混乱を抱えたまま暗闇に立っている。
 見上げれば低い雲が垂れ込めている。風の感じで、開けた場所にいることが判る。潮の匂いがして、寄せては返す波の音が響いている。海が近いようだが、ここはどこだろう。靴底から伝わってくる感触が砂ではないので、海岸にいるわけではなさそうだ。周囲を見回しても茫茫たる闇がひろがっているのみだ。


「後味のわるいものだな。信条に反することをするのは」
 すぐ近くから老人の声がする。まるで隣に立っているのが当然のような言いぐさだ。ぼんやりとした影にしか見えないが、これは魔法使いのイシリオンに違いない。老人が自分の手をじっと見つめている気配が伝わってくる。背中にその手の感触がまだ残っている。俺はここに押し出されたのだ。ただ、自分が何をしていたか、うまく思い出せない。


 イシリオンがさらに何か言うかと思って耳を澄ますが、老エルフは黙っている。仕方なく間延びしたような波音に耳を澄ませていると、誰かが歩いて来る足音がする。目を凝らすが、シルエットから女と判るだけだ。女は妙にゆっくりと歩いてきて立ち止まった。誰かに見られるのを恐れるかのように周囲を見回している。俺は一瞬身を隠そうとしたが、俺とイシリオンの姿は目に入らないようだ。


 女が風上に背を向けると、その胸元が微かに赤く光った。火種筒の火を蝋燭に移している。暗闇のなかに橙色の小さな炎が生まれ、女の顔が見えた。四十は越えている痩せた女で、疲れ切った顔をしている。これはスラムの宿屋、黒鹿亭で女将をしているハンナだ。俺とルメイは何度も世話になっている。なぜこんな所にいるのだろうと訝っているうちにハンナが振り向き、そばにある木の台に蝋燭を固定した。


 蝋燭の火が、サッコとオロンゾの生首を照らしだしている。
 思わずぎょっとして周囲を確かめた。山賊の首が並んでいるということは、ここはイルファーロの北のはずれ、名残の丘だ。表面を磨いていない分厚い板で作った晒し台が設置されていて、板の底まで貫通させた鉄の支持棒で生首が固定してある。サッコは鼻から唇にかけて大きな裂傷が走り、乾いた血がこびりついている。しばらく晒しておけるようにタールが塗られているので、蝋燭の光を反射して頬がてらてらと光っている。晒し台の背後には立札があるが、暗くて文字までは読めない。


 ハンナは隣にあるオロンゾの生首に一瞥をくれてから、サッコの頭に手を乗せた。その前髪を指で梳いている。口の周りの瘡蓋をそっと指ではがそうとするが、肉がついてきてしまう感触があって思いとどまったようだ。腰を屈めてその顔をじっと見詰めている。ハンナの顔に浮かんでいるのは怒りでも悲しみでもなく、諦めだ。やがてハンナは晒し台に片手を乗せたまま俯き、肩を震わせ始めた。森閑とした静けさの中に、嗚咽まじりの声がする。
「いつかこうなると思ってたわ」


 ハンナの曲がった背中に、ぼんやりとした楕円が浮かんだ。
 これは一体なんだろうと思って見詰めていると、大きな手鏡であるのが判った。花の浮彫をあしらった金属の枠のなかに均した平面があり、そこに何かが映っている。目を凝らすと、暗がりで寒さに震えている二人の姉弟の姿が見える。俺はこれをどこかで見た覚えがある。思わず身を乗り出そうとすると、静かだが手厳しい叱責が飛んできた。
「離れなさい。君にはまだ早い」
 振り向くと、ローブ姿のイシリオンが渋い顔をして立っている。何が早いというのか。俺は大事なことを思い出しかけているというのに。


「なぜ与えられたものを使いこなそうとしない?」
 俺の顔に浮かんでいる表情に対して、イシリオンが言葉を返してくる。もやもやとした感情をぶつけたくなってくるが、このエルフの老人は相対する者を自然と畏まらせる。
「今の君だと、窓のなかの窓に入るのは危険だ」
 そうだ。俺は今、遠見の窓のなかにいるのだ。切迫した場面からこちらに移って来たことを徐々に思い出してきた。


