男根をそそり立たせ、あご髭を撫でているフレイ神の像。
 自分の身に起きたことをルメイとフィアに話しているあいだ、俺が思い浮かべていたのはその小さな像の姿だ。俺がまだほんの小さな子供だった頃、収穫祭の夜になると祖父は家族を自分の部屋に集めた。建て増す前のもっとも古い母屋の一室で、陽当たりもわるかったが、祖父はその部屋が気に入っていた。
 普段、家宝の像は暖炉の上に鎮座していたが、この日に限って孫たちが並ぶテーブルの上に持ち出された。その奇抜な姿を今でもはっきり覚えている。


 地面にぺたりと座り込んだように脚を広げ、片手をその腿に、もう片方の手を自分のあご髭に添えている。三角の帽子のようなものを被っていて、その先端には丸い玉がついている。はっきりと見開いた耳と大きな鼻を持ち、丸い耳朶も側頭についている。その造形に繊細さはなく、極めて原始的な印象があった。
 ところで祖父の有難い話を聞いている兄弟姉妹たちは、吹きだして笑ってしまうのを堪えなければならなかった。なんとなれば、そのフレイ神の下腹からは、蛇の頭が鎌首をもたげるかのように、これ見よがしに男根が屹立していたからだ。


 祖父曰く、我らが先祖は豊穣の神であり、収穫の豊かさに加護があるとのことである。子孫は大いに繁栄し、他の家の者が徒歩で戦場に赴かねばならなかった時も、先祖は駿馬を駆ることが出来たという。血族からはハビエル将軍のような武勇の誉高い武人もでて、これも全てフレイ神の恩恵の賜物である。居並ぶ孫一同も、一族の名に恥じぬよう人生に立ち向かわねばならない、とのことであった。
 しかし話を聞かされている俺たちにしてみれば、目の前に置かれたあられもない姿をした像の男がご先祖様だと言われても、すんなり納得する気にはなれなかった。


 一緒に呼ばれた大人たちが、祖父の高説に異を唱えることは無かった。しかし侮ることなかれ、子供といえど空気を読む力はある。
 祖父がそうした話を始めれば、なるほど彼らは一様になりを鎮め、拝聴する姿勢をみせる。しかし立ち去る間際(なんと言っても収穫祭の日は忙しい)、また始まったわ、という気配が母の顔に浮かんでしまうのは致し方ないことである。
 或いは父が、それでは私はこれで失礼します、と言って部屋を去る時(繰り返すが収穫祭の日はとても忙しい)、フレイ神の像に滑稽なものを見るような一瞥をくれてしまうのは、これまた仕方のない話である。


 街のうえに姿を現す巨大な龍。ニルダの火から授かった超常の力。時も場所も隔てた出来事を眼前に見てしまい、現実の身の回りをおろそかにしてしまう有難い能力。それが俺の望んだものではないことは忘れずに伝えておかねばならない。どうせなら鉄の鎧を引き裂く技とか、開くたびに金貨が出てくる袋をくれたら良さそうなものを、なんとも困った話である。
 こんな取り留めのない話をすんなりと納得できる筈がない。
 だが少なくともルメイとフィアは真面目には聞いてくれている。酒場で酔っ払いが戯言を言っているのを聞く顔ではない。バロウバロウが護符を光らせたり、ケレブラントの歌を聴かせてくれたのが多少は功を奏したのかもしれない。


 それでも、エルフの魔法使いイシリオンとケレブラント少年の話から、カオカ遺跡とシラルロンデを結ぶ地下道があるらしいことを告げた後、気まずい沈黙が俺たちを包んだ。
「ひとつ聞いてもいい?」
 フィアは落ち着いた顔をしていて、その横顔に蝋燭の明かりが陰影を深くつけている。フィアを見返しながら静かに頷いた。
「けっきょく与えられた宿命が何なのか、はっきり示されなかったんだけど、セネカはそれを果たすつもり? もしそうだとしたら、虫の甲羅なんて取ってる場合じゃないかもしれないけど」
 そこで初めてフィアの顔に表情が生まれた。永遠に続く狩りパーティーなどというものはない。目的を果たした時、俺たちは別れ別れになるだろう。しかしオオルリコガネを狩る目的で結ばれた俺たちのパーティーはまだ道なかばであり、ここで解散してしまうのは余りに惜しい。フィアの顔には、そういう寂しさが浮かんでいる。


