それは、夜中のわずかな物音から始まった。
 引っ越しの準備を終えてがらんとした家の中を娘のパメラが走り回り、メリッサもそれに付き合って遊んでいた。二人がはしゃぐ姿をルメイは椅子に座ってじっと見守った。疲れたパメラが眠そうな顔をするとメリッサが寝間着に着替えさせ、鏡の前で髪を梳かしつけた。背伸びをして鏡を覗きこみ、自分の髪を引っ張っているパメラは人形のようだ。二人ともベッドに入ってから間もなく寝息をたて始めた。やがてルメイも眠りに落ちた。しかしルメイの眠りは浅かったのかもしれない。今、ルメイだけが物音に目をさまし、ベッドから上半身を起こしている。


 ルメイ商会は郊外に建つ独立した屋敷だ。二階建ての母屋と低灌木を植えた小さな庭からなり、敷地はぐるっと塀に囲まれている。その庭から何かが落ちるようなドサッという物音が聞こえてきた。ルメイは妻と娘を起こさないよう静かにベッドから出ると、出窓の袖にかかった幅の細いカーテンをめくって庭を見下ろした。塀のすぐそばで何かが動いている気がするが、暗くてよく見えない。不審に目を細めたルメイが首を突きだすようにして見ていると、塀の上に人影が現れた。両手で体を持ち上げて片足をかけ、左右を確かめてからぐっと身を乗り出す。


 静まり返った夜にルメイは自分の心臓の音を聞く。恐怖が胸を締めつけてくる。振り向いてぐっすり眠っている妻と娘を見る。出窓の明かり採りから差し込む月光が二人を青黒く照らしている。その寝顔を見ているうちに、恐怖を押し退けて怒りが湧きあがってくる。視線を窓の外に戻す。縄梯子を下りた人影が下で待っていた男と合流する。二人は頷きあい、姿勢を低くして周囲を見渡している。腰に吊るした短剣の鞘を片手で押さえながら刀身を引き抜く。その刃が月光を反射して光った。


 ルメイはベッドから下り、メリッサの肩を揺すって起こした。メリッサが髪を払って眠そうな目を細く開けた時、ルメイは唇に指を当てたまま彼女の視線を待ち受けていた。その表情に尋常でないものを見たメリッサが慌てて何か言おうとする。ルメイはその唇に手のひらを当てて遮った。ごく小さな声で、賊が二人塀を越えて入ってきた、と告げる。メリッサの目が見開かれ、膝が毛布を押し上げて上半身が起きた。メリッサは隣で寝ている娘を見、暗い部屋の端から端を痙攣するような鋭さで見渡してからルメイの目を見返した。その瞳にありありと恐怖が浮かんでいる。メリッサの細い脚がベッドの脇に出てくる。ルメイは震えている妻が立ち上がるのを支えた。


「パメラと二人で屋根裏部屋に隠れて」
 ルメイはぐずる娘を抱え上げて廊下に出た。三歳になったばかりのパメラがルメイの胸元で片目だけ開けている。くしゃくしゃになった赤毛を頬につけたまま首を伸ばして周りを見ようとしている。ルメイは廊下の突き当たりのドアの取っ手を苦労して回しながら、大丈夫だよ、と繰り返した。娘を抱えたまま腕でドアを押し開くと、廊下が三歩分だけ先に伸びて壁にぶつかっている。そこから左に直角に曲がったところに階段室がある。ルメイがじっと見つめると、床から立ち上がる初めの数段だけが暗がりにぼんやりと浮かんで見えた。


 屋根裏部屋に続く急な階段をルメイはゆっくりと見上げた。その天井あたりに、全き闇がとぐろを巻いている。胸に巣食う怒りが冷水を浴びたようになりを潜め、代わりに恐怖が肌に爪を食い込ませてくる。一階の窓にはすべて鉄格子がはまっているし、玄関は頑丈な造りだ。二人の賊が家のなかに入るには手間がかかるだろう。しかしぐずぐずしている訳にはいかない。この階段を上がってメリッサとパメラを屋根裏に匿い、このドアの手前には物を置いて目隠しをする。そして急いで地下室へ降りねばならない。そこに置いてあるクロスボウに矢を番えて侵入者を待ち受けるのだ。


