「抜けるような青空が見えたんだよ」
 顔を上げてわずかに首を傾け、どことも知れぬあたりを見詰めながらルメイが言った。魂が抜けてしまったような声だ。
「目が覚めた時、自分がどこにいるか判らなかった」
 ルメイの様子がおかしいのにフィアも気づいたようだ。そっと顔色をうかがっている。
「そしたら、焼け残った柱が見えたんだよ」
 ルメイがゆっくり首をまわして俺を見た。こんな虚ろな笑みを浮かべている奴は久し振りにみる。最前線で敵味方がもみくしゃになった時、兵士たちは興奮して我を忘れる。波が引いたとき、何人かの体からは血が流れている。自分が死なねばならないような傷を負っているのに気づいた時、男たちはこんな顔をする。


「おかしいだろう? ついさっきまで俺の家があったんだぜ?」
 ルメイが苦しそうに顔をしかめた。
「地下室から這い出て大声でメリッサとパメラを呼んだけど、誰も返事をしないんだ」
 ルメイは思ったより重症のようだ。その状況で妻子が無事とは思えない。賊たちは屋敷が空っぽであることに気付いて早々に退散したのだ。悲鳴が聞こえなかったということは屋根裏部屋に隠れていたメリッサとパメラは見つかっていない。二人がもし火の手から逃れていたら真っ先にルメイを頼るだろう。そんな話を今さらルメイにしてやらねばならないのか。


「近所の連中に聞いて回ったけど、まともに相手にしてくれないんだ」
 喋りながらルメイは視線を宙に泳がせている。こういう時、なんと声をかけたら良いのか。俺が言葉を探していると脇からフィアがそっと声をかけた。
「助けてくれる人は誰もいなかったの?」
 ルメイの視線がぴたりと止まり、そこから瞳だけでフィアを見返した。力のない笑みが浮かぶ顔を、細くなった竈の炎がちろちろと照らしている。
「騒ぎを聞きつけてカリームが駆けつけてくれた」
 ルメイは深く息を吐いて黙り込んだ。


 ルメイの頭上に再び遠見の窓が開いた。
 細長い楕円形で縁がない。そこにカリームの顔が大写しになっている。イルファーロの夜市で会った時と比べたらずっと軽装だ。ルメイ商会の火事の話を聞いて取る物も取り敢えず駆けつけたのだろう。黒鹿亭の親分の元へ直接取り立てに行くような肝の据わった男なだけに、友人の災難を目前にしても動じた様子がない。俺は遠見の窓が見える範囲をフィアとクレメンスの辺りまで広げた。フィアがちらっとだけ俺を見た。クレメンスは暫く面食らっていたが、俺が静かに頷いてみせると、とりあえず今は疑問を口にするのを抑えたようだ。首を突きだして遠見の窓に見入っている。


「わたしの言うことを聞いてくれ」
 カリームが一語一語かみ締めるように話している。ルメイが何か言い返したのだろう、カリームがその言葉をさえぎってルメイの両肩をがっしと掴んだ。
「いいから黙って聞くんだ」
 カリームが顔を近寄せてくる。辛抱強く友人を諭そうとする男の顔だ。


「君の妻子のことは任せてくれ。間違いのないように確かめる。君はまず湯浴みをして服を着替えるんだ」
 ルメイがまた何か言い返したようで、カリームは両手に力をこめた。
「聞きたまえ! 君は今、全身煤まみれで目ばかりらんらんと白い。誰もまともには相手にしてくれないぞ。まずは身なりを整えて体を休めることだ」
 カリームの言葉からルメイの混乱ぶりが伝わってくる。


 フィアがルメイの肩にそっと手を置いた。
「奥さんと娘さんのことをセネカに話してなかったってことは……」
 ルメイはフィアを見返そうとするが、眩しくて見られないという顔をしている。
「まともに向き合わずに過ごしてきたのね?」
 ああ、フィア。なんという直截な言葉だろう。だがそれが、処刑された兄の死と向き合い続けてきたフィアの言葉なのだ。一人で森を旅しながら、兄の生首が掲げられる光景を何度も悪夢でみてきたフィアの言葉なのだ。


 ルメイが顔をくしゃくしゃにして頭を抱え込んだ。
「判ってる! 判ってるよ! 二人とも死んだんだ!」
 ルメイが腹の底から絞り出すような声で訴えてくる。
「でもそうだとしたら、俺の人生に何の意味がある?」
 意味はある! と怒鳴り返したくなる。俺たちは二年ものあいだ死に物狂いで頑張ってきたじゃないか。あの日々がまるで無駄だったような言いぐさだ。だが俺は歯を食いしばって自分を黙らせた。俺はこれまでずっと思うに任せて怒鳴るようなことを平気でしてきた。自分の感情をぶつけてせいせいするためにルメイを失いたくない。ふと、こんな時ウィリーなら何と言うのだろうか、と思った。年はとりたくないが、誰でも大人にならねばならないのだ。


