とある夏の日、俺は王宮の裏手で呆然と立ち尽くしていた。
 数日がかりの式典の儀仗がやっと終わった日の午後で、重責から解放された近衛隊長全員がバイロン卿の屋敷に呼ばれていた。公式の集まりではないが卿じきじきに労いの場を設けるらしかった。俺は隊長になったばかりで段取りが判らず、談笑しながら王宮を出る他の隊長たちの後ろをついて歩くしかなかった。そして彼らが厩舎のある建物に入っていく段になって初めて気づいた。この若くして何でも手にいれる貴族の若者たちは自分の馬に乗るためにここまで来たのだ。だが俺は馬をもっていない。公務ではないので近衛の馬を使うわけにもいかない。


 石畳にまぶしく陽光が反射していた。街路の高いところに張り渡した王旗が式典の名残を惜しむかのように柔らかく翻っている。
 俺はこめかみから汗を垂らしながらじっと考えていた。今から急いで辻馬車でも拾わねばならない。だが俺はバイロン卿の屋敷がどこにあるか知らない。あるいは「バイロン卿の屋敷まで」と言えば馬車を出してくれるかもしれない。俯いて唇をかむ。手持ちの金が乏しいのだ。卿の屋敷はここから遠いのだろうか。遅参するのは億劫だが、かといって上司の誘いを最初から断るのは勇気がいる。


 背後に蹄の音を聞いたが、俺は道の真ん中に立っていたわけではない。だから鋭く声をかけられてはっとした。
「おい、場所はわかるのか?」
 手綱をひいたロバートが立っていた。毛並みの良い馬をつれていて羨ましいと思った。しかし俺の心はたちまち頑なになり、今抱えている問題の他にさらに敵と対峙する用意を調えた。自分の馬がいないばかりに立ち往生しているところを、いつも試合でやり込めている貴族に見つかったのだ。容赦のない言葉が浴びせられるだろう。俺はそれを平然と受け流し、体面を保たねばならない。


 俺が据わった目をしたまま黙っているのでロバートがわずかに顔をしかめた。それがすぐに苦笑に変わった。
「君は初めてだから知らない筈だな」
 ロバートは自分の馬を見てその首を軽く叩いた。馬がむずかるように鼻息を吐く。そうして馬に寄りかかるようにしながら首だけで振り向く。
「いつもそんな風で疲れないのか?」
 ロバートの呆れたような物言いが理解できず、俺は眉根を寄せた。だがすぐに目を見開く羽目になった。ロバートが馬を厩舎に返し、使用人らしき男に手綱を渡している。名残惜しそうに馬をひと撫でしてからこちらに戻ってくる。


「歩けない距離じゃない。行こう」
 背中をぽんと叩かれた。俺は一瞬呆然としてからロバートを追いかけた。案内してもらえるなら願ってもない話だ。しかし俺はこいつとこんな関係にあっただろうか。試合でさんざんに打ちのめした場面を思い返してみる。何かの意趣返しを受けるのだろうかと訝るが、どうもそんな雰囲気ではない。ロバートは一度だけ振り向いて俺がちゃんとついて来ているか確かめた。それから前を見てゆっくり先を歩いて行く。大通りを過ぎたところで庭つきの屋敷が増えて見晴らしが良くなった。日差しはさらに強く感じられ、街路樹の影は色濃い。


 二人して黙ったまま街を離れ、小高い丘にさしかかる。
 王宮にほど近いが、この辺りはまだ林が点在している。おそらく直轄地で、貴族も商人も住んでいない。振り向けば街が見え、建物の尖った稜線が陽光を浴びて揺らいでいる。周囲には誰もおらず、こんな道を連れ立って歩く者がいたとしたら親しい間柄に決まっている。俺は一歩ごとにロバートの言葉を反芻していた。そしてとうとう、気は進まないが自分から口を開いた。
「わざわざ案内してもらってすまない」
 俺の口調は重く、ロバートの物腰は柔らかい。兵部卿の息子は振り返りもせずに手袋をした片手をあげ、投げ出すように「なあに」とだけ返した。


