「生きるか、死ぬか。自分で決めるのです」
 死体となったクレメンスは眼窩が影になっている。だが今ならどこを見ているか判る。かりそめの命を生きているこの男はじっとルメイを見詰めているのだ。
「弱音を吐いてすまない。誰かの役に立ってるなんて思いもしなかった」
 地面を見つめていたルメイが真顔で振り向く。
「俺は生きるよ」
 その一言を待っていた。ルメイにとって今夜が転機になるのだ。何か言ってやりたいがつまらないことを言う代わりに大きく頷く。


 人の心は判らないものだ。
 ルメイという男は陽気で剽軽な人間だとばかり思っていた。金勘定に辛く、腕力はあるが剣を振るうのは大の苦手。大食らいの酒好き。出会った頃から判りやすい奴だなと思っていたが、たまに物思いにふけっている時があった。どうしたと訊いても適当にはぐらかされた。そういう時は家族のことを思い出していたのかもしれない。水くさいとは思うが俺も人のことは言えない。自分が手配されていることをずっと隠し通してきたのだから。


 クレメンスが暗がりで俯く。
「わたしも何か命懸けでやりたいものだ」
 しわがれた声に口惜しさがにじんでいる。死人遣いの魔法で生かされているクレメンスにしてみれば、生きるか死ぬか自分で選べるルメイが羨ましいだろう。暗くてその顔色はうかがい知ることが出来ないが、生きていた頃であればほろ苦い表情をしているに違いない。
「明日生きているとは限らない。今生きていることは当たり前ではない。そう思ってどうか掛け替えのない日々を送ってください」
 クレメンスがふいに顔をあげた。
「老婆心めいたことを言うのをどうか勘弁してください。この気持ちを伝えずにはおれないのです」


 クレメンスはまだ言い足りなさそうだが、口を閉ざした。繰り言のように聞こえるのが嫌なのだろう。死体となった男の言葉は心に響いた。安っぽい説教には聞こえない。
「剣の師匠に同じことを言われた」
 俺は小さく、メメント・モリとつぶやいた。死を忘れるな、という呪文だ。
「わたしは不運に振り回されるだけの人生だった。でもこれからはちがう」
 フィアがそう言うのを聞いてルメイが息を吐く。
「俺はずっと不甲斐ない時間を過ごしてきた」
 ルメイは家族をなくした悲しみから不器用に逃げ続けてきた。なんとも言いようのない間のあとに、ルメイはさらにひとつ息を吐いた。


「せめてあともう少し生きられたら」
 クレメンスの座っている辺りに濃い闇がたちこめている。厚い雲に覆われた夜空は暗く、森は暗闇だ。そして松明が照らすほんの一握りの地面の隅っこ、森のとば口ではクレメンスが暗黒のオーラをまとっている。なんと声をかけて良いか判らず、俺はその尋常でない雰囲気に目を細めていた。やがて、じっとクレメンスを見ていたフィアが口を開いた。



   野辺で亡骸を見出したなら
   死者のために湯を沸かせ
   体を清めて棺におさめよ
   大往生を遂げさせよ



 ルメイがぼそりと、シグルドリーヴァの歌だね、と言う。フィアの目に浮かぶ涙に炎が小さく反射している。
「あなたをこんな寂しい森で死なせてしまってごめんなさい」
 フィアの瞳にみるみる涙が盛り上がってくる。
「わたしは恩に報いることが出来なかった。あなたの人生を巻き込んだことをどうか許してください」
 フィアが目を瞑ると頬に涙がこぼれ落ちた。


 クレメンスが慌てて片手を振る。
「謝らないでください、ソフィア様のせいじゃない。それに、何のお役にも立てなかったのですから」
 フィアがゆっくりとかぶりを振りながら、そんなことないわ、と鼻声で言った。
「さっきの帳簿のはなし、聞かせてくれてありがとう。八方塞がりだった私の人生にやっと光がみえてきた」
 クレメンスは小さな声で、それは良かった、と答えた。静かな物言いだが喜びの色がある。体から流れ落ちていた黒い霧のようなものが見えなくなった。


