なにか悪い夢を見た気がする。
 岩盤に枯葉を敷いて帆布を乗せただけの床で、体を丸めて寝ていた。毛布をめくって上半身を起こすと青黒い夜空が見える。床が硬いせいか手足にこわばりが残っている。ポキンと音がするまで首を捻り、上半身を起こして伸びをする。ルメイとフィアはまだ寝ているようだ。二人とも毛布を肩までかけて静かに寝息をたてている。


 床から起き出して入口の壁に手をつき、暗い森を見下ろした。黒々とした森はまだ眠っているように静かだ。そこで数えきれないほどの命が朝を待っている筈だが、それぞれに沈黙を守っている。夜空の星は瞬きをやめて霞んでいるが、東の空がまだ明るくなっていない。夜明けまではまだ間がありそうだ。鳴子の音がしないか耳をそばだてるが、なんの気配もない。


 眠れそうにないので竈の前にそっと腰を下ろした。灰を手探りすると底の方にまだ小さな赤い火種が残っている。ほぐして玉にした麻の繊維をそばの棚から取ってそっと火種に乗せる。橙色の炎がふわっと立ち上がったので、そこに焚き付け用の細枝を寄せる。やがてパチパチと音がして薪が燃え始めた。じっと見下ろす顔に乾いた熱が伝わってくる。炎が揺れるたび、洞窟の壁に小間物の影が踊った。


 手に取れる場所に蓋をした鍋がある。持ち上げると重みがあり、フィアが朝飯用に豆のスープを残していたことが判る。二人が起きたらすぐ飲めるように架台の上に移す。
 暫くするとスープの匂いがしてきて、胃がぎゅうっと鳴った。食べ物に勝手に手をつけるわけにはいかないが、自分がその誘惑を止めるのに相当の忍耐をつかっているのに気付く。食欲というやつは他の欲望と比べると愛嬌があるが、恐ろしい力を秘めている。


 壁際にある食料の残りを何気なく確かめている時、視界の隅に窓があるのに気付いた。目を瞑るといよいよはっきりする。薪の火が瞼越しにぼんやりと橙色に見え、周囲には煤けたような闇がひろがっている。その右下の方に小さな遠見の窓が見える。
 五番街の夜市でエルフのケレブラントに出会い、ニルダの火から能力を授かったのがはるか昔のように思われる。俺はいまだにこの能力が良く判っていない。


 ちらちらと見えている窓は、窓枠に原木をつかっているようでいびつな形をしている。こんな風に窓そのものの形状を気にしたのは今回が初めてだ。山小屋の窓のような原始的なつくりで、カーテンはなく、その向こうには深緑の淀んだ色が見えている。瘴気を放つ沼の水面を連想して気持ちが悪い。どんな景色が見えるのかと興味をもって意識すると、窓はすうっと消えてしまった。なんというあてにならない能力か。もう少しましなものを寄越せば良いものを。


「おはよう、セネカ。いい匂いがするね」
 フィアが伸びをして起き出してきた。
「おはよう、フィア。スープを温めておいたよ」
 蝋燭に二つほど火を点けてほら穴の中に固定した。フィアが腕を十字に組んで体を捻っている。目が腫れているように見えるが、暗くてよく見えない。
「ルメイが起きてくる前に二人でスープを平らげちゃうか」
 俺の冗談が終わらないうちにルメイがむっくりと上半身を起こした。
「起きてますよ。おはようさん。俺もスープが欲しいな」
 ルメイがさっそく起き出して竈の前にきた。鍋の面倒をみるのに竈の前に座ったフィアが、もう少し待ってね、と言って笑っている。


 朝食は、豆のスープと、椎の実が入った大きめのビスケットが二枚であった。三人とも言葉少なに食べた。さすがのフィアも材料が無くては料理のしようもなく、我々の食糧事情は次第に先細りしている。
 とはいえ、豆のスープはいい味で、ありがたく頂いた。ほら穴のなかはひんやりしていて、熱いスープが体を温めてくれる。空になったカップをフィアに返すと、すぐにも洗って水気が切られた。


