人通りのない朝の道を、馬がゆったりと進んでゆく。
 栗毛馬が尻尾を振るさまを、建物の陰に隠れた甲冑姿の男たちが息を詰めて見守っている。モーリス・ジュアンの背中が蹄の音にあわせて拍子をとるように前後に揺れている。胸騒ぎをもよおす朝の風がわずかに砂塵を巻きあげている。俺は開いた眉庇を壁に擦りつけながら片目だけで城門を見やった。見張りがモーリスを乗せた馬の姿に気付き、寄りかかっていた壁から勢いよく背を離した。
「馬を降りて名乗れ!」
 胸壁から身を乗り出すようにして城兵が誰何してきた。モーリスはすでに堀のそばまで来ており、馬の足をとめて搭屋を見上げている。


「近衛一番隊のモーリス・ジュアン! 城代に言伝をもって参った!」
 搭屋の胸壁から別の一人も顔を出した。二人一組で見張りに立つようだ。
「城代は多忙の折ゆえ、書簡であれば受け取っておこう」
「書簡はない!」
 二人の見張りは高い所でしばらく顔を見合わせていたが、そのうちの一人が城の奥へ走り去った。残った方が再びモーリスに向き直る。
「しばし待たれよ」
 馬上のモーリスが大きく溜息をつくのが遠くからでも判った。


 朝日が低いところから射すので堀の水がキラキラと反射している。それを嫌ってか馬が首を曲げた。モーリスが手綱をゆるめたままなので馬ごと横向きになってしまう。厳格に定められた近衛の典範に反するだらしない姿で、使者として失格だ。だが今はそれでいい。肩を落とした髭面の男を、城壁の上から見張りがまじまじと見下ろしている。
「そなた、本当に近衛か?」
 モーリスは横様に振り向いて顎をあげ、胸鎧の一ヶ所を親指で示した。近衛の鎧には鎖骨の合わせ目に百合の紋章が浮き彫りになっている。


「近衛の一番隊というと、隊長殿はどなたであったかな?」
 見張り役がまだ疑うらしく、何気ない風を装って確かめにきている。モーリスは手綱をとって城兵に正対した。
「隊長は十人抜きのセネカ! 居並ぶ貴族を尻目に剣のみで隊長の座を勝ちとった我ら平民の星」
 この場に貴族がいれば誰の言葉かと顔を覚えられてしまうような台詞だ。余計なことを、と思うが悪い気はしない。俺の隊は平民ばかりで反骨漢が多い。朝から見張りに立たされている城兵も貴族出身の筈はなく、得心したように頷いている。


 搭屋の上に三人目の男が来た。
 ずば抜けて体格の良い男で、軽装ながら武装している。言葉をかわす見張りが緊張して頭を低くしている。体格の良い男はときおり眼下のモーリスに視線を走らせながら、やりとりの詳細を聞き出している。豪胆と慎重を併せ持つ男のようだ。胸壁に手をついて身を乗り出し、周囲を見渡してからモーリスをひたと見据える。
「城代のブルーノだ。誰からの言伝か」
 なるほどこの男がブルーノか。デルティス公の配下としては最古参で、信義に厚い武将として名が知れ渡っている。すでに四十は越えている筈だ。兜を被っていないので遠くからでもごわついた錆色の頭髪が見える。



「言伝はルナハスト将軍からのものだ」
 返事をしながらモーリスは馬上で背筋を伸ばしている。ブルーノはわずかに首を傾けた。
「将軍はクシャーフの丘で公務に就いている筈だが?」
 閲兵式に参加しているデルティス公の代わりに城を任されているブルーノは当然それを知っている。問いただされたモーリスは落ち着いた口調で答えた。
「その将軍から、言伝を預かっている」


 ブルーノは今起きていることがどうにも腑に落ちない様子で、黙ったままモーリスを見下ろしている。二人の対峙は堀をはさんで暫く続いた。
「ならばここで伝えるが良い」
 ブルーノの言葉を受けて、モーリスはちら、ちら、と左右を見た。それから搭屋にいる城代を見上げる。
「直接伝えると約束している」
 遠くて顔色までは見えないが、ブルーノがすっと体を引いて顎を胸につけるのが見えた。
「将軍にも部下がいる。なぜ近衛なのだ。おかしいではないか」


