魔法の微かな光が石壁の廊下を照らしている。
 俺は目をむき、物も言わず、盾を体に引きつけて走っている。ロミルワスを唱えてくれた神官は翼をもつ四足の魔物に目の前で引き裂かれた。兜を伝って鎖骨に流れ落ちてくる返り血が驚くほど熱い。フランジのついたメイスで応戦した戦士は魔物の腕の一振りで壁に叩きつけられた。戦士が丸盾を構えて身を縮めるのが見えたが、次の瞬間には壁際に倒れ込んでいた。物陰から何本も触手が伸びてきてその体を絡め取っている。迷宮の壁に戦士の叫び声が反響した。


 パーティーは俺をのぞいて全滅した。
 あの魔物の、遠慮なしに近寄ってくる態度には見覚えがある。豹が獲物を襲うときの不遜な身のこなしだ。獲物をどう倒したらよいか熟知していて、相手には反撃をゆるさず、追い詰めて殺すことしか頭にない。俺はほんの一瞬、任務のことを考えて踏みとどまるか迷った。だが背後にもう一体、新手の魔物がいるのに気付いた瞬間に退いた。間一髪で魔物の一撃を逃れたが、その爪が盾を掠めたせいであやうく倒れそうになった。こんな攻撃をまともにくらったら一撃でやられてしまう。よろめいて壁に手をついてから、振り返りもせずに走り出した。豹に襲われた鹿がそうするように。


「こんなのは無理だ!」
 生まれて初めて任務を投げ出した後ろめたさに思わず怒鳴る。二つの中隊を呑み込んで生還者を一人も出さなかった遺跡の深部を、一組のパーティーで攻略できるわけがない。しかしそれが、辺境調査隊に下された命令であった。要するに死んでこい、というわけだ。編成もにわか作りで出発の日に初めて顔ぶれを知った。名前を知っていたのは同じ近衛に属していた剣士ひとりだけ。彼はアリア南部出身の貴族の子弟だった。つまりは、バイロン卿が「こいつには死んでもらおう」と判を押した人間ばかりが集められていたのだ。


 辺境調査隊に転属させられた者たちは、ある朝、旧地下水路の深部に設営された近衛の駐屯地に集められた。そして集まったその日のうちに敷地の端に整列させられた。武人というよりは小役人のような顔をした調査隊長が、俺をパーティーリーダーに任命した。パーティーに課せられた任務は、広大な遺跡の一番奥まで行って探索と測量をすべし、というものであった。一歩前に進んで指令書を受け取った俺の背後には、打ちのめされた顔をした七人のパーティーメンバーが並んでいた。


 旧地下水路は王都の用水のかなめだ。たびたび氾濫するアリア河の地下に空洞を掘って水を引き込み、貯められた水を灌漑に利用する。十年ほど前、その地下施設に亀裂が生じているのが見つかった。壁の裂け目を修復する為に集められた工夫たちは、その奥で遺跡を発見する。複雑な構造で広さは計り知れず、魔物がうろついている。何度か調査隊が送り込まれたが、深部からは誰ひとり帰ってこなかった。
 旧地下水路から王城までは歩いて半日の距離だ。すわ大事とばかり、魔物が溢れてくるのを防ぐために近衛の駐屯所が設営された。巨大な暗渠とでもいうべき地下の施設に、点々と松明を置いてテントが並んでいる。俺たちのパーティーが並ばされたのは、まさにその亀裂の目の前であった。


 すぐにも出発しろという命令を受けた俺は隊長に詰め寄った。
「食い物を支給してくれ」
 こんな顔も知らない男に見下されるのは業腹であった。おそらくは何の武勲ももたない者が、バイロン卿に取り入って辺境調査隊の指揮官役に就いたのだろう。組織の長たる面構えをしていない。俺が食い下がると、隊長は部下に命じてしぶしぶ糧食を出してきた。それをパーティーメンバーに配っている時に、テントの奥から冷笑を浮かべたバーミンガムが出て来た。近衛の軽装に特注のマントを羽織っている。俺たちが立っていた場所は暗くてじめついていて、立ち振る舞いから貴族の匂いが溢れ出ている男には似つかわしくない場所だったが、俺が死の任務に出ていくのを見届けるためにわざわざ出張ってきたのだ。