「それじゃ、出発の準備をしますか」
 フィアの合図で俺たちは背嚢の中身をいったん床に取り出した。全員で指差しながらどれを持参するか相談する。当面の主食であるビスケットと、わずかな量のパスタ、一握りの乾燥肉を携帯することにする。毛布や水筒も旅の必需品だ。
 塩や砂糖といった調味料は必要な分だけ取り分け、残りはきつく封をして棚に戻した。嵩張って重い鍋などの調理用具をほとんど置いていけるのがありがたい。往路に比べたら荷が軽くなるので気分も軽くなる。


 荷物を詰め直している間に、フィアが砂糖入りの紅茶を淹れてくれた。
 探索行の途中で何度も感じたことだが、荒野ではほんの些細なことにありがたみを感じる。俺は湯気のたつ甘い紅茶をしみじみと口にした。
 いつも大事にしている水を地面にあけてしまうのは抵抗があるが、フィアは紅茶をいれた残りの水を革袋から捨てた。次にこのほら穴に来るのが何日後になるのか判らず、そのままにしておいたら水が腐って革袋を傷めてしまう。この拠点はすぐそばに小川が流れているので、水の心配はしなくとも良い。


 自分の水筒の水をほら穴の入口に近くで捨てている時、またしても視界の右下の方に遠見の窓が現れているのに気付いた。ねじれたような焦げ茶色の樹皮をもつ原木をそのまま窓枠にしていて、窓の向こうに見える汚れた深緑の色が点滅している。淀んだ沼で夜光虫が光っているようで気色がわるい。
 今度はその窓に意識を集めても消えてしまうことはなかった。しかしこの忙しい時になんだというのだ。かまってられないじゃないか。


 胸騒ぎがして、水筒の蓋を締めていた手を止めた。
 記憶の断片のようなものが引っ掛かって、この窓を放っておくわけにはいかない気がしてくる。まるで気付いてくれと言わんばかりに点滅しているのだ。
「どうしたの?」
 水筒を手にしたまま立ち尽くしている俺を不審に思ってフィアが声をかけてきた。フィアはキルティングの亜麻服の上に革鎧を身に着け、剣帯に王佐の剣を吊っている。この短剣をどこか遠くで見た気がする。物も言わずにじっと見つめていると、フィアが何事かという顔をして自分の短剣を見下ろした。


 王佐の剣を今はフィアが所有している。だがこれは譲られた物だ。どんな経緯でフィアにもたらされたかは知らないが、もともとはディメント王の所有物だった。そして、対になった智慧の剣と共にデルティス公に下賜された。デルティス公は、智慧の剣を会計係のクレメンスに、王佐の剣を侍従長のオイゲンに与えた。
 記憶ははっきりと蘇らないが、それらの名前を思い浮かべると窓の点滅がさらに勢いを増した。はっきりとは何も思い出せないが、俺はこの窓を放っておけない。


「朝っぱらからすまんが、また一緒に窓を見てくれないか?」
 俺とフィアの様子を見にきたルメイが、窓? と言って顔をしかめている。
「これから出発するところだけど、今でないとだめなの?」
 フィアが眉根を寄せながら心細そうに声をかけてくる。
「今すぐだ。頼む」
 俺は水筒を手近な場所に置いて二人をほら穴の中に押し戻した。
「おいおい、なんだよいきなり」
 もともと超常を嫌うルメイは露骨に嫌な顔をしている。


 ほとんど無理やりという恰好で、三人で手を結びあって輪をつくった。
「シラルロンデの塔のそばでやった時と要領は一緒だ」
 ルメイが、それにしても急な話だよな、と息巻いている。フィアは目をしばたかせながら不安そうに俺を見返している。これで何事もなかったら俺は二人になんと申し開きをしたらいいのだろう。だがやるしかない。
「いくぞ。目を閉じてくれ」
 ルメイが溜息をついて頭を下げた。フィアも静かに目を瞑る。それを見届けてから目蓋を落とすと、もはや窓は点滅をやめて目の前にひろがっている。窓の内側はゆったりと揺れる深緑の波で満たされている。俺はルメイとフィアの手を両手に感じながら、窓に向かって大きく一歩踏み出した。