 モーリスは何と言い返すのか。正論を言われて俺なら返答に困るところだ。この作戦は失敗するかもしれない。ブルーノが伝令役のモーリスを疑うなら、城兵に命じて取り押さえにかかるかもしれない。その時は俺たちが出て行ってモーリスを助け出さねばなるまい。鎧のなかにじんわり汗をかいてきた。ぐずぐずせずに飛び出すべきかと思案し始めた時、モーリスが大声で返答した。
「日に夜を継いでここまで馳せ参じた。言伝を聞けばそれが何故か判るだろう。しかし城代殿が忙しいと言うなら、俺は出直す。それでよろしいか?」


 出直すと言いながら、モーリスは馬を返していない。搭屋の上にいるブルーノに向かって挑むように胸を張っている。顎鬚が胸から離れるほど顔をあげている。
「火急の用向きなのだな?」
 そう聞き返すブルーノの声を聞いて俺にも思う所がある。この男はクシャーフの丘で起きたことをかなり詳しく知っている。だからこそ過敏になっているのだ。
「その通り。だが取り込み中とあらば──」
「あいや待たれよ。いま橋を降ろす」
 搭屋の胸壁からブルーノが姿を消した。


 俺の背後にいる兵たちが身じろぎして甲冑の擦れる音がする。モーリスとブルーノのやりとりを耳にして兵たちも昂ぶっているのだ。振り向いて地面を押さえる仕種をする。鎧姿の男たちが鳴りを静め、ゆっくりと肩を上下させている。
 城から甲高い鎖の音が響いてきた。
 搭屋の壁には木製の橋が埋まっていて、その頂点からさらに上に二本の鎖と金属の支柱が伸びている。城内に巻き取られた鎖を城外に繰り出してゆくと、まずは支柱が壁から離れてせり出してくる。その先端に木製の橋が鎖でとめてあり、橋も手前に傾いてくる。


 鎖の音が響くなか、橋がじりじりと降りてくる。やがて、弧を描いて降りてくる跳ね上げ橋の先端が、堀に向かって数歩ほど突きでた土台にぴたりと重なった。モーリスが馬から降りて橋の先端に進み出た。
 その瞬間に、トマス率いる六名が無言で走り出した。屈んでいたトマスが前のめりに駆けだして砂を蹴りあげる。開口部に立ってこちらの様子を見ていた城兵が、走り寄るトマスたちに気付いて一瞬たじろぎ、振り返って大声をあげた。
「橋を上げろ!」


 俺は背後を振り返り、片手をさっと振った。
「走れ!」
 通りに飛び出すと、金属の靴が地面を踏む音が重なって響いた。俺よりよほど足の速い隊員がいて、橋のたもとまで行くうちに数名に追い抜かれる。再び歯車の音がしてたわんだ鎖が巻き取られていく。しかし橋の先にモーリスが立っているので、橋と支柱を結ぶ鎖が張りつめた時に歯車の音が一瞬止まった。そこからゆっくりと、鎖の音も重々しく、橋が少しずつ浮いていく。余程の力を込めて操作しているのだ。足元がぐらつくのでモーリスは両手でバランスをとっている。それでもそこからどこうとはしない。


 橋が上がって段差のついたところを、トマスたち六人が大股で通過していく。足元に手をついていたモーリスも転がるようにして城の中に走り込んだ。坂になった木橋を鉄靴が踏んでいく音がする。持ちあがった橋が邪魔でトマスたちの様子が見えなくなった。俺の率いる隊員がたどり着いた時は、もはや橋の先端は視線より高いところにあって手が届かない。行き場を失った隊員たちが堀に沿って散らばっていく。俺は慌てて今走って来た方へ戻る。後から走り寄ってくる副隊長の兵たちに向かって立ちはだかり、両方の手の平を見せて止まらせた。このままでは堀の間際で押し合いになってしまう。


