水音で目が覚めた。
 体を起こして薄目を開けると、跳ね上げ窓が開けられていて、払暁前の弱い光が寝床に射しこんでいる。空は沈んだ藍色に染まり、太陽が昇るのを待っている。ルメイは向かいの壁際で毛布を被って寝ているが、フィアのいた場所にはシーツの凹みが残されているだけだ。
 フィアは部屋の隅にある水瓶の水をすくってタオルを濡らし、顔を拭いている。刻々と明るさの増してくる部屋にいると、暗がりの中で起きた昨夜の出来事は遠い昔の事のように思われる。だがシーツにはフィアが流した涙の跡がある。
「おはよう、フィア」
 フィアはタオルをずらして俺を見ると、おはよう、と返してきた。その目が少し腫れぼったい。


 鶏が時を告げた。
 昨日気付かなかったが、敷地のどこかで飼っているのだ。俺は寝台から梯子伝いに下りて木の床に足をつけた。床はひんやりとしていて、足の裏にざらついた感触がある。衛兵たちが日の出とともに日課を始めるから、その前には出発してくれとコルホラ隊長から言われていたのを思い出した。
「ルメイ、起きるんだ」
 寝台の方に声をかけると、ルメイが上半身を起こして大きく伸びをした。
「おはよう、お二人さん。いい朝だね」
 おはよう、と声を返すフィアは既に装備を身に着け始めている。ルメイは寝台の上で身を捻って窓の外を覗いた。そしてシーツについた手をはっとして引っ込めた。
「フィアはお漏らしをしたな」


 フィアはちょうど腰ベルトをぎゅっと締めたところで、ベルトループをポンポンと叩いている。
「殿方が二人とも先に寝てしまうから、枕を濡らしたのよ」
 フィアは気にする様子もなく、そう言い返しながら短剣を腰に吊るしている。ルメイは暫くシーツを見下ろしていたが、まだ眠そうな顔をしたままこちらを向いた。
「もし君たちが、俺が寝ている間に何と言うかその、男女の営みを──」
「いいから早く起きて準備をしろ!」
 俺が急かすと、ルメイがはいはいと言いながら慌てて寝台から下りてきた。梯子の下でよろけてフィアの笑いを誘っている。


 ルメイが身支度をし、毛布を畳んで水筒に水を詰め終わった頃、ノックの音がして扉が開いた。
「ああ、寝床はそのままにしておいていい」
 ドア枠に片手をついて立つコルホラ隊長が、シーツを直しているフィアに声をかけた。
「おはようございます。いい寝床でした」
 守備隊長は相当な早起きらしく、寝起きには見えない。俺たちの挨拶に笑顔で肯きながら部屋の中を見回している。
「もうそろそろ隊員たちが起き出してくる。忘れ物はないかな」
「大丈夫。準備万端です」と俺は言った。
 コルホラ隊長の後をついて彼の居室を通り抜け、階段のところまで歩いた。


 起きたばかりの体にはきつい、急な角度の階段を下りると、見晴らしのよい場所に出た。頭上の櫓を支えているのは柱と筋違だけで、三方に丘陵の連なる荒地が見渡せる。太陽が東の地平から顔を出しかけていて、地平が明るく光っている。そのまま一階へ降りてしまうのが惜しくて、俺たちはしばし目を細めながら雄大な景色を見渡した。コルホラ隊長が俺の隣に立って腕組みをする。
「昨日は一人で喋ってしまったな」
 何を謝ろうとしているのか判らない。
「長いこと君たちのような冒険者が来るのを待っていた。どんな風に話をするか、そればかり考えてきた。それは私の頭のなかで一冊の台本になっていたんだな」
 なるほどと思う。考える時間はたっぷりとあったのだろう。
「自分の話ばかりして済まなかった。君たちの冒険を聞いておけばよかった」
「隊長の話、聞き甲斐がありましたよ」
 コルホラ隊長がすっと顔をあげた。苦い物を舐めたような顔をしている。
「弟の件、頼む」
 判りました、としっかりした声で答えると、コルホラ隊長は先に階段を下りていった。


 門のところまで歩いてくると、おーいと声をあげながら足音高く走り寄ってくる衛兵がいる。副隊長のドミトリが俺たちを追いかけてきた。
「良かった、間に合った」
 ドミトリは立ち止まって大きく息をつきながら、麻布の包みを手渡してきた。
「パンだよ。朝飯にしてくれ」
 俺は驚いた顔をして、いいのかいと尋ねた。ドミトリは機嫌の良さそうな顔に笑みを浮かべて肯いた。
「ありがたい」
 俺は包みを受け取ってドミトリに礼を言った。この体の大きな衛兵が料理が得意で、旅人の面倒見が良いと思うと、嬉しい気持ちになってくる。