      *



 山賊どもがいる。
 森が途切れて草地が見えている場所で、大きな沼に面している。念のため自分の体を見下ろしてみるが、やはり窓の中の世界で俺たちは透明になっているようだ。周りをぐるりと見渡すが、一体どこの森なのか見当がつかない。だが、林を背にする恰好で大きな石に腰を下ろしている大男に見覚えがある。これはオロンゾだ。


 時刻は夕方で、赤みを帯びた陽射しが野営の準備を始めた六人の山賊たちの姿を斜めに照らしている。オロンゾは拾った枝で短刀の切れ味を試している。座高だけで小柄な男ほどの上背があり、異様な威圧感がある。金属の胸当てと革の防具を身に着け、腰には片手剣を二本吊っている。短刀はよく研がれていて、オロンゾのブーツに細かい木屑が舞い散っている。
 その隣にサッコがいて、全身に金属鎧を身につけたまま地面に横たわっている。頭を木の根方にもたせて起こし、両手剣を腹の上に横たえたまま脚を組んでいる。


 沼のほとりで三人の山賊が喚き声を上げている。装備を外して半裸の姿で沼に入り、顔を洗ったり腕をこすったりしている。伸びるに任せたごわごわの髪と、顔を覆う髭が濡れてひしゃげている。
 猫背な男が一人、水辺に近い場所に設えた竈で火を起こしている。頭をつるつるに剃りあげ、肘や膝に大きな当て物がついた革鎧を装備している姿は、山賊たちのなかでも変わり者だ。どこかで見た覚えがあるなと思ったら、これは蜥蜴男ではないか。シラルロンデの塔の下でルメイとフィアを交えて初めて遠見をした時、窓の中に黒頭巾のムンチと共に現れた男だ。会ったことはないが、こいつが無慈悲な追跡者であることを俺たちは知っている。


 野営の準備とは言っても、サッコとオロンゾは寛いでいるし、下っ端の山賊ども三人は水辺ではしゃいでいる。この蜥蜴男だけがぶつぶつと文句を言いながら竈の番をしている様子だ。
「水辺で騒ぐな!」
 蜥蜴男が立ち上がり、腰まで水に入った山賊たちを怒鳴りつけた。汚い身なりをした年若い山賊たちが、トカゲ親父が怒った、と囃したてた。こいつは仲間からもトカゲと呼ばれているのだ。蜥蜴男は怒りに火がついた様子で、竈から燃えさしを取ると山賊たちに向かって投げつけた。しかし投げられた方は水の中にいるので堪えない。どっと笑い声が起きた。蜥蜴男はぺっと唾を吐き、背嚢が幾つも置いてある場所までしかめ顔で取って返した。


 しゃがみこんで背嚢をみている蜥蜴男の靴をオロンゾが蹴った。
「おい。追跡が遅れてないか?」
 オロンゾの声はひどいしわがれ声で凄みがある。蜥蜴男はその場で立ち上がり、まぶしそうな顔でオロンゾを見返すと、背後の水辺をさっと手で示した。
「あんな連中と一緒じゃ、やれませんぜ」
 オロンゾがぐっと目を細めて睨むと、蜥蜴男は目を逸らした。オロンゾは蜥蜴男の腕を取って自分の方へ向き直らせた。


「あの女を見失ったら、お前は八つ裂きにする」
 オロンゾがのしかかるようにして蜥蜴男に顔を寄せた。オロンゾはごわつく赤髪をたてがみのように伸ばし、眼窩には暗い影が落ちている。
「言葉のあやじゃねえぞ。文字通り、体が八つになるまで切り裂く」
 蜥蜴男がオロンゾの視線に耐えかねて片目をつぶった。まるで鍛冶屋の火炉に顔を近寄せすぎたかのようだ。