 大きく肩を上下させ、鼻息荒く息を継ぐ数十人の男たちが、その場に立ったまま跳ね上げ橋を見詰めている。鎖の音は次第に小さくなり、やがて止まった。橋は中空に斜めに突き出たまま動きを止めている。城壁の中から物音はするが、剣戟の音は聞こえてこない。あとは祈るだけだ。トマスたちが跳ね上げ橋の操作部を占めて橋を降ろすか、失敗して堅く門を閉ざされてしまうか、そのどちらかだ。もし失敗すればトマス達の命はない。俺たちもこの人数で城攻めは出来ない。城兵から射掛けられる前に逃げ出さなければ退路も断たれてしまうだろう。捕まったトマスたちを置いて逃げるのは心苦しいが、さもなくば全滅してしまう。


 橋は動かない。
 居並ぶ男たちの白銀の甲冑に朝日が輝いている。この場に溢れる興奮が伝わるらしく、モーリス・ジュアンを乗せていた馬が神経質そうな声でいななく。まるで俺たちの時間ごと止まってしまったかのように、跳ね上げ橋は斜めに傾いだままだ。物事がどちらに転ぶか、じっと見守ることしか出来ない。兵を率いていると、こういう瞬間が稀にある。からからに乾いた口に一滴の水を待ち受けるように焦れるが、トマスを信じるしかない。やがて城壁に木霊するように高らかに鎖の音がし始める。木橋の先端は一度がくんと揺れてから、ゆっくりと降りてきた。


 跳ね上げ橋が降りた先に見えたのは、褐色の熊髭をはやしたモーリス・ジュアンが片手を大きく振って「早く来い」と手招きをしている様子だった。兜をはずし、長剣も吊るしていなかったが、羨ましいほど豪胆な姿に見えた。隣にいた隊員が、見えない壁を思い切り叩くように拳を振るのが目に入った。腹の底からおおおお、という声が溢れ出て、俺たちは一斉に橋に駆けこんだ。十歩程の橋を渡りきると、二人の城兵がトマスたちに組み伏せられているのが見えた。城兵の腕を背中に巻き上げて地に押し付けているトマスが、ちらっとこちらを見て頷いた。剣を抜く間もなかったようで、誰も傷ついていない。半日後には輜重隊を引き連れた近衛の本隊が到着する。それまでに我々が開城させておけば、無益な戦いを避けることが出来る。五十人の先遣隊の仕事としては上々ではないか。


 跳ね上げ橋の操作部をトマスたちに任せ、俺はさらに先に踏み込んだ。
 橋を渡って城壁の中に入ると、道は直角に曲がって数十歩も続き、その先で城内に通じる鉄格子の間につながっている。この道は外壁と中壁にはさまれた隘路で、ここまで侵入しても頭上の回廊からさんざん射掛けられる構造になっている。右、左と首を振って回廊を見上げるが、城兵は配置されていない。壁にはさまれた細道を、甲冑姿の近衛がひた走りに走る。三人並べば塞がってしまう程の狭さで、空が細長く見える。なんとも息苦しい。


 道の途中で二人の城兵と鉢合わせになった。
 俺たちが勢いよく走り込むので、二人はもと来た方へ退いていく。やがて曲がり角に差しかかり、開口部の戸を閉めようとしていた城兵を押し切って鉄格子の間に躍り込んだ。
 そこは二十歩四方ほどの空間で、高い壁に囲まれており、奥には最後の関門である鉄格子が見える。鉄格子の前に城代のブルーノと、武装した金髪の男がいるのが見えた。ブルーノが四十を越えた偉丈夫であるのに対して、金髪の男は青年といってよい若さだ。次々と侵入してくる近衛兵が、ブルーノたちを追い詰める。ブルーノは鉄格子のそばまで退いて金髪の青年を片手で庇った。


「これは誰が指揮する兵か!」
 ブルーノが大声で問うてきた。俺はすぐにも答えるべきであったが、有頂天になって返事が遅れた。ブルーノと同様、軽騎兵としての武装を整えた金髪の青年は、デルティス公の長子カールではないのか。トロワ離宮の竣工式で見かけた時のような少年の面影はなく、長剣を腰に吊るした姿は実に凛々しい。間違いない。城代のブルーノが庇うとしたら、カール公子くらいしかいないではないか。俺は思わず浮足立った。この二人を捕えたら作戦の目的はほぼ果たしたと言って良い。