 俺の代わりに一番隊の隊長に就いた男が意気揚々と口を開いた。
「辺境調査隊に任命された諸君の活躍を期待している」
 そう言って、手に持っていた何かを俺の足元に投げた。朽ち果てたような煉瓦の床に、ひび割れた林檎が転がっている。
「厳しい任務につく諸君には特別食が支給される。拾いたまえ」
 バーミンガムが勝ち誇った顔をして俺を見た。俺は黙ってその林檎を拾い、背嚢に詰めた。それから気を付けの姿勢をとってバーミンガムに正対した。据わった目でじっと相手の目を見る。任務を完遂できたら、或いは生き長らえるかもしれない。だがここで反抗的な態度を示せば、俺はこの貴族の倅に生殺与奪の権利を与えてしまうことになる。今、こいつはそういう職権をもっているのだ。怒りは体の外に現れず、結晶のように研ぎ澄まされて心の底に沈んでゆく。


 バーミンガムがふんと鼻をならして両手を背中にまわした。
「改めて伝えておく。敵を目の前にして逃げ出した者は厳しく罰せられる」
 背後で何人かが、自分の運命を呪って呻き声を漏らした。俺はパーティーリーダーとしてこいつらにやれるだけのことをしてやりたいが、顔も知らない連中を寄せ集められては意気があがらない。バーミンガムは楽しくて仕方ないという顔つきで俺を下から覗き込んだ。
「どうした? 早く出発したまえ」
 俺は踵を返し、人が通りやすいように長方形に切り通してある亀裂の中に向かって歩いた。歯を食いしばりながら。


 他にやりようが無かったとはいえ、俺は怒りで心が曇っていた。
 乱暴に歩いて遺跡の中に入ってから、全員に自己紹介をさせた。ありあわせの顔ぶれでなんとか任務をこなそうと考えていたのだ。近衛が三人いたが、残りの五人のうち四人は文官であった。名乗るのを渋った最後の一人に至っては、罪人だった。王都で刃傷沙汰を起こした貴族で、裁きも受けぬまま調査隊の荷役を課せられたのだ。俺たちを抹殺するついでに処刑しようという魂胆だろう。その編成に暗澹たる思いを抱いた。何かをやり遂せる構成ではなかった。


 考えるのをやめろ。全滅してからあれこれ悩んでどうなる?
 悔しさと、疚しさと、怒りをないまぜにした激情を抑えながら、苔がこびりついた石壁の道をひたすらに走った。二十歩四方を照らすロミルワスの光は術者の神官が死んでもなお俺の周囲を照らしてくれている。この明かりはパーティーメンバーにしか見えない。まことに便利な魔法だが、そう長持ちはしない。この明かりが途絶えたら、俺は二つにひとつを選ばねばならなくなる。暗闇の中を手探りで進むか、松明に火をつけてそこらじゅうのモンスターに居場所を知られるか。いずれにせよこのロミルワスが切れるまでに入口のそばまでたどり着かなければならない。体は砂が詰まったように疲れ果て、どれだけ吸っても息が足りないが仕方ない。こんな所で死んでたまるか。


 廊下の先に見覚えのある扉が見えてきた。
 最初の調査隊が野営をした広間だ。そこまでたどり着けば最悪、手探りでも帰れる。野営地とはいっても魔物の襲撃を受けて滅茶苦茶に荒され、床に松明や木材などの残骸が散乱している。この広間に来た段階で俺のパーティーはまだ四人が生き残っていたが、その有様をみてわずかに残っていた希望が消えうせた。テントを立てるための支柱がなぎ倒され、輜重を入れてあった木箱がずたずたに切り裂かれているのを見れば、ここが全く安全でないことが判る。この遺跡のなかに安全な場所などないのだ。


