毒矢だ。
 腰の小箱にはおそらく海綿が仕込んであって、毒が染ませてある筈だ。フィアは小さな弓を引き絞りながらさらに獲物に近寄った。もはや数歩の距離しかなく、これでは外しようがない。
 シュッと音がして矢が放たれた。
 毒矢がワーウルフの脇腹に命中した瞬間、山野に雄叫びが響き渡った。捕らわれの身の猛獣は怒り狂って唸り声をあげる。それはケダモノの肺に充満した空気が、潰れた喉を通る短い間隔の荒々しい呼吸の音だ。


 原始的な恐怖が呼びさまされる。
 それは恐らく本能に刷りこまれているのだ。狼の唸り声を身近に聴くと、あらがいようもなく心の底から恐怖が湧きあがってくる。俺は目をしばたかせ、ただ剣を構えているだけなのに肩で息をして、何度か足を踏み直した。
 この狂ったように暴れている化け物がもし縄目から出てしまったら、経験したことがないような激しい戦いを強いられるだろう。ワーウルフはもともと怪力で敏捷な奴だが、目の前にいる奴は怒りで我を忘れている。


 ふいごのように大きく膨らんだり縮んだりしているワーウルフの脇腹が、波が引くように静かになった。唸り声も止み、その口から泡が吹き出てくる。フィアは弓を背負い直して両手を自由にすると、罠のロープが固定してある木の幹まで行って結び目を力強く引いた。
 罠網ごとワーウルフが地面にドサッと落ちてきた。驚きで目をむく。こいつを地面に下ろしてしまうのか。もし罠から出てきたらどうする積りだ。俺とルメイが緊張して武器を構え直すなか、フィアが短刀を抜いて罠網のところまで慎重に近寄った。


 脇腹に毒矢を受けたワーウルフはかすかに息をしながらじっとしている。フィアが矢尻に塗ったのは麻痺させる毒のようで、手足が小刻みに震えている。動きたくても毒がまわって身動きできないのだ。狼の化け物が苦労して顔を持ち上げ、怒りに光る瞳をフィアに向けた。体全体が罠網に絡まっているので頭を完全に起こすことは出来ない。フィアはワーウルフの長い口に膝を乗せて地面に押し付けた。問答無用のやり方だが、フィアの顔にも緊張が張りついている。


 俺は様子がよく見えるように前に出た。
 フィアはワーウルフの首の後ろに短刀の切っ先を当てている。刃先が肉にめりこむと、何かを探すようにわずかに動かしている。フィアはやがてその場所をみつけ、刃がすっと差し込まれる。剛毛に覆われた化け物の四肢ががたがたと震えた。熱病の果てのおこりのようだ。錠前を開ける時のようにフィアが短刀をくいっと捻ると、ワーウルフの体からがくっと力が抜けた。首の骨の接ぎ目を刺してこじったのだ。短刀を抜くと傷口から赤黒い血がわずかに垂れた。フィアは剛毛で血を拭きとってから胸元のホルダーに短刀を戻した。


 かつてのパーティーでワーウルフを狩った時、何人もの剣士が大声を張り上げながら立ち回りを演じたのを思い出した。ワーウルフの爪は鋭く、あちこち切り傷をつくって血だらけになった。剣士たち全員がひどい傷を負いながら、命からがらワーウルフを仕留めたものだ。それがこんなにあっけなく狩れるとは。罠と毒に精通する狩人にとっては、ワーウルフも物の数ではないということか。
 フィアが獲物の息の根が止まっているのを確かめてから大きく一息ついた。その体から罠網を外して罠を回収しにかかっている。


 ワーウルフがぴくりとも動かないのを確かめると、体から力が抜けた。
「フィアはこいつを何度か狩ってるのか?」
 俺の問いにロープをまとめていたフィアが手を止めた。振り返る顔には緊張の名残がありありと浮かんでいる。
「そうね。罠で何度か」
 フィアは後ろめたそうな顔で俺を見詰めている。
「勝手に前に出てごめんなさい。でも罠にかかったらすぐに止めをささないといけないの。罠網から逃げられたら大変なことになるから」
「そうだろうな」
 そのことでフィアを責める積りはない。これだけ見事に狩ったのだ。