 ロバートが歩調をゆるめて振り返った。
「もし嫌なら答えなくてもいいが」
 そう言って俺の顔色をうかがう。
「誰かに剣の手ほどきを受けてるのか?」
 なだらかな丘の先に洒落た屋敷がみえる。これ以上は森に分け入る筈もなく、おそらくあれがバイロン卿の邸宅だ。目的地に近くなってきたので訊きたいと思っていたことを口にしたのだろう。俺は手短に師匠の名を告げた。ロバートが口を丸めて「ほう」と答え、立ち止まって意外そうな顔をした。馬上の人になろうとしていた長靴姿のロバートを木漏れ日がまばらに照らしている。日差しのただ中に居て目を細めている俺の無愛想な顔をロバートが見ている。


「あの人はずっと弟子をとらなかったがな。それに気をわるくしないでもらいたいが、何というか」ロバートが握っていた拳を広げる「とても偏屈な人だと聞いている」
 俺は初めて笑うことができた。顔の片側だけの皮肉な笑いではあったが。
「変わり者どうしで気が合ったんだ」
 ロバートがどう答えるべきか迷ってから吹き出した。両手をひろげて笑いながら首を振り、再び歩き始めた。それは確かに優雅な身のこなしであったが、貴族が得意とする嘲笑とはちがった。ロバートの後ろを歩きながらそう思った。しかしこの降ってわいたような関係にどう対応したものか落ち着かない気持ちもあった。


 このとき俺は自分自身の問題に突き当たっていた。
 高慢な貴族どもが俺たち平民を生まれで判断して見下すならば、俺はそれを許さない。それがこの世界の判りやすい見方だ。大河の水は低い方へ、海へ向かってゆっくりと流れているのだから。だがもし貴族に生まれながら自由な心を持っている奴がいたとしたら? にわかには信じられない話だが、もしそんな人間がいるとしたら十把一絡げに「貴族の馬鹿ども」と決めてかかるのは如何なものか? それは連中がやっていることと同じではないのか? 俺のなかでロバートが「敵」から「いい奴」に変わろうとしていた。あれだけ試合でやり込めてくる相手に、こんなに自然に話せる奴がいるのだ。


 ロバートが見えてきた屋敷を指さして「あれだ」と言った。貴族の中の貴族にして薬師卿たるバイロンの邸宅が陽を浴びて白く輝いている。ロバートは屋敷を見ながら何か考えている様子だったが、やがて問わず語りを始めた。
「俺は近衛になる前からずっと剣の手ほどきを受けてたんだが、どうも君には敵わないようだ。さっきは悪く言ってすまなかったが、良い師範についたな」
 ロバートがちらっと振り返った。俺はそんなことを言う人間ではない筈だったが、気付いた時には口を開いていた。
「あんたは剣を圧迫されるのを嫌う」
 ロバートはずっと何気ない風を装っていたが、俺がそう言った瞬間に立ち止まって真顔になった。


「幼い頃から年かさの師範にしごかれた剣士にままある傾向だ」
 俺はまるで敵に対して物を言うような口調だった。だがそうせざるを得なかったのだ。自分の欠点を半端な気持ちで告げられるくらい心外なことはない。やるならこっちが本気であることを見せねばならない。
「体格の差からくる剣圧を必死に跳ね返す日々が続いたからだ」
 ロバートは何も言わず、ただ目を細めた。思い当たる節があるのかもしれない。
「あんたの剣を押しこめると、すぐに力で跳ね返してくる。そういう癖を見破られたら簡単にはめられる」


 吊した長剣の鞘をロバートが真顔のまま左手で握った。腹の前にせり出してきた剣の柄に右手の指を乗せている。
「こんな場所でなんだが、抜いていいか?」
 俺は頷き、半歩さがって剣を抜いた。のどかな丘の道にシャリン、シャリンと金属の擦れる音が響く。ロバートがまっすぐこちらに向けた剣にこちらの剣を乗せてぐっと押しさげる。ロバートが嫌な顔をして剣を跳ね返し上段に構え直そうとする。自然と左肘が前に出る。俺はロバートの剣をするりとかわし、剣先を小さくひねってその左肘に切っ先を当てる。ロバートは身動きもせずその切っ先をじっと見つめた。そして剣を納めた。俺も剣を仕舞う。


 まるで果たし合う二人のように向かい合った俺たちはじっと互いを見合った。
「いつも相手の癖を探してるのか?」
「卑怯だと思うか?」
 正義の騎士として近衛の隊長職に就いていたロバートの顔に苦悶の色が浮かんだ。ロバートは俺から目をそらさず、乾いた唇をなめた。
「もし俺が一兵卒なら、正々堂々と戦って死ぬ隊長より、どんな時も生き残って先に立つ隊長についていく」
 俺はふいに自信がなくなった。俺は死なないために剣の技を磨いている。メメント・モリ。それが師匠の教えでもあった。それが部下にどう思われるかなど、俺の斟酌することではなかった。