 自分が人を殺すつもりでいるのをルメイは静かに受け入れる。
 胸に抱いた娘の温かさと柔らかさ。これを守るためならなんでもやれる。押し入るのにうちを選んだのを後悔させてやる。連中は武装していたが、油断しているところを狙えばなんとか一人はやれるだろう。次の矢を番えるまで無防備になってしまうから護身用の剣もいる。生まれてこのかた武器を扱ったことは一度もないが、このさい仕方ない。すべてはどれだけ素早く準備できるかにかかっている。


 そのためには逡巡している暇はない。この階段を今すぐ登らねばならない。しかしルメイは娘を抱いたまま暗い階段を見上げて立ち止まっている。ルメイの頭に思い浮かんでいるのは階段下に転がる自分と娘の姿だ。昼間、明るい時でさえ何度か足を引っ掻けて両手をついた覚えがある。闇のなかに分け入った時、パメラは暴れたり大声を出したりしないだろうか。もし途中から転げ落ちたらパメラの細い首は折れてしまうかもしれない。


 有難いことに燭台を手にしたメリッサが戻ってきた。右手で燭台を目の高さに掲げ、左手で寝間着の胸元を押さえている。メリッサの瞳にはいまや恐怖だけではなく、決意の色も見える。メリッサが照らしてくれている階段をルメイは一歩一歩慎重に登った。細長い開口部を越えて屋根裏部屋まで上がると、ルメイはパメラをそっと床に下ろして木箱に座らせた。メリッサは部屋の奥まで進み、壁についている燭台の蝋燭に自分の持っている火を移している。屋根が三角になっているので天井が低く迫ってくるように見える。ルメイはしゃがんでパメラの髪を撫で、顔を寄せた。
「かくれんぼをしよう。じっとして静かにしてるんだよ」
 ルメイはなんとか笑顔をつくって見せるが、蝋燭の炎に照らされた顔には恐怖の陰影がこびりついている。パメラは顔を歪めて「怖い」と囁き、両手を前に突き出した。


 ルメイは娘に自分の腰を抱かせながら、両手でその頭を抱えて自分の胸に押し当てた。
「大丈夫。ここで待っていてね」
 ルメイはそっと身を離すと、メリッサから燭台を受け取った。
「二人ともじっとして声を出さないで」
 メリッサがルメイの腕に手を添え、気をつけて、と苦しそうに囁いた。ルメイは頷いて今登ってきた急な階段を下りた。階段室のドアを閉め、近くの部屋にそっと入る。ちょうど良い大きさの脇机があった。音をさせないよう気を付けながらそれを廊下の突き当たりに移動させる。中身が空なのでしんどい思いをせずに済んだ。階段室に通じるドアの取っ手がうまいこと隠れている。


 しんと静まり返った屋敷の廊下を、足音を忍ばせて一階へつづく階段まで進む。橙色の明かりが照らす階段を一歩ずつ降りる。扇のようにひろがった手摺の影が向かいの壁を滑るように動いてゆく。
 とある瞬間、ルメイは足を止めて耳を澄ませた。金属を擦り合せるような音がかすかに聞こえてくる。一階に辿りつき、俯いて目を細めながら音のする方へ歩く。慣れ親しんだ筈の我が家が、罠に満ちた敵地のように感じられる。歩くごとに家具の影が動き、そこに何かが潜んでいるような気がしてくる。


 応接室の窓だ。鉄格子を金鋸で切っているのだ。重厚な造りの玄関を突破しようとすれば大槌でも振るうしかないが、それでは大きな音をさせてしまう。他人の家に夜陰に乗じて忍び込もうとする輩が、今その壁の向こうにいるのだ。伝え聞く様々な話を思い出してルメイは歯を食いしばる。夜盗に押し入られて全員殺された一家があった。金貨のありかを言わない為に切り刻まれた家主もいた。ルメイの胴の底からぶるっと震えがおこる。


 ルメイは応接室の前を急いで通り過ぎ、倉庫室のドアを開けた。荷物が運び出された後のがらんとした四角い部屋を蝋燭の明かりが照らしている。異常がないか燭台を高く掲げて見回すと、侵入するには不向きな小窓が高い位置についている。賊どもがこの部屋に押し入ってくるのは後回しになるだろう。ルメイは幾つかの木箱を部屋の隅にどかすと安物の敷物を捲りあげ、その端を放り投げるようにして折り返した。


