微風に揺れる蝋燭の火がほら穴を照らしている。
 暗い森で狼の遠吠えを耳にし、心胆が冷えた。慌ててほら穴まで戻って来たが、ごつごつとした凹凸のある壁には無数の影がさしていて、ここは仮の住まいにしても野趣が過ぎる。安心を求めて帰って来たにしては、どうにも落ち着かない。
 フィアが竈に薪を足して火を起こしてくれた。こういう時、火は良いものだ。ほら穴の中は明るくなり、ひんやりとした空気がみるみる温められてゆく。その明かりが壁際にある手作りの棚を照らす。そこに並んだ瓶や袋が人の暮らしを彷彿とさせ、眺めているうちに寛いだ気持ちになってきた。手狭ではあるが、俺たちの根城じゃないか。


 フィアが革袋から水を出して小鍋で受けている。甲高い水音がほら穴に響く。竈の火でさっそく夕食を作るつもりなのだろう。午後にたっぷり寝てしまったので、なんだか食ってばかりのような気がして申し訳ない。
 フィアが棚に置かれた袋を開けて一つずつ検めている。竈の炎に照らされた横顔には笑みが浮かんでいるが、いくらか眠そうであり、疲れているようにもみえる。
「料理らしい料理は今夜が最後になると思う」
 革の小手を外していたルメイがふとフィアを見た。
「食糧はまだあるよね?」
 フィアが小鍋の位置を直しながら、そうね、という。
「生存に必要な食糧はまだ数日分ある。でも野菜はもう玉葱と蕪しかないし、塩漬肉はスープを煮出すのに使うくらいしか残ってないわ」
 ルメイが残念そうに、そうかあ、と呟く。


 フィアに感謝していることを伝えねばと思った。思いは、全て言葉にしなければ伝わらない。
「贅沢は言わないよ。探索のさなかに美味い料理を作ってくれてありがとう。フィアが調理と食材の管理をしてくれて本当に助かってる」
 ルメイが伏せていた顔をぱっと上げた。
「そうだな。俺とセネカで日帰りの狩りに出てた頃は、いつも丸パンと水筒の水だけだった。それを思えば、本当にありがたい」
 フィアは量を加減しながら鍋にパスタを落としている。顔は向こうを向いているが、上機嫌のようだ。
「いつも通りにしてるだけよ」
 竈から湯の沸く匂いがしてきた。俺とルメイはフィアが蕪と玉葱を切るのを眺めながら、装備をひとつひとつ外していった。


 フィアがパスタを茹でながらハミングしている。
「フィアはご機嫌だな」
 湿地で芯まで濡らしたブーツを風通しのいい場所に立てかけながらルメイが言った。
「明日、太陽の光の下で甲羅を見るのが待ちきれない」
 ここは暗いほら穴の中だが、女が湯気の立つ鍋を覗き込んでいる図は、呪いの森にいることを忘れさせてくれる。
「綺麗なのが採れてるといいな」
 ルメイはそう言いながら、くたくたと倒れるブーツをなんとか壁際に立たせようとしている。その背後にはほら穴の入口があり、ルメイの上半身は真っ暗な森に縁どられている。ほら穴はなんとか団欒の場という雰囲気になり始めたが、一歩外に出たら得体の知れない樹海がひろがっている。


 狼の遠吠えを聞いた瞬間に感じた畏怖を思い出して闇から目をそらした。竈の方を眺めれば、フィアが髪を押さえながらパスタの茹で具合を確かめている。薪はパチパチと音をさせて爆ぜ、鍋の湯は沸騰して小気味よい音をさせ、フライパンからは塩漬肉とガーリックが焼ける匂いが立ち上っている。
 俺は装備をすっかり外して布のキルティング服姿で壁に身を預けながら、鼻歌まじりに料理をするフィアの後姿を眺めた。体は疲れ切っているが、なんとも幸福な時間が流れている。



  だれが ころした こまどりの子
  それはわたしと すずめが いった
  やどりぎの矢で おむねを さした
  ふりっぐ母さん 朝までないた



 フィアの鼻歌に聞き覚えがある。
 俺がまだ近衛兵だった頃、アイトックスにあった宿舎から裏通りを抜けて下町まで歩いて行くことがあった。晩方に敷地を抜け出して、上官たちが立ち寄らないような酒場へ行くためだ。
 裏門のそば、垣根に隙間があるところから裏通りに出る。そのまま何食わぬ顔をして急ぎ足に向かう先にはごみごみとした一画があり、そこが庶民の溜り場になっていた。お偉方が住む王宮近くの通りから離れ、商店も酒場も雑駁な造りであった。そして何より、酒の値段が割安であった。