「俺はメリッサと一緒に育った。苦しい時代を共に過ごしたんだよ。人生の初めの日からずっと一緒だった。……メリッサの代わりなんてありえない。俺の人生はもう、だめになってしまったんだよ」
 言い返したい気持ちが募るが言葉が出てこない。俺も、フィアも、クレメンスも、黙ってルメイを見ている。
「カリームが近くにあった別荘まで連れて行ってくれた。そこに何日か泊めてもらった。でもある朝、急に思いついてそこを出たんだ。何を思いついたか、もう忘れちまった。全財産を任せるって書置きしたのは覚えてる」
 そして先日の夜市で再会したというわけか。してみればあのカリームという男、本当に信用のおける人物なのだ。ルメイの財産をきちんと管理していなかったら、あれほど意気投合できるわけがない。


「あてもなく飛び出したんだが、足は自然と東に向いてた。いくらか金は持ってたけど着の身着のままだった。道端で寝て、泥だらけになってひたすら歩いた。誰かにたかられて身ぐるみ剥がされたけど、何も感じなかった」
 呆然自失としたルメイがふらふらと街道をゆく姿が見える。ならず者たちのいいカモにされただろう。
「このまま消えていくんだとぼんやり思ってたけど、腹が減るのは我慢ならなかった。気がついたら冒険者をしてたよ。へまばかりして分け前がもらえず、スラムの馬小屋で暮らしてたけどな」
 その頃のルメイは俺も知っている。俺と組む前、ルメイは「馬小屋のルメイ」と呼ばれていたのだ。


「……ずっと死に場所を探していたんだと思う」
 その言葉を聞いた時、喉元まで熱いものがこみあげてきた。この気持ちはなんだろう。怒りなのだろうか。少し違うようだ。こんなものは我慢することが出来ない。俺はその塊を自分の外に出さねばならない。
「ルメイ」と俺は言った。「初めて会った時、お前は街から離れた場所を一人でうろついてた。ろくに装備も身につけずに。それがずっと不思議だったんだ」
 俺は自分の顔が作れない。苦い物を口にしたような顔をしている筈だ。
「あのとき、お前は死ぬ積りだったんだな」
 俺が真顔なのでルメイは怒鳴られると思ったらしい。叱られる子供のような顔をしている。


「お前はけっきょく……」
 ルメイが目を逸らし、フィアが気遣わしげに俺を見る。言葉に気をつけて、と流し目で言っている。
「俺に見出されたんだよ」
 ルメイがゆっくりと顔をあげて俺を見た。
「モンスターでもなく、山賊でもなく、この俺にだ」
 俺は自分の胸を拳で叩いた。
「偶然じゃない。あんな偶然あるもんか」
 ルメイの瞳に光が戻る。
「ルメイ、お前は生きろよ」


 言葉を組み立てている暇はなかった。
「お前に生きる意味がないなら、俺のために生きてくれ。お前は俺のかけがえのない仲間だ。たった一人の友人だよ。自分で判らなくなったなら教えてやる。お前には生きる価値がある。お前と出会わなかったら、死んだのは俺だったかもしれん」
 口から自然と言葉が出てくる。
「お前と一緒でなければフィアとパーティーを組むこともなかった。フィアはこの旅で死んでたかもしれない、俺たちと出会わなければ」


「セネカの言う通りよ」
 フィアが感銘に目を見開いている。
「酒場であなたたち二人を見かけなかったら、わたしはどうしていたんだろう。オオルリコガネの甲羅は諦めてたかしら」と言いながらフィアはキャンプの天井から吊るされている虹羽根をさっと眺めた。「いずれにしても、きっとバイロン卿の手下に捕まってたと思うわ」
 俺たちは互いに視線を絡み合わせた。
「俺たちがばらばらになっていたら、今頃はみんな死んでる」


 なんという静けさだろう。
 音もなく、光もなく、ただ暗い森に包まれて、俺たちは小さな炎で野営をしている。だがその時、世界の意味は俺たちのいる場所に集約された。俺たちはお互いがかけがえのない存在であることに今さらながら気付いたのだ。こんな人里離れた夜の森で。そして三人ともゆっくりと、キャンプの火がほとんど届かない森のとば口を見た。死人となったクレメンスが腰を下ろしている辺りだ。



   生かされたもう我ら
   かがり火に集う
   道に迷わば人恋し
   愛しいおもかげは
   ただ闇にこそうかぶ



 クレメンスが巫女の箴言を歌うように呟いた。
 言葉が闇のなかに溶けていく。
 古い家なら一冊は置いてあるサガの一節で、誰でも一度は聞いたことがある。家庭でも父や母が好きな部分を必ずや口にする。剣の師匠も好んでその中から言葉を選んだ。俯いたままじっと何かをかみ締めているクレメンスの気持ちがその時になって初めて判った。彼は今、一人だけ取り残された気分を味わっていることだろう。


「思えばなんという奇遇でしょうな」
 たらふく呑んだ男のようにクレメンスが顔を振りながら言う。
「わたしは皆さんが羨ましい。仲間との出会いを喜び、運命のむごさをかみ締め、重荷を背負って進まねばならない。いや、いっそ世をはかなんで自ら死を選ぶのもよし」
 クレメンスの言いように不穏を感じてその姿を見つめる。酒場で誰かが言ったなら縁起でもないと怒鳴られるかもしれない。しかしクレメンスは浮かれた顔はしていない。彼の体から黒い霧のようなものが落ちている。


→つづき

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