 ややあって蜥蜴男は苦々しい顔を上げてオロンゾを見返した。
「それなら儂の言うこともちったあ聞いてもらわないと」
 オロンゾは反論されるのに慣れていないようでさらに厳しい顔を作った。しかし、わずかに開いた口から出てきたのは怒鳴り声ではなかった。
「言ってみろ」
 オロンゾが強面は崩さずに腕組みをして蜥蜴男を見詰めた。この蜥蜴と呼ばれる男は蔑まれているばかりではなく、追跡者としての地歩を持っているのだ。そうでなければ山賊のオロンゾや黒頭巾のムンチなどと行動を共にして生きながら得るのは難しい。一方でオロンゾも、粗暴に脅しつけるだけの男ではない。それしか知らない男がパーティーの長を務めるのは無理なのだ。


「儂らが追ってる連中は旅慣れてる」
 蜥蜴男がうっそりとした目付きで水辺を振り返った。三人の山賊たちが子供のように半裸で水をかけあっている。
「よくよく考えてみてくだせえ。あの馬鹿どもを残して儂らが先に行っちまったら、あいつらここで何日くらい生き延びると思います?」
 オロンゾもつられて水辺の部下たちを見た。だが何も言わない。
「オロンゾの旦那とサッコの旦那がいるから、斬り合いになった時の心配は何もねえ。だけんどもここは森の中。呪いの森にいるんでさあ」
 蜥蜴男が広げた両手をこれでもかと振るって自分たちのいる場所を示した。


「シラルロンデの廃屋には見張り糸が仕掛けてあった。途中の林にイヌサフランの葉が捨ててあるのも見た。ありゃあクマニラを選ったんだ。儂らが追ってる三人のなかに、森の衆の手ほどきを受けた奴がいる」
 黙って聞いていたオロンゾが腕組みをしたまま、森の衆? と聞き返した。
「森に住まう狩人たちでさあ」
 蜥蜴男が自分を取り戻してオロンゾを見返した。
「儂には連中がどこに向かってるのか見当もつかねえ。こんな深い森にたった三人で分け入って、追いつけねえほどずんずん進んでいきゃあがる。女連れの浮かれ野郎どもと高を括ってたら痛い目にあいますぜ」


 オロンゾが表情をいくらか緩め、脇腹の隠しから折りたたんだ紙を取り出した。
「ピュー、お前の叔父には世話になったから教えてやる。他の連中には言うなよ」
 オロンゾがひろげた紙を、蜥蜴男が胡散臭そうに眺める。蜥蜴男にも名前があって、ピューというらしい。フィアとつないでいる指にぎゅっと力が籠るのが伝わってきた。オロンゾが懐から取り出したのは人相書きで、涼しげな顔をした若い女の顔が描いてある。有り金を賭けてもいいが、これはフィアだ。


 オロンゾが指の背で人相書きを叩いた。
「俺たちが追ってる女だ。マカリオの親父がカオカでやられた時、屁たれどものパーティーに混じってるのをサッコが見つけた」
 そばで寝転んでいたサッコが唸り声をあげ、横たわったまま片手を上げて指先で輪を描いた。サッコの意思疎通はこういう具合のやり方が常らしく、オロンゾも蜥蜴男もちらっと見ただけだ。蜥蜴男が顔を寄せて追跡者の眼で人相書きに見入る。絵が描いてあるだけで、名前や素性の但し書きがない。


 そこに押してある印章を見て驚く。
 これを描いたのは宮中の絵描きだ。近衛の詰所に貼り出される文書に必ず押してある印章で、印はバイロン卿しか持っていない。アイトックスのフィッツモーリス商会が小麦相場の吊り上げで王城への出入り禁止になったとき、商会幹部の似顔絵が貼り出された。あの時も人相書きの隅にこの印章が押されていたのを覚えている。
 フィアがいかなる理由で追われているのかは判らないが、だからこそずっと一人で狩りをして暮らしてきたのだろう。少し気が重いが、この期に及んではフィア本人に確かめるしかなさそうだ。


「何者なんです?」
 蜥蜴男の問いに、オロンゾは素っ気なく「知らん」と答えた。
「とにかくゴメリー親分じきじきの指図だ。失敗は許されねえ」
 こんなところでその名前を聞くとは思わなかった。賭場で見かけたゴメリー親分はまともな人間ではないと思っていたが、黒頭巾たちのみならず、山賊の元締めまでやっていたのだ。そのうえ不気味な事に、ゴメリー親分は宮中発行の人相書きまで手に入れている。自分の手を汚すのを嫌がるバイロン卿が、スラムの元締めを使役しているのだろうか。


