月光が廃墟を照らしている。
 建物の屋根から見渡すと、地上には足元の蝋燭しか光源がない。もし誰かが潜んでいるとしても、この暗さの中で瓦礫の上を歩いたら間違いなく足を挫くだろう。ということは、俺たち以外この地には誰もいないのだ。少なくとも、人間は。
 星空と地平のあいだで小さな凹凸を繰り返しているのは、恐ろしいまでの暗さをたたえた夜の森だ。その彼方から足元まで続く暗黒のなかをアリア河が蛇行している筈だが、暗くて見えない。夜空を反射している場所だけ、光の霧が浮かぶように遠望できる。
 吹きさらしの場所に出たので、風に乗って河の流れる音が微かに響いてくる。ルメイとフィアが一緒にいるから気がまぎれるが、もし一人なら闇に押しつぶされる思いがするだろう。


 我がパーティーで最も野営術に長けたフィアが、鉤爪のついたロープの先を握り締め、塔の上部を見上げている。職人の目だ。それから足元を見下ろし、ゆるく輪にしたロープの長さを確かめている。フィアは鉤爪を大きく振り回し、勢いをつけて放り上げた。シュルシュルと音がしてロープが繰り出されていく。やがて上の方から鉤爪が壁に引っかかるカツンという音がした。フィアは鉤爪の引っ掛かり具合を体重をかけて確かめている。
「見事なものだな」
 屋根の上に座り込んで月見をしているように見えるルメイが感嘆の声をあげた。確かにうまい。俺が投げたら何回もやり直すことになるだろう。


 フィアはロープを手繰り寄せるようにして弛みを取ると、壁に片足をかけた格好で振り向いた。
「この塔が何階建てだったか知らないけど、今残ってるのは五階まで。例の壊せない黒い壁は三階部分までで、そこまでは崩れずにしっかり残ってる。でもその上の四階と五階は床が抜けて残骸だけになってるわ」
 フィアの革鎧にはロープを支持する金属の環が何箇所かついていて、フィアは慣れた手つきでそこにロープを通していく。
「わたしが登るのは塔の基部、三階の回廊部分よ。そこからカオカ櫓の火が見えるの」
 フィアはこの辺りを一通り探索しているのでさすがに詳しい。ルメイがほほうと唸った。フィアはロープを手繰って見る間に壁を登っていく。


 フィアはやがて闇に呑まれて見えなくなった。ずっと高い方から物がこすれ合う音が聞こえてくる。フィアが胸壁を越えているのだ。
「回廊に辿りついたわ。いい景色よ」
 一陣の風が吹いて声が遠のいた。フィアの金髪が風に靡く様が思い浮かんだ。
「カオカ櫓ではちょうど準備灯火を点けてるところだわ。もうすぐ始まる」
 闇に目をこらしながら声がした方に返事をする。
「気を付けてな。何かあったら知らせてくれ」
 誰もいないとは思うが、大声を出すのが憚られる。フィアが、なあに? と聞き返してきたので、同じことを大きめの声で繰り返した。
「大丈夫、辺りは真っ暗で誰もいないわ。数字を言うから、順に印をつけてね」
「わかってる。ちゃんとやるよ」


 やがて目が慣れてきて、星空を矩形の闇にくりぬく塔のシルエットが見え始めた。その巨大な質量に圧倒される。
「暗いだろう。蝋燭を持ってるよ」
 ルメイが明かりを新聞の上に持ってきてくれた。俺は比較的平らな面に新聞をひろげると、木炭を削った筆を手にして升目を確かめた。左の端に一から九までの数字が書かれた欄があり、それが一列に続いている。
 初めの欄を注視している時に、ふいに頭上から、フィアの「ひとつ!」という声が聞こえてきた。慌てて「一」と書かれたところに木炭を擦りつけた。次いで、「ふたつ!」という声がした。すぐ下の欄の「二」の字に木炭の先端を移してぐりっと捻る。新聞を置いた下側が凸凹していると紙を破ってしまいそうだ。


 フィアの張りのある声を聞きながら、しばらくは漏れがないようにと緊張したが、やがて流れ作業になった。
 昨日の夜、カオカ櫓で灯火信号を出しているところを間近で見た。俺たちはカルディス峠を越えて丸一日歩いてここまで来たのだが、あの篝火がここまで届いていると思うと不思議な気持ちになる。
 木炭の印を数十つけると、やがて最後の列にきた。そこに印をつけ終わると、塔の上からフィアの「おしまいよ!」という声が響いてきた。
「ルメイ、ロープを受け取って」
 これは胸壁から顔を出して直接こちらを向いている声だ。
「いつでもいいぞ!」
 ルメイが夜空に向かって叫んだ。