 迷宮にむかって開いている出口があることに耐えられなかった最初の調査隊は、とりあえずの物資で扉を作った。それは当初、開口部を覆う戸板と、それが倒れるのを防ぐ三角の支柱からなっていた筈だ。だが今、その扉はなかば叩き割られ、なかば傾いて無残な姿を晒している。扉の残骸に手をかけてさっと振り向くと、魔物は目に見える場所にはいない。だが回廊を曲がった先から重い足音が聞こえてくる。まだしつこく追いかけてきているのだ。慌てて広間に入った瞬間に辺りが真っ暗になった。ロミルワスの魔法が切れたのだ


 俺は反射的に腰を落とした。
 小手を外し、自分の目の前の床を触って確かめる。木材の切れ端と、千切れた帆布のざらついた感触がある。闇のなかに荒々しい呼吸の音が響いている。
 生き延びたかったら落ち着け。
 四つ這いになって手探りで進みながら自分に言い聞かせる。この部屋には燃える物が散乱している。火をおこす道具を持っているのでいざとなったら明かりをとることは出来るかもしれないが、完全な闇のなかでやるのは一苦労だろう。腹の底から動揺と焦りが膨らんでくる。


 両手を慌ただしく動かしながら背後の音に耳を澄ませる。
 ここに魔物が踏み込んできたら俺はお仕舞だ。さっき扉の隙間から垣間見えた反対側の開口部に走り出したくなるが、そんなことをすれば倒れて怪我をしたうえ、大きな音をさせて魔物を引き寄せてしまうだろう。それにここから先は近衛の駐屯地に近く、警邏隊が巡回している。もし鉢合わせしたら逃亡兵として捕えられてしまうだろう。進むも退くもままならない。自分の鼓動の音が石壁の広間に反響しているような気がしてくる。


 震える手で床をさぐりながら進むうち、数歩先の暗闇に遠見の窓が開いた。
 使い古された木枠に上辺がアーチ型になった扉がはまっている。金属の取っ手がついた扉はわずかに開いていて、その向こうから微かに光が差している。その淡い光が、扉のそばの床を鋭い三角に照らしている。粉々に割れた深緑のガラス瓶、千切れた羽根ペンの残骸、血がこびりついて黒々とした羊皮紙、ささくれ立った木片、そして床を撫でている俺の指先。目をこらして遠見の窓を見ると、扉の上辺に三日月の形をした印が打ち付けてある。ゆっくりと立ち上がった時、扉の奥から小さな声が聞こえた。その声は、入りたまえ、と言っている。静かな老人の声だ。俺はこの人を知っている。


 背後で木が裂ける大きな音がして振り向く。
 俺を追いかけてきた魔物が、開口部から首を入れてこちらを見ている。その二つの瞳が、遠見の窓から漏れる光を赤く反射している。ドルルルル、という喉を鳴らす音とともに、その口から湯気のような息が漏れ出ている。翼をもつ四足の魔物が、もどかしそうに扉の残骸を押し広げて広間に入ろうともがき始めた。
 もう考えている暇はない。
 俺は様々な残骸を踏みつけて音をさせながら遠見の窓に歩み寄り、取っ手を押し開いてその向こう側の世界に身を躍らせた。


 身を翻して扉を閉めた瞬間に、騒々しい物音がすっかり止んだ。
 首をまわして自分が飛び込んできた暗い世界を眺める。足元には土の感触があり、真夜中の草原かな、と思う。風はないが、空気の感じが広々とした場所にいることを告げている。さっきまでいた地下のような暗闇ではないが、空には星も月も姿がみえず、不気味なまでの暗さに包まれている。かろうじて老人が立っているのが見えるが、それは案の定、イシリオンであった。これまでに見た装束とちがって随分と擦り切れたローブを羽織っている。そちらに向かって歩き出そうとした時、足元に生えている草がブーツに当たってがさがさと音をさせるのに気付いた。


 故郷では、ゆばり草と呼ばれている。
 湿気た日陰に群生して独特の匂いを放つ。葉は矢尻のような形をして紫の縁取りを持ち、その葉を掻き分けるようにして伸びた茎が四つの白い花弁を支えている。花弁の芯からもこもことした黄色い穂が伸びている。成長しても膝まで届かないような下草ではあるが、抜いても抜いても生えてくるしぶとい草だ。
 そのゆばり草が、見渡す限りの地面を覆っている。一帯の空気はその匂いに満たされていて、頭が痺れるような気がしてくる。顔をしかめて鼻を鳴らすが、その匂いに染まらぬ空気はこの界隈にはなく、いやがうえにも吸い込むより他ない。