 ルメイが地面に伸びているワーウルフを呆然と見下ろしながら口を開く。
「フィアが使ったのは毒矢?」
 フィアが薄い笑みを浮かべた。何故か判らないが傷ついたようにみえる。
「黙っててごめんね」
 ルメイが地面から顔を上げ、首を傾げながらフィアを見返した。俺もルメイと同じく、なぜフィアが謝るのか判らない。
「毒を使うメンバーは嫌われるかなと思って」フィアは自分の両腕を抱いて頭を傾けた。「言いづらかったの」
「そんなことない。いっそ心強いくらいだよ」
 ルメイが即座に答える。


 フィアの気持ちが少しは判る。
 あちこちのパーティーに出入りしていた頃、毒を使う罠師に出くわしたことがある。毒を使う奴はたいてい孤独な面構えをして、仲間に完全に溶け込むことはなかった。パーティーもそいつが使う毒をあてにしながら、一歩引いた付き合いをした。毒使いはそれぞれに秘伝の調合を持っていて、滅多に手の内を明かさないのだ。
「毒使いは何度か見たけど、そんな強い毒を調合できる奴はいなかったな」
 俺とルメイの視線は自然とフィアの腰に集まった。以前から何か小さい箱が付いているなとは思っていたが、毒壺が入っていたのだ。さすがに毒の作り方を独学で学べる筈がない。フィアはこれらの技術をどこで習得したのだろうか。


 フィアが腰の小箱をぽんぽんと叩いた。
「ツノムシの毒を煮詰めたものに毒草のエキスを足して作るの。後で見せるわね。たいていのモンスターに効くわ」
 ルメイがしばし言い淀んでからぽつりと尋ねた。
「誰から教わったの?」
 その質問がフィアに不意打ちを食らわせたのが判った。フィアは棒立ちとなり、顔から表情が消えている。


「この短剣をくれた人よ」
 フィアが腰の短剣をわずかに引きあげた。これまでほとんど自分の話をしたことがなかったフィアが無防備に答えている。その短剣は、デルティス公の配下で、城内で執事を務めていたオイゲンが所有していたのではなかったか。ルメイがおそるおそるという感じでさらに問うた。
「今、その人はどこに?」
 フィアが軽く口を引き結び、目をつぶった。少し俯いてから目を開ける。
「わたしをかばって死んだ」
 ルメイが、それは……、と言ったきり口をつぐんだ。フィアはその人と一緒に人里離れた場所で暮らしていたのだ。そしてその人と死に別れ、それ以来一人で狩りを続けてきた。なんという孤独か。


 気まずい雰囲気になった。フィアの身の上話を聞きたい気もするが、うっかりすれば傷つけてしまいそうだ。フィアが苦しそうな顔をしているのを見て、俺は話を逸らすことにした。
「その人がフィアの師匠か。今のフィアを見れば、良い師匠だったことが判るよ」
「そうね。縄の結い方も知らなかったわたしに何でも教えてくれた」
 うっすらと笑って俺を見ている。ルメイが機敏に反応した。
「悲しいことを思い出させて済まなかった」
 フィアは儚げな笑顔のまま、首を振ってみせた。ううん、いいのよ。
「俺はオオルリコガネの捌きに戻るよ。フィアとセネカは先に休んでるといい」


 とりあえず、三人でワーウルフの死体を目立たない場所に移すことにした。俺とフィアが両手を持って引き、ルメイが両足を持ち上げて林の隅に運んだ。泡で塗れた口の周りと見開いたままの眼に早くも蠅がたかっている。脇腹に刺さった矢はすでに抜き取られていて、その辺りの灰色の毛並みに血が垂れた跡がある。
 風下の窪みに死体を置いて申し訳程度に土をかけた。弔うわけではない。拠点の近くで盛んに蠅が舞うのを見たくないだけだ。
「どこで生まれたのかしらね」
 土からはみ出たワーウルフの手を見下ろしながらフィアがぽつりと言った。俺は力の入らない声で、わからんよ、と答えた。