 蜥蜴男が人相書きから目を離してオロンゾを見上げた。
「言われなくても判ってる。マカリオの叔父貴をやった奴らは絶対に許さねえ。今のところ名前が判ってるのは賞金をぶんどったメイローって野郎だけだが、一人残らず寝首を掻く算段でさあ。今追ってる奴らも逃がしゃしねえ」
 蜥蜴男が顔をひくつかせながら息巻いている。厄介な奴に狙われたものだ。堂々と仇討をするというならまだしも、寝首を掻くと公言しているのだからたちが悪い。


 オロンゾが目を細めてぐっと顔を寄せた。
「一緒にいる野郎どもは見つけ次第ばらせばいい。問題は女だ。必ず生け捕りにしろ」
 蜥蜴男が物思いに耽るような顔をして舌なめずりをした。
「本来ならなぶり倒してやりたいところだが・・・」
 下卑た表情を浮かべていた追跡者が目だけでオロンゾを見上げた。
「その生け捕りってのはおそらく、死んだ方がましな部類だろうから、親分にゆずるか」
 オロンゾがフンと鼻で笑って口元を歪めた。蜥蜴男も唇をひん曲げて笑う。この二人は甲乙つけがたいほど気色悪い。


 沼のほとりの方が騒がしくなった。ついさっきまで三人いたのに、今は二人しかいない。その残った二人が水をかき分けながら姿が見えなくなった男の名を呼んでいる。オロンゾと蜥蜴男が沼の方に顔を向けた。
「リコの奴がいなくなっちまった!」
 蜥蜴男が食料の入った背嚢を持ち上げ、溜息をつきながら竈のところへ戻った。
「おおかた鱶にでも食われたんだろうよ」
 水の中にいた山賊が、鱶なんぞいるもんか、と怒鳴り返した。それからふと不安そうな顔になり、二人揃って棒立ちとなってオロンゾを見返した。オロンゾは面倒臭そうに顔をしかめて、探せ! と怒鳴った。


 大きめの石で囲った竈の火で鍋の湯が沸騰を始めると、蜥蜴男は器用に刃物を使って野菜を切り始めた。人参の皮をむいて斜め切りにし、キャベツをざく切りにして鍋に入れている。見れば、塩漬肉や燕麦もたっぷりと持っている。こいつらは意外に良い物を食っている。どうやらこの追跡パーティーは蜥蜴男の野営術でかろうじてもっているようだ。


 蜥蜴男が調理をする間も、水辺では二人の山賊が騒いでいる。
「おおい、リコ! 魚でもとってんのか!」
 髭面で半裸の男が、背の高い草に覆われた辺りに向かって声をかけている。
「こんなに息がもつわけがねえ。おかしいぞ」
 浅黒い堅肥りの男は水面を盛んに見渡しながら警戒している。


 深い方まで水をかき分けて進んで行った山賊が、突然水中に没した。一息してから水面に顔を出し、両手で水を叩いている。
「助けてくれ! 足をつかまれた!」
 再び水中に引き摺り込まれる。堅肥りの男が慌てて助けようとするが、どこにいるのか判らずに両手で水をかき分けている。やがて沼の水面に気泡が上がってきて、その周辺に血の色がどよどよとひろがった。堅肥りの男は慌てて陸に取って返しながら、アリリオもやられた! と怒鳴った。


 蜥蜴男もさすがに料理どころではなくなって立ち上がった。鍋を架台から外して脇へどかし、水辺に生えた若木に寄り添うようにして立った。水から上がってきた堅肥りの山賊が同じ木のところまで歩いてきて、沼の方を振り返った。髪を乱暴に掻きあげて顔を撫で、指についた水気を振って落としている。
 サッコとオロンゾも少し離れた場所で剣の柄に手を乗せながら成り行きを見守っている。