 酒場からの帰り道、酔いを覚ますのに遠回りをして帰った。
 途中に人通りの少ない路地があって、そこを通って帰るのが気に入っていた。商人たちが住む街角で、小さな庭を持つ館が立ち並んでいた。暗い道の左右に高い建物のシルエットが浮かび、窓に蝋燭の明かりが揺れていた。夏などはバルコニーの窓が開け放たれて、鍵盤を叩く音が聞こえてくることもあった。気分が良ければ街路樹に背を預けて聞き耳を立てた。
 ほろ酔い気分で旋律に耳を澄ますのは心地よかった。音楽の素養がないので曲の名は判らなかったが、一つだけ知っていた。今フィアが歌っている、コマドリの歌だ。


 誰が殺したコマドリの子。
 改めて聞けば剣呑な歌詞だが、古くからある歌で、もはや意味は失われている。おそらくは鍵盤の稽古に飽きた商人の娘が戯れに歌ったのであろう。今でこそ判るが、俺はその幼い歌声を聴きながら、妹たちのことを思い出していたのだ。
 十五才で家を飛び出してから一度しか故郷に戻っていない。その一度の帰省の折も父は顔を見せず、俺は失意と敵意を胸に抱いて早々に宿舎に帰った。父や兄たちはともかく、妹たちとはもう少しゆっくり過ごしてきたら良かったと後悔している。
 足の届かない椅子に座って爪先を振りながら、だあれがころしたこまどりのこ、と歌っていたお下げの顔が思い出される。そういえば、自分の部屋が与えられていたというフィアは、もしかして音楽の教育を受けたことがあるのだろうか。


 手に止まっているコマドリのイメージがふいに思い浮かんだ。
 人間は不思議なもので、人生における重大な出来事の場面を忘れ去っておきながら、その周辺の何気ない光景をいつまでも覚えていたりする。
 たとえば、近衛隊に編入されてから初めて参加した馬上槍試合の対戦をすっかり忘れてしまっている。俺は駆け出しで、なんとか上位に入ろうと躍起になっていた。貴族の子弟たちはこぞって華美な甲冑に身を包み、観客たちを沸かせていた。俺のように安物の装備をつけた選手は冷笑をもって迎えられた。
 俺は反骨の塊となり、大袈裟な辞儀や立ち振る舞いで大向こうを唸らせる選手たちを黙々と突き倒した。観客席の上の方に座っていた貴族たちは、俺の無粋な試合に野次で応えた。


 柵越しに馬を走らせて突き合う一対一のジョストに恐ろしく手慣れた奴がいて、俺は決勝戦で敗れた。それでも初出場で準優勝は快挙であり、俺はそこで初めて頭角を現した。
 それら一連の試合をどんな風に戦ったのか、まるで覚えていない。よくよく思い出そうとしてみても、面覆いの下で唇が歪むほど歯を噛みしめていた感覚がわずかに蘇るのみだ。夢中だったのだろうが、それにしても記憶が薄すぎる。
 それなのに、だ。試合が始まる前、天幕の隅の小さな控室で甲冑を身に着けていた時、開け放たれた出入口から迷い込んできた一羽のコマドリのことを、俺はありありと覚えている。手の平に包めてしまうほどの大きさしかないその小鳥は、パタパタと飛んできて鎧の支柱に止まった。俺は殺気立っていた気分を緩めた。


 コマドリは人懐こい鳥で、背は小麦色で腹は白く、顔から胸までが橙色をしている。故郷でもよく見かけた。畑で仕事をしていると人の近くまで寄ってくるのだ。俺はその小さな闖入者を驚かさないように暫く息を詰めていた。それから、まだ小手を付けていなかった手をそっと伸ばしてみた。
 驚いたことに、コマドリは俺の人差し指に飛び乗った。
 その軽さと、蹴爪のちくちくする感触と、間近でチュイチュイと鳴いた声が忘れられない。黒目だけの丸い目と、下腹に生えた柔らかな羽毛が風切羽根にもこもこと乗っていたところまで、今見ているかのようにはっきりと覚えている。小さくて愛くるしいコマドリは、首を傾げながら俺を見ていた。


