暗い森に雨が降っている。
 空は厚い雲に覆われ、風はまったくない。白い帆布が灰色に見えるほどの薄暗さで、木の葉の緑をかさねた先には闇しかない。そんな暗がりの世界で、しとどに濡れる葉を、雨水の流れ落ちる木々の幹を、松明のオレンジ色の光が照らしだしている。松明からほぼ垂直に伸びてうねる炎は蛇を連想させ、濃霧のように立ち込める闇の濃さと比べたらその光はいかにも心細い。


 俺は動乱の日の話を終えてから、フィアが何というか耳をすませていた。
 だがフィアもルメイも何も言わない。声が途切れると辺りを静けさが包み込み、雨脚の強まっていることを際立たせた。大粒の雨が際限もなく水溜りを打つ音が重なり合っている。フィアが顔を伏せているので泣いているのかと思ったが、「裏門で起きたことも話して」という声はしっかりしていた。か細く、抑揚のない声ではあったが。


 俺はフィアのもう一人の兄、ヴィクトルを捕えたいきさつを話した。
 守備隊長のセブロという老兵が指揮する隊にヴィクトルがまぎれていたこと。それを部下のトマスが見出したこと。ヴィクトルが堂々と名乗りをあげて城兵たちを庇ったこと。年端もいかぬ少年をバイロン卿に差し出すのが嫌で逃そうとしたが、副隊長の勝手な命令で斬り合いになってしまったこと。セブロを一騎打ちで捕えたこと。そこまで話した時、フィアが嗚咽を漏らして咳き込むように泣き始めた。俯いて肩を震わせ、膝を鷲掴みにする手に涙を落としている。


「兄さんたちに何があったのか、ずっと気にしていたの。話してくれてありがとう」
 フィアは鼻声でそう言うと、苦しそうに唸りながらひとしきり涙を流した。
「ヴィクトル兄さんは、気が小さくて、泣き虫だったのに、最後は皆を庇って、立派に振る舞ったのね」
 気持ちを言葉にするうちにまた新たな悲しみがこみあげてきて、肩を大きく震わせている。
「ああ。そうだとも。自分だけ捕えて、他の者は立ち去らせてくれと言っていた」
 俺とルメイは、フィアが体を振り絞るようにして泣くのを見ているしかなかった。


 やがて息を整えたフィアが語り始める。
「あの日、わたしはカール兄さんが言う通り人形を抱いてベッドで寝てた。そこへ、ノックもせずにいきなり部屋に入ってきたオイゲンが、大きな声で起きなさいと繰り返したの。手には背嚢を持っていて、着替えを詰め込んでいたわ。わたしは眠い目をこすりながらベッドから出て、オイゲンがわたしのお気に入りの服を床に撒くのを呆然と眺めてた」
 俺はちょうどその頃、かすれるような朝陽に包まれた城を遠目に、トマスたちと城下町を走っていた。別々の人間におきた出来事が、はるか遠い森のなかでつながったのだ。


「子供って莫迦よね」
 フィアがスンと鼻をならす。
「もしどこかへ行くなら、そのブラウスを持っていって、なんて声をかけてた。フリルのついたお気に入りが床に落ちていたのね。オイゲンはこちらも見ずに、質素な服に今すぐ着替えなさい、って言うだけで取りあってくれなかった。いつも優しい爺じの尖った声を聞いて、何か良くないことが起きたんだ、って思った。それから、爺じが高いところに手を伸ばした時、いつもは絶対にしないことをしてるのが見えた。お城のなかで短剣を吊るしてたの。それを見てすごい胸騒ぎがした」
 フィアが顔を上げてこちらを見た。
「わたしの人生が引っくり返った日よ」


 キャンプの中を照らしている竈の火勢が落ちた。薪を足さねばとは思うが、俺は小さく頷きながらフィアの話に耳を傾けていた。
「わたしはオイゲンに急き立てられてドアのところまで押し出されながら、最後に体をつっぱらせて部屋を振り返ったの。寝室用の細い蝋燭がわたしの部屋を照らしてた。ベッドと、本棚と、衣装箪笥と、小さなテーブルにほったらかしになってたお針箱。今ではどんなに手を伸ばしても届かない、わたしの幸せな子供時代……」
 フィアが言葉を途切れさせ、深呼吸している。