「道中気を付けてな」
 ドミトリはそれだけ言うと、さっさと櫓に帰って行った。日課の前に起きてわざわざ朝飯を作ってくれたのだろう。門のかんぬきを外して俺たちを待っていたコルホラ隊長も声をかけてくる。
「ここから先に山賊はおるまいが、化物どもは手ごわくなる。出会い頭に気をつけることだ」
「気を付けて進みます」
 俺たちが門をくぐると、背後でかんぬきが閉められた。門扉の影から出ると、地平からすっかり離れた太陽が荒地を明るく照らしている。


 つづら折りの坂道を下りていくと、崖下で作業をしている二人の衛兵に出くわした。シャベルで灰を捨てる穴を掘っている。俺たちが道なりに近づいていくと二人ともこちらに気付いたが、どうにも雰囲気が悪い。挨拶もなしに崖下からのっそりと道の真ん中に出て来て、薄ら笑いを浮かべている。昨日、食堂でフィアをからかった銀髪の優男と栗毛の大鼻野郎だ。
「ずいぶんと早い出発だな。昨日の夜はよく眠れたのか?」
 シャベルを地面に刺した優男が道を塞ぐように立ち、にやけた顔で俺を見ている。俺は立ち止まって表情を隠した。最後に嫌な思いをすることになりそうだ。
「世話になったな。今日は遠くまで行く予定でね」
 優男の脇を通り抜けようとしたら、大鼻野郎が回り込んで立ち塞がった。二人とも軽装ではあるが胸当や小手を装備していて、腰に短剣を吊るしている。まさか抜くまいが、武装している者同士がこういう雰囲気になるのは疲れる。腹の一物は仕舞ったままやり過ごしたいものだ。


「あの寝床に三人は狭かったんじゃないのか?」
 大鼻野郎も意味ありげに笑いながら俺を見ている。よく見ると二の腕に筋肉がついていて、それなりに鍛えているらしい。こいつらは何がしたいのかな。俺たちを殺すわけにもいくまいし、俺もこいつらを殺すわけにいかない。
「ちょっと狭かったけど、いい寝床だったわ」
 フィアが自然で朗らかな声で答えた。いやらしい言葉が聞こえなかったかのような態度で、からかっている積りの二人が真顔になった。いささか傷ついたようだ。そういう言葉をかければ、女はぷりぷりして口を尖らせるものと思っているらしい。
「山賊に会ったときは女を囮にするのかな?」
 銀髪の優男が娼婦を見る目付きでフィアを見ている。冒険者が連れ回している慰みものの女をわめかせたい様子だが、フィアは動じることもなく涼しげな顔をしている。俺は自分の心が表情に出ないように気をつけたが、おそらく据わった目をしているのだろうなと思う。


 これが俺たち人間というものだ。
 俺は無表情に優男の青い瞳を見詰める。身勝手で傲慢な為政者に人生を狂わされたという意味では同じ立場ではないか。それどころか、バイロン卿憎しと意気投合してもおかしくない間柄だ。だがそうはならない。弾圧された者同士でいがみ合う。不正をして巨利を得ている奴がいるのに、虐げられた人間同士で争うのだ。
 優男が急に身構え、シャベルを手放して短剣の柄をつかんだ。優男を見た大鼻野郎も慌てて短剣の柄を握る。
 うっかりした。剣を帯びている時に、微動だにせず黙って相手を見続けるのは、お前を殺すというサインだ。


 ルメイが俺の腕を押さえた。振り返ってみると、ルメイは眉根を寄せて首を横に振っている。間違っても先に剣を抜く積りなどないのに、これでは俺が事を荒立てようとしているみたいではないか。
 俺はもう一度二人の衛兵を見た。
「昨日の夜、人数が多くて名前を覚えられなかった」
 優男と大鼻野郎は緊張で目を細めている。短剣の柄から手を離さない。
「あんたの名は?」と言って銀髪の優男に顎をしゃくる。
「エリオット・カルヴァート。父はサウサリア公だ。その辺に落ちている冒険者とは違うぞ」
 なるほど立派な家柄だ。サウサリア公は南部諸侯のうち最古参で、忠義の人として知られている。バイロン卿の専横を拒んだのかもしれない。しかし古式ゆかしい名門を誇っても、王宮で実権を握るバイロン卿とは勝負にならないだろう。その煽りを受けてカルヴァート家は一族郎党そろって憂き目を見ているに違いない。