「君は『意を汲む者』となった。誰でも手に入れられる能力ではないぞ」
 俺はこの老人から説諭されているのか? 心の底から不満が吹き出てくる。
「俺は剣の道に生きる。そんなものは望まない」
 自分でも頑なな顔をしているのが判る。表情の乏しいイシリオンの顔に、失望の念が浮かんだ。
「そんな目で見るのはやめてくれ。あなたは全能なんだろう? 俺が背負った宿命とやらも、あなたが果たしてくれたらいいじゃないか」


 言ってしまってから、我ながら子供のようだと思う。俺はこの老人の立場を知らないが、気にかけてくれていることは判る。
 イシリオンの視線に耐えられない。蝋燭に照らされた晒し台のそばには、ハンナのすすり泣く声だけが小さく響いている。俺が目を逸らす前に、老人は溜息をついてわずかに顔を伏せた。


「長い年月を研鑽にあてて私は魔道士となった。それは他ならぬ、私自身の力だ。さらに応龍クシャーフより力を授けられ、『呼ばわる者』となった。しかしその二つ名をもってしても、全能にはほど遠い」
 イシリオンがすうっと顔をあげて俺を見る。俺は理解できない話から逃げ出したい気持ちになっている。しがない冒険者でもなんでもいい。俺の肩に荷物を積み上げるのはやめて欲しい。


 辺りが真っ暗になった。
 ハンナが蝋燭を吹き消し、来た道を戻ってゆく。暗闇のなか、その足音が遠のいていくのを目で追いかけた。波音だけが残り、役者の去った舞台を見ているような寂しさが辺りを包み込む。
「君は私の足元に落ちているキリギリスのようなものだ」
 老人の言葉に思わず振り返った。シルエットだけの老エルフは、俺を虫けら扱いしている。


「だが私は、そのキリギリスを轍から掬い取って助けた。そして他のキリギリスと区別がつくようになった」
 この老人は、本当に俺が思っているような人物なのだろうか。俺が今、剣を抜いてこの人に斬りかかったらどうなるのだろう。丸腰の老人など斬りたくもないが。
 ひと呼吸おいて、イシリオンが言葉を吐いた。
「君が地龍バロウバロウから受け取ったものは死ぬまで返せない。このまま能力を遊ばせておくなら、誰かと剣を交わすたびに窓に煩わされることになる」


 一度に色んなものが頭のなかに入り込んできた。
 黒鹿亭の女将をしているハンナは心根の優しい女だが、サッコの姉なのだ。そのことをずっと秘密にして暮らしてきたのだろう。そして俺が今見ているのは未来の世界だ。二人の山賊たちはまだ首と胴がつながっていて、呪いの森にいる。
 なんてことだ。
 サッコがいる場所に、ルメイとフィアを残してきてしまった。そして、森から飛び出して来たオオルリコガネの群れ。現実の世界はどうなっているのか。


 俺は慌てて周囲を見回した。晒し首を置く台の傍らに、底辺が地面に埋もれるようにして朽木の窓枠が浮いている。その窓に向かって歩み寄ると、イシリオンが立ちはだかった。
「待て。まだ虫がいる」
 この人は何を言っているのだろう。俺は一刻も早く現実の世界に戻らなければならないというのに。
「ルメイとフィアが危ないんだよ。急いで戻らないと」
「二人は大丈夫だ」
 この老人に言われると思わずほっとしてしまう。だがあの状況でどうして二人が無事なのか、俺には理解できない。


 俺は頭を掻き毟った。
「どういう事なんだ! 訳の判らないことが多すぎる」
 大仰に片手を振って晒し台を指差す。
「例えばこれはおそらく未来の世界だろうが、でたらめだ!」
 イシリオンが目を細め、なぜそう思う? と呟いた。
「もし山賊どもを倒せたとしても、俺はルメイとフィアを説得して死体は埋める。街まで首を持ち帰ることはしない」