「王より預かりし城を侵すのは誰か!」
 さらに人数が増える近衛兵を前にして、ブルーノが顔色に焦燥をにじませている。こちらに背を向けて鉄格子を開けようとすれば取り押さえられる距離で、かといって剣を抜けば多勢に無勢となる。灰色の壁に囲まれた空間は、あっという間に白銀色の鎧を身にまとった兵たちで埋め尽くされた。万事休すとはこのことだ。俺は近衛の隊長として命令を受けてこの地に来た。そして虜とすべき二人を壁に追い詰めている。思わず鼻孔が膨らむのを抑えきれず、剣の柄から手を離して一歩前に出た。
「隊長のセネカだ。これは近衛の検めである」
 ブルーノの眉間にぎゅっとしわが寄った。


「近衛の検めにも作法があろう!」
 ブルーノは剣の柄に手をかけているが、まだ抜いていない。前のめりになって俺の顔に食い入るような視線を向けている。
「ここはデルティス公の居城である。たとえ近衛でも土足で踏み込んで良い場所ではない。公務なら書状でまず目的を告げるべきであろう」
 書状なんてない。近衛の指揮官であるバイロン卿から直接命ぜられてここまで来ているのだ。しかし目的を問われて言い淀んでいては面子に関わる。


「デルティス公に反逆の疑いこれあり!」
 負けじと大声で怒鳴り返す。ブルーノは据わった目で俺を見たまま唇を歪ませた。
「公は昨夜、クシャーフの丘で逮捕されたが、夜陰に乗じて逃亡した。これより城内を検める故、関門を開いて近衛を受け入れよ」
 視界の隅に、暗紫色のローブを被ったバイロン卿が立っている。まだブルーノたちは気付いていないようだ。バイロン卿はフードの陰から射すような視線でなりゆきを見ている。


 一瞬だけカールと目をあわせたブルーノが半笑いの顔をこちらに向けた。
「お勤めご苦労なことだ。デルティス公はまだお戻りになられていない。わたしとカール様は出立するので、あとの事は侍従長のオイゲンに任せよう。城内が見たいなら存分に見るがいい」
「それは罷りならん。二人とも逮捕するリストに入っている」
 顔をぐっと伏せたブルーノが、髪と同じ錆のような色をした眉をひそませ、見上げるような視線で睨んでくる。
「なぜ我々を?」
「リヒテンシュタイン家に連なる者すべてに容疑がかけられている」


 ブルーノの後にまわっていたカールが前に出てきた。
「ありていに言わせてもらって良いかな?」
 鮮やかな水色の上着に白いキュロット、黒い長靴という出で立ちで、刀身の反った長剣を腰に吊るしている。ゆるくカーブした金髪に青灰色の目をした青年で、いやがうえにも漂う高貴を身にまとっている。両方の手の平をひろげてみせながら軽く首を傾けている。やや険しくはあるが、表情も姿勢も自然体である。俺は貴族を毛嫌いしているが、この男には嫌味がない。その瞳には晴れ渡るような朗らかさが宿っている。


「昨日の夜、父の窮地を告げる早馬がきた。濡れ衣を着せられて断罪される羽目になるとね。わたしとブルーノはこれからバイロン卿に話をつけにいくところだったのだよ」
 王子様がとんでもないことを言い始める。俺は思わず顔をしかめて返答をためらった。この男は嫌疑をかけられている立場だというのに、真相はバイロン卿の奸計であるということを前提に話しかけてくる。俺たちも腹の底ではそれを疑っているが、おくびにも出さない。命に関わるからだ。


「わたしはあなたを見たことがある」
 取り囲む甲冑姿の男たちが目に入らないかのようなゆったりとした立ち姿でカールがさらに一歩、俺の方に踏み出した。互いの剣の間合いに入ったので俺は半歩退いた。俺は命令されてもこの人を斬るのに躊躇するだろう。もし本当の貴族というものが存在しえるとしたら、この男こそそう呼ぶのが相応しいのではなかろうか。
「一度はトロワ離宮の竣工式の日。わたしはまだひよっ子だった」
 カールが微笑んだ気がする。こんな状況で人は笑えるものだろうか。何を言うのか続きが気になる。俺はこの男と二度会った覚えはない。