 あんたは? と言って大鼻野郎を見る。
「オリヴァーだ。父はルナハスト将軍の側近コーエン隊長。生意気な口をきくと手を切り落とすぞ」
 大鼻野郎は鼻息が荒い。ルナハスト将軍はデルティスの変の折、事態を掌握して取り仕切る役目をバイロン卿と争った。王暗殺の舞台となった閲兵式を執り行っていたのは将軍だったのだから、混乱を収拾するのもルナハストの役目だった筈だ。下手人のデルティス公が捕えられており、貴族を裁くのは宮廷裁判によると強弁されて薬師卿のバイロンに一歩譲ったのがルナハストの運の尽きであった。その後、なし崩しに将軍職から下されてしまっている。
 ルナハストは千万の兵を指揮する武人ではあるが、国軍の指揮官から外されてしまったら辺境の小領主に過ぎない。ましてその側近の家系となれば、病んだ木に住む栗鼠のようなものだ。


「俺は生意気な口などきいていない」
 それを言葉にした瞬間、怒りが湧きあがってきた。
「俺は生意気な口など一度もきいていない。昨日の夜、食堂でお前らにからかわれた時、俺は我慢してフィアを仲間だと紹介した。ついさっきおかしな挨拶をされた時も、世話になったと礼を言って通り過ぎようとした。ところがお前らはこうして道を塞いで、剣の柄に手をかけている」
 目の前に立っているエリオットを睨む。自分の瞳の上半分が目蓋で欠けて半円になっているのが判る。俺は大声を出してはいないが、込み上げる怒りは伝わっているようだ。優男のエリオットは剣の柄から手を放した。大鼻野郎のオリヴァーはなお固く剣を握り締めている。
「そういう物言いが生意気だと言うのだ」
 オリヴァーが軸足をずりっと動かした。


 この大鼻野郎は剣の間合いに立ち、柄に手をかけ、腰を落としている。斬りますよと言っているようなものだ。抜き打ちの技を持つ者同士なら鍔迫り合いをしているのに等しい。オリヴァーの剣が届く範囲、俺の右上半身が火で炙られるかのようにジリジリする。こいつは戦場を知らないのだ。どうしてもと言うなら死なない程度に揉んでやるしかあるまい。
 俺は腰を落とし、左手を鞘に添えて傾け、腹の前に突き出たバスタードソードの柄にそっと右手を乗せた。
「いいだろう。俺が尻尾を巻いて逃げ出さずになぜここで踏ん張っていられるのか、剣で教えてやってもいい」
「なんだと!」
 オリヴァーが気色ばんで短剣の柄を握り直した。エリオットは目を細めて俺の顔を見ながらすっと後ろに下がった。
「俺は先に抜かんから、坊ちゃんたち二人が先に抜くと良い」
 エリオットはさらに後ろに下がった。オリヴァーが顔を赤くして短剣を抜き、こちらの小手を打ち据えてきた。


「オリヴァー待て!」
 優男のエリオットがそう怒鳴った時、オリヴァーが突き出した短剣は強かに打ち下ろされていた。オリヴァーは前のめりになって、俺が水平に構えた剣の先を見詰めている。ここが戦場ならオリヴァーは死んだ。だが勿論、俺はこの剣を突いて衛兵を殺すわけにはいかない。
「済まなかった。二人とも剣を納めてくれ」
 エリオットが制止の手を出したまま、剣を納めろ、と更に押し殺した声で言う。オリヴァーがしぶしぶと剣を納めた。俺も剣を納める。背後でルメイとフィアがほっと息をつくのが聞こえた。
「あんた、近衛にいたな?」
 まずい、と思うのが一瞬だけ顔に出た。それを打消し、俺の顔をまじまじと見ているエリオットをぐいっと上目遣いに見返した。


「昨日の夜からずっと思ってたんだ。どっかで見たことがあると」
 俺は、はいともいいえとも答えず、頭の中で小さな独楽を勢いよく回す。こいつはどこで俺を見たのだ。俺の名が手配書にあることには気づいているのか。最悪、手傷を負わせて逃げなければならないか。それだとルメイとフィアにも迷惑がかかる。
「オリヴァー、恥じることはないぞ」
 オリヴァーが判らないという顔をしてエリオットを見た。
「近衛の隊長だよ」
 取り敢えず俺はここまで頷き一つしていない。エリオットが確信をもっているなら、俺は何らかの理由でその通りと即答しないでいることになる。小さな独楽はさらに速度を増して回り続ける。


