地下道の入口がどこにあるのか尋ねた。
 シラルロンデの塔の壁に小さな目印があり、そこに金属で触れると扉が開く。それが黒の道と呼ばれる地下道の入口で、カルディス峠の地下を通ってカオカ遺跡まで続いている。その先は石の道となり、イルファーロを越えて遠くチコルやデルティスまで続いているという。石の道は白い石材で固められ、黒の道は石とも金属とも見分けのつかない頑丈な黒い壁で覆われている。おそらく塔の基部でみかけた黒い壁と同じ材質で造られているのだろう。


 クレメンスはシラルロンデの廃屋に隠れていた時、そこを訪れた王の耳に危うく見つかりそうになった。物陰に隠れて様子を見ていたら、引き上げていく王の耳が壁に剣先をあてて扉を開くのを見たそうだ。時間をおいてから自分で試してみたところ、同じように中に入れたという。
 この話が聞けて良かった。これで俺たちもその地下道を使ってカオカ遺跡まで行くことが出来る。それなら山賊たちが待伏せしているカルディス峠をすり抜けてイルファーロまで帰ることが出来るではないか。


 フィアは地下通路の中は安全なのかと尋ねた。
 敵に襲われても逃げる場所がないのだからそれは気になる。クレメンスが言うには、人通りがない黒の道はほぼ安全らしい。玄室から何かの気配を感じたことはあるが、通路でモンスターに遭遇したことはなかった。
 だが、石の道は人の往来があって危険だという。石造りの地下通路にさしかかった時、沢山の足跡や散乱する食べ残しを見て引き返した。黒の道には人通りの跡がなかったが、石の道は踏み荒らされていた。


「そこで引き返したなら、石の道がどこへつながってるかどうして判ったの?」
 フィアが疑問を口にした。
「荒れ果てた地下室の床に、炭で描いた簡単な地図が手で描いてあったのです。石の道を使ってる連中も迷ったらたまらないからそうしたのでしょう。道はその先で二手に分かれて、片方にチコル、もう片方にデルティスと書いてありました。綴りが間違ってましたけどね」
 ルメイが怪訝な顔をして口を挟んだ。
「地下道なんてのは初めて聞いたけど、誰が使ってるんだろう?」


「山賊たちです」
 クレメンスが吐き捨てるように言う。
「安物の革鎧がうち捨ててありました。血がついてましたよ。分捕り品をそこで山分けして、有り余る食糧を食い荒らした跡がありました」
「なんてこった」
 ルメイの顔色も苦くなった。
「山賊たちが黒の道に押し寄せてくることはないの?」
 フィアが心細そうに尋ねた。


「石の道の末端は、大きめの丸い部屋になっているのです。そこからとある方角へ黒の道が伸びている。だからその積りでじっくり目印を探さないと黒の道には入ってこれません。石の道は洞窟や跳ね上げ戸で地上につながってますが、黒の道は完全に塞がってますから」
 これはわたしの推測ですが、とクレメンスが断りを入れる。
「石の道も、黒の道も、世の中には知れ渡っていません。特に黒の道は王室につながる者しか知らないようです。わたしはシラルロンデの廃屋でその出入口も見張っていましたが、人が使うのを見たのは一度きりです」
 もし冒険者が石の道に迷いこんだら、おそらく逃げ道もないまま山賊たちに全滅させられるだろう。誰も知らないわけだ。


「……おじ様はどこで命を落とされたの?」
 フィアがおそるおそる尋ねると、やや前のめりになっていたクレメンスは体を戻した。俯き加減にじっくりと考えている。こう言ってはなんだが、座ったまま事切れている死体のように見える。
「わかりません」
 クレメンスが低い声で囁いた。
「覚えていないのです。黒の道が使えるようになって探索はとても有利になりました。カオカ遺跡からシラルロンデまで地下を通って安全に往き来できるようになりましたから。幸い金にも困っていませんでした」