「不思議に思うことはない?」
 俺はしかめ顔を傾けてフィアを見返し、質問の先を促した。
「狼は自然な生き物でしょう?」
 まだ何を言っているのか判らない。首を傾けたまま目を細める。
「カリームさんの馬車を曳いていた馬も、イルファーロの畑を鋤いていた牛も、自然に由来した生き物だわ。雄と雌が交わって、子供が生まれたの。そういう仕組みを誰がつくったのか知らないけど、そうね、きっと神様がつくったんだわ」
 フィアが地面に向かって両手をひろげ、首をわずかに左右に振った。
「でもこのワーウルフをつくったのは誰?」
 俺たち三人は黙ったまま剛毛に包まれた手を見詰めた。土の下から生えているように見えるその手首は、親指とその付根が見えていて、他の指はほぼ埋もれている。俺はそれを見下ろしながら、フィアが言うようなことを考えたことは一度も無かったな、と思った。


「モンスターを倒した途端、その体が崩れてさらさらと土に戻るなら、それはきっと幻か、或いはこの世に存在するための借り物の姿だったのよ」
 フィアはその場にしゃがみ込み、俺が化け物と呼んだものの指をそっと摘まんだ。
「でもそうじゃない。この通り、ここに死体があるわ。わたしはモンスターを腑分けしたことがあるけど、鹿とか牛とか、見知った獣とほとんど同じ作りをしているの。大きさが違ったり、一部分だけ造りが違ったりはするんだけど」
 背筋がうすら寒くなった。たった一人で旅を続けながら、フィアはそんなことを調べていたのだ。


 どうしようもない違和感が俺の心を鷲掴みにする。
 ワーウルフは幻なんかじゃない。俺たちに殺されて、なかば埋められ、その動かない指をまさぐられている。蠅がたかる肉を持ち、血が流れ、確かに生きていたのだ。しかしこいつらが自然由来のものとは思えない。こいつらは存在自体が捻じ曲がっている。あるべきではないものが、目の前に在る。


 俺とルメイが立ち尽くすなか、フィアがしゃがんだまま話し続ける。
「こいつはどこで生まれたの? 子供の時代はあったのかしら?」
 フィアが俺たちを見上げてくるが、答などない。
「わたしたちが一枚上手だったから倒せたけど、こいつが賢かったらわたしたちが地面に伸びてるのかもしれない。こいつはわたしたちを倒した後、死体を見下ろして何か考えるのかしら?」


「わからん。わからんよ」
 ルメイが放り出すような声を出した。その声音は、知りたくもない、と言っている。フィアがすっくと立ち上がり、ワーウルフの死体にさらに土をかけた。
「ごめんなさい、ずっと気にしてることだったの」
「まあ、不思議ではあるよな」
 俺も小さなシャベルで土をかけるのを手伝った。やがて飛び出ていた手も見えなくなった。見えなくなれば謎がなくなるという訳でもなかろうが、気持ちは落ち着いた。


 闖入者のせいで時間を食った。
 結局、ルメイがオオルリコガネの甲羅を取り外して、俺が薄皮剥きとワックス掛けをやることになった。フィアはもう少し罠を増やしておくという。この辺りを開拓したなどと思い込むのは早計で、すぐそばまでモンスターがやってくることがはっきりした。罠を増やすのには賛成だ。
 フィア一人では危険だから手伝おうと言いかけてやめた。このパーティーで初めて毒を使い、罠師の師匠の話をして、気持ちが落ち着かないのかも知れない。一人になりたいなら、そうさせてやればいい。ここから良く見張っていなければならないが。


 幸い、虹羽根のワックス掛けは甲斐のある仕事だった。
 清潔な布に蜜蝋をとって塗り広げるのは楽しみがある。虹羽根の紋様がみるみる照り映えるからだ。それに、作業を続けるうちに手捌きが早くなった。
 午後も早いうちに全ての作業を終え、オオルリコガネ二十五体分の虹羽根、五十枚が綺麗に並べられた。罠を張り終わったフィアが戻ってきて、品物の吟味に加わった。ルメイが虹羽根についている小楯版の穴に荷札を通して番号を書き、帳面に番号を振っていく。そこにルメイの見立てをペンですらすらと書いて行く。


「わたしにはほとんど同じに見えるんだけど」
 横から覗き込んでいたフィアがそう言うと、俺も同意した。
「よく違いが判るな」
 ルメイは虹羽根の表面に文字でも書いてあるかのようにじっと目を走らせ、何度か傾けたり離して見たりしている。それからおもむろに、銀貨二十枚とか、二十五枚といった数字を書きつけている。こればかりは俺とフィアには手伝いようがなかった。