 トロワ離宮の竣工式だ。
 あの日、デルティス公が王家のために造営した離宮の完成を祝って、王侯貴族が大勢トロワに集まった。俺が諸侯の前で儀仗を務めたのはあれきりだ。あの場に、サウサリア公がいた。おそらく息子を同伴して。
 何年前の話だ。人違いだと言って通じるだろうか。六年前か? よく思い出せない。思い出すことと言えば、花壇に囲まれた引き込み道に集まった王家や貴族たちの礼服を、眩しいほどの陽光が鮮やかに照らしていたことだ。
 陽射しを嫌って王はすぐ退席してしまったが、その場に残ったデルティス公が諸侯の相手をしていた。見栄えのする離宮を褒めそやす声を聞きながら、鷹揚に頷いていた。そのすぐ後ろに、デルティス公の長男カールがいた。純白の礼服に身を包み、金の剣を提げ、少年と言うにはあまりに落ち着いた物腰であった。


「……こんな所で何をしてるんだ?」
 エリオットがさらに目を細め、不審そうに俺を見ている。近衛の隊長が冒険者に身をやつしていたら怪しむのが当然だ。さあ、俺は何と答えるか。いっそ知らぬ存ぜぬを通した方がいいか。
 エリオットの目が見開かれ、その青い瞳に理解の色が現れた。右手が再び剣の柄に伸びそうになるのを何とかこらえる。
「あんた、王の耳だな?」
 俺の頭の隅で回っている独楽が、焦げ臭い白煙を立ち上らせる。


 この世の春を謳歌しているバイロンは、薬師卿という職に就いている。
 侍従、侍医、近衛、宮廷裁判などを取り仕切る王宮の重職である。王の身辺を守るのがその役目で、「王の耳」と呼ばれる密偵たちも抱えている。
 エリオットはその辺りの話を父親であるサウサリア公から聞き及んでいるのだろう。そしてその程度の知識で、バイロン卿配下の近衛兵が単独で辺境を探索しているのを、「王の耳」として働いていると勘違いしているのだ。近衛は顔が割れているから密偵など出来る筈もないのだが、そこまでは考えが至らないのだ。俺は白を切るのは無理と諦めた。
「王の耳ではない」
 俺はエリオットから目を逸らして答えた。という事は、近衛にいたことは認めたことになる。背後から、ルメイとフィアが無言で問い詰める気配が迫って来るが、今は何も言わないでおいてくれ。更にややこしくなるだけだ。


「それなら、近衛がこんなところで何をしているのだ?」
 エリオットは再び目を細めながら、王の耳だったとしても、はいそうですとは言わんだろうな、と言う。
「もう近衛じゃない」
 即座に否定して、意を決したようにエリオットを見た。ここまでずっと手配の話が出ないということは、この優男は手配書を一枚一枚見て覚えようなどという気がなかったのだ。
「自分たちだけがひどい目にあっていると思うなよ」
 エリオットもオリヴァーもわずかに首を傾げたまま黙っている。ある程度は本当のことを言わなければ、この場を切り抜けることは出来ないだろう。
「櫓に長いあいだ留まっている衛兵がいる話をコルホラ隊長から聞いた」
 エリオットもオリヴァーも顔色を曇らせた。


「俺にはそれが誰の仕業か判る」
 敢えてバイロン卿の名は出さない。
「俺もそいつに楯突いて、全てを失ったからだ」
 エリオットが得々と頷く。オリヴァーは依然として判らないという顔をしている。オリヴァーは眉をしかめたままエリオットを見るが、エリオットは俺を見ながら一歩踏み出してきた。
「そういうことか。済まなかった」
 エリオットが急にくだけて俺の肩に手を乗せてくる。俺は内心の苛立ちを隠した。だからと言って与しやすしと思われるのは癪だ。お前がフィアに向けた侮辱は消えない。そしてそっちの肩は痛いほうだ。


 エリオットとオリヴァーは穴掘りに戻った。
 俺は先に立って道を急いだ。後をルメイとフィアが黙ってついてくる。幸い手配されていることまでは露見しなかったが、俺がかつて近衛にいたことはばれてしまった。二人ともいい大人であるからして、衛兵たちの視線が届くところで立ち止まって声をかけようとはしてこない。しかし無言の重圧というか、心に仕舞い込んでいる問いが膨らんで俺の背中を押してくる気がする。
 どこまでも続くように見える荒地。
 もはや人の通る道も遠目におぼろに見分けられるのみで、今自分の歩いている場所が道かどうか判然としない。どこか水を補給できるような場所はあるのだろうか。


→つづく

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