背後で二人が同時に立ち止まった。
 振り向くとルメイとフィアがじっと俺を見ている。カオカ櫓はまだ遠くに見えているが、崖下で穴を掘っている衛兵たちはすっかり視界から外れている。俺は脇にある大きな岩を指差して、ここで朝飯にしないか? と小さな声で言ってみた。腰を下ろして何か食べるのにちょうど良さそうだと思ったからだ。食べる以外に、座ってゆっくり話をするのにも。
「何か言うことがあるんじゃないのか?」
 ルメイが飯の話についてこない。
「セネカ、ちゃんと説明して」
 フィアは腕組みをして突っ立っている。
「判った。でもこんな所で立ち話は勘弁してくれ。飯を食いながら話すよ」
 俺は背嚢を足元に置いて岩に腰かけた。隣にルメイが座って背嚢を脇に下ろした。フィアは隅っこにちょこんと座って荷物の中から水筒を引っ張り出している。


 ドミトリから貰った朝飯を麻袋から取り出して二人に回す。握り拳より一回り大きな丸いパンに切り込みを入れて具を挟んであるようだ。木肌色に焼けたパンの皮には胡麻が振ってある。かぶりつく前に鼻の下にあてて匂いを嗅いでみると、実に香ばしい。大口を開けて頬張ると、塩気のある豚肉の味が口に広がる。これは塩漬け肉を薄切りにして軽く炙ったものだ。かじった所を覗いて見ると、玉葱の輪切りを揚げたものと、薄く焼いて重ねた卵焼きが挟んである。
「これは美味いな」
 ルメイの言葉に、フィアも口を動かしながら、そうねと相槌を打っている。
 ドミトリはこれをただ「パン」と言ったが、手間をかけて美味しい物を食わせてやろうという心意気が伝わってくる。イルファーロの宿で女主人のエリーゼが作ってくれた朝食と比べても引けを取らない。コルホラ隊長やドミトリの世話になったことは忘れずにおかなければなるまい。
 
 
 水筒の水を一口飲んでから、ちらっと二人の様子をみた。パンを食べながら俺が話し出すのを待っている気配だ。仕方ない、一席ぶつことにしよう。
「俺はブローナという村で生まれ育った」
 ルメイがしたり顔で振り向いた。
「燕麦と牧畜、山羊のチーズで知られているな」
「詳しいね。アイトックスからさらに西、中央山脈との境目にある小さな村だ。小作人を十人ほど使ってる農場主の三男だった」
 水筒にポンと蓋をして背嚢に詰める。
「男兄弟は俺をのぞいてみな親父の農場を継いだ。俺一人が家を離れてアイトックスの王立士官学校に行った」
「農家の子は普通とらない」
 親父さんが爵位でも持っていたかな、という。
「いや。同郷にハビエル将軍がいて、そのコネでな」


 フィアが両手を背中側について上半身を反らし、空を仰いでいる。退屈な話を聞かせているかなと思ったが、その姿勢のまま横目で俺を見ている。
「生まれ故郷の小さな村を俺は死ぬほど飽いた。それで、遠縁にあたる将軍に紹介状を書いてもらったわけだ」
「よっぽど気づまりだったんだろうな」
 ルメイが食べかけのパンをじっと見詰めている。田舎に生まれ育った奴ならその気持ちは多少なり判るのではないか。
「お袋に話したら、それは麻疹のようないっときの気持ちだと諭された。一家総出で家業を盛り立てていかないといけませんってな。
 でも麻疹じゃなかった。それで俺は、自分の決意を親父に話した」
「幾つの時?」フィアの声は不機嫌そうではない。良かった。
「十五だった。親父は一瞬顔を赤くしたから怒鳴るかと思った。でもなんとか目を逸らさずにいたら、暫く黙った後、俺に言った」
 ──お前は農作業が嫌いなだけの腑抜けだ。金ぴかの鎧を着て人前に立ちたいばっかりに、人殺しの学校へ行くのだ。どうしてもと言うなら手筈を整えて金を用意してやる。ただしもう二度と俺の前に姿を見せるな。今後は、生きるも死ぬもお前の勝手だ。
「厳しいお父さんだったのね」
 フィアが掠れ声で言う。