 燭台を下げて床を照らすと、細長い切れ目が入っているのが見える。溝に指をかけて引き上げると、地下室につながる跳ね上げ戸が斜めに開いた。荒削りの厚板で組んだ階段が暗い奈落に続いている。片手で戸を押さえ、もう一方の手で足下を照らしながら、ルメイはゆっくりと地下室に下りた。この陰気な場所には太陽が出ている時でさえ好んで入ろうとは思わないのだが、夜にはいっそう寒気がする。階段を途中まで下りたところで跳ね上げ戸を頭上で閉める。分厚い戸が再び床にしっかりとはまる音がする。ルメイはひとつ息を吐き、空いた片手を壁につけて階段を下り切った。


 地下室は十歩四方ほどの広さで、煉瓦で四方を覆われている。煤けた赤茶色の長方形と、それを縁どる灰色の目地が織りなす単調な壁だ。窓がないのは勿論、隣室につながるドアもない。壁が迫ってくるような気がして、ルメイは慌てて部屋の燭台に火を移した。こんな場所で蝋燭が消えたら目の前に持ってきた自分の手も見えなくなってしまうだろう。地下室が明るくなり、壁際に据え付けられた隙間だらけの棚が見えるようになった。中央には古びた木箱が散乱している。普段から滅多に下りてこないので物の置き場所をすっかり忘れてしまっている。


 太陽の光を浴びたことのない地下室の空気は湿気てよどみ、黴臭い匂いが鼻につく。手にした燭台の明かりで舐めるように棚を見渡していると、散らばった木箱の濃い影が生き物のように形を変える。何かが物陰で蠢いているように見え、ルメイは思わず顔をしかめた。こんな場所からは一刻も早く立ち去りたいが、この棚のどこかに武器を置いておいた筈なのだ。鉄格子を切る音はここまでは聞こえてこず、地下室は静まり返っている。蝋燭の炎が風を受けて棚引く僅かな音を聞きながら、ルメイは焦る心をなんとか抑えている。


 すぐ目の前に、それがあった。
 まるで暗がりでひっそりと息をしていたかのようだ。
 人間の腕ほどの長さの角材を削って磨き上げてある。その台座に細長い鉄板を垂直にかませて固定してある。弓型にたわんだ鉄板の両端には金具がついていて、針金を束ねた弦が張り渡されている。木製の台座の中ほどにくり抜かれた四角い穴があり、そこから金属製の弦受けが飛び出ている。弦受けの根は反対側の開口部から外に突き出し、折れ曲がって台座と水平に伸びている。それが引き金であることは素人でも判る。弦受けのすぐ後ろは握りやすいように波型に削りこまれている。そこにうっすらと染みが付いているのをみてルメイの表情が歪んだ。これは新品ではなく、実際に使われていた品なのだ。


 ルメイは燭台を棚に置き、クロスボウを両手でそっと抱え上げた。
 台座の先には左手で支えるための湾曲がついていて、手のひらでしっくりと包み込める。弦受けのすぐ後ろにある細く削った部分を握ると、指の形そのままに波型の彫り込みが施されている。両手で持つと指になじんで自分の体の一部のような気さえしてくる。離れた場所にいる人間を容易に殺傷せしめる道具の重さを、ルメイは味わうようにして中空で支えた。この武器は何度も改良を重ねてこの形になったのだ。なんという頼もしさだろう。なんという恐ろしさだろう。こういうものがあれば誰でも人間を一撃で打ち倒すことが出来るだろう。ルメイは自分がこの武器を使う瞬間を想像して怖気をふるった。


 クロスボウの先端には鐙のような金具が飛び出ている。ルメイはその鐙に爪先を入れて足元に固定した。裸足の土踏まずに金属がひんやりと当たっている。弦に指をかけてぐっと体をおこすと、この道具の秘められた力が両腕と肩に伝わってくる。とても腕力だけでは弦を引ききれない。背中全体を使って踏ん張ると、やっと弦が弦受けに掛かった。足の裏に当たる部分が幅広くなっているので力を籠めて引いても大丈夫だが、弦を支えていた指が痛い。指の関節を伸ばすのに手先を振りながら、そういえば指につける保護具があったなと思う。だが近くには見当たらない。