 不思議な感銘を受けた。
 このコマドリは自分の何百倍も大きな獣に身を預けて平気な顔をしている。コマドリを食う奴はいないだろうが、下手をしたら握りつぶされてしまうかもしれない。幸い俺はこいつを害そうとは思わないが、コインほどの重さしかないこの鳥にそんなことが判るのだろうか。
 判る筈がない。この世に生きているものたちは全て、一刻一刻を命懸けで生きている。油断した毛虫は一瞬のうちに鳥に食われてしまうだろう。毛虫の命など取るに足らないが、毛虫にしてみればそれが全てだ。今日を生きて過ごせたのだから、明日も当然生きているなどと高をくくっているのは人間くらいのものだ。


 俺の手に止まっているコマドリは、自分の命を購って好奇心を満たしているのだ。
 鳥のくせに度胸のある奴だ。ひとつコマドリ殿に伺いたい。人間の止まり木は如何なものか、お気に召して頂けたかどうか。
 馬上槍試合は怪我をしたり、死ぬことさえある。俺は初めての試合に昂ぶっていたが、この椿事が一抹の清涼を味あわせてくれた。この後、試合で倒れた俺の上にこいつが止まったら絵本みたいじゃないか。哀れなのはどっち? たやすく握り潰されてしまうコマドリ? わざわざ殺し合いの真似をして命を縮める人間?


 俺はコマドリを指に止めたまま、そっと表に出た。誰にも声をかけられないことを祈った。小鳥を相手にしているのを見られたくなかったし、どやどやと近寄ってくる連中にコマドリが追い飛ばされる所も見たくなかった。
 なみなみと酒を注いだ盃を運ぶようにゆっくりと歩いて、首尾よく天幕の裏手まで辿りついた。木立に向かってゆっくりと手を伸ばすと、コマドリは小さく羽ばたいて飛び去っていった。こんなことは全て偶然の為せる業だが、幸先が良い気がして俺は満足だった。


 料理の匂いに回想が途切れる。フィアが盛り付けた料理をルメイに手渡している。
「なんだか食ってばかりの気もするけど、お先に頂くよ」
 ルメイは食いっぷりがいい。こんなに美味そうにものを食べる男を俺は知らない。
「セネカの分も出来たよ」
 竈に火力があるので二人分作れたようで、すぐに俺にも皿がまわってきた。茹でたてのパスタにオリーヴオイルが垂らしてあり、塩漬肉とガーリックの微塵切りを焦げ目がつくまで炒めたものが乗せてある。もうもうと湯気を立ち上らせながらパスタと具を絡めた。こういう料理なら俺は幾らでも食えるぞ。一口めを頬張っている時に、フィアが蕪と玉葱のスープをカップに注いでくれた。蕪はわずかに歯ごたえがあって土の香りがする。スープを飲むと、その味と熱が喉を通って胃の腑に落ちるのが伝わってきた。


「スープのお代わりは貰えるのかな」
 鍋に残っているのを目ざとく見つけたルメイが空のカップを手に持っている。
「ごめんね、これは明日の朝ご飯にするの」
 フィアが鍋に蓋を乗せた。
「そうだったか」
 ルメイが皿とカップを片付けて竈のそばまで行った。革袋から細く垂らした水流で食器をゆすいでいる。
「明日は早起きしないとだから、多めに作ったの。でも蕪のスープは一晩おくと味が出て美味しいわよ」


 ルメイがフィアを振り返った。
「そうか、日の出に狩りをするんだから、明日は暗いうちに起きないとだな」
「そういうこと。ついでに段取りを伝えておくね」
 フィアはスープを一口飲んで目を細め、罠網を少し摘み上げてみせた。
「とりあえず今日の続きで、残った罠網をひとつ仕掛ける。それから手分けして今日仕掛けた二か所の罠網から虫はがしよ」
 ルメイが皿の水気を切りながら、虫はがしかよ、と言って笑った。
「オオルリコガネを狩るのも、今日ほど苦労しないはずよ。それが一段落したら、いよいよ甲羅を切り取って品定め」
 ルメイが食器を片づけ、俺と場所を変わる。皿を洗いながら石に腰を下ろしたルメイに声をかける。
「ルメイが鑑定できるから助かる。街に戻ったら商人とのやり取りも頼むよ」