 クレメンスが今生きていなければ、いや、そういう言い方は語弊があるかもしれない、自分の意志で体を動かすことができないなら、つまりまっとうな死体であるならば、体を検めて死因を探せる。しかしこの状態では失礼にあたるだろう。
「シラルロンデで物見をする毎日でした。食べ物が尽きたら街に帰るの繰り返しです。そんな日々を過ごすうちに、高を括る様になったのかもしれません。自分は安全だ、というような」
 あり得る話だ。街から離れた場所で少しでも気を抜けば死につながる。怠りなく気を張っていても死ぬ時は死ぬのだ。


 クレメンスの頭上に輪郭のあやふやな遠見の窓がふっと現れた。
 シラルロンデの廃屋の屋根に登ったクレメンスが、白い瓦礫の先にひろがる森を眺めている。陽射しが強いので夏のようだ。うねりながら流れるアリア河が森のなかに垣間見える。深緑の下地に刷毛でうっすらと青を引いたように見え、すべてがくっきりと照らし出されている。地平の上には濃い青空と白い入道雲。見渡す限りに広がる大森林に、人の気配はまったくない。
 クレメンスはそうして、フィアとオイゲンが通りかかるのを待っていたのだ。それがどれほどの月日か知らないが、ただひたすら待つしかないということは、焦がれるような気持ちがしただろう。


 窓が見える範囲をフィアとルメイのいる場所までひろげた。
 ルメイがはっとして俺の顔をみた。フィアもちらと俺を見る。だが二人とも何も言わず、クレメンスの頭の上に浮かぶ遠見の窓をじっと眺めた。
 景色が夕暮れとなり、空が茜色に染まった。そこにクレメンスの黒いシルエットが浮き彫りになる。首をまわしてゆっくりと左右を確かめている。こんなに周囲を隙なく見ていたからこそ、招かれざる客が来た時も先に気付くことが出来たのだろう。
 俺は命をかけて剣を振るうのは得意だが、こういうのは苦手だ。俺ならすぐに諦めてしまっていただろう。フィアのそばにクレメンスという男がいたことも、フィアにとってひとつの運命だったのだ。


 クレメンスの追想を映す遠見の窓がぼやけて揺れ、やがて消えた。
「帳簿には何が書かれていたのです?」
 ルメイが商人らしい質問をする。物思いに耽っていたクレメンスが体を起こした。
「領地の経営を記した元帳です。わたしが持ち出す前、デルティス城の動乱の日の直前までの仕訳がすべて記されています」
 クレメンスが気色ばんで答えると、ルメイが目を見開いた。俺には二人が何に興奮しているのか判らず、そっとフィアの顔色をうかがう。フィアも横目で俺を見ている。


「小麦勘定の動きは?」
 ルメイが尋ねると、クレメンスが指でぴたりと宙を差した。まさにそれ、と仕草で言っている。
「例月より少ないくらいです。ちょうど緊縮財政をしているところでしたから」
 ルメイがなるほどと頷いている。俺も曖昧に頷いてみせた。フィアはちらちらと俺を見ている。ところで、小麦勘定って何だ? クレメンスが我が意を得たりと話し出す。
「馬事勘定はもっと顕著です。閲兵式の費用負担をバイロン卿から求められていたので、馬に刀剣、盾など二割は売却していました」
 これは何の話なのだ。呪いの森で、死体と、経営の話をしている。ルメイには興味深いのかもしれないが、門外漢の俺にはさっぱり判らない。


「人事も変化なし。デルティス城の動乱から遡って十ヶ月以上は、城勤めの者たちへの給金も変動なしです」
 ルメイが手を打って、なるほど、と感嘆している。俺はもう腕組みをしてあらぬ方を見ている。二人が意気投合しているならそれで構わないが、これは今話すべき事柄なのだろうか。クレメンスがルメイの方にぐっと身を乗り出した。何か決定的なことを言おうとするかのように指を一本立てている。
「しかも都合の良いことに、動乱の三日前が徴税官の査察日でした」
「ということは、あるのですな? 最後の仕訳のそばに、サインが?」
 クレメンスが深々と頷く。