「まあ、勘当されたわけだな。お袋は泣いたけど、俺はどうしても王都に出たかった。翌朝、気持ちが変わらないうちに支度をして王都まで行く荷馬車に乗せてもらった。幌の端をめくって外を覗いてたら、故郷の村がどんどん小さくなって興奮したのを覚えてる」
 フィアが身を屈めて足元の小さな花を一輪摘み取った。
「たまには故郷に帰ったの?」
 花を指先でくるくる回しながらこちらを向いたフィアは、優しい顔をしている。
 ──でもたまには戻って来てくれるでしょ? という声がどこからか聞こえた気がした。胸の真ん中を小さく焼かれるような感じがする。目を細めて記憶の縁をまさぐるが、荒地を吹く風とともにどこかへ去っていった。空には雲が呑気に浮かんでいる。
「いや。卒業して近衛に配属されるまで帰らなかった。近衛になったら親父も許してくれるかと思ったんだが、顔も合わせてくれなかった。だから帰ったのは一度きりだ」
「それっきりなの?」
 赤い花を胸の短刀ホルダーに差していたフィアが驚いた顔をした。
「それきりだな」


 春の荒野を照らす陽が、高く上りつつあった。
 荒地とはいえ、カオカ櫓より南の地には所々地面にこびりつくように背の低い草が生えている。草があれば花が咲き、羽虫は眠たげな音をたて、空には雲雀が舞う。
 三人とも食事はとうに終えている。ここから狩場までどれほどあるのか判らないが、時間が勿体ない。
「よし。後は歩きながら話そう」
 俺は背嚢を担いで立ち上がった。ルメイとフィアも荷物を担ぎ上げた。
「フィア、シラルロンデまではどれくらいかな?」
 先に立って歩き始めたフィアが背嚢の肩帯を両手で引き上げた。
「そうね。急げば夕方までには着くかも」
 シラルロンデから狩場まではすぐだという。
「今日は距離を稼ごう」


 呪いの森を縫って流れるアリア河は、カオカ北西にある岩肌むき出しの高地にぶつかって幾つもの湖沼をなしている。そのうち最大のセレト湖東岸から再びアリア河が流れ出し、蛇行しながら海へと至っている。
 目の前に広がるのはカルディス峠につながる岩石ばかりの尾根である。わずかな土に寄り添うように緑が見えるのみで、カオカ遺跡の周辺よりさらに荒涼とした風景が続く。アイトックス、デルティス、カオカ、イルファーロといった東岸地方の分水嶺の上を歩いている格好だ。この稜線の北に流れ落ちた雨はトメリ河に流れ着き、南に流れた雨はアリア河へ往きつく。
 起伏のある尾根筋を登り降りするうちに、小さな凸凹を繰り返す竜の背を這う蟻になった気がしてくる。


 背嚢が重いのですぐに息があがってきたが、俺は話を続けた。
「士官学校にはさっきの奴らみたいな貴族の子がわんさかいたよ。俺は平民だったから軽くあしらわれたな。あまり気にしないようにしてたが、たまに頭にきて喧嘩もした」
「目に見えるようだよ」
 普段から俺を短気と言ってそしるルメイが合いの手を入れる。
「俺は連中のように親から家を借りてもらったりは出来なかったから、狭苦しい宿舎住まいだった。仕送りもないから、裏町で小遣い稼ぎをしてな。でもそれが良かったんだと思う。自然と稽古場に出入りする時間が増えて、そこで師匠を見つけた」
 尾根から見下ろすと、青みがかった灰色の斜面が滑り下りる先にアリア河の水面が見えてきた。海沿いの平野を流れるアリア河と違って急流で、蛇行しながら日陰の岩場を回り込む水流は青緑に盛り上がり、飛沫が白く飛び散っている。振り向いてみるが、崖の上に塔のように聳えていたカオカ櫓も、もうとっくに見えなくなっている。