 なりは死体でも、自分の考えを自由に口にしているクレメンスは生きていると言えるのではなかろうか。俺は言いたいことも言えずにバイロン卿のもとで働いていた。自分で選んだ道だったにもかかわらず俺は不満ばかり募らせていた。果たして俺は生きていたと言えるのだろうか。いや、このご時世に思うさま生きている人間などいないのかもしれない。あるいはいつの日にか、誰もが自分の信条のまま自由に物が言える時代がくるのだろうか。


「幸いなことに、今夜くらいは生きながらえることが出来そうです」
 クレメンスが手のひらを見下ろしながら頷いている。
「今際のきわに、わたしにひとつ仕事をさせてください」
 クレメンスは暗い森を見回した。
「わたしには判るのです。今、ここにはなんの危険もないことが。死人遣いが塚人を従えてそぞろ歩く夜は魔物もなりを潜めるのです。わたしが寝ずの番をしますから皆さんはどうぞ休んでください」


 クレメンスの申し出はありがたい。ルメイとフィアも歩き通しで疲れているはずだ。思わず話し込んでしまったが交代で休みを取らねばならない。
「明日も長い道のりになりそうだ。クレメンスと俺で最初の番をするから二人は寝てくれ。眠れなくてもいい。横になって体を休めてくれ」
 ありがたい、と言ってルメイが伸びをした。
「今なら眠れそうだ」
 ルメイはそのままキャンプの中で横たわった。フィアがその体に毛布をかけている。


「おじさま、色々とありがとう。お言葉に甘えて横にならせてもらう」
 床代わりに敷いた帆布を叩いて柔らかな場所を探してからフィアも横になった。毛布を肩まで引き上げる様に疲れが見て取れる。クレメンスがなにか言いかけたが、俺はかまわず立ち上がって焚火に薪を足した。勢いのもどった炎を見つめながら、こんなに静かだと俺も寝入ってしまいそうだ、と思う。周りを見渡してから元いた場所に戻って石に腰掛ける。


 夜の森にはなんの気配もない。俺は手持ち無沙汰に細枝を指で回しながら、クレメンスの頭上に現れた細長いアーチ型の窓を眺めた。縦横に黒い細枠が走り、その中に色づけされたガラスがはめ込まれている。その色とりどりのガラスが一枚の絵を仕上げている。鎧姿の騎士やケープをまとった僧侶が折り重なるようにして天を仰いでいる。空から降りてきた天使を見上げているのだ。天使は白い翼をひろげ、日輪のような後光を発しながら軽やかに浮かんでいる。


 どんな場面かは知らない。だが見るうちに、この世知辛い世界を救うために遣わされた使者なのだという気がしてくる。下界に描かれた人々がそういう目をして天使を見上げている。天使は無垢な赤子のように描かれているが、動かしがたい力を秘めているのだ。俺はこの窓を何回か見たことがある。王権と教皇の関係がぎくしゃくした時、親書を携えた大臣に何度か随伴したことがあるからだ。クレメンスがこの窓を思い浮かべているということは、彼も王都の大聖堂へ行ったことがあるのだろう。飾り窓はそれ自体がなにかの救いであるかのようにうっすらと輝いている。両肘を足にのせて俯いているクレメンスが何を思うのか判らないが、皮肉な図だ。


「わたしの頭の上に何か見えますか?」
 クレメンスが顔を伏せたまま問うてくる。俺がじっと見つめているのが判るかのようだ。あるいは本当に判るのかもしれない。そもそも目玉のあるべき場所に暗い穴しか持っていないクレメンスがどうやってこの世界を見ているのか、俺には理解できない。
「見える。教会の窓だ」
 心なしか飾り窓の色合いが濃くなった気がする。死体となった男は何度かゆっくりと頷いている。
「さっきルメイ殿の心の窓が見えた。あなたの力なのですか?」
「そうらしい。というのは、俺にもよく判ってないからな」
 クレメンスがちらりと俺を見た。返答があまりにも言葉足らずのようだ。
「つい先日、街に持ち込まれていたニルダの火に触れた。それで龍のちからを授かったというんだが……」