 おそるおそるイシリオンに歩み寄るうちに、ゆばり草の海原に黒い球が落ちているのが見えた。人の背丈の倍もある大きな物だが、暗がりの中にある真っ黒い球で見出すのが遅れたのだ。球体は炭のように黒く、まったく艶がない。それが何だか俺には判らないが、恐ろしく不吉な物に見える。
「それはわたしに由来する物だから気にしなくていい」
 イシリオンが憔悴しきった顔で俺に告げた。その一言で、この球体がイシリオンの果てしない心労の源であることが伝わってきた。


「わたしの呼び声に応えてくれて感謝する」
 イシリオンの顔にはなんの表情も浮かんでいない。そこには怒りも、悲しみも、焦りも、何もない。だがこんなに深い表情をした男を俺はこれまでに見たことがない。自分の見知ったものを見つければ、俺たちは心当たりが浮かんでそれが何であるか見当をつける。しかし自分のまったく知らないものを見たとき、俺たちはそこに何の意味も見出せない。俺はこの老人のような心になったことがないし、今のイシリオンのような心になっている人間に出会ったこともない。


「あなたに謝らなければならない」
 俺はこの人の意を無視して進んできた。それなのに、自分が危機に瀕した時はこの人の名前を使った。まったくもって勝手な話で、申し訳なく思う。だが俺がその話をする前に、イシリオンは別の話を始めた。
「君はまだシラルロンデに辿りついてないな」
 この人の顔に浮かんでいるのは失望だろうか。俺には判らない。
「君に頼みたいことがある。会ってから話す積りだったが、事態が切迫してきた」
 その話をされるのは厭だな、と思う。いっそこの世界から逃げ出して、遠見の窓をくぐって元の世界へ戻りたい気がしてくる。だがあちらはあちらで大変なことになっているのだ。ゆったり日向ぼこが出来る世界につながっている窓を出せないものだろうか。


 イシリオンが俺から視線を外して黒い球体を見詰めている。
「力が尽きてきたのだ」
 そんな筈はない、と言おうとして口をつぐむ。俺はこの魔法使いを万能と思い込んでいる節がある。だがこの老エルフも、永遠に生きることはできないのだろう。
「わたしは最果てで待ち続けている。ずいぶんと長い時間だ」
 暗がりの草原に、大きな黒い球、悄然とたたずむ老人。この世の景色ではない。最果てというのがどこか知らないが、まったく現実離れした風景だ。イシリオンがゆっくりと俺を見る。
「かつて一緒に旅をした者を遣わす。その者と共にここへ来て欲しい」


 断りたい。
 そんな話は断りたい。この人がとても困っているのは判るが、得体の知れない恐怖が俺を包み込む。イシリオンはじっと返事を待っている。黙っているのが苦痛になってくる。何か答えねばと思ううちに、この世界の変化に気付いた。イシリオンのフードが風にはためいている。ゆばり草の草原に風が吹きわたっている。それと同時に、船がきしむような音が聞こえてきた。ぎぎぎぎぎ、という木材が強く擦れあうような音がどこからともなく響いてくる。


 イシリオンの背後にあるものを見て目を見開く。
 城塞のように巨大な建造物が、空を覆うようにそびえている。暗がりに屹立している影のようなものに沿ってじりじりと視線を上に向ける。軸に帆を張った長方形の羽根が、アリア河をゆく艀より巨大な四枚の羽根が、ゆっくりと回転している。その中央にある軸から、木の擦れ合う音がする。羽根には蔦草が絡まり、千切れた茎が垂れ下がっている。頭上で巨大な羽根がゆっくりと回っているのを見ているうちに、気が遠くなってくる。それを目で追いかけていると、自分の踏んでいる大地が動いているような気がしてくる。眩暈と吐き気に襲われる。大きな羽根が、この世界から、ゆっくりと生命を削り取りながら、回っている。



      *


→つづき

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