──これは夢だな。
 王都から馬で半日ほどの街、ルーアンの安宿にいる。ほの暗い廊下で酒場の女、セシルと差し向いに立っている。壁を隔てた酒場から男たちの声が聞こえてくる。硬い靴底に踏まれ続けてくたびれた床も、脂が染みついた壁もどこか懐かしい。突き当りの小窓から差し込む西日に照らされた細長い廊下は密やかな喜びの色に染まっている。茜色に照らされた廊下を思い出すとき、いつもそこに家庭教師の黒い服を着たセシルがひっそりと立っている。それはもはや記憶に刻み込まれていて、その光景と一緒に浮きたつような甘い思いまでが心によみがえる。セシルが首を傾げたので柔らかな栗色の髪が揺れた。俺はセシルに歩み寄った。セシルの顔にはいつものように自嘲気味の微笑みが浮かんでいたが、そこに不審の色がまじった。セシルは目を細め、俺の足元から顔までまじまじと見つめてくる。


 この宿に立ち寄るときはいつも革鎧に短めのマントという出で立ちだった。王都からこの街まで貴族を送り届けるのが任務なので武器の出番はない。装備は自然と最低限のものになる。馬車の窓からこちらを眺めているやんごとなき方々に向かって、あなた様の面倒をみているのはこの通りの立派な騎士ですよと見せるための装備だ。だが思い出した。この日は金属製の胸当てをつけたままで腰には長剣を吊るしていた。死んでこいと言う命令に逆らって旧地下水路から逃げ出し、そのまままっすぐこの街まで馬を飛ばして来た。俺の人生が大きく変わった日だ。あの迷宮深部での探索を思い出すだけで動悸がする。装備がいつもと違うだけではなく、俺の顔には焦りが貼りついていただろう。


 壁一枚へだてた酒場から大声が聞こえてきた。
 建物に入ってくるとき、宿を決めて落ち着き顔の商人たちが食事をしていた。早めに仕事を終えた職人たちが杯を傾けているのも見た。追われる立場になると全員が敵に見えてくるが、冷静に考えたらそんな筈はない。近衛という組織がどんなに整っていてもこれほど早く追手が来るわけがない。しかし俺は戸口に近い壁に背を付け、そっと首を回して酒場を覗き込んだ。体の大きな男が、風体からして職人の一人だろう、笑いながらテーブルを叩いている。周囲の男たちものけぞって笑い声をあげている。追手が俺の名を呼びながら騒いでいるところを想像したが、いつもの酒場の光景にほっと一息つく。


「追われてるの?」
 セシルの掠れ声を聞いて振り向いた。セシルは栗色の髪をつまみながら黒服の胸元に腕を押し付けている。俺の顔はおそらく引きつっていたのだろう、それを見たセシルがさらに目を細くした。その瞬間、ふいに理解した。俺は脱走兵で近いうちに捕まって処刑される。呪われてしまったこの世界で本音で話せるのは目の前にいるセシルしかいない。俺にはセシル以外には話せる相手がいないのだ。嘘をつこうとして言い淀んだが、この人にまで嘘をつくのは間違ったことに思えた。
「命令に背いて逃げてきた。俺は脱走兵だ」
 セシルが胸元の拳をぎゅっと握りしめた。


 ご大層な甲冑で身を包み、重い剣を履いているのがなおさら恥ずかしかった。そんな話をされても迷惑でしかない筈だが、セシルはその一言で俺の置かれた立場を理解したようだ。まるで睨むように俺の顔を見ている。だがその瞳の奥にあるのは困惑でも侮蔑でもなかった。
「ここにいたらだめ!」
 セシルが俺の手を取り、信じられないほど力強く引いた。これまで俺がセシルを手繰り寄せることはあってもその逆はなかった。俺は手を取られたまま廊下の奥にある小さなドアをくぐって建物の外に出た。


 軒の低い家の間にできた隙間のような裏路地を縫うようにして歩いた。靴跡が残る泥の道を早足で通り過ぎた。薄暗い水路に渡した朽ちかけの板橋を渡った。あの道をもう一度たどれと言われても思い出せないだろう。俺はとにかくセシルの後を夢中でついて行った。とある小屋の前につくと、セシルは周囲にさっと目を走らせた。人目がないのを確かめてから薄い木戸を開けて俺を家の中に引き入れる。石造りの橋脚にこびりつくように密集した小屋のうちの一つで、板切れを寄せ集めて作った粗末な家だった。いや、家というにははばかられる。雨風をしのぐために板で囲っただけの住みかだ。