「オイゲンがつないでいた手を離して小さな声で命じたの。しばらく戻れないから何かひとつだけ持ち出しなさいって。わたしは枕元まで走って行って、ケイティを抱きしめた。お父様から頂いたお気に入りの人形と離れたくなかった。でもオイゲンが近寄ってきた時、取り上げられると思った。針道具の方がいいとかなんとか言われるのだわって。ケイティを胸にぎゅっと抱きしめて、別れを惜しんだの。爺じは腰を落としてわたしの顔を見て、頭を撫でてくれた。それを持って、ここを出ようって」
 フィアが苦しそうに笑って斜めに顔をあげた。
「ひと息の間が命取りになる時に、さぞかし気が揉めたでしょうね」
 そこにオイゲンという人間がいたのが、フィアにとっての運命だったのだ。俺なら剣に物を言わせようとしただろう。それなら、今頃は二人とも土の下だ。


「それから小走りに裏門へ向かった。お城にはドアの開けたての音が響き渡ってた。ほとんど誰にも会わなかったけど、見かけた人はみんな走っていたわ。裏門から広場へ出たら、大勢の人が吹きだまってた。守備隊の姿も見えたけど、そのなかにヴィクトル兄さんがいるとは知らなかった。みんな怖そうな顔をして立っていたの。
 その時よ。甲冑姿の兵隊たちが城下町へ続く道をふさいでいるのが見えたのは。百人はいたんじゃないかしら。それを見た瞬間に、ああ、わたしたち殺されちゃうんだ、って思った」


 取り返しのつかないことをしたという悔恨の念が、わるい物を食べた時のように胸元にせり上がってきた。
「フィア、ゆるしてくれ。俺は自分の小さな居場所を守るために、そしてあわよくば出世したいがために、罪のない人たちを脅かし、フィアの家族を死地へ追いやった」
 しぜんと頭がさがり、俯いたままフィアの言葉を待った。長い間があり、俺はとうとう顔をあげてフィアを見た。しかし暗くて表情がよく見えない。ずっと黙っていたルメイが呟く。
「俺からもお願いする。セネカのしたことを、どうかゆるしてやって欲しい」


 暗いのに目がなれてフィアの顔が見えてきた。わずかに頭を傾け、無表情のまま、静かに涙を流している。それは悟りの境地にも、激昂の寸前にもみえる。
「わたしがあなたをゆるすなんてことがあるわけないでしょう」
 フィアの喉から掠れ声が漏れてくる。俺は全身が冷え切った。ルメイが何かを言おうとして身じろぎした。
「わたしはセネカに命を救ってもらったのよ。どんなに感謝しても足りないくらいだわ。あの時あなたが女と子供を通してくれなかったら、わたしは兄たちと一緒に首を落とされていたわ」


 フィアが腰をあげて膝歩きで寄ってきた。座ったままわずかに上体を引いた俺に、のしかかるように手をまわしてくる。
「死んだ人は死んだ人。今さらどうにもならないわ。わたしが生きてることに勝ることは何もない」
 フィアが両手で俺の首を抱きしめ、湿った頬を押し付けてきた。
「ありがとう、セネカ。あなたは命の恩人よ。あなたの生き方は間違ってなかった。他の誰がなんと言おうと、わたしは一生、恩に着るわ」
 隣でルメイが、ほう、と溜息をつくのが聞こえた。


 体重を預けてくるので、俺は踏ん張ってフィアを支えねばならなかった。
「女子供は広場から出ろと言われた時、最初に名乗りをあげたのがタウアー家のナタリエ。彼女はわたしの刺繍の先生だったのよ」
 フィアは途中でスンスンと鼻をならしながら、俺の耳元に話しかけてくる。洗いたてのわずかに湿気た髪が俺の頬にかかり、キルティングの布服越しにしゃくりあげる体の震えが伝わってくる。俺は罪を帳消しにしてもらったばかりか感謝を受ける場面で、なにか気の利いた言葉を返さねばと焦っていたが、心の半分は別のことに持っていかれていた。フィアの体はこんなにも柔らかく、温かい。


「わたしとオイゲンが群衆から少し離れて立っていたところへ、ナタリエが目立たぬように近寄ってきたの。オイゲンは緊張してたけど、するに任せてた。わたしの大好きだった家庭教師は、わたしの指を二本だけ握り締めてそっと揺すった。貧相ななりをしてたんだけど、気付かれたのね。それから一度だけわたしの目をみて、ゆっくり頷いてから、名乗りを上げるために人を押しのけて前へ出て行った。近衛隊長の言うことが本当か、身をもって確かめるために。ああ。ナタリエが今も元気でいますように」


