げた。
「ちょうどいい機会だ」とルメイが言った。「話しておこう」
 誰も眠そうな顔をする者はいない。なぜ商会を捨てて冒険者になったかという経緯を、ルメイが静かに語り始めた。


   *


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