 ロバートが緊張の糸をといて笑みを浮かべる。
「しかしこんなことを教えていいのか?」
 剣の構えから離れ、ぼうっと突っ立つようななりで首を傾けている。
「この次はやり返すぞ?」
 ロバートが笑みを深くしてこちらをぴっと指さした。俺は口角をさげてとぼけ面をしてみせた。
「まだ手はある」
 ロバートが思わず吹き出した。かなわんな、と言い置いて先に歩き出す。俺には兄がいるが、こんな風ではない。俺に兄貴がいるとしたら、こんな奴であって欲しかった。ロバートの後ろをついて歩き出しながら、俺は柄にもなくそんなことを思っていた。


 バイロン卿の邸にはすでに近衛隊長たちが集まっていた。
 高価な食器とワインのグラスが並ぶ広々とした食堂で、俺は自分がなにを飲み食いしたかまるで覚えていない。さぞかし美味い料理が並んでいたのだろうが、育ちが貧しいと食べ方が下品だなどと言われるのが嫌で少しずつしか口にしなかった。俺をのぞく全員が、バイロン卿はもちろん近衛の隊長たちもすべて押しも押されもしない貴族の出身者だった。実に優雅で独特の雰囲気に満たされていた。


 俺は自分の半端な立場を思った。
 この和やかで余裕綽々たる食事の場面にいることで、俺でさえ自分が少し優雅になったような気がしたものだ。長々と横に続いた窓からは瀟洒な庭木となだらかに続く緑の丘が見えた。灰色にかすむ王都の町並みも遠望できる。こんな景色を眺めながら半日もかけて作られた料理を順に平らげ、好きなだけ酒を飲めるとしたら、なにをもってそれに抗うのだろう。食うために盗みをして腫れ上がるまで棒切れで殴られたような奴ならばこんな雰囲気を徹底して拒むことが出来るのかもしれない。


 しかしそんな気分の良い状態は長続きしなかった。
 人がどんなに本心を隠そうとしても、気楽な場で飲み食いをしながら一緒に過ごすならばその片鱗が自ずと垣間見えてくるものだ。バイロン卿は体裁を整えるために俺に気を使っている様子だったが、そんなものは酒の場では長続きしない。バイロン卿は俺を毛嫌いしていたが、いきなり爪弾きにするのも気が引けて宴に呼んでいるのに過ぎなかった。言葉の端々からそれが伝わってきた。呼ばれて集まった隊長たちもそれは感じていて、俺は時間をおくごとに居づらい気持ちになった。そこで用事を思い出して中座させて頂くことにした。丁寧に辞してその場を去るのにあたり特に引き留めはなかった。ただ部屋の出口にいたロバートが無表情に俺を見ていた。何も声はかけてこなかったが。


 竈の薪が大きく爆ぜた。
 俺は自分がすっかり追憶に身をまかせて半ば目を閉じているのに気付いた。キャンプのなかで腰をおろしたまま顔を伏せ、半分は夢のなかにいたようなものだ。唇から垂れたつばを吸い上げながら辺りを見回した。何事もない。静かな森の夜がひろがっている。ただキャンプから少し離れた場所に決して眠らない男がいて、俺をじっと見ている。
「すまない、ちょっとうとうとした」
 相手は寸刻も眠気を感じていなかったようだ。すぐに答えが返ってくる。
「寝たらいいのだ、セネカ殿。わたしが番をしているから大丈夫だ」


 死体となった男、クレメンスがそう請け合った。俺はパーティーメンバー以外の人間に命を預けるような男ではない。だが今だけば別だ。
「すまない。不寝番をお願いしてもいいか?」
 暗がりで座っているクレメンスがかすかに笑った気がした。
「それを請け合うのはこれで三度目だ」
 俺はその場に手をついて横になった。体を冷やすと良くないので薄い毛布をよく確かめもせずに腰まで引きあげる。こんなことでは駄目だぞと思う。風邪でもひいたら明日の行程にひびく。ちゃんと夜具を整えるのだ。しかし体は綿を詰めたように力が入らない。体が鉛のように重い。地面に吸い付くようだ。眠りにつくというよりは──


→つづく

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