 一間しかない暗い部屋を見渡している間、セシルは後ろ手に閉めた戸に寄り掛かったまま息を整えている。五歩四方ほどしかない狭い場所に、ベッドと火焚き場と物を置く棚が寄せ集まっている。床が張られていない土の上に幾つか壺が置かれていて水をためてある。壁には縄がかかっていて柄杓が吊るしてある。元は貴族の家庭教師をしていたセシルがこんなにも貧しい暮らしをしていることに驚いた。戸口を見返すと、セシルは乱れた髪を頬から外に撫でつけながら恥ずかしそうに笑っている。俺とセシルの間には、板壁の隙間からさす西日に照らされた繊維が何層にも漂っている。


「わたしの家よ。ここなら暫くは大丈夫」
 呆然と立っている俺のところまでセシルが歩いて来て鉄の胸当てをこんこんと叩いた。
「これを外して」
 我に返って装備を外しにかかった。誰かが俺を探し回るとしたら、まずは甲冑姿の男を探すのに決まっている。胸鎧を床に下した手をふと止めて顔を上げ、俺のすることを見ているセシルに短くありがとうと言った。思えば今の俺があるのはセシルのお陰だ。それなのにそんな言葉でしか感謝を伝えることができなかった。後悔の念が沸き上がってくる。


 装備を解いて部屋の片隅に置くと呪いから解放されたような気になった。俺はセシルと隣り合わせにベッドに腰かけ、問われるまま脱走に至ったいきさつを話した。俺は木箱に布を敷いただけの寝床に浅く腰掛け、両膝に肘を乗せながらなんとか話に脈絡をつけようとした。そのとりとめのない話を聞きながらセシルが相槌をうってくれた。セシルが優しい言葉をかけてくれる度に自分を取り戻す気がした。俺という存在にも立場があって、ひどい仕打ちから逃げ出す権利があるように思えてきた。人に話すだけで気が楽になる。セシルと話すうちに落ち着きを取り戻していったが、俺の腹が盛大に鳴って話がとぎれた。
「お腹が空いてるのね。ちょっと待ってて」
 セシルは火焚き場に火を起こして食事を作ってくれた。狭い部屋にスープの匂いが漂い始めると、自分がひどく空腹であることを思い出した。


 二つに割った丸パンと小さな鍋に入ったスープを分け合いながら金のことを考えた。俺はほとんど無一文だった。部屋の片隅に置かれた自分の装備をじっと見つめる。
「あれを売ったら幾らかになるかな」
 セシルが部屋の隅に目を向けた。
「そうね。あれを身に着けていたら目立つから売るしかないわね」
 だが俺はこの街のことは何も知らない。装備を売るにしても誰に話をつけたら良いのか。腹を満たして眠気に目を細めていると、セシルは俺の装備を縛ってまとめ始めた。それを見ながら疲れた体をなんとか支えているうちに、いつしか眠りに落ちた。


 どれほど眠っていたのかわからない。目が覚めた時はセシルのベッドに寝かされていた。ぼんやりとした頭で部屋を見回す。隙間から漏れていた西日は黒々とした闇にかわり、油に芯を立てただけの明かりがかろうじて部屋を照らしている。俺の装備はなくなっていたので、セシルが街のどこかで売り払ってきたのだろう。その代金と思しき金が枕元に置いてある。重なったコインを指でなぞると、金貨が三枚と銀貨が五枚見えた。買い叩かれたものだなと思いつつ、セシルはここから幾らか取ってくれたのだろうかと思う。


 セシルは水瓶のそばにしゃがみこんで湯浴みをしている。静かな部屋にかすかに水の音が響いている。白くて細長いセシルの背中を眺めていると、女というものはこんなにも華奢なのかと思う。
「目が覚めた?」
 布切れをあてた腕を伸ばしたまま裸のセシルが振り向いた。
「そこにあるお金を取ってね。でも剣は必要だと思ったから」
 セシルが指さした方を見ると、薄暗い壁の角に長剣が立てかけてあるのが見えた。機転をきかせてくれて有難かった。武器があるというのはなんと心強いことか。
「それは良かった」
 俺が起き上がると、セシルは手招きをした。
「まだ温かいからあなたもお湯を使って」
 セシルは寸足らずの寝巻のような薄衣を身に着け、俺の服を脱がしてくれた。


 セシルが湯にひたした布切れを軽くしぼり、俺の体を拭ってくれている。それを取り上げて自分で体を拭こうとしたらやんわりといなされた。セシルがするのに任せているうちに、俺にとってこの夜は特別なのだという気がしてきた。こんな風に人と接するのはこれが最後かもしれない。明日には捜索隊にみつかって処刑台に引き上げられるかもしれないのだ。セシルの優しさが身に染みる。彼女は脱走兵など放っておいても良かったのだ。俺は感謝を伝えるべきだっただろうが、気まずさに押し黙った。俺は裸だったので、男の悲しいさがを隠すことが出来なかった。セシルがそれに気づいて薄く笑った。


