フィアが立ち止まって片手を上げ、木の幹に短刀を突き刺した。
 森に入ってすぐの場所で樹高が低く、下草の生えた地面を陽光が明るく照らしている。俺とルメイも足を止め、辺りを見回した。フィアは微動だにせず耳を澄ませていて、緊張で背中が強張っている。地面を見下ろすと、下草は乾いている。朝露で濡れていたら虹羽根が駄目になってしまうところだが、これなら大丈夫そうだ。ルメイも身を低くして茂みの向こうに目を走らせている。


 木に刺した短刀は進む方向の備忘だとフィアから聞いている。森の中で戦う時、相手を倒して生き残ったとしても、方向を見失ったら一巻の終わりだ。
 急に立ち止まったので天秤棒からぶら下がっているオオルリコガネの甲羅が揺れ、互いにぶつかってコン、コンと微かな音をさせている。そのうねるような揺れが棒を担いだ肩に伝わってくる。虹羽根が陽光を反射して青緑の光をキラキラと反射している。聞こえてくる音に集中するが、かすかな風の音以外なにも聞こえない。目の前に広がっているのは緑また緑の森だ。


 フィアが振り向き、唇に指を当ててからそっと手招きした。
 俺はゆっくりと天秤を肩から外して地面に置くと、剣の柄に手をやりながら静かにフィアのいる場所まで歩み寄った。ブーツが草を掻き分ける音がしてしまうが、どうしようもない。フィアの左隣に立って剣を抜こうとすると、俺の腕にフィアが手を乗せた。小さく首を振っている。ルメイもすぐそばまで歩いて来た。フィアは俺とルメイの顔を交互に見てから、正面を指差した。


 しばらくはフィアが何を指差しているのか判らなかった。
 じっと耳を澄ませているうちに、下草を踏む音がわずかに聞こえてきた。五十歩ほど先の茂みを誰かが歩いている。大勢ではなく一人のようだ。頭の中に思い描く図は、山賊たちの本隊から離れて周辺を捜索している斥候の姿だ。その足取りからすると油断して漫然と歩き回っているようだ。茂みの葉がまばらになった辺りまで歩いてくる。
 身を低くして剣の柄を握った瞬間、その姿が顕になった。


 茂みの端から姿を現したのは、赤茶色の鹿だ。
 尻の辺りに白っぽい冬毛がこびりつくようにして残っている。鹿はすっと首を伸ばしてこちらの様子を窺っている。産毛のようなものに覆われた短い角が生えていて、先端は丸い。角は生え際で二つに分かれ、さらに先端が二つに分かれている。
「赤鹿の雄。七歳より上ね」
 フィアが囁き声で告げた。鹿の七歳が若いのか年寄りなのか知らないが、頭の高さは俺と同じ辺りにある。体重なら俺の三倍はあるだろう。なかなか立派な姿をしている。


「あれは食えるんじゃないのか?」
 口の周りを撫でながら囁くルメイを、俺とフィアがじっと見つめる。物音の主は山賊ではなかったし、湿地でのやり取りを思い出してからかいたくなるが、やめておく。フィアは視線を鹿に戻した。
「出会い頭には無理ね」
 ルメイが弓を引き絞る仕種をして見せた。
「わたしの弓では届かない。矢が当たる距離まで近寄らせてもくれないわ。仮に当たっても、あの体格だと動きが鈍るまで追いかけ回す羽目になる」


 ルメイが未練たらしい顔をしてフィアを見た。
「追いかけたらいいんじゃないの?」
 フィアがふっと息を吐いて笑みを浮かべ、ルメイを見返した。
「猟犬も馬もいないのよ? 荷物を全部持ったまま、丘を二つ三つ越えるまで全速力で走ることになる。見失わなければ、の話だけど」
 ルメイが唇を歪め、降参という具合に両手を広げて見せた。