 フィアがそっと身を離した。合わさっていた胸元にこもるフィアの息の温かさが嘘のように消え去った。ひとりになるというのは、こういうことなのだ。家庭をもとうとする人たちの気持ちが初めて判った気がした。
「ナタリエは無事に街まで歩いていったわ。近衛隊長は約束を守る人だったの。わたしは爺じに押し出されて広場を出る行列の先頭に立った。そのなかにはバイロン卿が放っておかないような人も何人かいたわ。広場を出てから暫く様子を見てたけど、そのうち斬り合いが始まって、男の人たちも逃げてきた。そこで爺じとまた会えたの」


 あの時のことを思い出して思わず目を細めた。副隊長のバーミンガムを、俺はよく抑えておくべきだったのだ。それがしっかり出来ていれば、誰も傷つけずに済んだものを。探るように俺の表情を見ていたフィアが、肩に乗せていた手に力をこめた。
「多くの人が救われたの。あなたがしてくれたことなのよ」
 フィアは名残惜しそうに俺の首に手をまわしたままでいる。
「自分を責めたりしないで。もしセネカが百人の部下に号令をかけたら、広場にいた人たちを皆殺しにすることだってできた筈よ」
 俺はフィアの視線を間近に受けながら苦笑した。
「そんなに沢山じゃない。二十人だ。俺は市民が殺到してきたら、どうやって逃げるか必死に考えていたんだよ」


 フィアが俺の肩に手を乗せたまま目を細めた。
「セネカ。あなたを騎士に任命するわ。わたしにその権限があるなら、だけど」
 泣き腫らした顔に、やっと本当の笑みが浮かんでいる。フィアはそばにいたルメイにも手を伸ばし、「それからルメイもね」と言って顔を近くに手繰り寄せた。
「二人がわたしを助けるって言ってくれた時、どんなに嬉しかったか」
 フィアは俺とルメイの間に顔を伏せた。


「オロンゾに捕まってわたしの身の上が暴かれた後、森に捨てられると思っていたの。二人とも優しいから身ぐるみ剥がしたりはしないと思ったけど、とても一緒にはいさせてくれないだろうなって。わたしはずっと一人でやってきたけど、もしセネカとルメイが去って行く後姿を見たら、もう生きてはいけなかったと思う」
 ややあってルメイが口を開いた。
「そんなことするわけないだろ。俺たちは仲間じゃないか」
 フィアを慰める言葉が喉まででかかっていた。しかし俺はフィアに優しい言葉をかける代わりに、ぐいと身を引いて後ろを振り返った。雨の音にまじって小枝の折れる音がしたのだ。


 俺はそばにあった剣を取って闇に向かい、目をこらした。何かがこちらに歩いてくる。ほんのいっときとはいえ、周囲への用心を怠ってしまった。
「誰かくる」
 フィアが緊張した声を発して俺の隣に並んだ。ルメイもメイスを取って森を凝視している。何者なのか見えないが、こんな大雨の降るさなか、暗い森のなかを歩いているとしたらまともな奴じゃない。俺は自分の周囲を見渡した。竈の火が消えかかってキャンプの中まで闇が侵食している。消えかかった松明が一本。四方は遮るものが何もない深い森。物音がした方へ視線を戻すと、低い唸り声がした。不器用なまでにゆっくりと歩いてくる。


 キャンプでは火を焚いている。相手からこちらが判らない筈がない。
「俺はセネカ、冒険者だ。立ち止まって名乗れ。さもなくば斬る!」
 雨音に負けじと大声で怒鳴るが、闇のなかを歩いてくるものは答えない。唸り声をあげてそのまま歩み寄ってくる。もうそばまで来ている筈だが、そちらには松明を置いていないのでまるで見えない。
「人間、男、壮年、金属武装してない」
 音から判ることをルメイとフィアに告げる。


「フィア、雨具を着て松明の管理を。暗すぎる」
 フィアが小走りに荷物置き場に向かった。
「ルメイ、武装をしてキャンプの中で迎撃の準備を」
 俺はさっとブーツを取って足元に置いた。帆布の屋根の外、水溜りのなかに剣の鞘を刺して立てると、上目使いに森を見ながらブーツに足を通した。
「周囲に警戒を。二人とも体を濡らさないように」
 そう言って剣の柄を握りこむ。鞘に手を添えながら抜き放つと、暗い森のなかにシャリイイインという音が響いた。泥濘に刺さった鞘はそのままに、柄を絞りこむようにして上段に構える。唸り声をあげる奴に向かって一歩踏み出すと、大粒の雨が瞬く間に俺をずぶ濡れにした。


→つづき

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