 大きな輪にしてまとめられていたロープがさらに持ち上がっていく。やがて鉤爪のついたロープの先端が壁を擦りながらするすると下りてきた。ルメイがそれを受け取ってロープを腹に一巻きすると、両手で握って腰を落とした。
「ちゃんと押さえておいてね」
 フィアの掛け声に、ルメイが大丈夫だ、と請け負っている。どうやら塔の上の角にロープを引っかけてあるようだ。やがて、フィアが壁をぽんぽんと蹴りながら滑るように下りてくるのが見えた。ぴんと張ったロープをルメイがしっかりと握り締めている。
「ありがとう。やっぱりパーティーはいいわね」
 軽々と着地したフィアがルメイからロープの端を受け取った。それを何度か振るって波打たせながら、ロープを手繰り寄せている。引っ張られた反対側のロープの端がするすると壁を上がっていく。やがてロープは全てフィアの手元に戻って来た。


 俺たちは瓦礫を伝って地面に下り、部屋の中に戻った。竈のそばに蝋燭を持ってきて書き留めた数字と符牒をフィアが見比べる。
「それじゃ、数字を拾って読んでいくわよ」
 フィアが手にした新聞を傾けて蝋燭の光を受けた。俺の付けた印が乱雑なので一瞬目をしばたかせている。
「王政に事なし。王国に大事件なし。国軍に再編成なし。宮中に人事なし。アイトックスの金貨相場、デルティス銀貨十五枚。デルティスで玉葱の出荷開始、豊作。チコルで茶の収穫開始、例年並。イルファーロの葡萄農園に褐斑病の被害、小規模。アリア河、渡河に難なし。トメリ河、渡河に難なし」
 そこでフィアが一息入れて新聞を持ち直した。


 灯火新聞を読みつけない俺には面食らうことばかり書かれている。実際に活版印刷されている表面の記事は固有の名前が沢山出ていたが、灯火信号でもたらされた記事は幾つかの選択肢を組み合わせて作る概要だけのようだ。
「なんだか興味ないことばっかり書いてあるな」
 フィアが紙面から目を逸らせて俺を見た。
「読者の半数は行商中の商人よ。長旅で野営中の商人には得難い情報源なの」
 じっと聞いていたルメイがぽつりと漏らす。
「俺は行商はしなかったからこの新聞は知らなかったけど、荒野で灯火を見上げて、こんなことまで知れるとは思わなかった」
「まして一人で夜空の下にいると、たった一言の記事から想像がひろがるのよ。わたしデルティスで玉葱の収穫を見たことがあるんだけど、……まあいいわ、セネカが退屈してる」
 フィアが話を途中で切り上げ、吹きだすのを我慢するような顔で俺を見ている。
「いや、そんなことないよ。続けてくれ」
 ばつの悪い顔をして、片手を振って先を催促した。


「今、わたしたちは暗い壁に囲まれてるけど、この壁が四方に倒れて、天井を取っ払って、春の日差しに包まれた一面の畑を想像することは出来る。青草の生えた柔らかいあぜ道に腰を下ろして、林から聞こえる鳥の声に耳を澄ませているの」
 フィアが顔をあげて遠くを見るような目をしている。俺には暗い部屋しか見えないが、フィアには何か見えているのかもしれない。エリーゼが言っていたように、フィアはなかなかの夢想家らしい。
「畑に植わってる玉葱の茎が倒れてて、それをひとつひとつ引っ張るの。ひげみたいな根についてる土を払って、乾かすのにしばらく寝せておくんだけど、甘いようないい匂いがするのよ。ああ。明日は玉葱のスープにしましょうか」
「それはいいな」とルメイが身を乗り出す。


 フィアがにっと笑い、続きを読むわねと言って再び紙面に顔を戻した。
「冒険者協会の発注内訳。退治十八件、やや減少。探索十二件、やや増加。採取三十二件、やや減少。護衛三件。その他十九件。イルファーロの雑貨相場、やや高し。鍛冶屋協会は会長選挙中。山賊の活動、活発。速報あり」
 フィアが目を細めて新聞を凝視している。俺たちがカオカで山賊と鉢合わせしたのは昨日の話だ。今日の記事に速報があるということは、連中はこのところ毎日のように人を襲っているということだ。


「チコル城址に山賊現る。ネバとイレーネ、他四名。冒険者は二パーティー十二名。死亡一名、重症一名、軽傷三名。カオカ遺跡、二枚岩に山賊現る。サッコとオロンゾ、他四名。冒険者は二パーティー十一名。死亡二名、重症二名、軽傷三名」
 フィアがきっと俺の方を見て、あいつら毎日よ、と吐き捨てた。あいつらというのはサッコとオロンゾのことだ。ルメイが片手を上げて、ちょっといいか、と割り込んだ。
「五番街の夜祭の日、イルファーロでネバとイレーネを見たって言ってたよな?」
 ルメイが俺を見るので深々と頷く。あれはその二人だったと確信している。
「連中はまさか街道をまっすぐ行くわけにはいかない筈だけど、ずいぶん手早く移動するもんだな」
「変装したとか?」とフィアが言った。


