薄墨色の空に鐘の音が冷たく響いている。
 アイトックスの街はずれにある修道院で、夕方から降りだした雪がどれくらい積もっているか確かめようとして窓を開けたシスター・クレアが、道端に毛布が落ちているのを見つけた。底冷えのする冬の夕暮れで、建物から離れた辺りはすでに薄闇に包まれていた。毛布は幾重にも巻かれ、修道院の入口にある篝火の明かりがぎりぎり届く辺りに置かれていた。胸騒ぎを覚えたシスターが慌てて見に行くと、生まれて数日の赤ん坊がくるまれていた。


 シスターはなかば雪に埋もれていた使い古しの毛布を両手で抱えあげ、首を傾けて赤ん坊の口に耳を寄せた。修道女が被るたっぷりとした白い頭巾の内側に雪が舞い降りてきて、シスターの頬で溶けた。赤ん坊は死んでいると思ったが、まだ息をしていた。シスターが目を見開いて「たいへん!」と声をあげる。毛布にくるまれた小さな赤子を胸に抱きながらシスターは修道院まで小走りに戻った。凍えていた赤ん坊は暖炉のある部屋で介抱され、命をとりとめた。気付くのがあと少しでも遅れたら失われていた命であった。


 これは、隣接する孤児院で育ったルメイが物心ついた頃、病床に伏せていたシスター・クロエから直接聞かされた話だ。なぜ自分が呼ばれたか見当もつかないルメイが部屋に入った時、シスターはベッドの背板に背を預けて微笑を浮かべていた。窓の外には葡萄畑のなだらかな畝が広がっていた。シスターはときおり咳き込みながら、ルメイを道端から拾い上げた日のことをゆっくりと語って聞かせた。話し終えると、ルメイの目に問いかけるように静かに言い添えた。
「誰も恨んではだめよ。あなたは生き延びたのだから」
 実感は湧かなかったが、ルメイは返事をして頷いた。それから間もなく、シスターはアリア風邪で命を落とした。ルメイの出自を知る者は誰もいなくなった。


 貧しい者には世知辛い世の中だ。ルメイと一緒に孤児院で育った子供のうち、体の弱い者は生き長らえなかった。規律に馴染めない者は放逐されて野垂れ死にした。彼らのうち生き残るのはほんの何割かだ。ルメイは幸運にもその何割かに入った。よく晴れた日には丘の連なりの向こうに王都の塔が遠望できる修道院で神の教えを習い、リキュール作りを手伝いながら子供時代を過ごした。自分の両親がどんな人達であるかは不思議と気にならなかったという。自分の周りが家族を持たない者ばかりだったのだから、無理もない話だ。


 建物の南側の壁沿いが草地になっていた。孤児院は全体に暗い色をしていたが、灰色の景色のなかにも緑の土地があり、春には小さな花が咲き乱れた。その光景が脳裏に浮かぶたび、ルメイはメリッサを思い出す。彼女は孤児仲間でルメイと同い年だ。同じ年の近い月に彼女もまた身寄りのない赤子として引き取られていたのだ。シスター・クロエがついでのように話してくれたところによれば、メリッサを生んだ母親はお産で命を落としたという。貧民窟に住む者で、父親の行方は知れず、お産に立ち会った近所の者が見かねて孤児院に届けにきた。シスターが母親の名を尋ねる前にその者は立ち去ってしまった。


 俺はルメイの顔をそっと盗み見た。俯いた顔はほぼ闇に包まれていたが、こめかみから頬にかけて浮き彫りになった苦悩の色を揺れる炎が照らしていた。ルメイが目をつぶった瞬間、その頭の上に遠見の窓が音もなく現れた。ぼんやりとした楕円形の窓は孤児院の敷地を映している。古い時代に造られた壁の手前に鮮やかな緑地があり、そこにマーガレットの白い花びらが連なっている。その情景の手前に、一人の少女が立っていた。


 おそらく孤児院のお仕着せなのだろう、麻色をした袖の短い上着を着て、脛をすっかり隠すスカートをはき、色のかすれた紺のエプロンをつけている。その恰好でやや前屈みになり、束ねたシーツを何枚か抱えて運んでいる。ふとルメイの視線に気づき、笑みを浮かべているところだ。貧しい者には絵描きを雇う金がない。しかし貧者でも、過去を切り取った絵をその胸に残しておくことはできる。メリッサの容姿も、その服装も、お世辞にも褒められるものではない。メリッサは滅多に梳かれたことのない赤い髪を無造作に肩まで伸ばしていた。頬にはそばかすが散り、牛蒡のように痩せている。だがルメイを振り向いてつくった笑顔には柔和な心と慎ましさがにじみ出ている。


 ルメイが溜息まじりに訥々と語るたび、遠見の窓から見える景色が入替った。威儀を正して立つ司祭が本を片手に語りかける場面があった。手にしているのは革で装丁された立派な書物で、神の教えを説いているのに違いなかった。司祭はページをめくり、泰然とした視線で周囲を見渡す。孤児たちは並んで傾聴している。全体に灰色に近い色合いの思い出なのに、そのうちの一人、メリッサのところだけ彩りが明るい。ルメイは訓話そっちのけで彼女を眺めていたようだ。