「あれを狩るなら、罠を仕掛けてひたすら待つしかない」
 フィアは鹿をじっと見詰めながら囁く。
「でももしあの鹿を倒せたら、三人でひと月は食べられる肉が手に入るわね。幸い塩が沢山あるから。でも血抜きと解体と保存処理で、数日はここに足止めよ?」
 フィアはリーダーである俺の顔色を確かめている。俺も肉をたっぷり食ってみたい気はするが、野営術についてはフィアに従うしかない。
「鹿は放置して、シラルロンデに急ごう」
 フィアが頷いて、了解、と答えた。ルメイもしぶしぶと頷いている。


 荷物を取りに帰ろうとする俺たちにフィアがさらに声をかける。
「あの鹿は群れの斥候よ。今の季節は身ごもった雌がいるから、群れを脅かしたら若い雄たちが攻撃してくる。少し迂回するから、その積りで」
 フィアが木の幹に刺した短刀をゆっくりと引き抜き、方向を見定めている。俺とルメイは慌てて荷物を肩に乗せ、フィアの後ろに続いた。迂回するということは、これまで進んできた方角から多少は逸れるということだと思うが、俺にはその按配が判らない。フィアは先を見据えたまま、手元を見ずに短刀を胸のホルダーに戻した。そして、そのまま振り返りもせずに歩き出した。


 暗い緑の森がどこまでも続く。
 物をぶら下げた天秤を担いで歩くのは意外に難しく、早くも背中が張ってきた。意識して背筋を伸ばして歩いていると、まだ昼前にも関わらず空が暗くなってきたのに気付いた。頭上を見上げると、梢の先に見える空が灰色をしている。幾らか雲が出てきたようだ。目を細めて空を見上げていたルメイが渋い顔をした。
「雲行きがあやしいな」
 フィアに話しかけるのは悪い気がして、ルメイにだけ聞こえる小さな声で、そうだな、と答えた。


 森の中は静まり返っていて、自分のブーツが下草を踏む音だけが聞こえる。木々の間を進んでいると、イルファーロで過ごした夜に見た幻を思い出した。ニルダの火に触れた時、様々な幻影が俺を包み込んだ。すぐ隣には、街の人々の前ではファインマンと名乗ったエルフのケレブラントがいた。ケレブラントが俺の手に触れた時、彼の手から俺の脳裏に記憶が流れ込んできた。老エルフの魔法使いであるイシリオンと、青年というべき若さのケレブラントと、体の小さなポークルの女の子が森を行くのが見えた。女の子は確か、イザンと呼ばれていた。他にもメンバーがいた気がするが、よく見えなかった。あれは一体どの森なのだろう。もっと南の森だろうか。どこに向かっていたのだろうか。


 遠見の窓や夢のなかで何度も会っているイシリオンに、実際には会っていないというのが不思議でならない。あの老人の人となりまである程度は知っているような積りになっているが、一度も会いまみえていないのだ。いつかあの魔法使いのことをルメイとフィアに話して聞かせなければならないだろう。何故なれば、俺が今こうしてパーティーをシラルロンデに導いているのも彼の助言あってのことだからだ。道に迷っても、夢枕に立って進むべき道を示してくれるのではないかという思いもある。無愛想な顔で、いい加減にしろと吐き捨ててくるかもしれないが。


 森の中をどれほど進んだ頃だろうか、フィアがこんなことを言い始めた。
「この短剣、王佐の剣は、オイゲンの形見なの」
 フィアは左の腰に提げた短剣の柄に手を乗せている。方向を見定めるのに集中している時は話しかけないように気を付けてきたが、何故か自分から問わず語りをしている。そういえば短剣の出所を尋ねた時、はぐらかされたのを思い出した。その頃はまだフィアの素性は明らかではなかったのだ。
「ずっと爺じって呼んでたから、オイゲンなんて言うと違和感があるけどね」
 黙っているのもおかしいので、そうか、とだけ相槌を打った。ふとルメイを見ると、何かがおかしいが指摘できない、という顔をしている。


「お城から逃げ出した時、わたしは苦労知らずのお嬢様だったのよ」
 これまでずっとフィアはまっすぐ前を見て歩いて来た。だが今はちらちらと左右を見ている。
「森での生き方をオイゲンが教えてくれた。狩りの仕方、道具の作り方、方角の見定め方……」
 ルメイが小さな声で、フィア? と呼びかけた。しかしフィアは返事をしない。
「わたしはお城の中で暮らしてきたんだけど、それがとても狭い場所だって知ったわ。世界の大半は森と原野で、そこではあらゆる事に手を尽くさなければ半日と生き残れないってことも」