 イシリオンは無表情に俺を見返している。
 俺が手配されていることをこの老人は知っているのだろうか。全能ではないと言うが、何でも知ってるみたいじゃないか。何とか言ったらどうなんだ。
 悪名高いサッコとオロンゾが討ち取られたとなれば、イルファーロはその話で持ちきりになる。いや、それどころではない。カオカ、チコル、アイトックス、要するに東岸地方一帯に話が広まるだろう。そして尾鰭の付いた与太話と一緒に、むこう何か月も俺の名前が連呼されることになる。そんなのは御免だ。


 イシリオンがローブを払い、小振りの杖で地面を突いた。杖の当たった一点から環状の波動がパアッと広がる。
「龍と目が合った時のことを忘れたか」
 その言葉と共に闇が一層濃くなり、海風が吹きつけてきた。イシリオンのローブの裾がパタパタと音をさせて翻る。俺は暗闇の世界を見回した。夜空にぼうっと何かが見える。
「未来は変えられるが、それは潮の満ち引きのようなもの。一人の都合で左右できるようなものではない」
 俺は目を見開き、夜空に浮かぶものを呆然と見つめた。


 巨大な列柱門を左右にひろげる神殿が宙に浮かんでいる。
 立ち並ぶ柱が中層の基檀を支え、その上に重なる柱列は垂れ込めた鉛色の雲の上に達して上部が見えない。正面の幅広な階段が狭まりながら入口につながっている。長方形をした開口部からさらに中庭に並ぶ柱列が垣間見える。それらの全容が、なんとか背景の闇と区別できる程度の仄暗さにぼんやりと浮き上がっている。まさに空を圧する大きさで、見ているうちに気が遠くなってくる。これがこの老人の窓なのだ。


 神殿の奥からひろがるイメージの放流に俺は包まれた。
 幾たびかの戦と、数えきれないほどの争乱。並び立つ旗と黒煙。飢饉と虐殺。怨嗟の声と悲鳴が重なり合って野辺を吹く風のように鳴り響いている。中央高地から大陸を席巻したドラグーン人の王国。その栄華と衰退。枯渇するマナと辺境に四散する種族たち。イメージは果てしなく広がってゆき、夥しい記憶が積み重なって山脈を形成している。この老人はいったいどれだけの時間を生きてきたのか。こうして世界を支える一翼を担いながら、何故その重圧に潰されずに済むのか。


 イシリオンがもう一度杖で地面を突いた。
 遥か東の水平線にすみれ色の明かりが湧きあがり、その光が分厚い雲の底を横ざまに照らしだす。風がおさまり、空に浮かぶ神殿が姿を消した。俺が立っている名残の丘に、朝の最初の薄明かりが差し込んでくる。四方を見渡すと、西空の余りの暗さに不安を覚える。星さえない暗黒が迫ってくるようではないか。
「潮時だ」
 イシリオンが道を譲るように退くと、そこに朽木の窓枠をもつ遠見の窓が見えた。


 エルフの老人が誘うように道を開けたのに、俺は窓の前に立ち止まり、西空の暗さに目を奪われている。
 曇り空の下の暗い森も、徐々に世界を侵食する本物の闇と比べたら仄暗さを保っている。やがてその境界が見えてきた時、俺は慄然として硬直した。数えきれないほどの黒い球が様々な軌跡を描いてこちらに向かって飛び跳ねてくる。まるですくい網から逃れようとして水面から飛び出してくる小魚たちのようだ。しかし今見ているものは魚ではない。その黒い球が通り過ぎた空間は完全な闇に塗りつぶされてしまうのだ。


 先行する球がトントンと跳ねながら外縁の闇と交差した瞬間、闇に切り取られた森が明かりを落とされた窓のように闇に溶けるのが見えた。その奥に断面を見せていた森と大地も、薄切りにされて次々に消えてゆく。その巨大な質量を思うとき、一切が無音のうちに進んでいることに戦慄を覚える。こんなに恐ろしいものを俺は見たことがない。
「急げ。この世界はじき閉じる」
 イシリオンが杖で窓を示しながら急き立ててくる。そうか。サッコが死につつあるのだ。俺はその恐ろしい光景を最後に一度だけ眺めると、窓のある場所に飛び込んだ。



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