「二度目はあなたが御前試合で十人抜きをした日。わたしは隠れて試合を見ていたのだよ」
 遠く輝く北極星が目の前に降臨したような気持ちになる。今の今まで何の関係もないと思っていた人が、あの試合を見ていたというのか。カールの声に引き付けられてその場にいる者たちは黙ったまま話に聞き入っている。まるで金縛りにあったように動けない。
「あれはあなたには不利な試合だった。四人抜いて五人目のアンガス・ブラウンと戦った時、戦い方を変えましたね?」
 そんなところまで見ていたのか。こんな状況で世間話に加わるわけにもいかず、俺は不器用に一度だけ頷いてみせた。


 御前試合は王城の中庭で行われる。
 近衛の人事は主に家柄によってなされるが、そればかりでは体面が保てない。そこで剣技を評価に含めるために試合が催される。御前試合は、良い家柄に生まれつかなかった者に残された数少ない活躍の場ということになる。百歩四方はある中庭に出場者や審判が居並び、旗飾りのついた回廊の上から王族たちが見下ろしている。平民出身の者はその場にいるだけで浮足立つような晴れの舞台だ。


 しかし試合は茶番である。
 勝抜き戦の順番は平民から始まって次第に高位の貴族へと続き、最後には門閥貴族の子弟たちが待ち受ける。貴族がみな軟弱なわけではなく、それなりに剣を扱う者もいる。平民出身の者が勝ち残ろうとするならば、腕に覚えのある貴族を連続で倒していかねばならない。平民が全て負ければ、後は貴族たちが仲良く試合を演じることになる。古式ゆかしき作法にのっとった、それはそれは美しい演武である。


 ここは戦場、と心に唱え続けながら四人目を倒した時、貴族の連中が集まって何か話をしているのが見えた。五人目はブラウン家のアンガスで、平民を防ぎとめる最大の壁役を果たしている。そのアンガスが丸盾と片手剣を選んだ時、貴族たちの思惑が知れた。いつも両手で槍を振り回している巨漢の戦士がこじんまりとした装備を選んだのは、戦いを長引かせて俺を疲れさせるためだ。実際、試合が始まると、アンガスはがっちりと守ってきた。


 確かに息があがっていた。装備をつけたままそうそう長く打ちあえるものではない。俺は戦場にいるかのような殺伐とした戦い方をやめ、貴族の真似をして悠々と構えた。剣戟を軽くいなし、威力を無視して優雅に剣を突いた。剣を絡めて足を掬い、アンガスが無様に倒れた時は数歩離れた。そうしてにんまり笑って小首を傾げながら、彼が立ち上がるのを待った。俺はそういう戦い方を嫌うが、やろうと思えば出来るのだ。アンガスは怒りの声をあげて立ち上がり、我を忘れたようになって勢いよく打ちこんできた。そうなればつけいる隙も出てくる。


「あれは見事な挑発だった。胸がすく思いがしたよ」
 カールが清々しい顔をして言う。あんたも貴族の一員ではないか。それも王位継承権をもつ筋金入りの名門だ。そう思った瞬間、俺は自分の足元がぐらつくのを感じた。この人は血筋で貴族を名乗っているのではないのだ。バイロン卿が恐れるのも判る。ひとたび機会を得たら、このカールという男は人々の心を奪ってたちまち玉座につくだろう。


 カールが表情をひきしめてブルーノに声をかけた。
「ブルーノ、間違っても抜くなよ。多勢に無勢、ましてこの人に敵う筈がないぞ」
「しかし、カール様……」
 自分たちが既に捕らわれの身であることを二人とも承知している筈だ。ブルーノとカールの脇には、二人の城兵しかいない。しかもどうやら馬回りの役目らしく、長剣を帯びていない。