「実は甲羅を取り外す時にコツがあって、道具を持ってきてる」
 ルメイが背嚢から何か取り出した。大工が使うノミのような刃物と、それを叩くのに使うらしい木槌だ。フィアが心配そうにその道具を眺めている。
「甲羅は持ち上げてひねれば簡単に取れるよ。そんなの使って傷はつかないの?」
「商品に傷をつけるような真似はしない。甲羅の付根にある小楯板を割るんだよ」
 フィアが顔をしかめて、しょうじゅんばん? とおうむ返しに聞いた。そういえばルメイはイルファーロの酒場でもそんなことを言っていた。ルメイはいそいそと道具を背嚢にしまった。
「まあ、明日実際にやって見せるさ。甲羅の付根の三角のところを残しておくと、あとあと都合がいいんだよ」
 フィアは暫く考えていたが、食事を終えた途端に眠そうに片目をつぶった。
「そしたら、そこはルメイにまかせる」
 語尾はほとんど欠伸に掻き消された。フィアだけが一日働き詰めなのだ。


「フィアは先に休んだらどうだ?」
 目をこすっているフィアに声をかけるが、子供のように首を振っている。
「この後、灯火新聞を読まないと」
「今日はもうお休みでいいんじゃない?」とルメイ。
「そういう訳にはいかないわ。辺鄙な場所に行けば行くほど、情報の価値は上がるの。それにせっかくお金を出したのに勿体ない」
 フィアは皿を洗っていた俺のところへきて、革袋から垂れている細い水流を両手で掬った。そのまま豪快に顔を洗う。
「おいおい! 飛沫がかかるじゃないか」
 俺が笑いながら立ち上がると、フィアはごめんなさあい、と返してタオルを探しに行った。


 食事を終えた俺たちは、新聞や炭筆、蝋燭といった道具を背嚢に詰めてほら穴の脇を登った。帆布が天井の穴を塞いでいる場所に出ると、ルメイが蝋燭に火をつけて岩場に固定した。フィアはその蝋燭から別の蝋燭に火を移し、さらに上に続いている壁の高いところに固定した。
「それじゃ、昨日と同じ要領で」
 見ると、崖の上の方に既にロープが固定してあるらしく、フィアはそれを手繰って何度か体重をかけている。
「こんな絶壁を登るのか?」
 俺は思わず不安を口にした。ルメイも目を細めてフィアを見ている。
「大丈夫。昨日と違って、登るのはほんの少しだけ」
 言うが早いか、フィアはするすると崖を登り始めた。そして身長を三つ分ほど登った辺りで小さな足がかりに体重をかけ、壁を背にして膝を折りたたんだ。ロープを体に巻き付け、もう片方の脚を虚空に投げ出している。


「後学のために良く見て」
 頭上に陣取ったフィアが地平を指差した。
「ほら穴のほぼ正面にカルディス峠の稜線が横たわってる。その先にカオカ櫓の火が見える。雨が降ったり霧が出たりして視界が遮られなければ」
 俺はフィアが言う方向を眺めた。蝋燭の明かりをまともに目にしてしまったので、ほとんど何も見えない。どこまでも真っ暗だ。
「そっちの高さからだとカオカの火は見えない。ここまで登るとぎりぎり見えるのよ」
 崖から小石がぱらぱらと落ちてくる。見上げるとフィアが足の位置を直している。今にも落ちそうに見えるが、フィアならやれるのだろう。


 暫くしてから、ルメイがおずおずと口を開いた。
「どうだい、フィア。カオカの火は見えるのかい?」
 あはは、と笑うフィアの声がする。
「まだちょっと早かったみたい」
 まだ準備灯火も始まっていないという。
「降りて来たらどうだ」
 断崖を見上げて声をかけるが、フィアは降りてこようとしない。
「このまま待つわ。落ち着いちゃえばそんなに苦しい体勢でもないの。それより、星がすごい!」
 岩場に腰を下ろしていたルメイがそのまま仰向けになり、どうれ、というのが聞こえた。ここまできて焦っていても仕方がない。俺もルメイの脇に体を横たえた。組んだ手を頭の後ろに添えて夜空を見上げた瞬間に、思わず息を呑んだ。


→つづき

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