 ルメイが決然とした顔で俺を見た。
「セネカ、その帳簿を何としても手に入れよう」
 そう言われても俺はふやけた笑顔を返すのがやっとだ。
「すまんが、俺にはその帳簿に何の意味があるのか、さっぱり判らんのだが」
 ルメイがはっとしてクレメンスと顔を見合わせた。
「そうか、セネカには説明が必要だったか」
 ルメイが後ろ頭を掻いている。その横からフィアが「わたしにも」とそっと言い添えた。


 ルメイがひとつ咳払いをする。
「どこから説明したものかな。そうだな、まず小麦勘定とは、食料を仕入れる時につかう経費勘定だ。馬事勘定は武器などを買う時の勘定。あの当時、デルティスの城には食料の備蓄が無かったし、馬や武器は集めるどころか売りに出していたくらいだ」
 なんとなく意味が判ってきた。フィアは不安そうに半笑いを浮かべている。まだ理解できていないのだ。
「人事なしということは、兵の再編成もなし。それがどういう意味か、判るかい?」
 フィアは首を横に振っている。俺はなるほどと頷いた。


「デルティス城は、いや、リヒテンシュタイン家は、戦争の準備をしていなかった、ということだよ」
 フィアが弾かれたように背筋を伸ばした。
「当然よ! お父様は戦の話などまったくしてなかったわ!」
 フィアの心外そうな声を押し止めるようにルメイが手のひらを見せた。
「わかってる。でもそれを誰の目にもはっきりと示すには、証拠が必要だ」
 フィアが眉根を寄せてルメイを睨んでいる。クレメンスが我慢できないという顔をして口を開いた。
「ソフィア様、我々がどんなに言い募っても、証拠にはならないのです」
 フィアはクレメンスを見返しながら唇を引き結んでいる。


「だが帳簿がある」
 ルメイが堂々と言い放った。
「兵を組織せず、兵糧をためず、武器を売って反乱をくわだてる者はいない。まして王室から派遣された徴税官が棚卸をして、確かな仕訳だとサインをしている」
 俺にもやっと理解できた。あの動乱のさなか、そこまで頭を働かせて帳簿を持ち出したとなれば、このクレメンスという男は相当な切れ者なのだ。俺はルメイの言葉を引き継いだ。
「フィアの家族の無実を証明する証拠になるわけだな?」
 ルメイとクレメンスが深く頷く。


 フィアが涙をこらえたまま両手を握り合せた。
「おじ様、命を危険にさらしてまで証拠を持ち出して下さってありがとう。わたしは何としてもそれを手に入れるわ。父や兄たちのために。そしてわたしの未来のために」
 フィアの言う通りだ。その証拠が出るべきところに出ない限り、フィアにはまったく未来というものがない。
「ぜひそうなさって下さい。そうしてもらえたら、私も浮かばれるというものです」
 俺は言うべきことを見つけた。だが言いづらい。少し躊躇してから、それでも言っておこうと思った。


「クレメンスさん、あなたは立派に生きた」
 クレメンスが俺をまじまじと見る。
「そのうえ死してなおフィアに尽くそうとしている。オイゲン殿に勝るとも劣らない立派なことだと思うよ」
 クレメンスが膝のうえで両手を握りしめた。
「そんな風に言って頂いてありがとうございます」
 ルメイが何か言いかけたが、それは俺のくしゃみで掻き消された。
「失礼」
 俺はすぐに謝ったが、立て続けにくしゃみが出て止まらない。


「いっけない! ずぶ濡れじゃないの!」
 フィアがすくと立ち上がって俺のところへ来た。ルメイもやってくる。
「待て待て、大丈夫だ。自分でやる」
 俺は両手を突き出してフィアを止めようとしたが、ルメイと二人がかりで革鎧とキルティングの布服を脱がされてしまった。確かにそれは雨水を吸って重くなっている。体が急に軽くなったと思ったら、背中をどしどし押されて竈のそばに追いやられた。
「ほらほら、下着も脱いで! これを被って火にあたって」
 俺は下着も剥がされ、肩から乾いた毛布をかけられた。ルメイが毛布越しに背中を擦り始める。


→つづき

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