「身の上に起きたことを話したまでだよ。俺は今でもオオルリコガネを狩って一儲けするつもりだ。そのために組んだパーティーだからな」
 フィアが俺を見ながら静かに微笑んだ。どんな望みも自分の力が及ばないときは諦めざるを得ないことを知っている者の顔だ。それが判っている者は、たまさか物事がうまく運んだとき、それが幸運であることを理解して味わうことができる。
「よかった。せっかくここまで来たんですもの」
 フィアは恐らく俺より年下で二十歳を少し過ぎた頃合いだと思うが、時に思わぬ大人びた顔をする。おそらく普通の若い女が経験しないで済むようなことを経てきたのだ。
「明日の午前中には狩場に着くわ」
「それは良かった。俺はおかしな麻疹にかかったみたに急に棒立ちになる時があるかもしれない。その危険だけは承知してて欲しい」
「狩場では命取りね」
 まったくその通りだ。しかし何とかなりそうだという気持ちもある。
「だがまあ、制御しつつあると自分では思ってるんだがな」


 ルメイが栗色の髪を指でくしゃくしゃに掻いてから顔を上げた。
「俺はそういう話は信じないたちなんだが、セネカとは付き合いが長いからな。こんな冗談を言う奴じゃないってことは判ってる」
 河の音もここまでは届かない。薄暗い部屋は蝋燭の火が揺らぐ音さえ聞こえそうな静けさに包まれている。ルメイが鼻から吐いた息の音が聞こえた。
「話を判りやすくするために、こう考えることにするよ。そんな説明がつかない力でも、探索に役立つなら利用しない手はないってね」
 物事をあくまで現実としてこなすルメイらしい言いようだ。
「話をまともに聞いてくれてありがとう。頭がおかしくなったと思われるんじゃないかと心配していたんだ」


「ちょっと爪先を見せてくれんかな?」
 ルメイが手をひろげてブーツを履いた俺の足を示し、悪戯っぽく笑う。
「よせよ」
 三人とも緊張を解くのが判った。古い言い伝えで、村の年寄りがよく口にする言いぐさだ。悪魔に憑かれた者は世迷い事を言い始めるという。そしてその足は、山羊の蹄になっているというものだ。
「あとほんの少しだけ、世迷い事に付き合って欲しいんだ」
 思い切って切り出すと、ルメイとフィアの顔にわずかな不安が浮かぶ。
「何をしたらいいの?」
 フィアがぴったりと合わせた膝の上に両手を置いて肩を少し持ち上げ、首を傾げている。


「俺たちは明日の朝ここを出発して、フィアだけが知っている手つかずの狩場へ行く。そこでたんまり虫の甲羅を取って、イルファーロに持ち帰る」
 ここまでは問題ないな、という風に二人の顔を見回した。ルメイもフィアも黙って頷いている。
「その帰り道、可能なら地下道を通ってみたい。今日歩いてわかった通り、峠道は勾配がきつくてモンスターも手ごわい」
 ルメイがぐっと身を乗り出した。
「地下道はどこから入るんだ?」
 フィアもたまらずという感じで口を開く。
「地下道は安全なの?」
 大きく息を吸い込み、俯いた。その息を思い切り鼻から吐く。


「判らんよ」
 突然、俺という男は信用するに値する人間なのかという問いが思い浮かぶ。ルメイとフィアを巻き込んで死地に追いやるだけではないのか? そうでないと言い切れるのか? だがこの乱れた世の中で、何を言い切れるのだ? 俺ならこうするというところを、ひとつひとつやっていくしかない。
「どこが入口か判らない。鬼蜘蛛がうろつく峠道と初めて通る地下道とどっちが危険か、それも判らない。だから例の窓を通して見てみたいんだ。何が見えるのか、何を知ることが出来るのか。実はさっきこの建物の外で、幻を見る気配が高まってたんだ。外に出て壁に触れたら、おそらくまた始まると思う」
 俺の真剣さに押されてルメイがたじろぐ。
「そんなこと言ったって、俺とフィアにそんな力はないよ」
 フィアは目を細め、口元を引き締めている。
「なにか方法がありそうなの?」