 耳目の集まる沼の水際に水柱が立ち上がった。水柱が割れると、中から赤黒い頭が現れた。筒型をした胴体から円錐型の頭部が反り返り、その先端に一対の触角と飛び出た黒い目玉がついている。体の表面は見るからに硬そうな黒い甲羅に覆われていて、そこから無数の赤い突起が突き出ている。胴体の継ぎ目には体を支える脚が何本も生えていて、そのうち手前の二本は先端が巨大なハサミになっている。その大きさたるや人間の胴体ほどもある。そのハサミの片方に、人間の黒い髪の毛が束になって絡みついている。


 化け物の口と思しき場所から盛んに泡が吹き出ている。そこから雄叫びがあがって泡が四散し、その場にいた全員が体を硬直させた。キシャアアアア、というような、聞いたこともない叫びだ。それは人間の言葉のように複雑な意味をなしていないが、怒り狂っているのだけは判る。
「沼の主を怒らせちまいやがった」
 蜥蜴男のピューが苦虫を噛み潰したような顔で言い放った。近くにいた堅肥りの山賊が顔を小刻みに振りながら後ずさった。そこへ水切り波を立てながら沼の主が向かってくる。オロンゾとサッコが剣を抜く音がする。


 堅肥りの男が、水辺から離れて立っていたサッコとオロンゾの所まで走って逃げた。蜥蜴男は鍋と食料を取ろうとして竈に向かったが、沼の主がハサミを振り上げて威嚇するので立ち止まった。沼の主はその全貌をあらわにしており、これはどうやら肥大して不恰好ながら、エビガニの姿をしている。
 蜥蜴男が身を低くして背嚢に手を伸ばそうとすると、沼の主が竈の辺りをハサミで薙ぎ払った。鍋が倒れて薪に湯がこぼれ、ジューという音がして盛大に白煙が立ち上った。沼の主が驚いて体を反らし、煙に向かってハサミを振り回している。その隙に蜥蜴男も逃げ出した。


「ラウル、食い物を取り返して来い」
 オロンゾが振り返り、自分の背後に回った堅肥りの山賊に命じた。
「俺がですか?」
 ラウルと呼ばれた堅肥りの山賊は自分の顔を指差した。オロンゾが無言で頷く。
「リコもアリリオも食われちまいましたぜ?」
 ラウルは憐みを乞う顔つきになった。オロンゾは片手剣の切っ先をラウルの喉元に寄せた。
「お前が連れて来たんだろ」
 ラウルは泣きそうな顔をしてから、水辺に向かって駆け出した。


 沼の主は塩漬肉が入った背嚢を両手のハサミで引き破ろうとしている。それがうまくいかず苛ついている様子で、長い触角を盛んに動かしている。しまいには乱暴に扱われた背嚢の口から塩漬肉がはみ出てきたので、大きなハサミで摘まみ取って口元まで運び始めた。口の両側に小さなハサミがついていて、そのハサミがさらに小さく肉を千切り取って口の中に次々と突っ込んでいる。仕掛け時計の裏側を覗いた時のような細かい連綿とした動きで、二の腕にぶわっと粟が立った。小さなハサミが、大きなハサミについた人間の髪を摘まんで面倒臭そうに脇に投げ捨てている。


 沼の主から食料を取り返してこいと命じられたラウルが、半裸のまま剣を振りかざして突っ込むかに見えたが、途中で立ち止まった。巨体に立ち向かうには人間の武器は余りにもみすぼらしい。
 ラウルは剣を捨てて小石を拾うと、狙い澄まして沼の主に投げつけた。石は触角の付根に命中した。沼の主が二度目の雄叫びをあげ、背嚢から手を放してハサミを高々と掲げた。人の背丈の倍ほどの高みで、開いたハサミが宙を舞っている。食事を邪魔されて怒り狂っている様子だ。


 ラウルはたまらず木の陰に隠れた。そこへハサミが振り下ろされる。ラウルが危ういところで伏せてこれを躱した。沼の主はそのまま若木に乗り上げてきた。メキメキという生木の裂ける音がして、木は中程で折れ曲がった。ラウルは身をひるがえして粉砕された竈の跡まで走り、背嚢の肩紐を掴んだ。しかしラウルの幸運はここで尽きた。沼の主のハサミが素早く動き、その太腿をがっしと掴んだのだ。足を取られて倒れ込むラウルの喉がひょうっと鳴った。