「高名な剣士セネカ殿に問う。捕えよと命じられているのは誰か?」
 カールは相変わらず涼しげな声で問うてくるが、その瞳に様々な思いが込められているのが判る。一族の興亡がかかる判断をしようとしているのだ。リストは胸の隠しに入っているが、既にそらんじている。俺は呪文をかけられたかのように名前を挙げていった。
「城代ブルーノ、会計主任クレメンス、侍従長オイゲン、長男カール、次男ヴィクトル、長女ソフィア。この六名だ」
 カールの表情がさっと曇った。いつも晴れ晴れとしている男に相応しくない陰鬱な表情で、絞り出すように声を出した。
「根絶やしではないか」


「そのリストはおかしいぞ!」
 横からブルーノが割って入る。
「なぜ姫君の名まであるのだ。デルティス公の反逆などでっち上げだが、それにしてもソフィア様の名前まであげるとは。恥を知れ!」
 俺は苦い顔をしてブルーノを見返した。言い返すべき言葉は見つからない。次男のヴィクトルや長女ソフィアはまだ子供といってよい年齢だ。デルティス公の謀反がはっきりした後に一族郎党が憂き目をみるというならまだ判るが、いきなり捕えるには理屈が通らない。


「なぜ父の名がない?」
 カールの小さな囁きに、俺ははっとして驚きを顔に出してしまった。デルティス公フランツ・ヨセフを探して捕えるのは当たり前の話だ。しかしそれをリストに書かなかったバイロン卿はどういう積りなのだろう。
「まるで、もう、この世にいないかのような扱いではないか?」
 カールの瞳には怒りと恨みがこもっている。思わぬところから不意に齟齬が露呈した。不穏な空気が辺りを包み込む。


 黙っている俺を、カールとブルーノが目を細めて睨んでいる。
 捕えるべき者のリストに、なぜデルティス公の名がないのか、と俺は問われた。なんと答えたら良いのだ? 返答に窮した子供のようにくだけた調子で、それは当たり前すぎるから書かなかったんじゃないかな、とでも言えば良いのか? あるいは城のなかにデルティス公が潜んでいるのを見つけても捕えなくて良いということか? 否、そんな筈はない。ここで本音を言わせてもらえば、バイロン卿は深夜にこのリストをばたばたと書いた。そのとき思わず、捕える必要のない者の名を省いてしまったのではないかな。なぜ捕える必要がないかは、バイロン卿に直接きいて欲しい。


 カールの表情がふと和らいだ。
「わたしはここで賢しらにあなたを責めたりはしない」
 俄かには信じられないことだが、カールはこの状況を腹に収めたのだ。
「みなそれぞれに役目を追い、それを果たすことで世の中は成り立っているのだからな。だが誓って言うが、わたしたちは反逆などしていない。わたしの身柄を大人しく預ける代わりに、他の者たちは見逃してくれないか? ソフィアはまだ人形を抱えてベッドの中にいるだろう。妹が縄目をうけて引き立てられる姿は見たくない」
 俺にも妹がいる。俺もそんなことはしたくないのだ。だが、はいそうですかと答えるわけにもいかない。奥歯を噛みしめながらなんと答えたものか逡巡する。


 俺は英雄にも、悪漢にもなれないのだ。
 その辺に転がっているただの男なのだ。英雄ならば、自分の信じる道を進んだらいい。俺は剣を抜いて、バイロン卿を斬り伏せるだろう。この晴れわたる空のような色をした瞳をもつ男が、次の王に相応しいのではないか? 物差しをあてて計ることのできない、心の底から湧き出てくる思いのすべてがそう告げている。俺は近衛兵になどならずに、この城にきてデルティス公のもとで働けば良かったのだ。このカールという男に忠誠を誓うのは、気持ちが良さそうではないか。


 あるいは、時流に乗って世俗で栄達をとげる決心をしたら良いのだ。家族の命乞いをしているこの男に哄笑を浴びせるのだ。そして、この期に及んで何を言うか、もはやお前の一族はお仕舞だ、と告げるのだ。バイロン様の統べる国を牢屋の窓から指をくわえて見ているがいい、と付け足してもいい。それならバイロン卿の覚えもめでたく、俺は出世するかもしれないではないか。
 だがそうは言えない。俺はこのカールという男の赤誠と、ここまで率いてきた仲間の間にはさまって物が言えなくなってしまった。


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