「ニルダの火から手を離すのをケレブラントが手伝ってくれた時、一瞬だけど、彼は俺にじかに触れた。その時俺は幻を見ている最中だったんだが、彼と心がつながった気がしたんだ」
「手を取りあって輪になったらいいわね」
 フィアは乗り気になっているが、ルメイはさも嫌そうに顔を歪めている。
「あまり見たくはないがな」
「そう言わずに頼む。もし駄目なら、俺が気を失ってるのを黙って見ててくれたらいい」
 フィアがさっと立ち上がり、背嚢からもう一本蝋燭を出して火をつぎ足した。
「やってみましょう」


 三人とも窓から外に出た。
 もはや黄昏時を過ぎ、周囲の廃墟やその残骸は日没の残り火に照らされてわずかに闇に浮かんでいる。フィアがちょうど良い高さの瓦礫に蝋燭を固定した。口を閉ざしたフィアの真剣な横顔が炎の間近に見え、すぐに暗がりに退いた。
「それじゃ、手を」
 俺は壁のそばに立って両手をひろげた。その手をフィアがとり、残った方の手でルメイを手招きしている。ルメイはしぶしぶという感じで手を出し、三人が輪になった。
「壁に触れずとも向こうの世界に行けそうだ」
 ルメイがびくりとして手を引こうとした。
「窓から見るんだろ? どっかに行くわけじゃないだろう?」
「カオカの遠見の丘で、俺が棒立ちになった時のことを思い出してみてくれ。はたから見ればぼんやりしてるように見えるだけだが、本人にはまるで別の世界に降り立ったかのように物事が見えているんだ」


「どうやって戻ってくるの?」
 革鎧を脱ぎ、柔らかい亜麻服姿になったフィアが俺をまっすぐ見ている。
「元の世界、こっちのことに意識を集中すれば自然と戻る。いざとなったら俺が先に戻って、大声で呼び戻すよ」
 ルメイはどうにも落ち着かない顔をしている。
「こういうのは苦手だなあ」
「俺もこのことに詳しいわけじゃない。でも向こうの世界では、俺はただの傍観者だった。見たり感じたりするだけで、影響を与え合うことは出来ない感じだな」
 俺は足場を固めて二人の手を強めに握った。
「それじゃ、目をつぶって深呼吸をしてくれ」
 二人が目をつぶるのを見届ける。蝋燭の明かりに照らされた廃墟の一画で、三人の男女が手をつないで輪になっている。誰かがみかけたら、何の儀式かと訝るだろう。俺も目をつぶる。もう脳裏に窓がはっきりと見えている。


 この感覚はかつて味わったことがある。
 生まれ故郷の村に川が流れていた。十歩の幅もない小川であったが、子供たちには恰好の遊び場であった。夏の暑いさかり、俺たちは裸になって川に飛び込んだ。幼い子は草の生えた低い土手から。年長の子は岩場の上から。
 岩場といっても大人の背丈ほどしかない。しかし初めてそこに立った時、川面はずいぶんと遠くに見えたものだ。俺の後ろには悪童たちが囃したてながら順番待ちをしている。やーい、セネカ、怖いならやめとけよ! 俺は振り返って、何でもないさ、今飛び込んでみせる、とやり返す。


 ひたと川の流れを見下ろす。その、ほんの束の間。
 水の流れは微妙な凹凸を作り出し、陽光がきらきらと反射している。俺は自分に言い聞かせる。なに大したことはない、さあ一歩を踏み出せ。自分の心のなかで機が熟していくのをじりじりと感じている。実際にはほんの一息の間なのだが、引き伸ばされたかのように長く感じられる。いつ足を踏みだすかは、あくまで俺が決めるのだ。だがもう腹は決まっていて、今まさに踏み出そうとしている。世界には川面と、それを見下ろす俺しかない。


 じりじりと機が熟していく。
 何かが喉元までせり上がってくる。
 俺はとうとう、二人の手を握ったまま、何も映していない窓の中に自分から入って行った。まだこちらに残っていた意識が、ルメイが短くうなる声と、俺の手を強く握り返すフィアの細い指の感触を残した。
 大量の瓦礫に囲まれていた世界は暗転し、消え去った。


→つづき

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