 哀れな山賊は背嚢を持ったまま宙に吊り上げられた。ラウルがくぐもった悲鳴をあげながら背嚢を投げつける。それは弧を描いて飛んでいき、大きな水音とともに沼に落ちた。
「馬鹿たれが!」
 そばに寄って背嚢を受け取ろうとしていた蜥蜴男のピューが両膝を叩いて毒づいた。ラウルが暴れ回るので沼の主はもう片方のハサミでその脇腹を挟んだ。革鎧に包まれた人間の腹が、馬車に轢かれた毛虫のように潰された。骨の折れる音と肉が潰れる音がして、ラウルの口から鮮血がどっと溢れた。


 ラウルが細くあげていた悲鳴を止め、血まみれの歯を食いしばって胸元のホルダーから短刀を抜いた。その切先で甲羅の薄い関節の所を何度も斬り付けている。腕を振るたびにラウル自身の血しぶきが飛び散った。
「いいぞ。男ならやり返せ!」
 ハサミがぎりぎり届かない辺りに立った蜥蜴男のピューが、両手を振り上げながら声をかけている。


 沼の主が反撃に驚いてラウルを手放した。
 ラウルの身体は地面に向かって落ちたが、その途中で再び巨大なハサミにはっしと掴まれた。沼の主は手に付いた汚れを地面に擦って落とそうとするかのように、ハサミを素早く返しながらラウルを何度も地面に叩きつけた。
 再び吊り上げられたラウルの手足は骨抜きにされてだらんと垂れ下がっている。巨大なハサミの根元から顔を出していたラウルが一瞬正気付き、こちらを見て苦しそうに口を開いた。しかしその部分は最も力の伝わるところで、顔面が捻じ曲がった挙句にポクンという音がしてラウルの頭は潰れてしまった。閉じたハサミから血糊がぼたぼたと流れ落ちる。


 オロンゾがのっそりと前に出ようとする。しかし蜥蜴男のピューが振り向き、手の平を見せて押し止めた。
「きゃつに剣は効きません。儂が追い払います」
 ピューは自分の背嚢から拳大の袋を取り出すと、果敢にも化け物に立ち向かった。ピューの投げた袋が沼の主に命中し、白っぽい粉が巻き上がる。するとエビガニの化け物はラウルの死体を挟み込んだまま沼の方へ後じさり始めた。口元に付いた小さなハサミが体に付着した粉を熱心にこそぎ落としている。沼の主はそのまま水の中に沈んでゆき、あとには血の色をしたさざ波が残った。


 オロンゾは沼の主を追うのを諦め、ピューが荷物をまとめるのを呆然と眺めた。
「今のは何だ?」
「匂い袋でさ。なあに、どっちみち陸までは追いかけてこねえ。食い物は儂の分があるし、明日には追いつける。あとは追いかけてる連中の食糧で食いつないだらいい。今夜はもちっと奥で野営しやしょう」
 オロンゾとサッコは剣を納めてまだ沼を見詰めている。
「三人食われたな」
 オロンゾがそう呟くと、口元を歪めたピューがしゃがみこんだまま振り向いた。
「ちょうどいい口減らしでさあ」


 山賊が三人も食われてしまうのを見ていた俺は、姿の見えないフィアに手を強く引かれて我に返った。見るべきものは見た。サッコとオロンゾ、そして追跡者のピューに俺たちは追われているのだ。一刻も早く現実の世界に戻らねばならない。
 俺は原木の窓枠が見える場所まで後退し、いっときこの窓のなかの世界を見渡した。西空が赤々と燃え、沼の水際から離れた場所に立った三人の山賊たちが顔を寄せて話し込んでいる。その森のとば口もやがて闇に包まれそうに見える。いっそのこと全員食われてしまえば良かったのだ。しかしそれを言っても始まらない。ルメイとフィアの手を握ったまま窓の方へ少しずつ導き、勢い良く窓枠をまたいだ。



      *



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