鉄板のたわみが解放された瞬間、ビィンという音とともに腕に反動がきた。まっすぐに撃ちだされた矢は絵画を貫通して壁に突き刺さった。トスッというやけに軽い音がする。仮面をつけた侵入者がまず矢を見、すぐに背後を振り向いてクロスボウを構えている大柄な男を見た。賊は小さく叫び声をあげ手足を投げ出すように脇へ飛びのいた。
「一人いる!」
 視界から消えた男が大声を出した。廊下に人の足音が重なる。ルメイは追い詰められた獣のように目を剥いた。賊は二人じゃない、もっと大勢だ。


「クロスボウを持ってるぞ!」
 絵を外そうとしていた男が仲間に声をかけている。この時になって初めて、ルメイは自分が丸腰になっていることに気付いた。クロスボウに次の矢を番えておらず、腰には短剣すら吊るしていない。賊たちが部屋になだれ込んで来たら何の抵抗もできずに滅多切りにされてしまうだろう。ルメイは慌てて床に伏せ、跳ね上げ戸を上げようとする。しかし暗くて溝がどの辺りかよく見えない。背後に賊たちの気配を感じながらルメイは床を撫でまわす。やっと溝に指がかかる。もどかしい思いをしながら跳ね上げ戸を上げ、ルメイは再び地下室の階段を駆け下りた。


 階段を下りて数歩進んだところで立ち止まり、クロスボウの先端についた鐙に慌ただしく爪先を通す。片足で床を踏みしめながらクロスボウの弦に指をかけ、力任せに引く。そうしながらもちらっと後を見る。
「急げ急げ急げ」
 ルメイの切羽詰った声が地下室に響く。力をためた弦がなんとか弦受けに掛かったが、小箱から取り出したボルトを床に落としてしまう。慌てて拾いあげるが、指先が震えていてうまくクロスボウに番えることができない。ルメイは自分の荒い鼻息が手にかかるのを感じながら、ようやくクロスボウの溝に矢をはめ込んだ。


  跳ね上げ戸には鍵がかからない。賊たちが意を決して地下室に下りてきたら止めようがない。開口部が狭いので一度に大勢は入ってこれないが、あの足音の数はいったい何人だったのだろう。連中と戦うには矢を次々と番えねばならない。ルメイは小箱に手を突っ込んで残りの矢を取り出し、それをどこかに仕舞っておけないか自分の着ているものを見下ろす。ばたばたと腰の辺りを叩いてみるが、寝間着なので隠しがない。蝋燭の光にかざして残りが何本あるか確かめる。五本だ。これで足りるのだろうか。さっきの間合いで外すのなら、どれだけあっても足りないのではないか。


 ルメイは地下室の棚に忙しく目を走らせて短剣をさがす。幸いにも手近な場所にそれを見つけた。人の腕の長さほどしかない小振りな剣だが、どのみち長大な剣は扱えない。手に取れば意外にもずっしりと重い。剣帯がついたままの状態で置かれていたので好都合だ。ルメイはクロスボウを脇に置いて帯の輪に首を通した。肩からぶら下げた剣帯を何度か引っ張ってから試しに剣を抜いてみる。細い刀身がすらりと出てくる。親指の腹で撫でてみると刃が立っていて鈍らではない。ルメイは剣を鞘に納め、クロスボウを再び手にした。


 びくっとして天井を見上げる。
 ほぼ真上から足音がする。賊たちが跳ね上げ戸の周りに集まってきている。こちらに覚られぬように黙っているが、床を軋ませる僅かな音が少しずつ移動している。ルメイはクロスボウを構えたまま右を見上げ、左を見上げる。何人いるのだろう。五人? 六人? だが最初に入ってきた奴は必ず仕留めてやる。ルメイはそろそろと移動して階段の最下段に片膝をついた。ここからならさすがに外さないだろう。戸が開いた瞬間にその隙間を狙うつもりだ。


 ルメイはじりじりとして待つが、賊たちは何かを待っているかのように動かない。時おり足をにじらせる音がするだけで、辺りは静けさに満たされた。ルメイはクロスボウを構えたまま、左肩をいからせて頬の汗を寝間着で拭う。どういうつもりだ。なぜ下りて来ない。なにか身振り手振りでよからぬたくらみをしている気配を感じる。ルメイは上から聞こえてくる僅かな物音に集中して眉根を寄せている。その額を汗がべったりと覆っている。それから一息ののち、ルメイの人生を完全に狂わせる出来事が始まった。


 頭上から重い物を引き摺る音が響いてくる。
 ルメイは弾かれたようにそちらを見上げる。壁に背中をつける形で置かれていた書棚を何人かがかりで動かしている。それが何を意味するか判った瞬間、ルメイはクロスボウを脇に置いて階段を駆け上がった。両手で跳ね上げ戸を押し上げようとするが、びくともしない。何人かが戸の上に乗っているのだ。ルメイは階段を登れるだけ登り、狭い場所に体を押し込めると、背中を天井に押し当てて唸り声をあげる。頑丈な戸板がわずかにたわむのが感じられたが、どうしても開かない。地下室に閉じ込められたのだ。