 歩くうちに話すのがしんどくなってきた。
 師匠について技を磨き、学校を主席で卒業して近衛に配属されたことを訥々と語った。近衛になってから程なく隊長となり、師範役まで仰せつかったが、一兵卒でいられた時はまだしも、バイロン卿と直接顔を合わせる立場になるとどうにも反りが合わなかったことも話した。何度か衝突して最後には近衛にいられなくなった、という言い方をした。ルメイが不快そうに唸り声をあげる。
「バイロン卿は本当に好き勝手してるんだな」
 まあな、と言って曖昧に頷いた。デルティス城の動乱の際、女子供も全て検めよという命令を無視した。それで隊長職を降任されて死地に赴くことを命じられた。俺はその土壇場で任務を放棄した。いつかそのあたりを詳しく話す時が来るかもしれないが、今はこれ以上を話す気にはなれなかった。自分が手配されていることを、まだ隠していたかった。


「剣の扱いに慣れてるから、兵役は経験してるだろうなとは思ってたんだよ」
 ルメイがやや苦しそうな息をしている。そろそろ休憩すべきかもしれない。
「まさか近衛とはな」
「隠してて済まなかった」
「まあ、俺も商会の話をしてなかったからな」
 俺とルメイは相次いで隠し事がばれてしまったのだが、そっとフィアの顔色を窺った。華奢な体で前のめりに背嚢を担いでいるフィアは、足元を見下ろしながら含みのある笑顔を浮かべている。


「二人とも大した秘密主義ね」
 そういうわけじゃないんだよ、などと言う俺とルメイの声が重なった。フィアは笑みをさらに深くした。
「別にいいのよ。好き好んで冒険者なんてしてる筈がないものね。ところで、遠くにカルディス峠が見えてきたわ。いつもより荷物が重くてしんどい!」
 峠に祠があるからそこで休みましょう、という。
 稜線が低くなった尾根の辺りに小さく石像が見えた。それを覆っていた祠は倒壊してわずかに基礎を残すのみとなっている。近付くにつれて竈の跡や野営場所を設営した跡も見えてくる。人跡未踏のように見えて、やはり人の通り道ではあるようだ。空を見上げると、太陽はほぼ天頂にさしかかっている。俺たちは黙ったまま先を急いだ。


 カルディス峠に辿りついた。
 祠の周囲だけはっきりした峠道と、盛り上がった尾根筋が十字に交差している。そこに石像があるのだが、腰から上が欠け落ちてしまっている。もしそこから上の部分が残っていたら生身の人間の倍くらいの背丈の石像ということになるが、それが誰の像か、何のために造られたのか、今となっては知る由もない。像の表面は風雨で摩耗して、その人物がどんな格好をしていたのかさえ判らない。周囲には石像と同じ白っぽい色をした小石が散らばっている。
 その石像の台座に隣接して大きめの石を輪に並べてあるのは、この遺物を風防にして火を焚き、煮炊きをした跡だろう。周囲が見渡す限りの荒野なので人のいた気配にほっとする。