「え! ちょっと待って、これが銀貨五十枚になるの?」
 ルメイが手放した品物をフィアが慌てて取り上げた。
「粗末に扱わないでくれよ」
 ルメイが素っ気なく言う。フィアは目をこらしてその甲羅を見ているが、やがて降参して呟いた。
「他のとどう違うのか全然判らないわ」
 ルメイが後戻りしてそれを手に取り直し、仕方ないな、と言って説明を始めた。


 我がパーティーの金庫番にして鑑定役が虹羽根の表面を指の背でさっと撫でるような素振りをした。
「全体に色合いが明るいのは判るだろう?」
 ルメイが勿体ぶった上目遣いをする。いかにも通な素振りで、笑いを口の端に止めるのに苦労する。とりあえず虹羽根の表面をじっと眺めてみた。正直、判らない。
「真ん中に走る藍色の帯が他のより光沢があって、境界線がくっきりしてる」
 そう言われればそんな風に見えなくもない。
「そしてここ、真ん中あたりに金粉を散らしたような斑がある。斑入りは珍しいのさ」
 よくよく目を懲らすと確かにキラキラした部分がある。
「というわけで、これを売るなら銀貨五十枚以上でないとね」
 俺とフィアは溜息をついた。この虹羽根ひとつで、これまでの二ヶ月分近い稼ぎになる。


「そしてこれは提案なんだが、この中から半分くらいを選って持ち帰ることにしないか?」
 俺とフィアはルメイの説明に耳を傾けた。
「虹羽根は擦れると価値が下がるから、背嚢の中に詰め込むだけ詰め込んで運ぶわけにはいかん。木の枝で天秤を作って、そこに吊るして運ぼう」
「それは妙案だな」
 ルメイが悪戯っぽく笑った。
「だろう? だが傷をつけずに運ぼうとするなら数は運べない」


 旅路の様々な難関を思い出した。天秤に虫の甲羅をぶらさげた状態で湿地の水溜りを飛んだり跳ねたりしなければならないのだ。
「狩りをする前からあったんだと思うが、傷がついてるのもある。そんなのを無理して運んでも仕方ないから、ほら穴の中に仕舞っておこう。持って登るのは難儀だけど、さすがに雨ざらしにしておくのはしのびない」
「そうだな。品定めは任せる」
 さっそくルメイが値踏みをして、街に持ち帰る虹羽根と置いていく物を分別した。


 俺とフィアが見積もりの金額に一喜一憂するなか、値打ちがある品物として二十六枚の虹羽根が選り分けられた。ルメイの見立てによればしめて銀貨六百八十枚になる売り物だ。当て推量でもその額を聞けば興奮する。俺とフィアは鼻息荒く顔を見合わせて拳をぶつけ合った。そのままルメイとも拳を合わせる。
 空を仰げば快晴に近い春の陽気で、俺たちは虹羽根のうちの上物を、防水処理した帆布に包んで崖下の岩の窪みに隠しておくことにした。明日の朝に取り出して天秤に提げ、街に持ち帰るのだ。


 残りの二十四枚を手分けして背嚢に詰め、三人でほら穴まで持ち上げた。もう大金を手にしたような興奮が俺たちを包んでいた。昼とはいえ竈の火が落ちてほら穴の中は薄暗い。ここに残していく虹羽根の置き場所としては奥の窪みがいいだろう。俺は背を屈めて暗がりの中に入った。
「ちょっと待って!」
 フィアが止めるので何事かと振り向く。腰を上げた瞬間、湿気たものが俺の視界を塞いだ。何者かに目隠しをされたようだ。肩がびくんと震え、ひゅう、と喉がなる。


「何かいるぞ!」
 咄嗟に剣の柄を掴むが、ここでは狭くて抜き放てない。逆手に短刀を抜いて身を屈めると、火のついた蝋燭を手にしたフィアが狭い窪みに入ってくる。
「落ち着いて、セネカ。よく見て」
 フィアが何故か顔を赤くしている。入ってきたらだめだと叫ぼうとして、思わず天井からぶら下がっているものを見た。フィアが洗濯したパンタレットが干してある。


→つづく

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