「ここを開けろ!」
 ルメイが怒鳴りながらさらに背中を押し付ける。だが戸の上に新たな、いかんともしがたい重みがのしかかってくるのを感じる。物を引き摺る音が真上で止まった。もはや戸板は金属のように張りつめ、たわむことさえしない。
「おい! ここを開けろ! 俺が怖いのか? 卑怯者め!」
 ルメイが唾を飛ばしながら怒鳴る。怒鳴ってから相手の反応をみるために耳を澄ます。自分の真上にいる男たちが、重い物から解放されて手の平をはたいている音が聞こえてくる。度し難いことに、談笑している雰囲気が伝わってくる。


「ここには金貨があるぞ!」
 階段を下りてルメイは再びクロスボウを手にした。
「要らないのか? 金貨が百枚もあるんだぞ!」
 ルメイは跳ね上げ戸に向けて引き金をひいた。その矢が戸板を突きぬけて賊の足に刺さることを狙って。しかし矢は軽い音をさせて戸板に突き立った。この武器には、それを貫通するような能力はないのだ。ルメイは歯を食いしばってクロスボウを睨みつける。頭上の足音が遠のいていくのが聞こえる。


「待て! 金貨をくれてやる! ここを開けろ!」
 ルメイは階段の上の方で怒鳴り声をあげると、何人かでも残る者がいないか耳を澄ませた。賊たちが部屋から引き揚げてゆく。引っ越しの準備が済んだところで屋敷のなかには金目の物がない。賊たちはあちこち家探しをするだろう。もし屋根裏部屋にいるメリッサとパメラが見つかってしまったらどうなるのか。ルメイの心をみるみる絶望が塗りつぶしていく。そんなことは絶対にあってはならない。しかし閉じ込められて何もできない。ルメイはひどい吐き気に襲われてその場にうずくまった。自分の体をうまく制御できない。


 そこからルメイの記憶は混濁している。
 夜の森の野営地で、俯いているルメイの頭上に遠見の窓が開いている。そこに映る像が暗転を繰り返している。一瞬、小さな椅子を跳ね上げ戸にぶつけているところが映し出された。ルメイのうなり声とともに椅子がばらばらに砕けた。次いで、短剣を抜いて滅茶苦茶に斬りつけている。だがそんなやり方で分厚い木材を壊すことは出来ない。肩で息をするルメイがふと手元を見ると、折れ曲がった短剣の刃が見える。ルメイはそれを床に投げ捨てた。


 棚からもいできた支柱を跳ね上げ戸の隙間にねじ込もうとしている時、ルメイはびくりと肩を震わせて動きを止めた。ぱちぱちという火が爆ぜる音がする。賊たちが屋敷に火を放ったのだ。ルメイは言葉にならない声を張り上げながら支柱に両手をかけ、体重をかけた。支柱が折れ、ルメイは階段から転がり落ちて強かに頭を打つ。ルメイの頭上の遠見の窓が真っ暗になる。ルメイはそこで気絶したのだ。暗黒の奥から音だけが聞こえてくる。熱で木材が裂ける音。炎が渦巻く音。柱が崩れ、天井が落ちる音。それは、ルメイが築き上げてきた全てのものが燃え尽きる音であった。


 ルメイの頭上に浮かんでいた遠見の窓がすうっと姿を消した。
 俺はルメイの物語から抜け出て夜の森で目を覚ました。空には厚く雲が垂れ込めて星ひとつ見えない。周囲の森は闇に閉ざされ、篝火に照らされたキャンプの中もあらゆる物に濃い影が落ちている。竈の火は落ちかけ、どこからともなく梟のほう、ほう、という低い声がかすかに聞こえてくる。フィアも、死体となったクレメンスも、虚ろな顔をしたまま身動きもしない。ルメイは石に腰かけ、垂れた頭を両手で抱えたまま黙っている。ルメイの身の上に起きた不幸はあまりに唐突であった。慰めの言葉も思いつかず、誰も何も言わない。


 この世は説明できない事で満ちている。
 なぜルメイは妻と娘を失わねばならなかったのか。どうしてフィアの兄弟は処刑されねばならなかったのか。お城の優秀な会計役であったクレメンスが辺境で死なねばならなかった理由は何なのか。誰にも答えられないだろう。人生の幸福と不幸はいずれ釣り合うという意見を俺は憎む。かつてルメイと共に寝起きしていた孤児のうち、幼くしてアリア風邪で命を落とした者にどんな幸福が訪れるというのか。そういう者たちと比べたら俺たちはまだ幸せな方だ。ところで俺はルメイにそう告げるべきだろうか? お前はまだましな方なのだと? そんな事が言える筈がない。


→つづき

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