 首を捻りながら、カオカ遺跡で戦った山賊連中を思い出してみる。冒険者の振りをすることは出来るだろうが、街道で他の冒険者たちに混じればすぐに騒がれる。賞金首たちは顔が割れていて、俺たちは味方にさえ注意を怠らない。
 かといってあの連中が商人に化けられるとは思えない。粗雑な面体はいかんともし難く、言動ですぐにばれるだろう。馬車の荷台に隠れようとしても検問が厳しい。一か八かの勝負なら判るが、普段からそんな危険を冒していたら身がもたないだろう。ましてネバとイレーネは金貨千枚以上の賞金首だ。
「変装は無理だよな」
 黙って考えていたルメイがぼそりと呟く。俺もそう思う、と答えた。


 薄暗い部屋のなかで俯き顔のルメイが頬に手をあてている。疲れた顔に影がさしているので目を逸らせた。パーティーメンバーの憔悴した様子はあまり見ていたくない。
「もしも黒頭巾たちが地下道を昔から知っていて、元締めのゴメリーが山賊たちを黒鹿亭に匿ってるとしたら……」
 ルメイの言葉にフィアが顔をしかめた。
「山賊たちが地下道を使って自由に移動してるってこと?」
「そういうこともあり得るよな」
 ルメイが吐き出すように言う。ついさっき、地下道は安全だなと言い合ったのに、この様だ。街の外に一歩踏み出たら、どこにも安全なんてない。
「考えたくもない話ね」
 フィアは新聞を手の甲でパンパンと叩くと、記事は以上よ、と締めくくった。


 すまんが先に休ませてくれ、と言ってルメイが寝床の隅っこに横たわった。ルメイの荷は重いので峠道は体に堪えただろう。蝋燭の光を避けるように壁の方を向いて毛布を肩まで引き上げている。
 俺も装備を外し剣帯も取って横になったが、念のため剣を手元に置いた。咄嗟の時に腕を動かせるように毛布は胸までかけておく。帆布の下で枯葉が軋む音がした。即席の寝床を三人用に広げたので床が固く、寝心地は良くない。
 フィアは窓のあたりで、粗朶を束ねた支柱の先に細糸を結んで渡している。何かの細工のようだ。


「何だいそれは」
 手枕をしながら聞くと、フィアは手を動かしながら答えた。
「用心のために鳴子をつけておくの」
 窓から入ろうとする者がいたら、どうしても細糸に触れてしまう。フィアが鳴子を取りつけてから細糸を指でつついて見せた。ぶら下がった小さな金属片がカチャカチャと音をさせる。小さな音だが、部屋が静まり返っているので響き渡るかのようだ。ルメイが一瞬だけ眠そうな顔をこちらに向けた。
 フィアは同じものを抜け落ちた天井の下にも取りつけた。
「一人だと交替で寝ずの番とか無理だから、色々と工夫するのよ」
 フィアは外した革鎧の剣帯から短剣を取り、ホルダーから短刀も抜いてそのまま寝床にやってきた。


 フィアは俺と少し離れた位置に仰向けになって短剣を自分の左手の下に置いた。そして短刀を腹の上に置くと、その上で軽く手を組んだ。毛布は腰までしかかかっていない。
 俺はもしかしてこんな風に横になってしまわずに、せめてあと暫く起きて番をしていた方がいいのかもしれない。ここは完全に安全ではなく、俺がパーティーリーダーなのだから。ところがそうはやれそうにもない。床に着いている体の右側はまるで地面から根をはやしたかのようで、上体を起こすのさえ苦労しそうだ。なんとか意識を保っているのがやっとで、体全体を幾重にも疲労が包み込んでいる。
「眠れそう?」
 フィアが目をつぶったまま聞いてくる。囁き声だが、静かな部屋にくっきりとした輪郭をもっている。
「すぐにも」
「そう。なら良かった」


 寝入りばなの時間も空間もあやふやな感覚のなか、フィアの声が聞こえる。
「もしわたしが悪い夢を見てうなされたら、叩いて起こしていいわ。昨日の夜は御免なさいね」
 フィアは寝つけないのだ。塔に登ったりして疲れている筈だが、神経が昂ぶっているのだろうか。俺はいつもの思慮が働かず、口から無意識に言葉が出て行ってしまうのを感じている。
「お兄さんがいたんだね」
 フィアは暫く黙っていたが、やがて小さく言葉を返してきた。
「そう。殺されてしまったけれど」
 しまった。余計な事を言った。
「すまない。思い出させてしまって」
「いいのよ。片時も忘れたことはないんだから」
 フィアが身じろぎする音がする。俺はもはや限界で、瞼が重い戸のように下りてしまっている。
「おやすみ、セネカ」
 俺は口先でおやすみを返したつもりだが、声になったかどうか判らない。



   *



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