「そういうことがあるのですね。死んだ後にも奇跡がみれるとは。この世は神秘です」
 自分でもよく判らないことについて長舌をふるう羽目になるかと思ったが、クレメンスは説明してくれとは言わない。
「どうかソフィア様を守ってあげて下さい。この広い世界で味方はあなた方だけです」
「……そうだな」
 頷きながら、俺にそんなことが出来るのかと思う。シラルロンデから地下道を通って街まで戻る。その間に玄室のどこかで帳簿を回収する。それを誰に託せば良いのだろう。王国のどこかにバイロン卿の息がかかっていない人間がいるのだろうか。もしそういう奇特な人がいたとしても、俺には何のつてもない。


 今さら後悔しても始まらないが、もう少し世俗の利にさとい生き方をすれば良かったと思う。
 近衛にいた頃、俺のまわりには少なからぬ数の貴族がいた。自分で編成できるようになってからは部下には平民を用いるようにしてきたが、他の隊長のやり方に口出しするわけにはいかず、毎日のように貴族の子弟たちの顔を拝んでいた。自分たちが高貴な生まれと信じて疑わない連中のただなかに、唯一の平民出である俺がいた。金ぴか鎧を夢みていた少年の頃には知らなかったのだが、王宮に詰める近衛には貴族の次男や三男があふれているのだ。


 連中はいつも顔を寄せ合っては話し込んでいた。満足に剣を振るうことも出来ない軍人が、ご大層に派閥に分かれて徒党を組んでいたのだ。俺は相手にされなかったが、思い出すにつけ気分がわるくなる。役者のような流し目、指を立てて注意をひく様、腰に手をあてて小首をかしげ、つくったような声で笑う男ども。そうした陰謀めいた集まりの後で、装備や消耗品の仕入先が変更になることがあった。小物を扱う取引先を自分たちの派閥に属する商会に切り替えるようなことを陰で行っていたのだ。


 俺は貴族たちのしていたことを今でも好かないが、それでもそれらの行為が無意味だったとは言えない。彼らはそうして自分たちに利益を引き込んでいたのだ。王国を食い物にする形であったとしても。なんの人脈ももたない俺は無視され続けたが、それは却ってありがたかった。連中のすることに巻き込まれそうになったら、おそらく俺は取り返しのつかない言動をとって破滅したに違いない。自分の剣を過信していたのだ。剣の技などは一人の人間がもつ能力に過ぎない。今ならそれが判る。


 この世界はあくまで複雑で、簡単に語られることを許さない。
 貴族がすべていかれた連中だったかと言えば、そうでもない。例えば兵部卿モーズリー候の長男ロバート。彼は三番隊の隊長をしていた。手入れの行き届いた金髪に蒼い眼をしていつも上等な服を着ていたので見た目は完璧な貴族であった。見事な馬を所有していたし、俺のように寄宿舎ではなく召使いのいる屋敷に住んでいた。つまり、ロバートは高貴な血筋が与えてくれるものを拒んではいなかった。しかし態度がいつも落ち着いていて、自分の生まれを鼻にかけるようなこともなかった。


 ロバートを見出したのは調練の場だった。
 俺は貴族を毛嫌いするあまり爵位をもつ者をすべて敵とみなしていた。だから調練で試合をする時は特に遠慮なくやった。だが貴族たちは剣で俺にかなうとは思っていないので、まともに戦うことはしない。通りいっぺんのことをして不利となれば悠々とひく。七つの海を我が物としたうえは、この小さな池は君にくれてやろう、といわんばかりの余裕の顔つきで勝ちを譲るのだ。小癪というより他ない。


 だがロバートは違った。
 古風な流儀にこだわる貴族の剣ではなく、戦場にふさわしい粘り気のある剣の使い手だった。俺は初めロバートがどんな男か知らなかったので、生意気にもやり返してくる貴族として手加減なくやり込めた。大技にはさらなる大技で、小手先の技にはさらに鋭い小技で、力量の差を見せつけてねじ伏せたのだ。それでもロバートが諦めないので試合は長引いた。大きく肩で息をしながらロバートが降参を告げるとき、彼が兜の下で屈辱を噛みしめていると思った。胸のすく思いがして俺は暗い喜びを味わった。こと剣の戦いでお前たちの生まれが役立つことはないのだ。もちろん口にはしなかったが。


→つづき

戻る