 俺は足を速めてフィアと並んだ。そして、立ち止まって左右を見ているフィアの肩を掴んだ。
「フィア、どうかしたか?」
 フィアが振り向いた。失敗を見咎められて窮した子供のような顔をしている。両手で肘を抱えるようにして、恐る恐る俺の目を見上げる。
「どうしよう。わたし道に迷ったみたい」
 俺は思わず周囲を見回した。百歩手前にあった森と、千歩手前にあった森と、何の違いも見つけられない。ただの森がひろがっている。そして空には、いよいよ雲が厚くかかってきた。


 駆け寄ってきたルメイが心配顔で声をかけた。
「方角を見失ったのはいつから?」
 フィアがぎゅっと口をすぼめた。道案内のことではフィアに任せきりにし過ぎたようだ。これは死に至る失策だが、フィアを責めるわけにはいかない。
「それが判らないの。もうとっくにシラルロンデの塔が見えてくる筈なのに……」
 ルメイも周囲を見回しているが、なんの目印もないのだから詮無いことだ。俺は深呼吸をして考えた。大まかな位置のこと。残された食糧のこと。天候。荷物。体力。死を忘れないこと。それは俺たちの背中に肉薄している。


「ここで設営しよう」
 俺の言葉にフィアがびくっと身を反らせた。
「まだ昼にもなってないのに? もう少し進んだら塔が見えてくるかもしれないわ」
 俺は一応、フィアの意見を聞き届けた。ルメイの顔を見る。
「ここで一夜を明かすのか? 隔てるものが何もない森の中で?」
 ルメイの意見も聞いた。そこで俺の指示を説明する。
「鹿のいる森を迂回した時、方角が逸れたんだ。戻りが浅過ぎたらアリア河にぶつかる筈だから、大きく戻り過ぎたんだろう。いずれにせよシラルロンデを過ぎてる」
 俺は胸のホルダーから短刀を抜き、近くにあったブナの木に突き刺した。こうしておかなければ、やがて今どちらから進んできたかも判らなくなってしまうだろう。


「晴れていれば太陽でおよその方角が判るが、どうも雨になりそうだ。虹羽根を濡らしたくない」
 二人ともはっとして空を見上げた。雲はいよいよ厚みを増し、昼だというのに森の中は夕方を思わせる薄暗さだ。
「地面が乾いてるうちに荷物置き場と寝場所を確保しよう」
 フィアが落ち着きを取り戻して頷いた。ルメイは虹羽根を吊るした天秤を地面に下ろして荷物を出し始めた。
「なあに。明日の朝には晴れて、方角が判るさ」
 俺は内心の動揺を隠し、請け合うように言い放った。


 低めの枝に四隅を縛り付けて帆布を張り渡した。フィアが中央にロープを差し渡して持ち上げ、雨水が溜まらないように角度をつけた。その真下の地面に枯葉を集めてきて敷き詰め、上から帆布を被せた。
 俺は小さなシャベルを取り出し、ルメイを見て笑った。今日は朝から地面を掘ってばかりだ。ルメイも、参ったね、という顔をしてから寝床の周囲に溝を掘り始めた。こうしておかなければ水浸しになってしまう。
 四囲を囲んだ溝から、低い方へ向かって排水用の溝を切った。これで十分と思われたが、ルメイがさらに深く掘り直し始めたのでそれに倣った。こういうことを暗くなってからやるのは骨が折れる。


 フィアが枝を切り取ってきて地面に突き刺し、虹羽根をぶら下げた天秤を高い位置で保持させた。ちょうど屋根の高くなった辺りに虹羽根が二列に並んだ。これなら雨粒の跳ね返りで濡れることもないだろう。フィアが満足そうな顔をして虹羽根をつついた。揺れを順に伝えていく虹羽根は、見たこともない異国の果実が鈴なりになっているようにも見える。