「初めて会った時、わたしが幼馴染に似てると言ってたわね。名前を忘れてしまったけど」
 セシルが腹筋をなぞるようにして拭きながら尋ねてくる。セシルの指が股間に触れるたびに俺は目をしばたかせてしまう。
「ミシェル」
 その名を口にした途端、賑わう村祭りにそっぽを向いて川面に釣り糸を垂らしていたミシェルの顔が思い浮かんだ。肩にたっぷりとかかる栗色の髪、細い顎、たしかに似てはいるが目の前にいるセシルとは趣がちがう。思い出のなかのミシェルは田舎の健康な娘だ。あれからミシェルがどんな風に育ったか知らないが、辛苦を心に刻みながら過ごしていたならミシェルのような眼差しに近づいたかもしれない。


「もう会えそうにないわね」
 セシルが囁くように言う。俺は目を伏せ、そうだな、と答えた。王都はもちろん、古郷にも帰れない。
「東に行きなさいよ」
 セシルが俺の顔を覗き込むようにする。斜めに見上げると彼女の瞳に希望が光っている。
「この街は朝に出立する人が多いわ。明日の朝、人波にまぎれて街道をずっと東に進むの。あなたの足なら三日でカオカに着く。カオカにも手配がまわってるかもしれないから街に入るのは避けて海にぶつかるまでずっと進むの。そしたら大きな港町に着くわ。イルファーロよ」


 イルファーロ。
 その名は聞いたことがある。王の直轄地ながら多くの自治権をもつ自由な街と聞いている。セシルは冷めかけた湯で布切れをゆすぐと、遠慮もなく俺の股間を拭きあげる。俺は棒立ちになって目をつぶりながらセシルの声を耳元で聞いていた。
「あの街には冒険者があふれてる。あなたのように行き場のないお尋ね者でも暮らしていける筈よ」
 俺は昨日まで誇り高い近衛師団にいたのだ。そんな場末の街で食い詰めた男たちと徒党を組むなどということは考えたこともなかった。だが確かに、冒険者なら身分を隠したまま暮らしていけるかもしれない。剣の腕なら自信がある。もう死ぬより他ないと思っていた心がざわめく。


 セシルが優しい目をして俺の頬に触れ、ねえ、と声をかけた。
「もう会えないと思うから伝えておくわ。あなたは私に良くしてくれた。いつも私を選んでくれたし、優しく接してくれた。銀貨を何枚もくれた。私がこの家をもてたのも、これが家と呼んでいいならだけど、あなたのお陰。感謝しきれないくらい」
 俺は返答に詰まった。俺にとってセシルは、月に一、二度、この街で任務を終えた後の楽しみに過ぎなかった。
「あなたには判らないと思うけど、あなたが酒場にきて真っ先に私を探してくれるのが私の誇りだったのよ。いつも身綺麗にしてる若い騎士様だもの」
 セシルが屈託なく笑うのを初めて見た気がする。
「……もうそれもおしまいだけど」
 セシルの笑顔に寂しさがにじんだ。俺は目をそらせて俯くしかなかった。


「あなたは生き残って」
 セシルが珍しくしっかりとした声で言う。
「今日が最後と思って、一日一日を生き抜いて。そしたらいつか運命の変わる日がくるかもしれない」
 セシルが寝巻を脱いで壁際に立ち、垂らした両腕の手のひらを見せている。
「あなたは明日死ぬかもしれない」
 そのまま背中に腕をまわしてくる。
「でも今夜はまだ生きてる」
 セシルのすべらかな肌に触れると、たまらない甘美が俺を包み込んだ。生き抜いてやる、という思いが心の底から沸き上がってきた。俺は興奮に肩で息をしながら、いいのか、という意味の目線でセシルを見た。セシルは目を閉じて寄り掛かってきた。


 気が付けば俺はセシルを抱きしめたまま壁に押し付け、その髪に顔を埋めていた。もう何も考えることができなくなった。熱病にかかったように、濁流に呑まれるように、俺は無心でセシルをかき抱いた。セシルの鼓動が胸に伝わってきて、彼女の荒い息が肩にかかった。上体を反らしてまどろむようなセシルの瞳を覗き込んだ。セシルが首を傾けたのでその唇に唇を重ねた。口を吸いあっているあいだ、上唇に互いの息が熱風のように吹きつけた。俺は巌のようにひとつの塊となり、セシルはどこまでも柔らかく温かかった。



(つづく)

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