 また別の場面では、暗い建物のなかで燭台を持つメリッサの姿があった。蝋燭の明かりがメリッサの横顔を明るく照らしている。彼女は成長して顔が大人びている。神妙にしているメリッサの口から白い息が漏れていて、どうやら二人は修道院の入口で外の様子を窺っているようだ。やがて蹄が石畳を踏む音が聞こえてきた。メリッサがちらっとルメイを見て頷いた。その合図で二人が扉を開けて外に出ると、濡れたように黒い夜空に大きな月がかかっている。メリッサの髪が風になびき、蝋燭の明かりが揺れた。すぐ近くから馬のいななきが聞こえる。


 暗転した遠見の窓が薄暗い納屋を映しだした。陽光が斜めに差し込んで、微小な繊維が重さを持たぬかのように宙を舞っているのが見える。その中央にメリッサがこちら向きに立っている。十代なかばの女の子らしからぬ落ち着いた表情をしている。彼女の胸が丸みを帯びているのがお仕着せの上からでも伝わってくる。メリッサは陽光に照らされてこちら側の世界に、星ひとつ見えない闇に覆われた呪いの森にせり出してくるかのように見える。手を伸ばせば触れることが出来そうなほどだ。


 メリッサはわずかに顔を傾げ、片方の口の端だけで笑っている。唇を小さく動かして、もう戻らなくちゃ、と小声で言うのが聞こえた。その囁きが、夜の森に呪文のように吸い込まれていった。
 俺ははからずもルメイが心の奥底に隠していたものを垣間見てしまって慌てた。ルメイはこの子に恋をしていたのだ。その納屋で過ごした幸福な瞬間から時間も場所も遥かに離れたこの森で、ルメイはがくりと頭を垂れた。メリッサの像は雨の日の窓から見える景色のように揺らぎ、やがて霞んで消えた。


 ひと息ついてルメイがまた話し始めた。
 孤児たちは体がしっかりしてくると働きに出される。ルメイは十二歳で鍛冶屋へ奉公に出された。だがへまをして追い返された。体が大きいので力仕事が向いていると思われたが、大槌を振るうのはルメイにはやりつけなかった。ついで染色工房で働いたが、これもあまり振るわなかった。
 しかし何かの拍子で仕入れを手伝ってから話が変わってきた。ルメイが買い付けてくる生地は質が良く、値段も手頃であった。あちこち歩き回って相場を調べるのを厭わなかったからだ。ルメイには商いの才覚があったのだ。


 十五歳になった頃、ルメイはアイトックスの染物協会本部で会計の仕事に就いた。下働きから始めて徐々に仕事に慣れ、夜は蝋燭を灯して会計の勉強をした。そして会計士の試験に合格した翌日、古巣の孤児院に戻ってメリッサに求婚した。彼女は嬉し泣きの顔でルメイの申し出を受けた。そうして二人は、十七歳の時に結ばれた。ルメイの頭上に再び現れた遠見の窓に、メリッサとの仲睦まじい生活が切れ切れに映し出された。初夜の寝室から酔った親友たちを追い出すルメイ。小さな台所で料理をするメリッサ。メリッサの膨らみ始めた腹に神妙な顔つきで手を乗せるルメイ。


 ルメイは染物協会で働き始めてから四年後、メリッサと所帯を持ってから二年後には独立して小さな商会を立ち上げた。郊外の商館を借りて主に穀物と酒を扱った。世話になっていた修道院で作られるリキュールの販売を引き受け、王都の金持ちたちの好評を得た。ルメイは修道院への寄進を忘れなかったので、そちらの方面にも伝手が広がった。当時の大司教に気に入られ、教会の什器を幅広く取り扱うことになった。またこの頃に、豪商と名高いカリーム・グリムバースとの親交が深まった。


 ルメイ商会は繁盛を続け、郊外の手狭な借家から大きな建物へ引っ越す計画がたてられた。移転先を決めるのにあたって、王都の目抜き通りに土地を所有していたカリーム商会が仲介をしてくれる手筈も整った。仕入を止めて在庫を売り払い、束の間ながらゆっくり過ごせる日々が訪れた時、ルメイとメリッサの間に生まれた娘は三歳になっていた。ルメイは孤児として育ったが、メリッサに出会うためだったと思えば何の恨みも湧かなかった。アリア河の岸辺の数え切れない砂のうちたった二粒が、たまたま隣り合わせになったようなものだ。この頃が、ルメイの人生のもっとも幸福な日々だったのに違いない。


 この俺も、良い時代の思い出を持っている。
 それはおそらく、トロワ離宮の竣工式に儀仗兵として臨んだ日の記憶だ。あの祭典になんの危険もないことは判っていたが、それでも行幸の先頭は必ず近衛が行進する。それを指揮するのが近衛隊長としての俺の役目だった。ルメイの成功と比べたら小さなものだが、それでも良い思い出であるのに変わりはない。自分の人生がうまく回っていると思える時、多少の謙虚ささえあれば幸福を感じることが出来る。そういう時、俺たちは自分に自信が持てるし、他人を気遣う余裕も生まれる。気分が明るくなるし、何より飯が美味い。
 ただ往々にして、それは長続きしない。


→つづき

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