 フィアが、どう? と言いたげに俺を見返した時、頭の上にある帆布に水滴の落ちるポタッという音が響いた。フィアがさっと頭上を見上げ、こめかみから余った金髪が一筋、頬にかかった。雨水は蜜蝋を塗った帆布を伝って流れ、その斜面を押し下げてわずかに溜り、やがて端っこから滴り落ちて地面を叩いた。まるでこの森に落ちる最初の雨粒を受けたような気がする。いよいよ雨が降ってきたのだ。


 俺たち三人はほんの束の間、その光景に見惚れるように動きを止めた。
 まだ霧雨のような雨脚ではあるが、最初の水滴が木々の葉を撫でていく音がさあっと通り過ぎていく。その瞬間に、乾ききっていた葉や木肌、地面を覆っていた埃の薄膜が濡れて匂い立ってきた。雨の始まりの匂いだ。空気がひんやりと湿気を帯びていよいよ辺りが暗くなった。
 やがて濡れた地面から、圧倒的な土の匂いが立ち上ってくる。しかしそれもやがて感じなくなった。広大な呪いの森が雨に包まれてゆく。俺たちは神秘のただ中に生きていて、生きるも死ぬもままならぬ芥子粒のような存在、ということを否応なく思い知らされる。


 三人がかりで一方向だけ帆布を継ぎ足した。排水溝の外側になるが、仕方ない。何をするのも雨ざらしではやりづらい。
「柴を刈ってくる」
 大慌てで武装を外したルメイが、革鎧を残して駆け出して行った。濡れそぼった革鎧が地面にくたっと置かれている様に哀愁を感じる。
「あまり離れないでね!」
 集めて来た石で竈を作り始めたフィアが中腰で振り返り、森の暗がりに溶けていくルメイの背中に声をかけた。俺も装備を解き、キルティングの布服の姿で小雨ふる森へ駆けだした。ルメイとは反対側の森で、燃料にする小枝を折り取るためだ。腰にぶらさげた長剣が邪魔だが、これを手放すわけにはいかない。


 あまり濡れないうちにと思って夢中で小枝を折り取っているうちに、周囲の暗さに愕然とする。数本先の木々の奥には闇が広がっている。背後を振り返るとフィアの起こした火が見えたのでほっとする。髪は既にぐっしょりと濡れ、こめかみに貼りついた房から頬にかけて雨水が流れ落ちて行くに任せている。まだ昼のうちだが、この暗さでは松明でもなければ拠点から離れるのは危ない。
 粗朶を小脇に抱えて戻ると、ちょうどルメイも戻って来た。フィアが設えた竈のそばに粗朶を積み上げる。雨に濡れても消えない松明が二本付いていて、俺たちの姿を明るく照らし出している。


「あやうくここを見失いかけたよ。もう暗くて危ないな」
 ルメイは上半身裸になってキルティングの布服を絞っている。栗色の髪もすっかり濡れて水滴が滴っている。
「ああ。フィアが松明を付けててくれて助かった」
 俺も布服を脱いで絞り、火のそばに吊るしてもらうべくフィアに手渡した。フィアは太めの粗朶を地面に刺し、手際よく俺たちの服を火のそばに干した。


 ルメイが下ばきも脱いで竈のそばに置いた。一瞬首を傾けて考えていたが、やがてルメイは下着も脱いで全裸で雨の中に出た。ちょうど枝が折り重なって水流の集まるところがあり、そこで水を受けながら体を撫でている。俺は宿からくすねてきた石鹸を持っていたので、それを背嚢の脇から出してルメイに手渡した。
「おほう! 気がきくな」
 ルメイが気持ちよさそうに泡をたてて体を洗っている。一人でずるいなと思う。俺も裸になって汗を流すことにした。


「殿方の皆様!」
 声に驚いて竈の方を見ると、食事の準備をし始めたフィアが背中で語っている。
「そこに帆布を垂らして区切ってもらえます?」
 ルメイが体を擦っていた手を止め、不思議そうな顔をして俺を見た。俺は水流に頭を突っ込んで髪を洗っていたところだったが、ビタビタと頭頂で水を受けたままフィアに言い返した。
「俺たちは別に構わんよ」
 すぐに答えが返ってきた。
「わたしも後で使うの!」


→つづき

戻る