「はあ! こんなに遠くまで歩いて来るとはな」
 ルメイが荷物を置いて台座に腰かけた。猫背になって顎を出し、大きく息をついている。俺も背嚢を足元に置いてルメイの隣に腰を下ろした。フィアは竈の石を直して背嚢から調理道具を出している。
 体の線が細いフィアが中腰で振り向いて風の向きを確かめている様は、鹿が周囲を見回すのと似ている。フィアがなぜ冒険者をしているのか知らないが、髪を手入れして綺麗なドレスを着せたら見目麗しい妙齢の女性に見えるのではなかろうか。フィアよ、なぜこんな荒野をさすらっていたのか。この景色に女一人は似合わない。男の俺でさえ、この地に夜が訪れたらと思うと恐ろしい気がする。
 俺がじっと見るので、目が合ったフィアがなあに? という風に首を傾げた。
「狩場までもう少しだな」と取り繕う。
「そうね。明日の午前中には着きそう。今お昼を作っちゃうから待っててね」
 フィアが竈に屈みこみ、萎れてきた花を胸元から取って粗朶の中に差し入れた。渇いた細枝に咲く花のように見える。


 俺は悪いなと思いながら、食事の支度をするフィアを座って眺めている。ひんやりとした石像の台座に尻がつながってしまったかのようだ。今から暫くしてまた背嚢を担いでゆくのがどうにも億劫である。
「すまんなフィア。一休みしてからでもいいよ」
 フィアは既に火を起こし、水筒の水を張った小鍋が安定するように石を積み直している。傍らには捻じれた短いパスタと、褐色のライ麦パンが白い粉をつけたまま木皿の上に並べてある。
「いいのいいの。食べた後、少しだけ休ませてね」
 風が吹いて竈の火がばたばたと暴れた。ルメイが立ち上がってフィアを回り込み、風上に座り直した。ルメイは一番重い荷物を背負っていて、体は相当にきついと思う。ルメイは両膝に手をついてわずかに屈みこみ、手際よく調理するフィアをそっと眺めている。フィアがその膝を黙ったままぽんぽんと叩く。


 俺は立ち上がって自分の背嚢の中に手を入れた。小さな林檎を幾つか持ってきていた筈だ。ごろりとした手応えがあってそれを取り出す。薄い緑の地に赤い紗が混じる果実を鷲掴みにして二人に見せた。
「林檎はいかが?」
 ルメイが新鮮な果実を見て目を細めた。
「いいね」
 甘い物が食いたい気分だ、という。
 小さな林檎をフィアの傍に三つ置いた。見ていると唾が湧いてくる。フィアがこちらを見上げてにっと笑った。小さな鍋の湯がことことと沸騰し始めている。火をつけた粗朶に、細かく砕いた木炭を混ざして火力を上げている。


 俺は左手を剣の柄に置いたまま、身を反らせて周囲を見渡した。
 起伏のある灰色の岩場がどこまでも続いている。それらの凸凹は一方ではカオカの台地へ、もう一方ではデルティスの平野へと収束してゆく。西方に広がるデルティス平野とその北方に始まりつつある呪いの森は、雲の下の地平として悠々と身を横たえている。そこに、アリア河が曲がりくねって流れているのが見える。
 吹きさらしの峠を一陣の風が通り過ぎる。
 起こした火を気にして竈を見ると、フィアが鍋に入れた捻じれパスタをゆっくり掻き回しているところだ。小さな鍋で器用に煮るものだ。そこから立ち上る湯気を、傍に座ったルメイがじっと見下ろしている。


 とある感慨にがっしりと掴まれた。
 俺はこの光景をおそらく一生覚えているのだろう。ルメイとフィアと、初めて遠出をしてカルディス峠で煮炊きをしたことを。この先、パーティーがどうなるのか判らない。でも今のところ順調で、誰も知らない狩場での段取りもフィアは手に取るように判るという。オオルリコガネの甲羅がうまいこと取れたら、いい金になる。それで俺たちの暮らしが立つならば、この道を何度も往き来することになるだろう。
 俺は今、三人で辿りついて初めて見るこの景色を、何とも言えない感動のうちに静かに眺めている。実に見晴らしの良い眺めで、足元を見れば気心の知れた二人が竈を囲んでいる。将来、遠い思い出として脳裏に浮かべる光景が、眼前にひろがっているのだ。


→つづき

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