 ルメイは木箱に収まっているボルトを一本取り出した。矢尻から矢筈まで全て金属で出来ていて思ったより短い。羽根が付いていないので巨大な釘のようだ。先端は研ぎだされて尖っており、蝋燭の光をギラリと反射する。それを台座の中央にある溝に押し込めると、パチリと嵌った感触がある。矢筈が弦受けに当たっているか指でなぞって確かめる。渾身の力で引いた弦の力が解放されるのを待っている。物凄い力がボルトに加わり、それが目にもとまらぬ速さで飛び出していって相手の体にめり込むのを今や遅しと待ち構えている。暴れる虎を掌に握り込んでいるかのようだ。


 人の話し声が廊下から聞こえてきた。
 ルメイは慌てて地下室の階段を登る。道具の準備に手間取って応接室で待ち伏せするのは間に合わなかったようだ。だがこちらは人を殺す道具を持っている。ルメイは片手で跳ね上げ戸をわずかに上げ、隙間からそっと外の様子を見た。倉庫室のドアは開いており、その先の廊下が見える。床がほのかに明るい。蝋燭を手にした賊が足音を忍ばせながら歩いて来る気配がする。今から出ていったら鉢合わせしてしまうだろう。ルメイは頭のてっぺんで跳ね上げ戸を支えながら、両手でしっかりとクロスボウを握り締めた。手のひらにかいた汗を木製の台座が吸うのが判る。


 倉庫室のドアの向こうが明るくなり、蝋燭を手にした賊が姿を現した。開いたままのドアを気にしてそっとこちらを覗き込んでいる。部屋の入口に立って蝋燭を持つ手を掲げたのでその姿がはっきりと闇に浮かんだ。革鎧を身に着け、顔には仮面を被っている。舞踏会で貴族が使うような、顔の上半分をぴったりと覆う白銀の仮面だ。誰も起きてくる様子がないので短剣は鞘に戻している。男は蝋燭を左右に振って倉庫室の中を物色している。しかし床からルメイが見ていることにはとうとう気付かなかった。ルメイが飛び出して行こうとしたまさにその瞬間、賊の男はくるりと振り向いて廊下に出た。


 ルメイは肩で息をしながら、わずかな音もさせないように呼吸を抑えた。栗色の髪が汗で濡れたこめかみに貼りついている。賊は廊下に飾ってある額入りの絵画が気になるようだ。ちょうどその半分の面がドア枠の向こうに見える。ルメイはその絵が高値で売れないことを知っているが、賊はその額縁がすぐに外れそうか揺すって確かめている。絵に注意を向けてこちらに背を向けているのはまたとない好機だ。ルメイは階段をゆっくりと登る。頭で跳ね上げ戸を持ち上げながらクロスボウの先を賊に向ける。


 男が額縁を握って持ち上げようとした時、袖が落ちて手首の辺りが顕になった。蛇の刺青が見える。三角形の頭が手の甲に描かれ、そこから波打ちながら腕の方に伸びている。赤と黒からなる禍々しい刺青で、恐らくは肘の方まで続いているのだろう。その全体を見れば毒蛇が腕を這い進んでいるように見える趣向だ。いかにもならず者が好みそうな図案だ。だが蛇も蛇の飼い主も明日の朝日は拝めないだろう。油断してこちらに背を向けているこいつの命はルメイの思うがままだ。


 ルメイは床面まであと一段のところまできた。いま賊が振り向けば自分の背後にクロスボウを構えた男がいることに気付くだろう。だが賊は額縁を揺すって外すのにご執心だ。ルメイがあと一歩進むと跳ね上げ戸が頭から滑り落ちて大きな音をさせる。一瞬、手でそっと下ろしてさらに近寄った方がいいだろうか、という思いが胸をよぎった。だがそんな時間は取りたくない。賊までは五歩ほどしかない。この間合いで外すわけがない。


 ルメイはその場で前屈みになり、クロスボウを支える左手をぐっと前に突き出して狙いを定めた。ゆっくりと引き金に指を這わせる。暗くて判らなかったが、引き金には何かが彫り込まれているようだ。指の腹にざらざらとした感触がある。いよいよ引き金を引き絞る。この世界のことはすべて自分の人差し指にかかっている。そういう重圧が一本の指に集中してくる。微動だにせず息を詰め、目を見開き、さらに引き金を絞る。



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